洞爺丸

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洞爺丸
Toya Maru.jpg
基本情報
船種 車載客船
船籍 日本の旗 日本
運航者 日本国有鉄道
建造所 三菱重工業神戸造船所
姉妹船 羊蹄丸摩周丸大雪丸
信号符字 JTAP(JBEA)[1]
経歴
起工 1946年(昭和21年)9月17日
進水 1947年(昭和22年)3月26日
竣工 1947年(昭和22年)11月2日
就航 1947年(昭和22年)11月21日
最後 1954年(昭和29年)9月26日に沈没
要目 (新造時)
総トン数 3,898.03トン
全長 118.7m
垂線間長 113.2m
型幅 15.85m
型深さ 6.80m
満載喫水 4.90m
主機 三菱神戸式1段減速歯車付衝動反動タービン 2基
最大出力 5,455軸馬力
定格出力 2,250軸馬力×2
ボイラー 乾熱式円缶 6基
最大速力 17.46ノット
航海速力 14.5ノット
旅客定員 932名
乗員 128名
車両搭載数 ワム換算18両
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洞爺丸(とうやまる)は、かつて日本国有鉄道(国鉄)青函航路に就航していた車載客船である。

戦災で壊滅した青函連絡船の復興のため、当時の運輸省鉄道総局がGHQの許可を得て建造した車載客船4隻の第1船である。本船の同型船には羊蹄丸摩周丸大雪丸があり、これら4隻は洞爺丸型と呼ばれた。

1954年(昭和29年)9月26日、台風15号 洞爺丸台風(国際名:マリー〔Marie〕)が引き起こした暴風と高波により転覆・沈没し、死者・行方不明者あわせて1,155名という、日本海難史上かつてない洞爺丸事件を起こした悲劇の船として、歴史に名を残すことになった。ここでは、終戦前後から本船建造に至るまでの青函航路の概略についても記述する。

車載客船建造までの経緯[編集]

終戦前後の青函航路[編集]

特務艦、一般商船、他航路連絡船などを総動員[編集]

終戦1ヵ月前の1945年(昭和20年)年7月14日、15日のアメリカ軍による空襲で、青函連絡船は全船稼働不能となった。このため、急遽7月17日から海軍特務艦千歳丸(2,669総トン)[2]、7月20日から同浮島丸(4,730総トン)[3]を投入し、7月23日からは、たまたま函館船渠で定期検査修繕中の稚泊連絡船 亜庭丸 (3,391総トン[4])を繰り上げ出場させ投入[5][6]、7月25日には船舶運営会樺太丸(旧関釜連絡船初代壱岐丸1,598総トン)[7]を投入した。また、上記の空襲で損傷し、函館船渠で修復していた車両渡船第七青函丸を7月25日から[8]第八青函丸を7月29日から復帰させ[8]、運航継続に努めた。

終戦後、青函航路には多くの旅客や貨物が押し寄せたが、終戦時稼働できたのは上記2隻の車両渡船と樺太丸だけで、輸送力の絶対的な不足は歴然としていた。このような中、8月20日から関釜連絡船 景福丸(3,620.60総トン[9])を[10]、8月21日からはフィリピンからの拿捕船で船舶運営会の暁南丸(1,243総トン)を[11]、8月24日からは関釜航路の貨物船壱岐丸(2代)(3,519.48総トン[9])を[12]、11月29日からは稚泊連絡船宗谷丸を投入[13]したほか、多数の商船、機帆船、旧陸軍上陸用舟艇などを傭船して[14]、この混乱期に対応した。更に、青函航路への回航中、1945年(昭和20年)7月30日、京都府下宮津湾でアメリカ軍の空襲に遭い、擱坐していた関釜連絡船 昌慶丸(3,620.60総トン[9])を浮揚、修復し[15]1947年(昭和22年)9月23日から青函航路に断続的に就航させ[16]、同徳寿丸(3,619.66総トン[9])も昌慶丸 と交互に助勤する形で[17]1948年(昭和23年)3月4日から5月2日まで[18]と、1949年(昭和24年)3月から8月にかけて助勤させていた[19]。しかし、これら、他航路からの転属船は貨車航送ができず、慢性的な貨物輸送力不足の解決にはならなかった。

貨車航送能力の回復の遅れとデッキハウス船[編集]

そのうえ、戦時下を生き延びた、たった2隻の車両渡船も、1945年(昭和20年)8月30日に、先ず第七青函丸が函館港北防波堤に衝突して入渠休航となり[20]、同船がようやく復帰した同年11月28日には、第八青函丸が青森第1岸壁で貨車積込作業中、ヒーリング操作不調で、その場に沈座してしまい、1946年(昭和21年)1月1日に 浮揚後、当時実施可能な旅客輸送力回復策として、1946年(昭和21年)4月に船楼甲板の本来の甲板室の前後に、定員535名の木造の旅客用甲板室(デッキハウス)を造設して、“デッキハウス船”と呼ばれる客載車両渡船とし[21]1946年(昭和21年)5月21日より客扱いを開始した[20][22]

