ツラギ (護衛空母)

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USS TULAGI (CVE-72).jpg
艦歴
発注
起工 1943年6月7日
進水 1943年11月15日
就役 1943年12月21日
退役 1946年4月30日
その後
除籍 1946年5月8日
性能諸元
排水量 7,800トン
全長 512.3 ft (156 m)
全幅 108.1 ft (33 m)
吃水 22.5 ft (6.9 m)
機関
最大速 19ノット
航続距離 10,240カイリ(15ノット/時)
乗員 士官、兵員860名
兵装 38口径5インチ砲1基
40ミリ機関砲16基
搭載機 28機

ツラギ (USS Tulagi, CVE-72) は、アメリカ海軍護衛空母カサブランカ級航空母艦の18番艦。艦名はソロモン諸島ツラギ島に因んで命名された。

艦歴[編集]

艦はフォルタゼラ・ベイ (Fortazela Bay, ACV-72) として合衆国海事委員会の契約下ワシントン州バンクーバーカイザー造船所で1943年6月7日に起工し、1943年7月15日に CVE-72 (護衛空母)へと艦種変更される。1943年10月19日に正しい名前であるフォルタレザ・ベイ (Fortaleza Bay) に訂正されたが、1943年11月6日にツラギと改名された。1943年11月15日にジェームズ・デューク・アーナー夫人によって進水し、1943年12月21日にジョゼフ・キャンベル・クローニン艦長の指揮下就役した。

1944[編集]

就役後は1944年1月17日にシアトルを出航し、サンフランシスコで物資、航空機、兵員を積み込みハワイへ向かう。ツラギは真珠湾を1月29日に出航、サンディエゴに帰還すると2月4日に兵員を乗艦させる。2月の大半はサンディエゴ沖での訓練演習に費やされ、その後パナマ運河地帯を経由してバージニア州ハンプトン・ローズに向かった。3月17日にノーフォークに到着し、ツラギはオーバーホールと信頼性試験を受ける。

ツラギは5月後半に陸軍航空隊の航空機を搭載し、28日にニューヨークを出航、他の2隻の空母および護衛艦と共に船団を形成した。6月6日、ツラギは初めて外国の港に入港した。積み荷を降ろすと35名の捕虜を含む乗客を乗艦させ、本国へ向かった。

1944年6月17日にノーフォークに到着、その後ツラギは6月下旬にロードアイランド州クォンセット・ポイント英語版に向かい、同地で乗客、航空機および機材を降ろした。6月の最後の日、ツラギは第27.7任務部隊の司令官カルヴァン・T・ダージン英語版少将を乗せナラガンセット湾を出港し東方に向かい、途中アルジェリアオランで砲術訓練を行った。ツラギは7月26日にマルタを訪問し、翌週は訓練で過ごした。その中にはフランス侵攻作戦、ドラグーン作戦に備えたアフリカおよびイタリアの港の沖合での偽装訓練も含まれた。

D-デイ当日、ツラギは海岸から45マイル沖で巡航した。5時46分にヘルキャットの第一陣を発艦させる。翌週、ツラギからの攻撃部隊は68の任務で276回出撃し、敵陣に対して大きな損害を与えた。天候は空母艦載機にとっておおむね任務を果たすのに適した状態であり、沿岸の様々な標的に対して攻撃を行い、その中には砲台および鉄道設備も含まれた。8月21日はツラギにとって、ドラグーン作戦支援の最終日であった。ドイツ軍部隊は連合軍の攻勢により退却中であった。ツラギの搭載機はリムーラン英語版の付近を行列するドイツ軍部隊に対して攻撃を行い、ドイツ空軍Ju 52を3機撃墜した。

オランで物資と燃料を補給した後、ツラギは9月6日に帰国の途に就く。ノーフォークでの短期オーバーホール後、ツラギはパナマに向かい、運河を通過、10月26日にサンディエゴに到着した。同地でハワイへ運ぶ2航空団を乗艦させ、10月29日に西海岸を出航した。ツラギは11月5日に真珠湾に到着し、対潜水艦戦演習および砲術演習に加わった。11月24日に特別対潜任務群と共に出航し、マーシャル諸島ウルシー環礁を経由してサイパン島での掃海任務に当たる。12月を通してツラギはパラオおよびマリアナ諸島南方で対潜哨戒に当たった。

1945[編集]

