尾澤良助

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尾澤 良助
おざわ りょうすけ
『日本現今人名辭典』3版に
掲載された肖像写真[1]
生年月日 1871年4月18日
(旧暦明治4年2月29日
出生地 日本の旗 浦和県豊島郡牛込筑土八幡町
没年月日 1921年大正10年)2月14日
出身校 帝国大学医科大学卒業
前職 尾澤総本店店主
称号 薬学士(帝国大学・1892年
薬剤師

在任期間 1899年1月 -
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尾澤 良助(おざわ りょうすけ、1871年4月18日《旧暦明治4年2月29日》 - 1921年大正10年)2月14日[2])は、日本薬剤師政治家学位薬学士帝国大学1892年)。の「澤」は「沢」の旧字体のため、尾沢 良助(おざわ りょうすけ)と表記されることもある。長男の尾澤良靖も、のちに「良助」を襲名しているため、混同しないように注意を要する。

尾澤総本店店主東京府東京市牛込区会議員などを歴任した。

概要[編集]

浦和県豊島郡出身の薬剤師である。「脈をとらせても当代一」[3]と謳われた薬種商の尾澤良甫長男として生まれ[4]私立薬学校を経て薬舗開業試験に合格し[4][註釈 1]、のちに帝国大学でも学んだ[4][註釈 2]。大学卒業後は、家業である尾澤薬舗を継承し、尾澤総本店の店主となった[4]東京府府民からは、薬局といえば「山の手では尾澤、下町では遠山」[3]と謳われるほどの高い知名度を誇った。明治三陸地震に際し被災地に大量の消毒資材を寄附するなど[4]慈善活動に積極的に取り組んだことでも知られている[4]。また、東京市牛込区会議員に就任するなど[4]政治家としても活動した。

来歴[編集]

生い立ち[編集]

尾澤薬舗の外観と製品が描かれた絵葉書

1871年(旧暦明治4年2月29日[5]浦和県豊島郡牛込筑土八幡町にて生まれた[註釈 3]である尾澤良甫薬種商を営んでおり[4]、その長男として生まれた[4]。もともと尾澤家は1796年(旧暦寛政8年)に薬種店を創業した家であったが[6]、良甫の岳父である先代尾澤良輔の急逝により家産が傾き、良甫は単身で流寓する身となった。しかし、良甫は研鑽を怠らず努力を重ね、1863年(旧暦文久3年4月)に薬種店を再興した。同年は麻疹の大流行により江戸府内でも多数の死者が出ており、薬種店に患者が多数押し寄せる事態となるが、良甫は不眠不休で患者の施薬にあたった。薬代が支払えない貧しい患者に対しては、その請求を猶予するなど、尾澤家の私財を投じて麻疹の治療に尽力した。こうした治療方針や高い医療技術は評判となり、江戸時代において「尾澤薬舗」は著名な薬種店の一つであった。江戸府内の民衆から「脈をとらせても当代一」[3]と謳われるほどであった。明治維新後も引き続き牛込筑土八幡町にて尾澤薬舗を営んでおり[3]、新たに官営病院御用薬舗の指定を受けている。東京府府民から、薬局といえば「山の手では尾澤、下町では遠山」[3]と謳われるほどであった。

尾澤良甫にとって良助は嗣子であることから、早くから尾澤薬舗の後継者であると目されていた。良甫の隠居にともない、良助は早くも1876年(明治9年)9月には家督を継承した[5]。ただ、戸主といってもまだ幼児であるため、家業は隠居となった良甫らが後見していた。1885年(明治18年)、良助は福澤諭吉の主宰する慶應義塾の門を叩き[4][註釈 4]塾生として洋学を学んだ。次に、ミッションスクールである東京一致英和学校に進み[4][註釈 5]英語を学んだ[4]。その後、藤田正方らが創設した私立薬学校に転じ[4]薬学を学んだ。

