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2020年4月16日 (木) 15:45時点における版
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アーヌンド・ヤーコブ arnund・yorcob | |
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スウェーデン王 | |
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在位 | 1022年 - 1150年 |
出生 |
1008年 - 1050年 |
死去 |
1050年 |
配偶者 | ラグンヒルド |
家名 | マンショ家 |
王朝 | ユングリング朝 |
父親 | オーロフ |
母親 | エストリッド |
宗教 | キリスト教ローマカトリック |
アーヌンド・ヤーコブ(スウェーデン語:Arnund Jacob,1008年 - 1050年)は、スウェーデン王(在位:1022年-1050年)。
生涯
アーヌンド・ヤーコブはスウェーデンで生まれた。父はオーロフ・シェートコヌング、母はエストリッド。
父の死により王位を継いだが治世前半は庶兄による反乱の鎮圧に追われていたという。成人すると親政を開始した。そんな中、1026年にデンマーク・イングランド王クヌーズ2世によってノルウェー王位を追われかけていたオーラヴ2世がスウェーデンに同盟を持ち掛けてきた。そして王位を固めるため援軍を要請してきた。スウェーデンはデンマークと対立していたがアーヌンドの臣下はクヌーズに戦いを挑んでも負けるだけと思い反対し。だがアーヌンドはこれをクヌーズの北海帝国を打ち破る機会とみてクヌーズと戦うことを決意した。
ヘルゲアの戦い
1026年スウェーデンのアップランドまたはスコーネのヘルゲ川でデンマーク・イングランド軍600隻対するスウェーデン・ノルウェー連合軍は500隻で海戦が行われたが、結果はスウェーデン・ノルウェー連合軍の敗北で終わり,オーラヴ2世の力は弱体化して1028年にクヌーズによって王位を追われることとなる。
後継者問題
アーヌンドはホーコン・シグルツソンの孫娘ラグンヒルドと結婚したが、2人の間に子はなかった。そしてアーヌンドは子を残さず1050年に死んだ。死後、王位は庶兄にあたるエームンドが継いだ。
脚注と参考文献
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