一方1945年(昭和20年)10月9日には、戦時中より建造中であった、所謂“続行船”の第十一青函丸 が就航し、1946年(昭和21年)5月15日には同じく第十二青函丸が就航し、1946年(昭和21年)7月23日には同じく石狩丸(初代)が就航した。当初これら3隻は、旅客用設備のない車両渡船として建造されていたが、第十一青函丸では就航1年後の1946年(昭和21年)9月に、他の2隻では建造中に、第八青函丸同様、早期の旅客輸送力回復を目指し、船楼甲板に定員300~400名の鋼製の旅客用甲板室を造設して“デッキハウス船”とした。しかし、戦後竣工の新造船は、就航と同時に進駐軍専用船に指定されてしまい、更に1946年(昭和21年)年6月には、就航中ならびに今後就航予定の全“デッキハウス船”を進駐軍専用船に指定する、との指令が出され、日本人向けの輸送力増強は進まなかった。

LST(戦車揚陸艦)による貨車航送[編集]

1945年(昭和20年)12月24日には、相次ぐ事故による貨車航送力の回復遅延に業を煮やした進駐軍は、貸与したLST戦車揚陸艦)(排水量(計画満載)3,590トン)の車両甲板にレールを敷設して、車両渡船として使用するように命じた。これは、船首から貨車の積卸しをする方式で、車両甲板船首端では1線、車両甲板では3線となり、連合軍ノルマンディー上陸作戦時に、イギリスの貨車をフランスへ航送するのに用いた方法であった。しかし、建築限界無視のうえ、車両甲板に急勾配があるなど問題も多く、小型無蓋車のトム限定で、積載車両数はトム換算20両であった[23][24]。函館側は有川第4岸壁の裏側の、未完成の第5岸壁をLST専用とし、青森側は、当初は空襲で可動橋使用不能となっていた青森第3岸壁をLST専用として[25]1946年(昭和21年)3月31日から2隻のLSTが就航した[26]。その後、1946年(昭和21年)7月1日からは、青森側を夏泊半島東側の小湊に急造したLST専用桟橋に移し、函館(有川)-小湊間航路とした[27]。しかし片道8時間を要し、1日1往復しかできず、給油のため往復8日間もかけて横須賀まで行くという有様で、逼迫した青函航路の窮状にとって焼け石に水で、Q022号が1947年 (昭和22年)8月20日、Q021が1948年 (昭和23年)2月26日に返還され、LSTによる貨車航送は終了した[28]

GHQによる車載客船建造許可[編集]

このような青函航路の輸送力不足は、北海道に駐留するアメリカ軍自身の物資輸送にも支障をきたすところとなり、1946年(昭和21年)7月に、運輸省 鉄道総局はGHQから、青函航路用に車載客船4隻、車両渡船4隻、計8隻(補助汽船と宇高航路の車載客船も含めると17隻)という、大量の連絡船建造の許可を取り付けることに成功した[29]ため、本船は青函航路の車載客船第1船として、早くも1946年(昭和21年)9月17日に三菱重工神戸造船所で起工された。 翌1947年(昭和22年)2月には突然車載客船4隻の建造許可取消命令が出される(運輸省鉄道総局の説得工作で命令は撤回されたが)[30]など、気の変わりやすいGHQの方針に翻弄されながらも、戦争で破壊された施設で、十分な資材もない厳しい造船事情の中、極めて逼迫した青函航路の早急な輸送力回復のためと、GHQによる新たな阻害が起きないうちの竣工を目指し、建造は急ピッチで進められた。

洞爺丸型車載客船4隻の建造は、かつて翔鳳丸型を建造した浦賀船渠も候補にあがったが、建造体制が整わず辞退し、3隻を三菱重工神戸造船所が建造し、1隻を浦賀船渠が建造することとなった[31]。なお、浦賀船渠では同時期、このほかに、戦時中から量産してきたW型戦時標準船の平時仕様の車両渡船2隻の建造を行い、三菱重工横浜造船所ではH型戦時標準船の平時仕様の車両渡船2隻の建造が行われた。

なお、設計段階では、本船もデッキハウス船同様、竣工後は進駐軍専用船に指定される可能性もあり、当時のアメリカ軍高級将校は、寝台車に調理室を設けてホテル代わりとし、北海道を含む日本国内至る所を旅行していたため、これに対応できるよう、貨車航送力不足のこの時期に、あえて貨車積載数を犠牲にしてまで、後述するような寝台車航送を重視した設計となった。GHQが本船を日本人用にすると発表したのは着工直前であった[32]

こうして、待望の真新しい洞爺丸は、戦後初の“大型車載客船”として、人々の祝福を受け、1947年(昭和22年)11月21日、青函航路に就航した。

概要[編集]

本船は、三菱重工神戸造船所において、戦後建造の第1船として建造された。車載客船としての基本構造は1924年(大正13年)に建造された翔鳳丸型に準じながらも、設計期間短縮のため、 戦時中、博釜航路へ投入予定で設計されたH型戦時標準船石狩丸(初代)の船体線図を一部修整のうえ使用し[32]、二重底に変更するなど平時仕様で建造された。垂線間長113.2mはW型船H型船と同一で、翔鳳丸型に比べ、全長が約9m延長され118.7mとなり、総トン数も3,400トン級から3,800トン級へと大型化したが、船尾扉の装備はなかった。