1889年(明治22年)、内務省薬舗開業試験を受験し[4][註釈 6]薬剤師の免状を取得した[4][註釈 7]。なお、薬品営業並薬品取扱規則に基づき、従前の「薬舗主」は同年より「薬剤師」に移行している。その後さらに、帝国大学に入学した[4]。当時の帝国大学は学部制ではなく分科大学制を採っており、良助はその分科大学の一つである医科大学薬学科にて薬学を学んだ[4][註釈 8][註釈 9]1892年(明治25年)、帝国大学を卒業した[4]

薬剤師として[編集]

東京府東京市牛込区上宮比町尾澤薬舗
『東京名家繁昌圖錄』初編に掲載された東京府本郷区本郷真砂町尾澤薬舗1883年[7]

大学卒業後は家業である薬種商を継承し[4]、東京府東京市牛込区牛込筑土八幡町にて「尾澤総本店」の店主となった[4][5][註釈 10]。なお、義兄尾澤豐太郞も同じく薬剤師であり、尾澤家から分家し、東京市の牛込区牛込上宮比町にて「尾澤分店」の経営を任されていた[註釈 11]。豐太郞は日本人として初めてエーテル蒸留水、杏仁水、ギプス炭酸カリウムの製造に成功したことで知られている[3]。分店も総本店と同様に興隆を極めており、やがて各地の薬局を束ねてチェーンストア化するに至った[3]。明治40年代には良助と豐太郞の両名が、直接国税の多額納税者としてそれぞれ名を連ねていた[4]

また、良助は薬種商としてだけでなく、医療器具絵の具の販売も手掛けており[4]実業家としての一面も持っていた。衛生材料分娩用具の新規開発にも取り組んでおり[4]、その発明により特許も出願していた[4]

さらに、慈善活動にも極めて熱心であり[4]公共のために力を尽くした[4]。特に日清戦争明治三陸地震での活動がよく知られている[4]1894年(明治27年)7月25日に日清戦争が勃発すると、日本国内においても戦場の様子がさかんに報じられた。良助は陸軍の兵站部を支援しようと、多額の義捐金など金品を寄贈した[4]。なお、父である尾澤良甫は、同年8月1日に日清戦争勃発を知り大いに悲憤慷慨したところ突然倒れ、そのまま亡くなっている。また、1896年(明治29年)6月15日に明治三陸地震が発生し、その揺れと津波により三陸海岸沿岸部は甚大な被害を受けた。この大きな津波は当時「三陸大海嘯」と呼ばれ、甚大な被害状況や被災者の苦境がさかんに報じられた。この事態を受け、良助は被災地の衛生状態の悪化を危惧し、大量の消毒資材を日本赤十字社を通じて寄附している[4]。これらのさまざまな功績により賞状木杯を数十回にわたって授与されている[4]

また、さまざまな公職も歴任していた。周囲から推され、1899年(明治32年)1月に地元である東京市の牛込区会にて議員に就任した[4]。当時、東京市の下には、牛込区をはじめとする15の行政区が設置されていた。これらの行政区は「東京15区」と呼ばれており、東京市会とは別にそれぞれの行政区ごとに地方議会が設置されていた。

人物[編集]

は「良助」であり、同時代の文献でも「良助」と表記されている。たとえば、良助が自ら『藥學雜誌』にて発表した論文[8]、『実業少年』に掲載された自伝では[9]、いずれも「良助」[9][10]と表記している。また、『日本紳士録』には父親である尾澤良甫、義兄の尾澤豐太郞とともに名を連ねており[11]、『人事興信錄』には義兄の豐太郞とともに名を連ねているが[12]、いずれも全て「良助」[5][11]となっている。

