渡島丸 (2代)

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日高丸
十勝丸
空知丸
檜山丸(車載客船改造後)
石狩丸(車載客船改造後)

渡島丸(おしままる)は、日本国有鉄道青函航路鉄道連絡船貨車航送船である。

渡島丸型車両渡船の第1船である。渡島丸型は6隻就航している。ここでは渡島丸及び渡島型車両渡船について記述する。

目次

[編集] 概況

[編集] 計画

昭和30年代、貨物需要の増加に伴い、青函航路の貨物輸送量は増加の一途であった。昭和30年代から40年代前半の青函航路貨車航送船は、第七青函丸、第八青函丸、第十二青函丸石狩丸(初代)、十勝丸(初代)、渡島丸(初代)日高丸(初代)など、太平洋戦争の戦時中や戦後の混乱期に就航した船舶であったが、今後の輸送量増加に対しては不十分であった。このため、輸送強化を目的として高速貨物船が計画された。

当初は津軽丸(1964年5月10日就航。青函航路初の自動化第1船。以後の車載客船はすべて津軽丸型)の客室部分を省略した貨物船を計画していたが、貨車航送数を増加して欲しいという強い要望が出されたこともあり、新たに設計し直された。

新たな貨物船・渡島丸は、全長144.6mの大型船となった。この大きさは桟橋設備の関係より限界の大きさである。機器などは基本的に十和田丸に準拠しているが、船価低減のため簡素化・省略されたものが多い。航行速度18.2kt青森港から函館港間を3時間50分での運航が可能であった。甲板には4線の軌道があり、貨車積載数は貨車(15t有蓋車)55両である。設計では、さらに後甲板に5t積コンテナを50個積載する計画もあったが、実現しなかった。空知丸以降の3船は主機が川崎MAN、三井B&Wからダイハツの直6に変更になり、晩年には燃料節減のためエンジン4~5台での運行が行なわれていた。

[編集] プロフィール

渡島丸型の6隻は、製造所、総トン数、出力、速度は異なる。共通仕様のみを記載する。

  • 積載貨車数:55両
  • 全長:144.6m
  • 全幅:18.4m

[編集] 渡島丸型

※括弧内は順に、就航日・製造所名・総トン数・出力・速度・シンボルマーク

  1. 渡島丸(2代目)(1969年10月1日・函館ドック・4,075.2t・11,945馬力・20.7kt・トラピスト修道院)
  2. 日高丸(2代目)(1970年4月5日・三菱重工業神戸造船所・4,089.0t・13,200馬力・21.4kt・日高の馬)
  3. 十勝丸(2代目)(1970年6月30日・日立造船向島工場・4,091.7t・13,430馬力・21.7kt・十勝のブドウ)
  4. 空知丸(2代目)(1976年4月5日・函館ドック・4,123.6t・13,650馬力・21.8kt・すずらん)
  5. 檜山丸(2代目)(1976年8月5日・三菱重工業下関造船所・4,108.0t・13,650馬力・21.7kt・檜山のカモメ)
  6. 石狩丸(3代目)(1977年5月6日・日立造船向島工場・4,105.6t・13,610馬力・21.7kt・石狩の鮭)

[編集] 改造・運航終了

渡島丸型車両渡船は将来の青函航路の貨物量増大を想定して建造されたが、1973年(昭和48年)をピークにその後は乗客・貨物とも輸送量が急激に減少していった。

渡島丸は1978年(昭和53年)9月30日に終航となり、函館ドックに係船された。国鉄では、何度か売却を試みたものの不調に終わり、1984年(昭和59年)に廃船となって函館ドックで解体された。

日高丸も1980年(昭和55年)10月1日に運航を停止し、函館ドックにて係船されたものの、1982年(昭和57年)3月4日に、石狩丸と檜山丸の車載客船化に伴う貨車渡船の補充の為に復航、1984年(昭和59年)1月31日まで運航された。その後は有川桟橋に係船され、1986年(昭和61年)に解体の為売却された。

石狩丸は1982年(昭和57年)3月31日、檜山丸は同年10月1日、津軽丸・松前丸の退役に伴う代船として車載客船(定員650名)に改造されて再就航した後、1988年(昭和63年)3月13日の青函航路廃止とともに終航、係船ののち売却された。この両船はグリーン船室・寝台・食堂を備えていないため運用が甲便に限定されていた。定期の客扱い便は深夜便のみであったが、津軽丸型の客船に比べドライブプロペラ後の客席の騒音振動が大きく、就航当初は不評であった。改造時にフィンスタビライザーを装備し、荒天時には威力を発揮した。

十勝丸は1984年(昭和59年)1月31日に終航となって、日高丸とともに有川桟橋に係船されたが、1986年(昭和61年)に解体の為売却された。

空知丸は1988年(昭和63年)3月13日の青函航路最終日まで運航され、2時10分函館第2岸壁着の53便にて終航となった。

[編集] その後

「21世紀号」 - 玉野・宇野港
「SEA SERENADE」 - ギリシャ・ピレウス(1997年2月撮影)
「LADY TERRY」 - 坂出・林田港

空知丸、檜山丸、石狩丸は日本国外に売却されている。

空知丸は、相模原の業者に売却されたのち、1991年ギリシャの船会社に売却され客室を装備しカーフェリーに改造され、「SEA SERENADE」に改称した。黒海航路で使用されたのち地中海航路などで使用された後、2004年韓国の船会社に売却された。2006年にギリシャの船会社に売却され、「MARINOS D」に改称。2004年より長く係船されていたが、2011年末にトルコの会社に売却され、2012年1月初旬に移動された。

檜山丸は、1988年8月、財団法人少年の船協会へ2億8千万円で売却され、船内を改造、エンジンも重油焚きに改造の上1989年に青少年研修船「21世紀号」として再就航した。1999年4月に韓国企業が6千万円で購入、釜山-馬山間でフェリーとして運航する予定だったが、2000年には、シンガポールのPrima Bridge Island Pte.の保有船となりカーフェリー「RISING STAR III」となる。さらにインドネシアのフェリー運航会社PT Prima Vistaに売却され、「Mandiri Nusantara」に改称されたが2009年5月31日スラバヤのタンジュン・ペラ港から東カリマンタンのバリクパパンへの航海の途中、カラミアン島沖で車輌甲板にあった車輌から出火し、炎上ののち沈没した。この事故では、350人の乗客・船員は救助されたものの、15人が行方不明となっている。

石狩丸は、1988年7月から北海道広尾町で開催された十勝海洋博覧会で展示公開され、夜間はシップホテルとしても使用された。その後、大阪の会社が購入して、関西国際空港の工事用ホテルシップとして使用の予定だったが、使用されないまま香港の会社に売却された。さらに、キプロスの船会社に売却されて「LADY TERRY」に改称。さらに1990年にはギリシャの船会社に売却され、「LASITHI」と改名するとともにカーフェリーに改造され使用されたのち、1992年には「SEA HARMONY II」に改称し地中海航路で使用され、さらに2001年には「OLYMNPIA I」に改称している。2002年に航路休止した後は、ヨーロッパアフリカの船会社にチャーターされ、地中海・紅海などで使用されたが、2006年6月にインドで解体された。

[編集] 脚注

[編集] 外部リンク

  • M/S ISHIKARI MARU.(石狩丸が海外で就航していた頃の写真も掲載されている日本国外のサイト。)
  • M/S SORACHI MARU.(空知丸のその後が掲載されている日本国外のサイト。)
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