アクセル・ヴェナー=グレン

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アクセル・ヴェナー=グレン

アクセル・レンナルト・ヴェナー=グレンAxel Lennart Wenner-Gren1881年6月5日 - 1961年12月24日)は、スウェーデン起業家実業家投資家1930年代に世界で最も裕福な億万長者の一人だったことに加え、様々な先端産業に関わりアルウェーグモノレールにその名前を遺した。

概要[編集]

ヴェナーグレン・パレス("Wennergren palace")、 Diplomatstaden、ストックホルム、2008年

アクセル・ヴェナー=グレンの財産の基礎となったものは、掃除機産業をスウェーデン国内に定着させたことによるものであった。第一次世界大戦後間もなく彼はスウェーデンの照明機器会社のエレクトロラックス社に掃除機の特許を購入するように働きかけ、その代金を会社の株式で受け取った。後日、ヴェナー=グレンはエレクトロラックス社で働きパナマ運河開通式用の投光照明機器の契約受注を含む業務上の成功を収めた。1930年代初めにはヴェナー=グレンはエレクトロラックス社の所有者となり、会社は掃除機と冷蔵庫の技術で主要なブランドとなっていた。彼は利益を新聞銀行、兵器産業にも投資し、安全マッチ王(safety-match tycoon)と呼ばれたが後に没落したイーヴァル・クルーガーから多くの資産を買い取った。

ヴェナー=グレンに関しては、最初の妻がスウェーデン人だったヘルマン・ゲーリングの友人であるという定かでない噂があり、1930年代末に来たる世界大戦の防ぐためにゲーリングと英国米国政府とのパイプ役を果たしていると信じられていた。全ての陣営が彼のことを目立ちたがりの信用の置けない人物とみなしたことと、さらにはナチス体制にそれほど大きな影響力を持っていなかったことでヴェナー=グレンの尽力は成功しなかった。

失意のヴェナー=グレンは引退しバハマに移り、そこで島の総督 ウインザー公と親しい間柄となった。戦争の初期に、噂される彼のゲーリングとの交友とウインザー公のナチスに対する理解への疑いが最初は米国に続いて英国にヴェナー=グレンの名前を経済活動のブラックリストに載せさせ、ナッソーの彼の資産は凍結された。ヴェナー=グレンのヨット(世界最大級)は戦争初日に撃沈された客船「アセニア号SS Athenia)」の沈没現場で連合国の船舶に随行していた。彼のヨット「サザンクロス号Southern Cross)」は沈没船の生存者300名以上を救助して幾名かを近くの連合国船に移乗させ残りを米国まで送り届けた。それにもかかわらず彼がナチスのスパイであるという疑いがかけられていたが、その根拠はほとんど証明されなかった。

ヴェナー=グレンの興味の対象の1つにモノレールがあった。彼の会社ALWEG社は1959年に初代のディズニーランド・モノレール(Disneyland Monorail System)を、1962年にシアトルセンター・モノレール(Seattle Center Monorail)を製造した。ヴェナー=グレンはカナダ人のW.A.C. ベネット(W.A.C. Bennett)と協力してプリンス・ジョージ(Prince George)の北から未着手のピースリヴァー(Peace River)、ロッキーマウンテン渓谷(Rocky Mountain Trench)そして最終的にはアラスカまで至る鉄道の建設という投機的な鉄道計画に情熱を燃やし続けた。不必要なフォート・ネルソン(Fort Nelson)支線を含む鉄道の一部はヴェナー=グレンの死後にパシフィック・グレートイースタン鉄道(Pacific Great Eastern Railway)により建設された。北部の利権は、広大な渓谷を利用したベネット・ダム(Bennett Dam)、ガスのパイプライン、テーラー(Taylor)の工場、炭鉱パルプ工場といった巨大な産業プロジェクトをこの地域に萌芽させる刺激となった。

1950年代にヴェナー=グレンは初期のコンピュータ事業にも手を出した。カリフォルニア州アラスカ州を結ぶ鉄道計画のために彼は、ロスアンジェルス郊外のレドンド・ビーチ(Redondo Beach)に物流研究所を設立し、磁気ドラムメモリを基にしたコンピュータを開発した元ノースロップの技術者グレン・ハーゲン(Glenn Hagen)に連絡を取った。1952年11月にヴェナー=グレンは物流研究所を会社組織にする援助をし、間もなく会社を自身の支配下に治め社名をALWAC(the Axel L. Wenner-Gren Automatic Computer)と改称した。モデルALWAC IIを1954年6月に、モデルIIIは1955年12月に出荷された。1956年1957年にはIBM 650の競合機と目されるより少数の部品構成で廉価なモデルALWAC III-Eが出荷されたが30台以上ではなかったようである。[1]この直後に磁気ドラム機は磁気コアメモリの登場により完全に旧態化した。続くALWAC 800ではコアメモリだけでなく磁気ロジック(半導体ダイオードとコアメモリの複合。ヒューイット・クレーン Hewitt Craneを参照)も使用していたが設計上の失敗により試作段階以降には進まず、この機械の事前契約により会社は破滅寸前の状態にまでなった。1958年に開発はスウェーデンに移され、III-Eより多少改良を施された次のモデルWegematic 1000が1960年に出荷された。僅か1ダースが出荷され、イスラエルワイツマン科学研究所へ贈られた1台を含むその半分は大学に寄付された。その見返りにヴェナー=グレンは幾つかの名誉称号を受けた。

ヴェナー=グレンは人類学の研究を援助する組織ヴァイキング・ファンド(Viking Fund)を設立し寄付(endowed)をした。これは後に人類学研究のためのヴェナー=グレン基金と改称された。

出典[編集]

脚注[編集]

  1. ^ Hallberg, 2007

参考文献[編集]

Santiago Bolaños Guerra en colaboración con Jorge Ruiz Esparza "La Cruz del Sur" Axel Wenner-Gren el espía que México protegió. Ediciones B 322 Páginas. 2009 México.