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2016年1月19日 (火) 23:08時点における版

バルト・ドイツ人
バルトの旗(色)
ミハイル・バルクライ・ド・トーリ
Karl Ernst von Baer
アーダム・ヨハン・フォン・クルーゼンシュテルン
フリードリッヒ・フォン・シュトルーベ
ファビアン・ゴットリープ・フォン・ベリングスハウゼン
ヨハン・エッシュショルツ
ハインリヒ・レンツ
フェルディナント・フォン・ウランゲル
Wilhelm Küchelbecker
ピーター・カール・ファベルジェ
ヴィルヘルム・オストヴァルト
居住地域
歴史上かなりの人口を占める地域 クールラント(Kurland), エストニア, リヴォニア、独リーフラント (Livland)
1945年より実質的に消滅/ドイツの連合軍軍政期
言語
ドイツ語 (低地ドイツ語)、 ロシア語
宗教
ルター派
ローマ・カトリック教会, ロシア正教会
関連する民族
ドイツ人エストニア人ロシアのドイツ人英語版プロイセン系リトアニア人英語版エストニア系スウェーデン人英語版

バルト・ドイツ人(バルト・ドイツじん、:Deutsch-Balten)は、主にバルト海東岸、現在のエストニアラトビアリトアニアは、全く異なる歴史を歩んできたが今はバルト三国と認識され、幾つかの市では少数のドイツ人商人の居住地であった。) に居住していた。数世紀の間、彼らはその地域で社会、商業、政治、文化のエリートを組織した。ロシア帝国、特にサンクトペテルブルクでは何名か軍隊や市民生活で高い地位にも就いた。

民族の構成

700年のバルト・ドイツ人の歴史の中で、バルト・ドイツ人家族はドイツ民族のルーツのみだけではなく、エストニア人ラトビア人リーブ人(フィン・ウゴル系)、そしてデンマーク人スウェーデン人アイルランド人イギリス人スコットランド人ポーランド人オランダ人ハンガリー人などの非ドイツ民族の人々と混血もしている。

ドイツ騎士団が政権を持ち、都市ではドイツ騎士団(および後にドイツ騎士団や各公国に対する宗主権を獲得したポーランド王国リトアニア大公国)の裁可によって主にドイツ式の都市法が適用され、ドイツ語やドイツの文化習慣であった。異なる民族間の結婚では、他の民族もドイツの文化に同化していった(ドイツ化現象)。彼らはドイツ人の言葉と習慣を身につけ、しばし名前や苗字をドイツ化した。

1881年には, 約46,700人のドイツ人がエストニア(人口の5.3%)に居た[1]。 1897年のロシア帝国の国勢調査によると、ラトビアに120,191人のドイツ人 (人口の6.2%)が居た[2]

領域と市民権

バルト・ドイツ人の定住パターン、領域とされていたバルト地域

不正確に、時に東プロイセンのドイツ民族を文化、言語、類似性からバルト・ドイツ人と思われることもある。しかし、東プロイセンのドイツ人がプロイセンを統制、そして1871年の後はドイツ国籍、なぜなら定住領域がプロイセンの1部分であった。1871年以降、東プロイセンは新しく成立したドイツ国(独Deutsches Reich、英 German Reich)となった。

しかし、バルト・ドイツ人は1918年までロシア帝国の国籍、そして1918年–1939年まではエストニアとラトビアの国籍を保持した。

歴史

中世

1260年のテッラ・マリアナ

中世までにドイツ人の居住地は、エルベ川西岸まで広がっていた。12世紀には、貿易商人と宣教師達はバルト・フィン諸語バルト語派を話す支族の住む海岸地域を訪れた。制度的な定住は、12世紀と13世紀に北方十字軍が始った期間であった。13世紀頃から騎士修道会であるドイツ騎士団リヴォニア帯剣騎士団によるキリスト教化の進展に従い、ドイツ人は東方植民を始め、ベルリンのあるシュプレー川流域からプルセン人諸部族、スラヴ人諸部族、フィン・ウゴル語族諸部族の居住するヴィスワ川ネマン川流域へ移住した。結果、ドイツ人はバルト地方にリガタリン、プロイセン地方にダンツィヒケーニヒスベルクなどの港湾都市を建設した。これらの町はハンザ同盟に加盟したが、ドイツ騎士団の介入によって自治を確立することができなかった。東バルト沿岸地域の騎士は、200年の間、神聖ローマ帝国からのサポートがあった。


