ドイツ国会1933年選挙 (3月)
1933年3月5日のドイツ国会選挙(独:Reichstagswahl vom 5. März 1933)は、1933年3月5日に行われたドイツの国会(Reichstag、ライヒスターク)の選挙である。国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党、NSDAP)政権下で行われた国会選挙であった。
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[編集] 経緯
1933年1月30日にナチ党党首アドルフ・ヒトラーがパウル・フォン・ヒンデンブルク大統領より首相に任じられた。ナチ党は第一党ではあったが、いまだ国会の議席の過半数を獲得していなかったため、議会の安定的運営は不可能だった。そこでヒトラーは首相就任からわずか2日後の2月1日にヒンデンブルク大統領に要請して国会を解散させた。
[編集] ナチ党の選挙戦術
選挙戦中、ナチ党は政府の権力を利用し、選挙を盛り上げて有利に導こうとした。選挙前日を『目覚める国民の日』と名づけられ、半休日となった。
選挙期間中、ヒトラーは実力を証明するためとして、4年間の首相の地位を要求した。さらにヒンデンブルクに支持されている首相であることもアピールした。また、これまで行ってきたユダヤ人への批判もほとんど行わず、後のドイツ連邦共和国大統領テオドール・ホイスのように「ヒトラーが穏健化した」と感じるものも多かった。このためユダヤ人全国同盟のようにヒトラーを支持するユダヤ人団体も現れた[1]。
さらにライヒスバンク元総裁ヒャルマル・シャハトの仲介で、実業家とナチ党の実力者で無任所相のヘルマン・ゲーリングの会合が2月末に行われた。この会合でグスタフ・クルップからの100万マルクを筆頭としたおよそ300万マルクの資金がナチ党に献金された。この潤沢な資金力はナチ党が優位に選挙戦を進めるにあたって大きな力となった。なお、この会合でゲーリングは参加者に「この選挙がこれから先10年間の、いやおそらくは100年間の最後の選挙となることを認識されるのであれば、われわれがみなさんに要求する犠牲は決して過大なものではないでしょう。」と語りかけている[2]。
[編集] 他政党への弾圧
無任所相ゲーリングは全土の過半数を占めるプロイセン州の内相でもあり、警察権力を使ってドイツ社会民主党やドイツ共産党などライバル政党に公然と妨害工作を行った。突撃隊や親衛隊、鉄兜団の隊員が補助警察官とされ、公的な権力を握った。
2月24日、プロイセン州警察は共産党本部カール・リープクネヒト館の捜索を行い、共産主義者蜂起の計画書を発見したと発表した。2月27日には国会議事堂放火事件が発生した。ヒトラーらは共産党の蜂起の始まりであると断定し、ヒンデンブルク大統領に要請して二つの緊急大統領令、「民族と国家防衛のための緊急令(de)」と「ドイツ民族への裏切りと国家反逆の策謀防止のための特別緊急令(de)」をドイツ全土に布いた。これにより言論の自由は制限され、各州の権限は中央政府に握られることとなった。また『蜂起しようとした』とされたエルンスト・テールマン、ゲオルギ・ディミトロフをはじめとする共産党員、社会民主党員3千人が逮捕された[3]。
[編集] 結果とその後
選挙の結果、ナチ党は得票と議席を大きく増やしたが、目指していた単独過半数には届かなかったのでナチ党の敗北であるとする見方もある。しかし、ヒトラー内閣の与党であるドイツ国家人民党をくわえれば過半数には達している。さらに3月9日には共産党が非合法となり、その81議席は再選挙を行わずに議席ごと抹消された[4]。この結果、ナチ党は単独過半数を獲得した。
