カサーン・ベイ (護衛空母)
艦歴 | |
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発注 | |
起工 | |
進水 | 1943年10月24日 |
就役 | 1943年12月4日 |
退役 | 1946年7月6日 |
その後 | 1960年2月2日にスクラップとして売却 |
除籍 | |
性能諸元 | |
排水量 | 7,800 トン |
全長 | 512.3 ft (156 m) |
全幅 | 108.1 ft (33 m) |
吃水 | 22.5 ft (6.9 m) |
機関 | 3段膨張式蒸気機関2基2軸、9,000馬力 |
最大速 | 19ノット |
航続距離 | 10,240カイリ(15ノット/時) |
乗員 | 士官、兵員860名 |
兵装 | 38口径5インチ砲1基、40ミリ機関砲16基 |
搭載機 | 28機 |
カサーン・ベイ (USS Kasaan Bay, CVE-69) は、アメリカ海軍の護衛空母。カサブランカ級航空母艦の15番艦。
艦歴[編集]
カサーン・ベイは1942年8月20日に ACV-69 (補助空母)に分類され、1943年10月24日に CVE-69 (護衛空母)として合衆国海事委員会の契約下ワシントン州バンクーバーのカイザー造船所でR・W・モース夫人によって進水する。1943年12月4日に海軍に引き渡され、同日B・E・グロウ艦長の指揮下就役する。
第二次世界大戦[編集]
カサーン・ベイは12月下旬に調整を終わり、1944年1月8日に真珠湾向けの航空機と貨物を輸送する任務に就くため、サンフランシスコを出港した。任務終了後、カサーン・ベイはサンディエゴに寄港の後、ノーフォークに向けて出港し、2月28日にノーフォークに到着してオーバーホールに入った。5月28日、オーバーホールを終えたカサーン・ベイは、ツラギ (USS Tulagi, CVE-72) およびミッション・ベイ (USS Mission Bay, CVE-59) とともにニューヨークを出港し、カサブランカへ向けての航空機と貨物の輸送任務を行った。帰途、カサーン・ベイらは5月29日にU-549によって撃沈されたブロック・アイランド (USS Block Island, CVE-21) の生存者342名を救助して、6月17日にニューヨークに帰投した。
6月30日、カサーン・ベイはロードアイランド州クォンセット・ポイントを出港し、7月10日にオランに到着。7月の間、カサーン・ベイは来るドラグーン作戦のための演習を繰り返す一方、地中海での対潜哨戒と航空任務に従事していた。8月12日、カサーン・ベイはマルタを出撃し、3日後には南フランス沿岸部に到着。カサーン・ベイの航空機はドイツ軍陣地に対して爆撃や機銃掃射を行い、多数の車両や戦車を破壊した。反撃に出てきたドイツ機2機は、カサーン・ベイなどの対空砲火で撃墜された。8月30日、カサーン・ベイは戦場を後にしてオランに寄港した後9月6日に出港し、9月18日にノーフォークに帰投した。
カサーン・ベイは10月にカサブランカへの再度の航空機輸送任務に就き、任務終了後は太平洋艦隊(チェスター・ニミッツ元帥)に配置換えとなり、1945年1月2日にサンディエゴに到着した。1月中は高速空母任務部隊(第58任務部隊)(マーク・ミッチャー中将)の空母搭載機の補充に従事し、真珠湾、グアムおよびウルシー環礁にて航空機の入れ替えを行った。
カサーン・ベイは2月14日に真珠湾に帰投後、6月上半期までの間は、補充された航空機とパイロットの訓練に従事した。その後、秋に予定されていたダウンフォール作戦に備えてマーシャル諸島とマリアナ諸島間の補給路で対潜哨戒を開始した。
戦後[編集]
8月15日に日本が降伏すると、カサーン・ベイはグアムアプラ港に到着。復員兵帰還のマジック・カーペット作戦に参加して、帰還第一陣のベテランの復員兵グループを乗せて9月13日にサイパン島を出港し、9月30日にサンディエゴに到着した。次の3ヵ月の間は、フィリピン方面の復員兵輸送任務に就き、ハワイとフィリピンの間を3往復した。
カサーン・ベイは12月8日にサンフランシスコへ帰還し、1946年1月29日に東海岸へ向けて出航して2月22日にボストンに到着する。1946年7月6日に退役し、大西洋予備役艦隊入りする。予備役艦隊で保管中の1955年6月12日に CVHE-69 (護衛ヘリ空母)へ艦種変更される。カサーン・ベイは1960年2月2日にスクラップとして売却された。
カサーン・ベイは第二次世界大戦の戦功での1個の従軍星章を受章した。
外部リンク[編集]
- NavSource Online
- この記事はアメリカ合衆国政府の著作物であるDictionary of American Naval Fighting Shipsに由来する文章を含んでいます。