ただし、『日本現今人名辭典』とその類書では「良輔」と記載されている[13]。なお、『日本現今人名辭典』では見出し語に旧仮名遣を採用しているが、義兄の尾澤豐太郞の名の読み方は「ほうたろう」であるにもかかわらず「とよたらう」[13]と記載され、さらににいたっては良助を濁点ありの「をざは」[13]と記載しているにもかかわらず、隣の項目の豐太郞は濁点なしで「をさは」[13]と記載しているなど、誤記が多い。

家族・親族[編集]

東京府東京市牛込区上宮比町尾澤薬舗
東京府東京市牛込区筑土八幡町尾澤薬舗の製品を宣伝する錦絵[14]

良助は高山新兵衞のと結婚している[5]。良助の長男に尾澤良靖がいる[5]。良靖は1907年(明治40年)8月に生まれ、1921年大正10年)に良助から家督を相続すると、二代目良助を襲名した。二代目良助は東京薬学専門学校を卒業して薬剤師となり、尾澤総本店を継承した。

良助のいとこである尾澤豐太郞は、大駒平五郞の二男として生まれたが[5][15]尾澤良甫長女、つまり良助のと結婚し[5][16]、さらに良甫と養子縁組もしているため[16]、豐太郞は良助の義兄、および、養兄でもある[16]。その後、豐太郞は良甫の家から分家している[16]。豐太郞の長男の尾澤良太郞も薬剤師である[16]。良太郞は千葉県政治家である重城敬の長女と結婚し[17]、豐太郞の家督を継承した。良太郞は、合名会社である尾澤商店の代表に就くとともに、株式会社である東京医薬社長に就任した。良太郞の長男に盛がいる[15]。豐太郞の二男の尾澤豐明と三男の尾澤豐三郞は[15]、それぞれ分家している[17]。また、豐太郞の四男に尾澤豐四郎がいる[15]。豐太郞の長女の夫である尾澤洪は[16]、片岡義道の三男であるが結婚を機に豐太郞と養子縁組をしたうえで[5]、のちに分家している[5][16]。洪もヘアカラーリング剤の製造に関する特許を持つなど[18][19]、医薬品や化粧品に関する事業に従事した。洪の長男に尾澤良彦がいる[5]。豐太郞の二女の夫である尾澤改作は[15]、根岸啓作の三男であるが結婚を機に豐太郞と養子縁組をし[15]、のちに分家している。改作も薬剤師として薬局を経営した。

岡山医学専門学校教授などを務めた医学者舟岡英之助[註釈 12]、舟岡周介の長男であり、良甫の二女、つまり良助の姉と結婚している。英之助の養子となった舟岡省吾も、医学者として知られている。

系譜[編集]

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
尾澤豐太郞
 
 
 
 
 
 
 
 
藤城三右衞門
 
尾澤良甫
 
 
 
 
 
 
豐太郞の長女
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
良甫の長女
 
 
 
 
 
 
 
尾澤良彦
 
 
 
 
 
 
 
尾澤良輔
 
良輔の娘
 
 
 
 
 
 
 
尾澤洪
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
尾澤良太郞
 
尾澤盛
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
尾澤豐明
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
豐太郞の二女
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
尾澤改作
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
尾澤豐三郞
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
尾澤豐四郞
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
良甫の二女
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
舟岡省吾
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
舟岡英之助
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
尾澤良助
 
尾澤良助
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
  • 赤地に太字が本人である。
  • 尾澤良助の長男である尾澤良靖は、のちに二代目良助を襲名しているため、上記の図では「尾澤良助」が2名いる。

略歴[編集]

著作[編集]

分担執筆、寄稿、等[編集]

  • 尾澤良助稿「故日本藥學會有功會員遠山源左衛門君小傳」『藥學雜誌』312号、日本薬学会1908年2月26日、i-ii頁。ISSN 00316903
  • 尾澤良助稿「賣藥業に成功せし實驗談」『実業少年』1巻6号、博文館、1908年6月、25頁。全国書誌番号:00010141

脚注[編集]

註釈[編集]

