ケニー・ロバーツ

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ケニー・ロバーツ (1981年、ホッケンハイム)

ケニー・ロバーツKenneth Leroy Roberts1951年12月31日 - )は、アメリカカリフォルニア州出身の元モーターサイクル・レーシングライダー。AMAグランドナショナル選手権、ロードレース世界選手権(WGP)500ccクラスなどで輝かしい成績を収め、「キング・ケニー」というニックネームが生まれた。

後に長男のケニー・ロバーツ・ジュニアもWGP500ccクラスを制覇し、史上初(2009年現在唯一)の親子二代チャンピオンとなった。なお親子同名の区別のため[1]、ケニー・ロバーツ・シニア(Sr.)と呼ぶケースもある。次男のカーティス・ロバーツもWGPに参戦している。

1992年には国際モータースポーツ殿堂2000年にはMotoGP殿堂入り。

目次

[編集] 経歴

[編集] ライダーとして

1973年、母国アメリカのAMAグランドナショナル選手権において史上最年少(21歳)でチャンピオンを獲得。翌1974年も2年連続でタイトル獲得。

1978年にヤマハワークスライダーとしてWGPにフル参戦する[2]。初年度から3年連続で500ccチャンピオンという偉業を成し遂げた。アメリカとヨーロッパの両選手権を制した史上初(2009年現在唯一)の選手であり、WGPにおいて初のアメリカ出身のチャンピオンにもなった。

1983年フレディ・スペンサーと歴史にのこる激戦を繰り広げ、僅差でWGP王座を逃した。この年を最後にWGPからは引退。ただし1985年1986年鈴鹿8時間耐久ロードレースなど、その後もいくつかのレースには出場した。

[編集] 監督として

ヤマハの顔的存在として、引退後はヤマハワークスの「チームロバーツ」を率いてWGPに参戦。門下生ウェイン・レイニー([500cc、1990年1992年)、ジョン・コシンスキー250cc、1990年)がチャンピオンを獲得するなど、運営者・指導者としても有能であることを証明した。

その後、オリジナルマシンの開発・参戦を目指しヤマハから独立(チーム結成初期にも、250ccクラスにエンジンはヤマハ市販用、フレームなどは自社の独特の形状をした実験的なオリジナルマシンを走らせていたこともある)。マレーシアの2輪メーカーモデナスの資金協力を得て、3気筒エンジンを搭載するマシン'KR'(自身のイニシャル)でWGPに挑戦した。しかし十分な結果は得られず、2006年からは自社製フレームにホンダRC211V用エンジンの供給を受ける。長男ケニー・ロバーツ・ジュニアはスズキから再び父のチームに復帰した。

[編集] 後世への影響力

ロバーツの行動や業績の中には、今日のグランプリの基礎となっている事例が多いと言われる。

現在レーシングライダーの間で主流になっている「ハングオフスタイル」を大成・流行させたライダーとして知られる。

WGP転戦に巨大なモーターホームを使用。レースウィークの間は常にサーキットで起居するという生活スタイルをWGPに持ち込んだ[3]

メーカーとの契約関係、開発への発言力、オリジナルのチームスタッフ構成などで、当時としては独創性・先進性に富んでいた[4]

アメリカのレーススタイルをヨーロッパに持ち込んだ先駆者であり、その成功により以後ランディ・マモラフレディ・スペンサーエディ・ローソンらがヨーロッパに進出してくることとなり、WGPにおけるアメリカンライダー時代の始まりとなった[5]

1985年鈴鹿8耐に平忠彦と組んで出場した際は、WGPの偉大なチャンピオンライダーと国内スターライダーの顔合わせが大きな話題となり観客動員数が飛躍的に躍進した。これ以降WGPのトップライダーが鈴鹿8耐にワークス参戦してくるきっかけにもなった。

[編集] エピソード

1983年一杯でのWGP引退は本人の本位ではなく、長年の夫婦関係の悪化による離婚調停の結果もたらされたものだったと言われる(ロバーツ夫妻双方の不倫)。子供達の親権を得るためにやむを得ずの現役引退であったため、ロバーツ本人は未練が大きかったとも言われている。1985年に再婚。結果イベントレースへの参加を増やしていくこととなった。

[編集] 選手時代の主な戦歴

  • 1969年 オレゴン州 100cc ダートトラック 1位
  • 1970年 AMAナショナルノービス選手権 1位
  • 1971年 AMAナショナルジュニア選手権 1位
  • 1972年 AMAナショナルエキスパート選手権 4位(ヤマハ)
  • 1973年 AMAグランドナショナル選手権チャンピオン(ヤマハ)
  • 1974年 AMAグランドナショナル選手権チャンピオン(ヤマハ)
    • ロードレース世界選手権250ccランキング19位(ヤマハ)
  • 1975年 AMAグランドナショナル選手権 2位(ヤマハ)
  • 1976年 AMAグランドナショナル選手権 3位(ヤマハ)
  • 1977年 AMAグランドナショナル選手権 4位(ヤマハ)
  • 1978年 ロードレース世界選手権500ccチャンピオン4勝〔オーストリア、フランス、ネイションズ、イギリス〕(ヤマハ)
    • ロードレース世界選手権250ccランキング4位(ヤマハ)
    • デイトナ200マイルレース 1位(ヤマハ)
  • 1979年 ロードレース世界選手権500ccチャンピオン5勝〔オーストリア、ネイションズ、スペイン、ユーゴスラビア、イギリス〕(ヤマハ)
  • 1980年 ロードレース世界選手権500ccチャンピオン3勝〔ネイションズ、スペイン、フランス〕(ヤマハ)
  • 1981年 ロードレース世界選手権500ccランキング3位(ヤマハ)
  • 1982年 ロードレース世界選手権500ccランキング4位(ヤマハ)
  • 1983年 ロードレース世界選手権500ccランキング2位(マールボロ・ヤマハ)
    • デイトナ200マイルレース 1位(ヤマハ)
  • 1984年 デイトナ200マイルレース 1位(ヤマハ)

※ロードレース世界選手権通算24勝(500-22、250-2)、通算表彰台44回(500-39、250-5)、通算ポールポジション22回(500-18、250-4)。

[編集] 出演作品

映画

[編集] 脚注

  1. ^ 息子「ケニー・ロバーツ・ジュニア」が、世界チャンピオン獲得後「ジュニア」を削っていた時期がある。
  2. ^ それ以前にもスポット参戦の経験がある。
  3. ^ それ以前、ワークスライダーの多くはサーキット近隣のホテルに宿泊していた。資金の乏しいプライベーターはマシン運搬用のバンで車中泊したり、テント泊をしたりしていた。
  4. ^ 全てがロバーツの独力・独創によるものではなく、ヤマハワークスライダーとして優遇されていた点や、指南役として先輩ライダーのケル・キャラザース(1969年250ccクラス世界チャンピオン)の存在も大。
  5. ^ ロバーツのWGP参戦以前にパット・ヘネンなどが存在しており米国人初のWGPライダーではない。

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

先代:
バリー・シーン
500ccクラス世界チャンピオン
1978 - 1980
次代:
マルコ・ルッキネリ