船体構造[編集]

新造時の旅客定員は1等44名、2等255名、3等633名、計932名[33][34][35]と、翔鳳丸型と同等であったが、3等船室の面積を増やして、3等旅客を優遇するため、車両甲板両舷中2階の、翔鳳丸型では舷側面が開放された幅の狭い甲板で、左舷のみ3等旅客が利用できた下部遊歩甲板を拡幅し、舷側を外板で囲い、大型の窓を多数設け、両舷とも3等船室とし、左舷には3等出入口、3等食堂、3等椅子席を、右舷には3等椅子席を設置した。このため、翔鳳丸型では右舷にあった機関部高級船員居室は端艇甲板へ移った。また、車両格納所囲壁前方には、両舷を繋ぐ3等旅客用通路が設けられ、その船首側には甲板部員居室と船員食堂等が配置された。なお、GHQには可能な限り大型船との印象を与えないよう、下部遊歩甲板両舷船尾には“減トン開口”としての扉を設置し、総トン数への加算を回避した[36]

3等船室はこのほか、翔鳳丸型と同様に、車両甲板下第二甲板のボイラー室と機械室の前方に2区画、後方に1区画の畳敷き雑居室が設けられた。なお、第二甲板の3等雑居室船首側には船客掛と調理員の居住区が設けられた。

下部遊歩甲板拡幅によって、車両格納所の幅は8.4mと狭くなり、船内軌道は、W型、H型車両渡船の船内軌道の中央の2線のみを敷設する形となった。このため、船尾端では船内軌道は中央の1線だけとなり、車両積卸し時は、可動橋の中央の線(橋2番線)とだけ接続された。船内ではすぐ分岐し、船内の大部分の区間で2線平行となったが、船首部では船室確保のため、W型、H型に比べ、軌道長はそれぞれ約6mずつ短くなった。新造時の軌道有効長とワム換算車両積載数は、左舷の船1番線では81m、10両、右舷の船2番線では61m、8両の計18両とされ[37][38]翔鳳丸型より7両減であった。しかし、車両甲板船尾端から車両格納所前壁までは93.5mもあり[38]、船1番線の軌道全長も90m以上あったため[39]、早くも1951年(昭和26年)9月施行の規程では、船1番線90m、11両、船2番線63m、8両の計19両に改定されていた[40]。また、寝台車航送のため、車両甲板車両格納所囲壁に起倒式の簡易ホームが客車扉位置に設置され[41]、車両甲板車両格納所船首両舷には、航送客車旅客用の洗面所も設置されていた[39]

下部遊歩甲板の下の車両甲板舷側部分には、左舷には3等洗面所、厨房と隣接する配膳室が設置され、1層上の下部遊歩甲板左舷の3等食堂の配膳室、2層上の上部遊歩甲板左舷の1、2等食堂の配膳室とは内部階段で繋がっていた。右舷には3等洗面所、事務掛居室等が配置され、船首部は機関部員居住区に充てられた。

車両甲板天井に相当する上部遊歩甲板は、甲板室全周にわたる遊歩廊が設けられ、このうち前方と両側面の船首側約8m以外は側面が開放されていた。遊歩廊内側の甲板室には、前方から2段寝台4人部屋の1等船室10室と2人部屋の特別室2室があり、その後方には天窓を有した両舷にわたる1等出入口広間があり、その左舷船尾側壁面には木彫りレリーフの装飾が施されていた[42]。この装飾のある壁面の後方には1、2等食堂があり、右舷側の前後方向の通路兼用の喫煙室との仕切りにはガラス格子が用いられた[43]。食堂の後方には、開放2段寝台で定員30名の2等寝台室、2等出入口広間と続き、その後方に定員225名のじゅうたん敷きの2等雑居室が配置された[44]翔鳳丸型では乗下船時の雑踏を喫煙室や通路で対応していたが、本船ならびに同型船では、1等と2等それぞれに出入口広間を設置した[45]

従来の青函連絡船同様、石炭焚きボイラーに蒸気タービン2台2軸、ボイラーは乾熱室式円缶6缶[46]で、十分な航行性能を確保できた。ボイラーからの煙路は第一青函丸以来の車両渡船同様両舷に振り分けたが、車両格納所が2線と狭いため、上部遊歩甲板の甲板室壁内に収まっていた。終戦後の粗悪炭使用を考慮し、煙道を太くしたこともあり、2列に並ぶ4本の煙突はわずかに後ろへ傾斜し、大きく立派なものとなったが、風圧面積を増加させる結果となった[38]。しかし、丸みを帯びた甲板室前面のデザイン、舷側に連なる大きな角窓と、下部遊歩甲板まで下げた白と黒の塗り分け線の効果もあり、堂々たる印象を与えた。

青函航路では1939年(昭和14年)建造の車両渡船第三青函丸以来、船内電源には三相交流60Hz 225Vを採用していたが、補機類の動力には依然蒸気が使われていた。本船では、電動油圧式操舵機を採用し、その油圧ポンプ駆動に交流電動機を用いた[47]ほか、ヒーリングポンプを含む各種ポンプ類にも交流電動機を用いた。さらに、その特性上、交流電動機には不向きとされた係船機器にも[48]、羽根車室内の作動油量を調節してスリップ量をコントロールできるシンクレア流体接手[49]を介することで、揚錨機やキャプスタンの交流電化を推し進めた[50][51]。このほか、厨房のレンジも交流電化された[52]。これらの電源確保のため、機械室には蒸気タービン駆動の出力500kVAという大型発電機を2台装備し、更に端艇甲板にはディーゼル機関駆動の50kVAの非常用発電機も設置した[53]