ヒトラーが国会演説で「今や、この数週間のうちに、他の国民的団体と結んで1918年以来、ドイツを支配してきた勢力を排除し、革命により国家権力を国民的指導部に取り戻した。(投票日の)3月5日は、ドイツ民族がこの出来事に彼らの同意を与えた日だったのだ。」と語ったように、ナチ党はこの選挙結果を従来の統治とは異なる「ライヒ指導」つまり「ナチス党及びその指導者であるヒトラーが民族とライヒを指導する」という新たな政治形態がドイツ民族に『信任』された勝利であるとした[5]。3月21日の新国会開会日は「国民高揚の日」と名づけられ、ヨーゼフ・ゲッベルスの演出による壮麗な開会式が開かれた。この日はポツダムの日(de:Tag von Potsdam)と呼ばれ、歴史的な転換点の一つとされる。国会開会後の3月24日には全権委任法が可決され、議会はその権力を実質的に失った。
また、ナチ党は選挙結果発表後まもなくバイエルン州などの地方政府の掌握を開始し、地方政府は次々にナチ党の手に落ちた。
さらに7月には政党禁止令の発布によりナチ党以外の全政党が解散に追い込まれ、新規政党の設立も禁止された。次の同年11月の選挙はナチ党のみの選挙になった。
[編集] 選挙結果
| 党名 | 得票率 (前回比) | 議席 (前回比) | ||
|---|---|---|---|---|
| 国家社会主義ドイツ労働者党 (NSDAP) | 43.9% | +10.8% | 288 | +92 |
| ドイツ社会民主党 (SPD) | 18.3% | -2.1% | 120 | -1 |
| ドイツ共産党 (KPD) | 12.3% | -4.6% | 81 | -19 |
| 中央党 (Z) | 11.2% | -0.7% | 74 | +4 |
| ドイツ国家人民党 (DNVP)[6] | 8.0% | -0.3% | 52 | +/-0 |
| バイエルン人民党 (BVP) | 2.7% | -0.4% | 18 | -2 |
| ドイツ人民党 (DVP) | 1.1% | -0.8% | 2 | -9 |
| キリスト教社会人民奉仕団 (CSVD) | 1.0% | -0.1% | 4 | -1 |
| ドイツ民主党 (DDP)[7] | 0.9% | -0.1% | 5 | +3 |
| ドイツ農民党 | 0.3% | -0.1% | 2 | -1 |
| 農業連盟 | 0.2% | -0.1% | 1 | -1 |
| 諸派 | 0.0% | -0.9% | 0 | +/-0 |
| 合計 | 100.0% | 647 | +63 | |
[編集] この選挙で初当選した著名な議員
- マックス・アマン(ナチ党所属。ナチ党出版全国指導者)
- ヘルマン・エッサー(ナチ党所属。初期のナチ党宣伝担当者)
- アウグスト・ヴィルヘルム・フォン・プロイセン(ナチ党所属。ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世の第四皇子。)
- ルドルフ・ヘス(ナチ党所属。ナチ党副総統。)
[編集] 参考文献
- 林健太郎著『ワイマル共和国 ヒトラーを出現させたもの』(中公新書)
- 阿部良男著『ヒトラー全記録 20645日の軌跡』(柏書房)
- 南利明『<論説>指導者-国家-憲法体制の構成』静岡大学法政研究第7巻3号
- ジョン・トーランド著『アドルフ・ヒトラー』(集英社文庫)2巻
[編集] 脚注
- ^ トーランド、144p
- ^ トーランド、142-143p
- ^ トーランド、131-139p
- ^ ジョン・トーランドは「共産党を非合法化するというあやまちを犯さず、労働者階級の票が社会民主党に流れるのを防ぐために、選挙が終わるまで待つことに決めた。」としており、選挙中に共産党が合法政党であったのはナチ党の戦略と見ている。トーランド、141P
- ^ 南、指導者-国家-憲法体制の構成、4p
- ^ 正確には鉄兜団と統一で「黒-白-赤戦線(Kampffront Schwarz-Weiß-Rot")」 として出た
- ^ 青年ドイツ騎士団と合併して正式には「ドイツ国家党 (DStP)」と党名変更していた
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