ポーランド、リトアニアの時代

現ポーランド北東部では反ドイツ騎士団の感情が起こった為、騎士団と何世紀もの間抗争を繰り返していた。14世紀後半に入ると、騎士団の専権的な支配は在地勢力や都市、地方領主などの反感を買うようになり、僧侶と1440年にプロイセン連合を組織、ポーランド・リトアニア連合とプロイセン連合はドイツ騎士団と戦い、15世紀にはドイツ騎士団の勢力はこの戦争で弱まった。1466年に締結された講和条約(第二次トルニの和約)によってポーランド王国西プロイセンを獲得(ポーランド王領プロシア)、ドイツ騎士団を東プロイセンへと追いやりドイツ騎士団国を支配した。プロイセン連合に加盟する全ての市と領土は、ポーランド王を宗主とした自治権を獲得。リヴォニアリヴォニア公国英語版)リヴォニアはドイツ騎士団に従属。クールラントクールラント・ゼムガレン公国)はリヴォニアに従属。リヴォニア議会は1561年、ポーランド・リトアニア大公ジグムント2世アウグストの庇護を求め、以後リヴォニアとクールラントはポーランド・リトアニア共和国に直接従属、自治を得た。1525年ドイツ騎士団国は、ホーエンツォレルン家の公を君主とするプロイセン公国へと転換し、135年後の1660年、[[フリードリヒ・ヴィルヘルム (ブランデンブルク選帝侯及びプロイセン公)|フリードリヒ・ヴィルヘルム]]大選帝侯はポーランド・リトアニア王国から独立した。

1558年、モスクワ国家(モスクワ大公国、ロシア・ツァーリ国)のリヴォニア侵略はモスクワ国家、ポーランド・リトアニア連合スウェーデン王国デンマークの間で20年続いたリヴォニア戦争から始った。 リヴォニアは1621年スウェーデン・ポーランド戦争によって1629年に分割された。北部リヴォニアを征服したスウェーデンは、エストニアと同じくリヴォニアの自治権を維持させている。南部のラトガレはポーランド領リヴォニア(インフランティ公国英語版)とし残留した。北部リヴォニアは1660年スウェーデン領リヴォニア英語版として正式にポーランドから離脱後、すでに北部リヴォニアは1629年から1721年大北方戦争終結による全ロシア領化までスウェーデンの時代に入っていた[3]。また、バルト・ドイツ人の現地支配は、いずれの勢力に属していても維持していたが、ラトガレ地域のみは、ポーランドの直接統治下となり、他のバルト・ドイツ人の居住地域とは異なった道を歩んだ[4]。デンマークは、サーレマー島を獲得し、スウェーデンはエストニアを獲得した。

宗教改革

バルト地方は、宗教改革の間にプロテスタント改宗し、貴族騎士により分割された。 クールラントはドイツ語圏の国とし200年以上存在した、リーフラントは再び分割された。スウェーデン王国はエストニアを1561年から1710年の間、そしてリーフラントを1621年から1710年の間管理した。

その他の地域

タリンリガをはじめとしたスウェーデン王国支配地では、17世紀を通じてスウェーデン絶対主義に支えられ、教育の推進、農民の解放、衰退期のハンザ同盟に替わるバルト海貿易による商業活動によって、バルト地方の繁栄の時代をもたらした。その主役はバルト・ドイツ人であった。特にリガは、スウェーデン第2の都市とまで呼ばれ、その公用語はバルト・ドイツ語であった。この時代は、現地人に「幸福なスウェーデン時代」と呼称され、リガ、タリン、ナルヴァなどの都市が発展して行った[5]18世紀大北方戦争の後にロシア帝国に組み込まれた都市でも、バルト・ドイツ人による自治は保たれた。新たな支配者ロシア帝国もまた、バルト・ドイツ人を重用した[6]。そしてこの時代の啓蒙運動によって、エストニア人ラトヴィア人が民族として自認しはじめた[7]

ロシアの支配 (1710年–1917年)

1710年-1795年の間、ロシアの大北方戦争ポーランド分割の成功により、バルト・ドイツ人の居住地区はロシア帝国バルト行政区域英語版となった。しかし、バルト地域は地元のドイツ語を話す貴族(元騎士の子孫を含む)、そして西のドイツ公国からの近年の移民により自治は支配されているままであった。

1880年代には、ロシア化でドイツ語の施政や教育に代わりロシア語の使用になり、ドイツ人のマイノリティの権利は廃止された。1905年のロシア第一革命により、バルト・ドイツ人の地主への攻撃となり、領地は燃やされ、貴族階級のメンバーへの殺害や拷問、通常地元住民ではなくても外部の革命隊により執行された。ドイツ世襲のため、第一次世界大戦中ロシア人からは敵と見なされ、ロシアに忠誠心があればドイツ帝国により裏切り者とされた。

