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2018年5月3日 (木) 03:49時点における版

中書島(ちゅうしょじま)は、京都市伏見区の地名。

地理

現在の京阪中書島駅を中心とした地域であり、南北に竹田街道が通っている。四方を川(南は宇治川、西は濠川、北と東は宇治川派流)に囲まれており、かつて島であった名残をとどめている。

由来

文禄年間、中務少輔に任官していた脇坂安治宇治川の分流に囲まれた島に屋敷を建て住んだことから、「中書島」の名前が生まれたとされる。中務少輔の唐名が「中書」であったことから、脇坂は「中書(ちゅうじょう)さま」と呼ばれていた。その「中書さま」の住む屋敷の島という理由で「中書島」と呼ばれるようになった[1]。伏見には他にも、かつての大名屋敷にちなむ地名が多い。

歴史

桃山時代まで伏見港一帯は湿地であった。豊臣秀吉伏見城を政庁としたことによって、武家屋敷が立ち並ぶようになったが、江戸幕府は伏見城を廃城としたため江戸時代前期に荒廃した。一方で高瀬川が開削され京都と大坂が結ばれると、その河口としてふたたび水運における重要性が増した。その後、伏見城下にあった遊廓が移転され、繁栄するようになる。

酒の名所であるために遊びに来る人が多く、また、宇治川に近く、交通の便が良い中書島は遊廓であると同時に花街でもあり、祇園をしのぐほどの名妓を輩出してきた。明治末期には京阪電車が開通し、ますます栄えるようになった。

昭和初期には深草に司令部を置く第16師団の将校、兵士にも利用されていたが、1958年昭和33年)3月15日売春防止法によって遊廓としての役割を閉じ、花街のみとなった。当初、転業をめぐってお茶屋派と学生相手の下宿派に分かれ対立してきたが沈静化し、その後、徐々に衰退してくるようになり、1970年(昭和45年)に花街としての長い歴史に終止符を打った。現在は普通の住宅地であり、わずかながら花街、遊廓時代の建物が残されている。

この地で生まれた西口克己の小説「廓」の舞台になったことでも知られる。

脚注

  1. ^ 「関西の鉄道」№53 2007年7月20日発行 95頁「中書島のはなし」

参考文献

  • 『京の花街』 渡会恵介、大陸書房 1977年
  • 『日本花街史』 明田鉄男、雄山閣 1990年
  • 『京都遊廓見聞録』 田中泰彦編、京を語る会発行 1993年

外部リンク