「江川卓 (ロシア文学者)」の版間の差分

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== ペンネーム ==
== ペンネーム ==
本名と無関係のペンネームを使用したのは、戦後間もない頃の、[[ロシア文学]]に携わっていると[[共産主義者]]であると疑われていたような時代に、秘密の文学サークルを作って活動していた名残である。
ペンネームの「江川卓」は、1953年頃から名乗っている<ref name="現代-1984-06" /><ref name="月刊Asahi-1991-01" />。本名と無関係のペンネームを使用したのは、戦後間もない頃の、[[ロシア文学]]に携わっていると[[共産主義者]]であると疑われていたような時代に、秘密の文学サークルを作って活動していた名残である。


由来は、中国の[[揚子江]]で酒を呑んだらうまかろうという思いから<ref>[[朝日新聞]]東京本社企画報道部編『惜別 忘れ得ぬ人たち』[[主婦の友社]]、2003年、p16</ref>。
由来は、中国の[[揚子江]]で酒を呑んだらうまかろうという思いから<ref>[[朝日新聞]]東京本社企画報道部編『惜別 忘れ得ぬ人たち』[[主婦の友社]]、2003年、p16</ref>。


[[読売ジャイアンツ]]の野球選手だった[[江川卓 (野球)|江川卓]](えがわ・すぐる、こちらは本名)と読み方こそ違えど漢字が同じであるため、[[江川事件]]の際には巨人の選手と混同した野球ファンから大量の間違い電話がかかってきた<ref name="gendai-1984-06">江川卓(ロシア文学者)、「同姓同名の快」<!-- 「怪」ではなく「快」で合っています。 -->、『[[月刊現代|現代]]』18巻6号(1984年6月号)、432-433ページ。</ref>。間違い電話の内訳は、悪口が3回に対して激励が2回という感じで<ref name="gendai-1984-06" />、同姓同名であるためか悪口も激励も身につまされたという<ref name="gendai-1984-06" />。またこれも偶然であるが、ロシア文学者の江川は[[プロ野球]]誕生期からの巨人ファンでもあった<ref name="gendai-1984-06" />。
[[読売ジャイアンツ]]の野球選手だった[[江川卓 (野球)|江川卓]](えがわ・すぐる、こちらは本名)と読み方こそ違えど漢字が同じであるため、[[江川事件]]の際には巨人の選手と混同した野球ファンから大量の間違い電話がかかってきた<ref name="現代-1984-06">江川卓(ロシア文学者)、「同姓同名の快」<!-- 「怪」ではなく「快」で合っています。 -->、『[[月刊現代|現代]]』18巻6号、1984年6月、432-433ページ。</ref><ref name="月刊Asahi-1991-01" />。間違い電話の内訳は、悪口が3回に対して激励が2回という感じで<ref name="現代-1984-06" />、同姓同名であるためか悪口も激励も身につまされたという<ref name="現代-1984-06" />。またこれも偶然であるが、ロシア文学者の江川は[[プロ野球]]誕生期からの巨人ファンでもあった<ref name="現代-1984-06" />。


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==著書==
==著書==

2017年5月15日 (月) 13:08時点における版

江川 卓(えがわ たく、1927年1月24日 - 2001年7月4日)は、東京都出身のロシア文学者東京工業大学名誉教授。本名は「馬場 宏(ばば ひろし)」。

フョードル・ドストエフスキー翻訳研究などで知られる。NHKロシア語講座の講師も長く務め、多くの人に親しまれた。

略歴

ロシア文学者の外村史郎こと馬場哲哉の長男として出生。弟は『新婚さんいらっしゃい!』などの番組を制作した元朝日放送テレビプロデューサー馬場淑郎

東京府立第十中学校第一高等学校を経て東京大学法学部卒業。ロシア語は独学で、終戦後実地で鍛え上げた[1]。中学の同期に経営者・詩人の堤清二がいる。東京工業大学助教授、同大学教授、中京大学教授を歴任した。東京工業大学から名誉教授の称号を受ける。1987年、『謎解き「罪と罰」』で読売文学賞受賞。

2001年7月4日午前9時13分、気管支炎のため、74歳で逝去した。

ペンネーム

ペンネームの「江川卓」は、1953年頃から名乗っている[2][3]。本名と無関係のペンネームを使用したのは、戦後間もない頃の、ロシア文学に携わっていると共産主義者であると疑われていたような時代に、秘密の文学サークルを作って活動していた名残である。

由来は、中国の揚子江で酒を呑んだらうまかろうという思いから[4]

読売ジャイアンツの野球選手だった江川卓(えがわ・すぐる、こちらは本名)と読み方こそ違えど漢字が同じであるため、江川事件の際には巨人の選手と混同した野球ファンから大量の間違い電話がかかってきた[2][3]。間違い電話の内訳は、悪口が3回に対して激励が2回という感じで[2]、同姓同名であるためか悪口も激励も身につまされたという[2]。またこれも偶然であるが、ロシア文学者の江川はプロ野球誕生期からの巨人ファンでもあった[2]

同姓同名の両者は後に月刊Asahiの企画で対面した[3]。その席上、1978年のドラフトの際に迷惑がかかったことについて、野球の江川卓がロシア文学者の江川卓に謝罪している[3]

著書

単著

共編著

  • 井上光晴)『新しいソビエトの文学(全6巻)』(勁草書房、1967年-1968年)
  • 水野忠夫)『全集・現代世界文学の発見(1)革命の烽火』(学芸書林、1969年)
  • 栗栖継)『全集・現代世界文学の発見(11)社会主義の苦悩と新生』(学芸書林、1970年)
  • 原卓也)『ドストエフスキー・アルバム』(新潮社、1978年)
  • 亀山郁夫)『ドストエフスキーの現在』(JCA出版、1985年)

訳書

脚注

  1. ^ [新潮文庫 悪霊]、訳者紹介
  2. ^ a b c d e 江川卓(ロシア文学者)、「同姓同名の快」、『現代』第18巻第6号、1984年6月、432-433ページ。
  3. ^ a b c d 染、「同姓&同名① 江川卓さん 野球解説者/ロシア文学者」、『月刊Asahi』第3巻第1号、1991年1月、246ページ。
  4. ^ 朝日新聞東京本社企画報道部編『惜別 忘れ得ぬ人たち』主婦の友社、2003年、p16