激しく混雑する列車を降り、真新しい連絡船に乗り換えてきた乗客たちは、給湯設備の整った洗面台で顔を洗い、整備された明るい船内でくつろぐことができた。戦後混乱期の最中にあった国鉄において一足早く、洞爺丸型各船は快適な旅のサービスを提供したのである。

運航[編集]

試運転最大速力は17.46ノットと、翔鳳丸の16.95ノットを若干上回ってはいたが、青森函館間の所要時間は、1944年(昭和19年)4月からの翔鳳丸型とほぼ同様の、下り4時間30分、上り4時間40分とした。なお航海速力は、翔鳳丸型から第三 - 第十青函丸は15.5ノットとされていたが、洞爺丸を含む戦後竣工の同等速力の船は14.5ノットとされた[54]

洞爺丸難航[編集]

1947年(昭和22年)12月12日 津軽海峡は西高東低の気圧配置で、前日より強い西風を伴う猛吹雪が続き、当日は進駐軍専用のデッキハウス船石狩丸が、上り1202便として11時19分出港し難航していた以外は、全船運航見合わせ中で、函館・青森とも、多数の旅客と貨車が残留していた。

このため洞爺丸は、無線方位測定機と音響測深儀、機関に異常のないことを確認の上、遅れ8便として15時35分函館第2岸壁を離岸し海峡に出て、南14度西に針路をとった。しかし吹雪で視界は利かず、波が開けた窓から操舵室内まで打ち込む状態で、函館からの航程17海里付近(津軽海峡のほぼ中央)で平館海峡への針路を決めるため、平館灯台のすぐ北にある石崎無線標識所からの電波の方位を測定したところで、無線方位測定機が海水をかぶり使用不能となった。このため音響測深儀で水深測定して船位を割り出そうとしたが、これも故障して使用できず、更に竜飛と大間の羅針局に無線方位測定を依頼したが、この無線も通じず、ここに明確に、船位を測定する手段を失ってしまった。

このため18時42分、航程35海里地点(平館海峡の北側と推定)で、平館海峡への盲目状態での進入は危険と判断し、北西やや西へ転針、1時間航走後北東に転針し19時52分、前方やや右に大間崎灯台を短時間確認、20時50分北西に転針し、21時38分葛登支岬灯台をかすかに視認できたため、再び平館海峡へ向かうこととし、南西に転針、しかし天候悪化のため22時には再度断念し、北東へ転針し22時53分、函館湾口と推定される地点に投錨した。しかし錨鎖繰り出し長から水深120mと予想外に深く、函館湾に到達していないことが判明したため、吹雪の晴れ間に北北西に進み、翌13日3時25分に函館湾内で錨泊し、天候がやや回復した朝8時に抜錨し青森へ向かった[55][56][57]

洞爺丸沈没[編集]

先発便引き返しと可動橋停電で出港の機会を逸す[編集]

昭和天皇のお召し船となってから僅か1ヵ月余り後の1954年(昭和29年)9月26日11時05分、3便として函館第1岸壁に5分延着、折り返し4便として14時40分出港予定であった。ところが13時20分に函館第2岸壁から先発した1202便デッキハウス船第十一青函丸が、台風15号接近による風波で前途航行困難と判断し、穴澗岬沖から引き返す、との報告あり、14時48分函館第2岸壁へ着岸した。

この便では、占領時代から、札幌東京行の進駐軍専用列車1202列車の1等寝台車と荷物車の航送を行っており、この1202列車を含む進駐軍専用列車サンフランシスコ講和条約が発効した1952年(昭和27年)4月28日[58]に先立つ4月1日から、特殊列車と呼称変更され、日本人の乗車も許されるようになっていた[59]。寝台車航送はその後も継続され、この日もマイネフ385と荷物車マニ3216を積載していた[60][61][62]。 

当時、W型H型のデッキハウス船や車両渡船より、洞爺丸型車載客船の方が堪航性能に優れ、前者が出港見合わせでも、後者は運航することがあり[63][64]、この時もそのようなケースであった。第1岸壁の洞爺丸は、戻ってきた第十一青函丸から、アメリカ軍関係者57名と日本人119名の乗客[64]を移乗させた後、15時頃出港のため乗船タラップを上げたが、同船からの荷物車積込中とのことで、すぐには出港できなかった。しかし、これ以上出港が遅れると、台風が来るまでに陸奥湾内へ逃げ込めなくなるため[65]、これ以上の車両積込を拒否し、15時10分可動橋を上げようとした。しかし、ちょうどその時停電中で可動橋は上がらず、出港の機会を逸し、そのまま“天候険悪出港見合わせ”とした。停電はわずか2分間であったが、出港見合わせの決定は取り消されず[66]、その後、引き続き寝台車の積込みが行われた。