  1. ^ 私立薬学校は、かつての東京薬学校薬学講習所の流れを汲んでいる。のちに東京薬科大学の源流の一つとなった。
  2. ^ 帝国大学は、のちに東京大学の源流の一つとなった。
  3. ^ 浦和県豊島郡牛込筑土八幡町は、のちの東京都新宿区に該当する。
  4. ^ 慶應義塾は、のちに慶應義塾大学の源流の一つとなった。
  5. ^ 東京一致英和学校は、かつての築地大学校先志学校の流れを汲んでいる。のちに明治学院大学の源流の一つとなった。
  6. ^ 薬舗開業試験は、のちに薬剤師国家試験の源流の一つとなった。
  7. ^ 薬剤師は、かつての薬舗主の流れを汲んでいる。
  8. ^ 帝国大学医科大学は、のちに東京大学医学部の源流の一つとなった。
  9. ^ 帝国大学医科大学薬学科は、のちに東京大学薬学部薬学科の源流の一つとなった。
  10. ^ 東京府東京市牛込区牛込筑土八幡町は、のちの東京都新宿区筑土八幡町に該当する。
  11. ^ 東京府東京市牛込区牛込上宮比町は、のちの東京都新宿区神楽坂に該当する。
  12. ^ 岡山医学専門学校は、のちに岡山大学の源流の一つとなった。

出典[編集]

  1. ^ 『日本現今人名辭典』3版、日本現今人名辭典發行所、1903年、をノ46頁。
  2. ^ 「(死亡広告)尾沢良助儀」『朝日新聞』、1921年2月16日、3面。
  3. ^ a b c d e f g 「神楽坂4丁目・6丁目――尾澤薬局」『かぐらむら: 今月の特集 : 記憶の中の神楽坂』サザンカンパニー。
  4. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai 田中重策編纂主任『日本現今人名辭典』訂正2版、日本現今人名辭典發行所、1901年、をノ42頁。
  5. ^ a b c d e f g h i j k 內尾直二編輯『人事興信錄』3版、人事興信所、1911年、を49頁。
  6. ^ 粋なまちづくり倶楽部監修『神楽坂を良く知る教科書――神楽坂検定初級』2015年11月、6頁。
  7. ^ 吉田保次郎編輯『東京名家繁昌圖錄』初編、吉田保次郎、1883年、60頁。
  8. ^ 尾澤良助「故日本藥學會有功會員遠山源左衛門君小傳」『藥學雜誌』312号、日本薬学会1908年2月26日、i-ii頁。
  9. ^ a b 尾澤良助「賣藥業に成功せし實驗談」『実業少年』1巻6号、博文館1908年6月、25頁。
  10. ^ 尾澤良助「故日本藥學會有功會員遠山源左衛門君小傳」『藥學雜誌』312号、日本薬学会1908年2月26日、i頁。
  11. ^ a b 交詢社文庫編纂『日本紳士録』訂正増補再版、井出德太郞、1882年、125頁。
  12. ^ 內尾直二編輯『人事興信錄』3版、人事興信所、1911年、を48-を49頁。
  13. ^ a b c d 田中重策編纂主任『日本現今人名辭典』日本現今人名辭典發行所、1889年、をノ42頁。
  14. ^ 『截瘧強壯丸・治方丸おりの邪氣拂薬』。
  15. ^ a b c d e f 內尾直二編輯『人事興信錄』4版、人事興信所・人事興信所大阪支局、1915年、を28頁。
  16. ^ a b c d e f g h i 內尾直二・礒又四郞編輯『人事興信錄』2版、人事興信所、1908年、300頁。
  17. ^ a b c d 内尾直二編輯『人事興信録』6版、人事興信所・人事興信所大阪支局、1921年、を35頁。
  18. ^ 特許番号23782号。
  19. ^ 橋本小百合・庵雅美編『発明に見る日本の生活文化史』化粧品シリーズ2巻、ネオテクノロジー、2015年、137頁。

関連項目[編集]