バルト地域国の独立(1918年–1940年) 

1917年のロシアのブレスト=リトフスク条約放棄後、ドイツ帝国は占拠領地をオーバー・オスト英語版(ドイツ軍東部全軍最高司令官)のもと収めた。1918年、バルト・ドイツ人の多くいるバルト連合公国は成立した。 1917年のロシア革命の結果とロシア内戦により、多くのバルト・ドイツ人はドイツに逃げた。

ドイツ人意識の発生過程と現代

1803年ナポレオン戦争が勃発して、1807年にプロイセン王国の支配は終了し、1814年にプロイセン王国がナポレオンに勝利した。このナポレオン戦争はドイツ人のアイデンティティーを確立することになったとされるようである。戦時中、ドイツ民族意識の高揚とともに「ドイツ語響く所ドイツであれ」と謳われ、後には「ドイツの国歌」の中でメーメル川までドイツと歌われるようになった(ゲルマニズム)。しかしこの時代のバルト・ドイツ人の間ではドイツ民族意識とともに、王侯貴族と中産階級階級対立も同時に存在した。民主化を求めて王侯貴族と対峙した市民は1848年革命を起こし、その結果一定の民主化が行われた。

1871年ドイツ帝国成立においてはバルト海沿岸の「バルト・ドイツ」も帝国領とされた。しかし、第一次世界大戦に敗戦しポーランド第二共和国が独立すると、東プロイセンポーランド回廊によって分断される飛び地となった。1917年ロシア革命によってロシア帝国が崩壊すると、バルト・ドイツ人貴族と亡命ロシア貴族はオーバー・オストドイツ語版(ドイツ軍東部全軍最高司令官)をもとにしたドイツ軍とバルト連合公国(大リヴォニア公国)を構想したが、ドイツ帝国の敗北及びバルト諸国民族自決によるエストニアラトビアの独立により構想は頓挫し、バルト・ドイツ人による中世以来のバルト地域での主導権は喪失することとなった[8]

バルト諸国における文化遺産の破壊(1945–1989)

第二次世界大戦後、ヤルタ会談の取り決めによってケーニヒスベルクはカリーニングラードと改名されてソ連に編入された。ポーランドは国境線を西にずらし、ダンツィヒ(グダニスク)を含むプロイセン地方全域がポーランド領とされ、ドイツ国境はオーデル・ナイセ線へ西方向に後退した。バルト・ドイツ人はオーデル川の西に追放された(ドイツ人追放)。

50年間のバルト諸国占領により、ソ連の占領当局はエストニア・ソビエト社会主義共和国ラトビア・ソビエト社会主義共和国を支配、政治的に第2次大戦の勝利の権限を与え過去数世紀のドイツ民族の形跡を全て消滅させた。数々のドイツ語で書かれた像、記念碑、建物または史跡は破戒されたか変えられた。

エストニア最大のバルト・ドイツ人の墓地、1774年から存在する(Kopli墓地英語版)と(Mõigu墓地英語版)はソ連により全て破戒された。1773年から存在するラトビア最大の(グレート墓地英語版の殆どの墓石もソ連により破壊された。

1989年から現在

1991年に独立したエストニアとラトビアは、歴史上においてバルト・ドイツ人の自国や市の発展への貢献を一般的には肯定的しばし中立的にみている。しかし1918年までバルト地域のほとんどの田舎地帯での地主で、エストニア人やラトビア人を管理した者に対しては批判する事がよくある。

1989年以降、多くのバルト・ドイツ人の高齢者や子孫達は、エストニアやラトビアに旅行などに行き自分達の過去、先祖の家や家族史を捜しに行ったりしている。

主なバルト・ドイツ人

脚注

  1. ^ www.einst.ee/factsheets/factsheets_uus_kuju/baltic_germans.htm
  2. ^ countrystudies.us/latvia/9.htm
  3. ^ 志摩、p68 - p69。
  4. ^ 志摩、p66,p68。
  5. ^ 志摩、p70 - p75。
  6. ^ 志摩、p80 - p84。
  7. ^ 志摩、p115 - p117。
  8. ^ 志摩、p150 - p156。

参考文献

  • 志摩園子『物語 バルト三国の歴史 - エストニア・ラトヴィア・リトアニア』中央公論新社中公新書 1758〉、2004年7月。ISBN 978-4-12-101758-1 

関連項目

外部リンク

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