その晴れ間は台風の目ではなかった[編集]

16時のNHKラジオを通じての函館海洋気象台発表の台風情報は、台風15号は15時現在、北緯41度東経136.5度(青森市西方約100キロ)の日本海海上にあって、依然毎時110キロで北東に進行中、17時頃渡島半島を通って、今夜北海道を通過、と放送された[67][68]。その上、17時頃から急に風が弱まり、晴れ間も出てきた。それを誰もが台風の目と信じた(事故から2年後の1956年(昭和31年)12月 気象庁発表の「昭和29年台風第15号報告」では、この台風の目と思われた晴れ間は、台風に随伴して発生した閉塞前線によるもので、実際の台風の中心は、この頃、函館から100キロも西の日本海海上にあり、進行速度も、それまでの毎時110キロから毎時40キロに減速し、北北東に進んでいた[69])。

船長は17時40分に、18時30分出港と決定した。18時には、すでに晴れ間は去り、空は暗くなっていたが、風はそれほどでもなかった。しかし、その後、急に風が強くなり[70]、函館第2岸壁では、着岸岸壁の空き待ちのため、2時間以上防波堤外で待機していた1201便石狩丸が強くなった南南西の風に抗して、補助汽船5隻に押されながら着岸に難渋しつつ18時40分着岸完了した。ほぼこれと入れ違いに、洞爺丸は遅れ4便として約4時間遅れの18時39分函館第1岸壁を離岸した、しかし港口通過直前から、40mもの強風を受けはじめたため[71]、前途の航行は困難と考え、19時01分函館港防波堤外に錨泊し、両舷主機械を運転しつつ船首を風上に立て船位の維持に努めた。

想定外の浸水[編集]

その後も、風は一向におさまらず、波は更に高くなり、19時30分頃から大きな縦揺れによって、車両甲板船尾開口部から海水をすくい込むようになり、徐々に車両甲板上に海水が滞留していった。機械室では20時05分頃より左舷後部逃出口からこの海水の流入が始まり、その後左舷前部逃出口、前部、後部の空気口、右舷出入口からの流入へと拡大し、21時頃には流入して船底に溜まった海水(ビルジ)は多量となったが、船体動揺激しく十分排水できず、21時30分頃には左舷発電機停止し[72][73]、左舷主機械に異常振動あり直ちに停止させたが、原因不明のまま5分後船位維持のため再起動させた。21時40分頃船体は左舷に20度ほど傾斜し、21時50分頃には左舷循環水ポンプを駆動する電動機が、ビルジに浸かり短絡して停止、これによって左舷主機械も停止してしまった。22時頃から船体の傾きは右舷側に変わり、22時05分には右舷循環水ポンプを駆動する電動機がビルジに浸かり停止し、右舷主機械も停止してしまった。

ボイラー室でも20時15分頃左舷後部逃出口周縁からの浸水に続き、右舷後部逃出口からも浸水が始まった。20時25分頃船体が左舷に傾斜した時、左舷側の4、6号缶の石炭取り出し口から石炭が海水と共に流出、続いて右舷傾斜時には右舷側の3、5号缶の石炭取り出し口からも同様の流出あり、22時05分右舷主機械停止時には、焚火可能なボイラーは、1、2号缶のみで、右舷発電機運転継続のため、この2缶の蒸気圧を保持し、機関員は退避した。

両舷主機械停止以後は操船不能となり、船位を維持できなくなった。22時26分頃、船底を軽く底触したが、以後船体は右舷に傾斜し、船首も風圧で右舷に圧流され、船体は陸岸と平行になり、左側面から大波を受ける形となった。22時39分「 SOS 洞爺丸 函館港外青灯より267度8ケーブルの地点に座礁せり」と発信、この時の船体傾斜は右舷約45度で、この直後に停電し、22時41分「本船500キロサイクルにてSOSよろしく」の通信を最後に連絡は途絶えた[72]。22時43分頃右側へ横転沈没し、その後の波で船体は更に傾斜角度を増し、約135度の角度で船体上部を水深約10mの海底に覆没させ、左舷船底ビルジキールを海面上に露出した状態となった[74][75][76][77]

浮揚され、港へ曳航された洞爺丸

この遭難により、旅客1,041名、乗組員73名、その他41名の計1,155名が死亡または行方不明となり、旅客110名、乗組員38名、その他11名の計159名が救助された[78]。浮揚作業は1955年(昭和30年) 8月25日完了したが、損傷甚だしく、復旧を断念し解体された[79]。なお、沈没当時の総トン数は下部遊歩甲板減トン開口閉鎖その他で、4,337トンと増加しており、旅客定員も1,231名と大幅に増加していた[77]

洞爺丸沈没の原因[編集]

上記のように、いくつもの不運が重なり、洞爺丸は出港してしまった。

ちょうどその頃、台風は函館西方100キロの日本海海上にあり、函館はまさに台風の「危険半円」内であったが[69]、当時の台風情報や、函館での現況からそれを推測することは困難であった[80][81]