1945年の元日、ツラギはリンガエン湾およびルソン島への侵攻作戦に参加する。ジェシー・B・オルデンドルフ中将率いる、オーストラリア海軍艦船も含んだ164隻もの艦船で構成された艦隊は[1]、2日後にスリガオ海峡を通過する。その頃から、フィリピンの日本軍は艦隊に対して100機以上の神風特攻隊による波状攻撃を仕掛けてきた。続く3日間の間、艦隊は特攻隊の洗礼を受け続けた。1月4日、艦隊はF4F ワイルドキャット40機と陸軍戦闘機20機が上空を哨戒するスールー海を航行中[2]、神風特攻旭日隊(彗星2機)、一誠隊(2機)、進襲隊(九九式襲撃機1機)の攻撃を受ける[3]。1機の特攻機がルンガ・ポイント (USS Lunga Point, CVE-94) に突入するかに見えたが、撃墜された。ツラギの乗員は、その光景に続いてオマニー・ベイ (USS Ommaney Bay, CVE-79) に彗星が突入する瞬間を目撃した。オマニー・ベイは炎上した後、味方の手によって処分された。翌1月5日、艦隊はミンドロ海峡を通過して南シナ海の一角に入りつつあった。これは同時に、マニラ近辺の航空基地との距離が縮まって、特攻攻撃に晒されやすくなった事も意味していた[2]。上空哨戒の戦闘機は、接近してきた2機の零戦特攻機を撃墜したが、別の特攻機3機が戦闘機の哨戒網を突破。2機は撃墜されたが、残る1機が重巡洋艦ルイビル (USS Louisville, CA-28) に命中した。

1月9日、リンガエン湾への上陸作戦が開始された。ツラギの航空機は対地攻撃や上空哨戒に従事。1月12日にもリンガエン湾上空を哨戒する航空機を発進させた。翌1月13日、ツラギは1機の特攻機の攻撃を受けた。この特攻機は、ツラギの右舷側を後方へ突き抜けて突入を試みたものの、最終的には撃墜された。1月17日に至り、アメリカ陸軍航空軍は航空基地を確保。リンガエン湾上空の哨戒任務は陸軍航空軍の担当に代わった。ツラギはサンバレス州沿岸部に移動し、同地に対する上陸作戦の支援に従事。この方面での32日間の行動で、初めの2日間以外の日に実施していた航空活動を終えたツラギはウルシーに向かい、2月5日に到着した。2月21日、ツラギはグアムを出撃し、3月1日には硫黄島西方洋上に到着して、以後3月11日まで硫黄島の戦いの支援で対潜哨戒と対空哨戒を行った。ツラギは3月14日にウルシーに帰投し、次の沖縄戦のための準備を始めた。

3月末から6月前半までの、沖縄戦の時期とほぼ重なる期間中、ツラギは他の護衛空母と交互で沖縄方面での全般支援任務に就いた。4月3日、4機の零戦特攻機が攻撃を仕掛けてきたが、すべて撃墜された。ツラギは整備のため慶良間諸島に向かったが、到着した4月6日は菊水一号作戦の初日であった。ツラギは対空砲火により1機の特攻機をとらえたが、この特攻機は炎に包まれながらも戦車揚陸艦に向けて突入していった。間もなく、ツラギは正確な対空砲火で別の特攻機を撃墜した。4月7日、ツラギは沖縄沖での哨戒任務に戻り、対地攻撃と写真偵察、哨戒任務を再開した。4月13日には宮古島の航空基地に対して空襲を行うと同時に、航路帯の対潜哨戒を実施した。

この長く困難な巡航の後、ツラギは1945年6月6日にグアムアプラ港に到着した。6月8日にマリアナ諸島を出航しサンディエゴに向かう。西海岸ではオーバーホール、公試および訓練でその年の夏を過ごした。サンディエゴでの活動中に戦争は終了し、ツラギは9月4日に西海岸を出航、ハワイを経由してフィリピンに向かう。サマール島でツラギは航空機を積み込み帰路に就く。10月に真珠湾に到着した後、サンディエゴには1946年1月に到着。2月2日に不活性化のためワシントン州ポート・アンジェルス英語版の第19艦隊に合流した。ツラギは1946年4月30日に退役し、5月8日に除籍された。

ツラギは第二次世界大戦の戦功での4つの従軍星章を受章した。

脚注[編集]

  1. ^ ウォーナー『ドキュメント神風・上』298ページ
  2. ^ a b ウォーナー『ドキュメント神風・上』299ページ
  3. ^ ウォーナー『ドキュメント神風・下』304ページ

参考文献[編集]

  • デニス・ウォーナー、ペギー・ウォーナー/妹尾作太男(訳)『ドキュメント神風 特攻作戦の全貌 上・下』時事通信社、1982年、ISBN 4-7887-8217-0ISBN 4-7887-8218-9

外部リンク[編集]