「ある日どこかで」の版間の差分
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2014年5月23日 (金) 05:49時点における版
ある日どこかで | |
---|---|
Somewhere in Time | |
監督 | ヤノット・シュワルツ |
脚本 | リチャード・マシスン |
原作 | リチャード・マシスン |
製作 |
スティーヴン・サイモン レイ・スターク |
出演者 |
クリストファー・リーヴ ジェーン・シーモア |
音楽 | ジョン・バリー |
撮影 | イシドア・マンコフスキー |
編集 | ジェフ・ガーソン |
配給 |
ユニバーサル・ピクチャーズ 日本ヘラルド映画 |
公開 |
1980年10月3日 1981年1月31日[1] |
上映時間 | 103分 |
製作国 | アメリカ合衆国 |
言語 | 英語 |
製作費 | $5,100,000 |
『ある日どこかで』(Somewhere in Time)は、1980年のアメリカ合衆国の映画で、SF・ラヴストーリー。ユニバーサル・ピクチャーズ製作、カラー(モノラル)、約103分。リチャード・マシスンのSF小説の映画化。
「カルト古典」映画としてコアなマニアによって好んで視聴され、2014年現在でも熱烈なファンが多い。[2]
ストーリー
1972年ミルフィールド大学で脚本家志望のリチャード・コリアーの処女作上演後のパーティー会場に、成功を喜ぶ彼を会場の隅から見ている上品な老女がいた。彼女はリチャードに歩み寄り、「(私の所へ)帰ってきて(Come back to me)」と言う不思議な言葉と、1つの懐中時計を手渡し、去っていった。周りの皆は誰一人として彼女が何者なのか知っている者はいなかった。彼女はグランドホテルの自室に戻り、リチャードの書いた脚本を胸に抱いて、思い出の曲を聴きながら、その夜静かに息を引き取った。
8年後の1980年、脚本家となったリチャードのオフィスには、彼の大好きな曲が流れていた。仕事も私生活も行き詰まっていた彼は、原稿を求めに来る編集者から逃げるように、車で旅に出た。そしてドライブの途中で通りかかったグランド・ホテルに、引き寄せられたかのように宿泊した。レストランのオープン前にふと立ち寄ったグランド・ホテル内の歴史資料室で、リチャードは背中に熱い視線を感じた。振り返ってみると、そこには若く美しい女性の写真が掛かっていた。しかし名札ははずされていた。ホテルの老ボーイに尋ねると、彼女はそのホテル内の劇場で公演をした女優であることを知る。しかも1912年のものだという。
そのときからリチャードは彼女のことが頭から離れなくなり夜も寝つけなかった。そして彼女についての調査に没頭し、写真の主は1912年当時、人気のあった女優エリーズ・マッケナであり、1912年以降活動しなくなったことを知る。また1972年の夜に彼女が亡くなったことも知る。彼はさらに調査を進めていくが、彼女の愛読書がリチャードの哲学教師の著書である「時の流れを超えて」であることに驚き、ここで「帰ってきて」の意味を知った。そしてリチャードは「時間」という壁にぶつかってしまった。それからリチャードが取った行動は、運命の人を求めての、信じられない旅立ちだった。
キャスト
役名 | 俳優 | 日本語吹替 |
---|---|---|
リチャード・コリアー(脚本家) | クリストファー・リーヴ | 寺杣昌紀 |
エリーズ・マッケナ(女優) | ジェーン・シーモア | 田中敦子 |
W・F・ロビンソン(エリーズのマネージャー) | クリストファー・プラマー | 有本欽隆 |
ローラ・ロバーツ(エリーズの家政婦) | テレサ・ライト | 鳳芳野 |
晩年のマッケナ | スーザン・フレンチ | |
老アーサー(ホテルのボーイ) | ビル・アーウィン | 松岡文雄 |
スタッフ
- 監督・製作:ヤノット・シュワルツ(日本語版DVDには「ジュノー・シュウォーク」と表示)
- プロデュース:スティーヴン・サイモン(Stephen Simon (元 Stephen Deutsch))
- 原作・脚本:リチャード・マシスン
- 音楽:ジョン・バリー
作品解説
製作過程
原作者のリチャード・マシスンは、バージニア州のある劇場で見かけたポスターに出ていた、20世紀初頭の女優モード・アダムズ(Maude Adams)に感動し、1975年に自分を主人公にしたSF小説『Bid Time Return』(原題)を発表したが余り売れなかった。
プロデューサーのサイモンがこの原作が気に入り、監督のシュワルツに映画化の話を持ちかけた。シュワルツは、悪くはないが古臭い感じがするので、観客が歓迎しそうな『Somewhere in Time』という題名を提案した。上層部は非商業的でヒットしそうにないという見解を出し予算は半減された。しかし「それでも作りたい」という人間が集まり、完成した。
演出