函館湾は、津軽海峡から日本海に向け、わずかに南西方向に直接開いていた。台風はこの函館湾の開口方向線の約100キロ西を平行に進行したため、函館湾には台風による強い南西風が吹き込み、日本海から津軽海峡に至るその長い吹走距離と、連吹時間により生じた異常な高波が函館湾を直撃した[82]。洞爺丸はその強風と高波をかわすため、錨泊した。こうすれば船首は風上を向き、横波を受けて横転する危険は抑えられる。更に走錨しないよう、両舷の主機械を運転して船位を維持した。この体制をとれば、風下側の船尾開口部から、車両甲板上に海水が大量に浸入することはない、とそれまでの経験から、当時の関係者は考えていた[83][84]

しかし、当夜の函館湾の高波は、波高6m、波周期9秒、波長は約120mで、洞爺丸の水線長115.5mよりわずかに長かった。このような条件下では、前方から来た波に船首が持ち上げられたとき、下がった船尾は波の谷間の向こう側の斜面、つまり、その前に通り過ぎた波の斜面に深く突っ込んでしまい、その勢いで波は車両甲板船尾のエプロン上にまくれ込んで車両甲板に流入、船尾が上がると、その海水は船首方向へ流れ込み、次に船尾が下がっても、この海水は前回と同様のメカニズムで船尾から流入する海水と衝突して流出できず、やがて車両甲板上に海水が滞留してしまうことが、事故後の模型実験で判明した。そして、波周期が9秒より短くても長くても、車両甲板への海水流入量は急激に少なくなることも判明した。

洞爺丸のような船内軌道2線の車載客船では、車両格納所の幅が車両甲板幅の約半分と狭いため、車両甲板船尾開口部から大量の海水が浸入しても、その滞留量は250トン[85]とも360トン[86]とも言われているが、この程度では転覆することはない、とされた[87]。しかし、洞爺丸は石炭焚き蒸気船で、石炭積込口等、車両甲板から機関室(機械室やボイラー室)への開口部が多数あり、これらの閉鎖は不完全で、滞留した海水が機関室へ流入し、主機械停止に至って操船不能となり、走錨もあって、船首を風上に向けることができなくなった[88][89]

更に不運なことに、流されて座礁した場所は、海図上は水深12.4mで、喫水4.9mの洞爺丸が座礁するはずがなく、台風の大波でかきまわされた海底の砂でできた浅瀬に座礁したのであった。この砂地に、右舷船底の揺れ止めの鋼鉄製のヒレであるビルジキールが引っ掛かり、左舷からの大波を受け、右舷側に転覆、やがてこの浅瀬から陸側の深みに転がり落ち、その角度135度と、ほとんど真っ逆さまの状態となって沈没してしまったと推定されている[90][91]

まさに不運の連鎖による大事故であったが、この台風により、同夜函館湾では、洞爺丸以外にも4隻の車両渡船が沈没した。ことの重大さに鑑み、運輸省は1954年(昭和29年)10月に学識経験者による“造船技術審議会・船舶安全部会・連絡船臨時分科会”を、国鉄総裁は同11月にやはり学識経験者による“青函連絡船設計委員会”を設置した[86]。これらの審議会では、5隻の青函連絡船の沈没原因と、その対策等が審議検討され、答申書が出された。その答申内容に沿って、急遽補充の新造船だけでなく、沈没を免れた在来船や、浮揚後修復された復元船においても、車両甲板上に大量の海水が浸入するような悪条件下でも復原性が確保され、機関室の水密性も維持されて、推進機器類が容易に無力化されないよう対策が施された[92]。各船の対策の詳細はW型船への対策H型船への対策日高丸への対策大雪丸への対策羊蹄丸への対策檜山丸型への対策十和田丸(初代)への対策の各項を参照のこと。

SCAJAP ナンバー[編集]

敗戦後、100総トン以上の日本の全ての商船の配船、運航、造修等一切がGHQ管理下に置かれることになり、その実施機関である日本商船管理局SCAJAP(U.S. Naval Shipping Control Authority for Japanese Merchant Marine)の指令により、1945年(昭和20年)12月15日 からSCAJAPナンバーという管理識別番号が付与されると共に、船体側面にこのナンバーを掲出することが義務付けられた。

青函連絡船においても例外ではなく、洞爺丸を始めとする洞爺丸型4隻にもSCAJAPナンバーが付与されると共に、船体中央部にSCAJAPナンバーの掲示が行われた。

各船のSCAJAPナンバー(4桁の1文字目は船名のイニシャル、後ろ3桁は同一イニシャル内での通算番号)

なお、貨車航送を行ったアメリカ軍貸与のLST Q021、Q022もSCAJAPナンバーであった。

SCAJAPナンバーは、1952年(昭和27年)4月28日にサンフランシスコ講和条約が発効し[58]、日本がGHQの支配・統制下から正式に独立するまで継続されていた[93]

沿革[編集]

その他[編集]

