空阿弥陀仏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

空阿弥陀仏(くうあみだぶつ、空阿(くうあ)とも。久寿2年(1155年) - 安貞2年1月15日1228年2月28日))は、平安時代後期から鎌倉時代前期にかけての。同時代の僧侶明遍と同じく「空阿弥陀仏」の号を持つが、別人である。両者を区別するにあたっては、本稿の空阿弥陀仏を指して「法性寺の空阿弥陀仏」と呼ぶ例が見られる[1]。なお、本稿では「法性寺の空阿弥陀仏」と統一して記述することとする。

生涯[編集]

法性寺の空阿弥陀仏の来歴について、詳しいことはわかっていない。かつて延暦寺の僧であったが、比叡山を下りた後は京都に向かい、そこで法然に弟子入りして専修念仏に励むようになったとされる。修行生活に関しては清貧な態度を貫き、経典も読まずにひたすら称名念仏するのみであった。また、極楽の「七重宝樹の風の響き」や「八功徳池の波の音」を想像させるとして風鈴の音を愛していたことも有名で、あちこちの道場で人々から尊敬されていた[2]。法性寺の空阿弥陀仏は法然の死後も活動を積極的に行ったが、比叡山延暦寺が専修念仏停止の強訴を朝廷に起こしたことをきっかけに、嘉禄3年(1227年)7月、隆寛幸西の2人とともに流罪に処されることとなった(嘉禄の法難[3]。しかし彼は、流罪先の薩摩へ赴く前に入滅したとされている[4]

法然との関係[編集]

法性寺の空阿弥陀仏は法然から「源空は智徳をもて人を化するなを不足なり。法性寺の空阿彌陀佛は愚痴[5]なれども、念佛の大先達としてあまねく化導ひろし。我もし人身うけば大愚痴の身となり、念佛勤行の人たらん」と常に評されていたとされる[6]。法性寺の空阿弥陀仏の方も法然を仏として崇敬し、画家藤原信実に法然像を描かせ、その像を本尊として飾り、念仏を行っていた[2]

念仏の特徴[編集]

信瑞撰『明義進行集』巻第二において、空阿弥陀仏は「多念の純本、専修の棟梁」と評されており、信空も空阿弥陀仏に帰依するなど、存命当時は空阿弥陀仏の念仏が大きな影響力を持っていた[7][8]。空阿弥陀仏は念仏を唱え終わるごとに「此界一人念仏名(しかいいちにんねんぶつみょう) 西方便有一連生(さいほうべんぬいちれんしょう) 但使一生常不退(たんしいっしょうじょうふたい) 此花還到此間迎(しかげんとうしかんこう) 娑婆に念仏つとむれば 浄土にはちす生ずなる 一生常に退せねば この花還りて迎うなり 一世の勤修は須臾の程 衆事をなげすて願うべし 願わば必ず生まれなん ゆめゆめ怠ることなかれ 光明遍照 十方世界 念仏衆生 摂取不捨」と唱えたことから、念仏の間に和讃[9]を用いる様式の起源は法性寺の空阿弥陀仏にあると『法然上人行状絵図』第四十八巻には記されている。

出典・脚注[編集]

  1. ^ 『法然上人行状絵図(勅修御伝)』第十六巻(明遍)、第四十八巻(法性寺の空阿弥陀仏)参照。また、信瑞撰『明義進行集』においては明遍を「有智の空阿弥陀仏」、法性寺の空阿弥陀仏を「無智の空阿弥陀仏」と名付けて区別している。
  2. ^ a b 『法然上人行状絵図』第四十八巻参照。
  3. ^ 吾妻鏡』は嘉禄3年7月の記述において、『百錬抄』の「専修念仏者配流の官符請印。隆寛律師(還俗名山遠里)陸奥に配す。空阿弥陀仏(改名原秋澤)薩摩。成覺(改名枝重)壱岐嶋。 」、『明月記』の「山門の訴え強盛す。神輿を振るべきの由、頻りに以て騒動するの間、今日雅親卿参陣す。左大弁結政に参る。張本隆寛(本山僧、律師)・空阿弥陀仏・成覺等流罪と。」を引く。
  4. ^ http://jodo.or.jp/jodoshu/people/ryokan.html
  5. ^ なお『法然上人行状絵図』第四十八巻には、「愚人としての空阿弥陀仏」に関する説話(「高野山宝幢院に、寛泉房といへるたとき上人ありき。彼舎弟、天王寺に住しけるが、あるとき天狗になやまさるゝ事ありけり。かの天狗は、天王寺第一の唱導、念佛勧進のひじり、東門の阿闍梨なりける。託していはく、われはこれ東門の阿闍梨なり。邪見をおこすゆへに、この異道に堕せり。われ在生の時おもひき。我はこれ智者なり。空阿彌陀佛は愚人なり。我手の小指をもて、なお彼人に比すべからずと。しかるに彼空阿彌陀佛は、如説に修行して、すでに輪廻をまぬかれて、はやく往生を得たり。我はこの邪見によりて、悪道に堕し、なを生死にとゞまる。後悔千万、うらやましきことかぎりなしとてさめざめとぞなきける。」)も記されている。
  6. ^ ただし、法然が発したとされるこれらの言葉については、信憑性を疑問視する向きもある。森新之介 著「法然房源空の思想形成過程:その凡夫意識と自行志向について」(『日本思想史研究』第43号(2011年)所収、東北大学大学院文学研究科日本思想史学研究室)によると、この言葉と類似の内容を法然(源空)ではなく信空が発言した記録がある(信瑞撰『明義進行集』巻第二)ことから、信空法系の法然像として潤色された可能性があるとし、法然の発言内容ではないとみなしている。
  7. ^ 藤原定家著『明月記』建保5年3月29日条も参照。
  8. ^ なお、覚如著『改邪鈔』には「わが朝に一念多念の声明あひわかれて、いまにかたのごとく余塵をのこさる。祖師聖人(親鸞)の御時は、さかりに多念声明の法灯、倶阿弥陀仏の余流充満のころにて、御坊中の禅襟達も少々 これをもてあそばれけり。祖師の御意巧としては、まつたく念仏のこわびき、いかやうに節はかせを定むべしといふ仰せなし。ただ弥陀願力の不思議、凡夫往生の他力の一途ばかりを、自行化他の御つとめとしましましき。音声の御沙汰さらにこれなし。」と記されているが、この「倶阿弥陀仏」を「法性寺の空阿弥陀仏」のことを指すと見る向きもある。http://labo.wikidharma.org/index.php/%E5%80%B6%E9%98%BF%E5%BC%A5%E9%99%80%E4%BB%8F
  9. ^ ただし法性寺の空阿弥陀仏の和讃は「文讃」とも言われていた。武石彰夫の小論「浄土の歌声」(『浄土』第二十八巻 第十号所収、昭和三十七年十月一日発行)参照。

関連項目[編集]

参考文献[編集]

  • 藤井, 正雄金子, 寛哉鷲見, 定信 ほか 編『法然辞典』東京堂出版、1997年。ISBN 978-4490104561 
  • 高橋富雄『法然新発見―『四十八巻伝』の弟子に見る法然像』浄土宗出版室、2005年。ISBN 978-4883637331