リチャードが振り向いて目にするエリーズの写真は、どこから見ても彼女の視線が自分を見ているように工夫して撮影された。しかも、この写真には幕が掛けられ、リチャード役のクリスも撮影まで隠されていたため、実際の撮影時に振り返ってみた瞬間に本当に初めて見たため情感のこもった演技となった。これは監督が仕組んだ演出だった。
原作者マシスンは、1912年のシーンでホテルの宿泊客役でカメオ出演している。
影響
時間旅行に関する研究者として「フィニー教授」が登場するが、マシスンがSF作家ジャック・フィニイの著書『ふりだしに戻る』(Time and Again 1970年)の影響を受けているためである。エリーズ・マッケナは、20世紀初頭の女優モード・アダムズに由来しており、映画の中でも"モード"と言う女優が登場する。
原作との違い
映画の脚本を書く時にマシスンは若干の修正を加えており、原作とは異なる部分がある。
原作ではサンディエゴの「コロラド・ホテル」だったが、アンテナなどが立っていて近代的過ぎて撮影には向かなかったため、リゾート・アイランドであるミシガン州マキナック島のグランドホテルで行われた。
劇中で使用される楽曲は、原作ではグスタフ・マーラー作曲の「交響曲第9番ニ長調」であったが、シュワルツが小品であるこの映画にマーラーは相応しくないと考え、ジョン・バリーの提案により、セルゲイ・ラフマニノフ作曲の「パガニーニのラプソディー」[3]に変更されたという[4]。
日本版
『ある日どこかで』という邦題に関するデータは不明。また、日本語訳・テロップに関する情報も不明である。
撮影フィルム
映画『ある日どこかで』は、現在の部分をコダック、過去の部分をフジと、フィルムを使い分けて撮影された。これは、フィルムの色彩的質感の違いによる演出効果を意図したものである。当時のフジは淡い色合いであった。[5]
撮影に使用されたフジのフィルムは、「 映画用35mmフジカラーネガティブフィルムA(エース)タイプ8517 」と推測される。[6]
撮影ロケ地
映画『ある日どこかで』の撮影は、1979年5月から8月の間の10週間に行われ、そのほとんどが、アメリカ合衆国ミシガン州、ヒューロン湖のマキナック島(マキノー島)内でのロケである。撮影中のスタッフとキャストは、島内で廃舎となっていた施設に宿泊し、寄宿生活を行った。[5]
映画に登場するグランドホテルは、マキナック島に実在する。グランドホテルは、1887年に開業されたリゾートホテルで、木造の建物である。冬季は、閉鎖される。[7]
島内は、自動車の通行が原則禁止されていて、交通手段は、馬車、あるいは自転車、または徒歩であり、19世紀の雰囲気が残されている。[8]撮影機材の移動には、馬車を使い、スタッフ、キャストは、自転車を利用した。なお、撮影のため、自動車の使用が、一台、許可された。撮影中も、グランドホテルは通常の営業を続け、宿泊客がエキストラとしてロケに協力した。その期間中のホテルの客室稼働率は85~90パーセントであった。[5]
グランドホテルでは、毎年、『ある日どこかで』を記念したイベント、「Somewhere in Time Weekend」を開催している。2014年は10月23日(木)~10月26日(日)が予定されている。[9]
評価・反響
アメリカでの試写段階では好評を得ていたが、実際に封切られると評論家の酷評の影響もあってか興行収入は伸び悩んだ。皮肉にも興行終了後、ケーブルテレビやビデオによって次第に支持を集め、少しずつ誠実に応援するファンが増えた。[10]日本においても同様な状態で一部地域では人気を博したが、全国的なヒット作にはならなかった。
主役「リチャード・コリアー」を演じたクリストファー・リーヴの落馬事故・後遺症での車椅子生活、そして逝去により、彼のファンもこの映画に関心を持ち始めた。
熱烈なファンであったビル・シェパードが呼びかけてINSITE(The International Network of Somewhere In Time Enthusiasts)というファンクラブを設立し、公式ホームページを運用している。そのサイトの中では、SIT(Somewhere in Timeの略)のグッズも販売している。また毎年グランド・ホテルで毎年コンベンションが開催され 上映会を行っている。
日本では、2010年2月6日より開催された「第一回 午前十時の映画祭」(主催:映画演劇文化協会)の上映作品50本の中に、『ある日どこかで』は選ばれている。この50本は、1940年より1994年まで公開された映画の名作である。翌2011年2月5日から開催された「第二回 午前十時の映画祭」でも、「Series1 赤の50本」で、引き続き上映された。
賞歴
- サターン賞衣装デザイン賞、音楽賞、ファンタジー映画賞受賞
- アカデミー衣裳デザイン賞ノミネート(コスチュームデザイナー:JAEN-PIERRE DORLEAC)
トリビア
- リチャードが乗っていた車は、フィアットのオープン2シータ FIAT 124 SPIDER。