洞爺丸型をS型と呼ぶこともあるが、これは同時期に建造されたW型、H型車両渡船と区別するため、便宜上S型と呼んだのが始まりで、洞爺丸型の設計の基本となった翔鳳丸SHOHO MARUのSに由来した[102]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 1949年1月から( )内の符字へ変更:古川達郎 鉄道連絡船100年の航跡p260 成山堂書店1988
  2. ^ 1945年7月30日まで:青函連絡船史p199 国鉄青函船舶鉄道管理局1970
  3. ^ 1945年7月23日まで:青函連絡船史p199 国鉄青函船舶鉄道管理局1970
  4. ^ 青木栄一 青函連絡船の今昔(後) 鉄道ピクトリアル13巻7号p34 1963
  5. ^ 1945年8月10日夏泊半島西岸の茂浦沖でアメリカ軍機攻撃を受け沈没:青函連絡船史巻末附表p6 国鉄青函船舶鉄道管理局1970
  6. ^ 稚泊連絡船史巻末附表p16 国鉄青函船舶鉄道管理局1974
  7. ^ 1947年9月20日まで:青函連絡船史巻末附表p6~7 国鉄青函船舶鉄道管理局1970
  8. ^ a b 青函連絡船史p199 国鉄青函船舶鉄道管理局1970
  9. ^ a b c d 青函連絡船史巻末附表p16 国鉄青函船舶鉄道管理局1970
  10. ^ 1949年7月30日青函航路で終航係船:青函連絡船史巻末附表p6~8 国鉄青函船舶鉄道管理局1970
  11. ^ 1946年11月28日まで:青函連絡船50年史p231 国鉄青函船舶鉄道管理局1957
  12. ^ 1948年6月5日広島鉄道局へ転属:青函連絡船史巻末附表p6~7 国鉄青函船舶鉄道管理局1970
  13. ^ 1950年10月13日函館有川5岸に係留1952年9月1日広島鉄道管理局へ転属:青函連絡船史巻末附表p6~9 国鉄青函船舶鉄道管理局1970
  14. ^ 千歳丸信濃丸、第六新泰丸、豊玉丸、宝城丸、三輪山丸他:青函連絡船史p199 国鉄青函船舶鉄道管理局1970
  15. ^ 関釜連絡船史p109 国鉄広島鉄道管理局1979
  16. ^ 1948年10月10日助勤解除:青函連絡船史巻末附表p6~7 国鉄青函船舶鉄道管理局1970
  17. ^ 古川達郎 鉄道連絡船100年の航跡p65、66 成山堂書店1988
  18. ^ 青函連絡船栄光の航跡p397 北海道旅客鉄道株式会社1988
  19. ^ 関釜連絡船史p158 国鉄広島鉄道管理局1979
  20. ^ a b 青函連絡船50年史p231 国鉄青函船舶鉄道管理局1957
  21. ^ 古川達郎 鉄道連絡船100年の航跡p111 成山堂書店1988
  22. ^ 山本熙 車両航送p252 日本鉄道技術協会1960
  23. ^ 山本煕 車両航送p254~258 日本鉄道技術協会1960
  24. ^ 吉沢幸雄 LSTによる貨車航送 船の科学44巻9号p68 1991
  25. ^ 青函連絡船史p330 国鉄青函船舶鉄道管理局1970
  26. ^ 3月29日Q021号仮就航、3月31日Q022号就航:青函連絡船史巻末附表p6 国鉄青函船舶鉄道管理局1970
  27. ^ 青函連絡船栄光の航跡p320~324 北海道旅客鉄道株式会社1988
  28. ^ 青函連絡船栄光の航跡p397 北海道旅客鉄道株式会社1988
  29. ^ 古川達郎 鉄道連絡船100年の航跡p114 成山堂書店1988
  30. ^ 坂本幸四郎 わが青春の鉄道連絡船p103~112 光人社1989
  31. ^ 古川達郎 鉄道連絡船100年の航跡p121 成山堂書店1988
  32. ^ a b 山本煕 車両航送p259 日本鉄道技術協会1960
  33. ^ 山本煕 車両航送 巻末表30 日本鉄道技術協会1960
  34. ^ 航跡p271 国鉄青函船舶鉄道管理局1979
  35. ^ 古川達郎 鉄道連絡船100年の航跡p339 成山堂書店1988
  36. ^ 山本煕 車両航送p259、260 日本鉄道技術協会1960
  37. ^ 鉄道技術発達史第6篇(船舶)p59 日本国有鉄道1958
  38. ^ a b c 山本煕 車両航送p262 日本鉄道技術協会1960
  39. ^ a b 洞爺丸一般配置図 特定非営利法人語りつぐ青函連絡船の会2013
  40. ^ 青函連絡船車両航送取扱手続 第5条 青函鉄道管理局報1951.8.29.
  41. ^ 青函連絡船栄光の航跡p158 北海道旅客鉄道株式会社1988
  42. ^ 古川達郎 鉄道連絡船100年の航跡p242 成山堂書店1988
  43. ^ 1950年2月3日から食堂営業開始:青函連絡船50年史p233 国鉄青函船舶鉄道管理局1957
  44. ^ 古川達郎 鉄道連絡船100年の航跡p121~126 成山堂書店1988
  45. ^ 山本煕 車両航送p261 日本鉄道技術協会1960
  46. ^ 古川達郎 鉄道連絡船100年の航跡p284 成山堂書店1988
  47. ^ アキシャルプランジャ式可変吐出量型:古川達郎 続連絡船ドックp86 船舶技術協会1971
  48. ^ 泉益生 連絡船のメモ(下巻)p30 船舶技術協会1977
