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*::[[1942年]][[2月]]-[[1947年]] 東京商科大学東亜経済研究所員兼務 |
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*:: [[1955年]] 同大学評議員 |
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*:: [[1957年]][[4月]] 同大学経済学部長 |
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2015年6月15日 (月) 02:22時点における版
板垣 與一(いたがき よいち、1908年10月15日 - 2003年8月28日)は経済学者。専門は、アジア政治経済研究。一橋大学名誉教授。1980年勲二等瑞宝章受章。
人物・研究
富山県射水郡新湊町(現射水市)の漁師の家に生まれる。その後、小樽高等商業学校(後の小樽商科大学)無試験入学等を経て、1932年旧制東京商科大学(一橋大学の前身)を卒業、その後1972年に定年退官するまで、同大学を拠点に研究を行った。
ナショナリズム研究等を行い、自国中心の狭いナショナリズムから脱した「トランス・ナショナリズム」の重要性を主張。実際にインドネシアの独立運動も支援した。
また第二次世界大戦中は、1942年11月南方軍軍政総監部調査部付となり、同年12月赤松要団長らとシンガポールに渡り、1943年山中篤太郎教授とともにジャワ島の農村調査を行う。
その後1944年馬来軍政監部調査部員としてクアラルンプールに渡る。そこでマレー青年連盟党首イブラヒム・ビン・ヤーコブ義勇中佐とともにマラヤ民族独立運動(クリス運動)を推進、軍政部の民族工作に関与し、後の統一マレー国民組織につながるマレー人民族団体の組織化に関わる。
1945年8月イポーにて終戦を迎え、同年9月クアラ・カンサルのサラノースキャンプ入所、マラリア罹患。1946年リバティ船にて帰国。
1957年8月に岸信介総理大臣にアジア研究所の設立を進言し、翌1958年財団法人アジア経済研究所が発足し同研究所調査担当理事に就任した。
1964年十二指腸潰瘍により日本大学医学部附属板橋病院に入院し手術を受ける。
2003年膵癌のため東京都中央区の病院で死去。享年94。晩年は東京都練馬区在住。
学歴
1921年富山県立高岡甲種商業学校(現富山県立高岡商業高等学校)入学、1926年小樽高等商業学校(現小樽商科大学)無試験入学、1932年東京商科大学(現一橋大学)学部卒業(中山伊知郎ゼミナール)、1932年東京商科大学研究科進学、1962年一橋大学経済学博士(「アジアの民主主義と経済発展」)
職歴等
この他小樽商科大学、琉球大学、長崎大学経済学部等でも講師として教鞭をとる。
社会的活動等
- 1951年から教科用図書検定調査審議会調査員
- 1961年日本学術会議経済学研究連絡委員幹事
- 1963年から1967年まで財団法人アジア政経学会代表理事
- 1968年11月日本学術会議第8期会員
- 1969年4月日本経済学会連合理事
- 1969年10月財団法人貿易研修センター客員教授
- 1944年10月財団法人世界経済研究協会常務理事
- 1971年6月日本シオス協会参与
- 1971年8月文部省大学設置審議会専門委員
- 1971年10月日本学術振興会流動研究員等審査会副委員長
- 1971年から1973年まで通商産業省産業構造審議会委員
その他中東調査会理事、AIESEC日本委員会初代常任理事等も務めた。
受賞
1962年『アジアの民族主義と経済発展』で日経・経済図書文化賞。
門下
間苧谷榮(亜細亜大学教授)等。
ゼミ生
鈴木典比古(経営学者、国際教養大学学長、元国際基督教大学学長)、岡本行夫(外交評論家)等。
親族
妻は瓜谷長造(実業家)の長女。妻の妹瓜谷圭子は板垣の紹介で小島清(一橋大学名誉教授)と結婚。
ディーラーの板垣哲史(元シティバンク、エヌ・エイ東京支店ヴァイス・プレジデント)は長男、実業家の菊川曉は孫。