- 監督のヤノット・シュワルツが、「クリス」と呼ぶと2人とも返事をするため、クリストファー・プラマーを「プラマー氏(Mr. Plummer)、クリストファー・リーヴを「ビッグフット(Big Foot)」と呼んで区別した。
- 食堂のシーンで、サウンド・オブ・ミュージックそっくりの家族が一瞬映る。これは、クリストファー・プラマーが出演していることにひっかけた遊びである。
- この物語には幾つかの時間的矛盾(タイムパラドックス)が含まれており、特に、物語で重要な「懐中時計」は、どこから出現したのかが不明なタイムループ状態にある。これは理論物理学者セルゲイ・ノヴィコフが仮定した「ジン」(世界線が閉じたループになっている粒子)の典型である[要出典]。
- リチャードが鼻歌でラプソディーを唄うが、ラフマニノフが実際に同曲を発表したのは1934年であり、エリーズは未来に発表される曲を知ったことになる。彼女は後にこの矛盾に気がついた筈であり、これが「エリーズはなぜリチャードが未来から来たことを知りえたか」という謎の答になっている[要出典]。
舞台
宝塚歌劇
日本の宝塚歌劇団が、1995年に舞台化している。バウ・ミュージカル・ファンタジー『ある日どこかで-SOMEWHERE IN TIME-』(2幕)のタイトル、月組で、天海祐希(リチャード)・麻乃佳世(エリーズ)の配役、宝塚バウホール(1995年10月14日-10月29日)、日本青年館大ホール(1995年11月2日-11月9日)、にて公演された。[12]
葵美哉(63期生) 梨花ますみ(67期生) 夏妃真美(70期生) 美原志帆(72期生) 天海祐希(73期生) 卯城薫(73期生) 姿月あさと(73期生) 木南あづさ(73期生) 麻乃佳世(74期生) 山吹紗世(75期生) 逢原せりか(75期生) 水月静(75期生) 名城あおい(76期生) 瑠菜まり(76期生) 鈴奈美央(76期生) 彩輝直(76期生) 奈々まりか(78期生) 大空祐飛(78期生) 苑宮令奈(78期生) 大鷹つばさ(78期生) 檀れい(78期生) 北原里麻(79期生) 水夏希(79期生) 南城ひかり(79期生) 越乃リュウ(79期生) 鳴海じゅん(80期生) 水沢葉月(80期生) 華景みさき(81期生) 大和悠河(81期生) 苑みかげ(81期生) 花瀬みずか(81期生)
ミュージカル
米国、オレゴン州(Oregon)、ポートランド市(Portland)の、ポートランドセンターステージ(Portland Center Stage)[13]にて、『 Somewhere in Time 』の新作ミュージカル[14]が、2013年5月28日より6月30日までの期間、公演された。
脚注
- ^ 朝日新聞1981年(昭和56年)1月30日夕刊(首都圏版12ページ目広告)。
- ^ 午前十時の映画祭の「みんなのこえ 」の投稿数では、第一回、第二回、第三回で、上映された合計100作品中、『ある日どこかで』が最多であり、反響と人気は大きかった。
- ^ 「パガニーニのラプソディー」は、「ラフマニノフのラプソディー」ともいわれ、ラフマニノフ作曲の「ピアノとオーケストラのための《パガニーニの主題による狂詩曲》」の通称で、特に、その第18変奏の部分を指すことが多い。
- ^ 東京創元社刊『ある日どこかで』瀬名秀明による解説より。
- ^ a b c 『ある日どこかで』DVD(特典メニュー)「インタビュー」及び「ジュノー・シュウォーク監督による音声解説」による。
- ^ 1970年代中頃から、実質的輸出が始まったフジの映画用フィルムは、1977年のインスブルック冬季オリンピック記録映画『ホワイトロック』で使用されたことにより、世界的に注目されつつあった。『ある日どこかで』の撮影された1979年当時は、「 映画用35mmフジカラーネガティブフィルムA(エース)タイプ8517 」が、輸出されていた。富士フイルムのあゆみ・1975年~、富士フイルムのあゆみ・映画用カラーネガフィルムの・・・、による。
- ^ グランドホテルのサイトgrandhotel.comによる。
- ^ grandhotel.com/mackinac-island及び、mackinacislandnews.comによる。
- ^ grandhotel.com/specialsによる。
- ^ 香港の映画館「碧麗宮戲院 」(座席数:1058席)では、1981年9月12日から翌年の4月22日まで223日間、公開上映された。なお、『ある日どこかで』の香港でのタイトルは、『時光倒流七十年』である。
- ^ トリビアの出典:『ある日どこかで』DVD版、Szwarc監督による音声解説より。
- ^ 宝塚クリエイティブアーツVHSビデオ"V-952940号 TCAV-10"による。
- ^ 劇場サイトの当該ページ http://www.pcs.org/somewhere/
- ^ 公演団体のサイト http://www.somewhereintimethemusical.com/