  49. ^ シンクレア流体継手は三菱重工が1936年にイギリスの Hydraulic Coupling Patents Limited から製造ライセンス取得し神戸造船所で製造していた:上野喜一郎 船の世界史(下巻)p241、242 舵社1980
  50. ^ 青函連絡船史p143 国鉄青函船舶鉄道管理局1970
  51. ^ 揚錨機には電圧制御で回転数制御可能な巻線型誘導電動機と入力軸回転数依存で作動油が入るシンクレア流体接手、船尾キャプスタンには、一定回転数のかご型誘導電動機と手動で作動油量を調節できるシンクレア流体接手を採用:泉益生 連絡船のメモ(下巻)p15~17 船舶技術協会1977
  52. ^ 航跡p317、318 国鉄青函船舶鉄道管理局1979
  53. ^ 青函連絡船史p161 国鉄青函船舶鉄道管理局1970
  54. ^ 当時のGHQには大型船に関しては、5,000総トン未満、速力15ノット未満でなければ建造許可しない、という不文律があった:山本煕 車両航送p259 日本鉄道技術協会1960
  55. ^ 青函連絡船50年史p178~180 国鉄青函船舶鉄道管理局1957
  56. ^ 青函連絡船史p462~465 国鉄青函船舶鉄道管理局1970
  57. ^ 青函連絡船栄光の航跡p142 北海道旅客鉄道株式会社1988
  58. ^ a b 宮原武夫、黒羽清隆他 高校日本史p337 実教出版1983
  59. ^ a b c 三宅俊彦 戦後の1等寝台車運転概史 鉄道ピクトリアル37巻8号p49~58 1987
  60. ^ 洞爺丸台風海難誌p218 国鉄青函船舶鉄道管理局1965
  61. ^ KE生 駐留軍専用列車(西海・筑紫・十和田) 鉄道ピクトリアル15巻8号p58~62 1965
  62. ^ 古川達郎 鉄道連絡船細見p145~149 JTBパブリッシング2008
  63. ^ 坂本幸四郎 青函連絡船p126 朝日イブニングニュース社1983
  64. ^ a b 田中正吾 青函連絡船洞爺丸転覆の謎p52 成山堂書店1997
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  67. ^ 洞爺丸台風海難誌p38 国鉄青函船舶鉄道管理局1965
  68. ^ 田中正吾 青函連絡船洞爺丸転覆の謎p57 p59、60 成山堂書店1997
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  70. ^ 田中正吾 青函連絡船洞爺丸転覆の謎p60、61 成山堂書店1997
  71. ^ 田中正吾 青函連絡船洞爺丸転覆の謎p63 成山堂書店1997
  72. ^ a b 青函連絡船通信士会 洞爺丸台風遭難通信関係記録p30 日本鉄道技術協会1979
  73. ^ 坂本幸四郎 青函連絡船p139 朝日イブニングニュース社1983
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  75. ^ 洞爺丸台風海難誌p73〜76 国鉄青函船舶鉄道管理局1965
  76. ^ 田中正吾 青函連絡船洞爺丸転覆の謎p68〜78 成山堂書店1997
  77. ^ a b 台風との斗いp7、8 特定非営利法人語りつぐ青函連絡船の会2011
  78. ^ 田中正吾 青函連絡船洞爺丸転覆の謎p129 成山堂書店1997
  79. ^ 洞爺丸台風海難誌p179 p192 国鉄青函船舶鉄道管理局1965
  80. ^ 坂本幸四郎 青函連絡船p218~225 朝日イブニングニュース社1983
  81. ^ 田中正吾 青函連絡船洞爺丸転覆の謎p152~154 成山堂書店1997
  82. ^ 洞爺丸台風海難誌p44、45 国鉄青函船舶鉄道管理局1965
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  88. ^ 古川達郎 鉄道連絡船100年の航跡p318、319 成山堂書店1988
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  90. ^ 坂本幸四郎 青函連絡船p227 朝日イブニングニュース社1983
  91. ^ 田中正吾 青函連絡船洞爺丸転覆の謎p156、157 成山堂書店1997
  92. ^ 洞爺丸台風海難誌p247~255 国鉄青函船舶鉄道管理局1965
  93. ^ 古川達郎 鉄道連絡船100年の航跡p253、254 成山堂書店1988
  94. ^ a b 古川達郎 鉄道連絡船細見p146 JTBパブリッシング2008
  95. ^ a b 青函連絡船50年史p233 国鉄青函船舶鉄道管理局1957
  96. ^ 古川達郎 鉄道連絡船100年航跡p309 成山堂書店1988
  97. ^ 青函連絡船史巻末附表p10 国鉄青函船舶鉄道管理局1970
  98. ^ 洞爺丸台風海難誌p167 国鉄青函船舶鉄道管理局1965
  99. ^ 洞爺丸台風海難誌p177 国鉄青函船舶鉄道管理局1965
  100. ^ 洞爺丸台風海難誌p179 p192 国鉄青函船舶鉄道管理局1965
  101. ^ 洞爺丸台風海難誌p224 国鉄青函船舶鉄道管理局1965
  102. ^ 古川達郎 連絡船ドックp89 船舶技術協会1966