「マクシミリアン1世 (神聖ローマ皇帝)」の版間の差分
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2010年7月9日 (金) 02:27時点における版
マクシミリアン1世 Maximilian I | |
---|---|
神聖ローマ皇帝 ブルゴーニュ公、オーストリア大公ほか | |
在位 |
1477年 - 1482年(ブルゴーニュ公) 1493年 - 1519年(神聖ローマ皇帝) |
出生 |
1459年3月22日 ウィーナー・ノイシュタット |
死去 |
1519年1月12日 ヴェルス |
配偶者 | マリー・ド・ブルゴーニュ |
ビアンカ・マリア・スフォルツァ | |
父親 | フリードリヒ3世 |
母親 | エレオノーレ |
マクシミリアン1世(Maximilian I, 1459年3月22日 - 1519年1月12日)は、ハプスブルク家出身のオーストリア大公、神聖ローマ皇帝(在位:1493年 - 1519年)。武勇に秀で立派な体躯に恵まれ、また芸術の保護者であったことから、中世最後の騎士と謳われる。ハプスブルク家ならではの多民族国家の姿が、マクシミリアン1世の時代に生み出されていった。
皇帝フリードリヒ3世と皇后エレオノーレの長男で、その名はポエニ戦争で活躍した2人のローマ人、ファビウス・マクシムス(Fabius Maximus)とスキピオ・アエミリアヌス(Scipio Aemilianus, 小スキピオ)にちなむ。
生涯
少年時代
交易で栄えていたポルトガル王家出身(ドゥアルテ1世の娘)の母エレオノーレの影響が大きく、陰気な父(フリードリヒ3世)にはあまり似ず、明るく伸びやかな人間に育つ。言語の発達が遅かった(5歳まで言葉を喋れなかったという)。母の期待を一身に背負い成長するが、8歳のときに死別。また結婚直前まで妹クニグンデの侍女であるロジーナ・クライクに思いを寄せていたとされる。
ブルゴーニュ公
やがて、経済的な豊かさを手に入れたいハプスブルク家と、シャルル突進公の「いつか自身が皇帝に」という野望と、両者の利害が一致して、マクシミリアンとシャルル突進公の娘でブルゴーニュ公国唯一の後継者マリーは婚約したが、双方の政治的思惑もあり、なかなか結婚に至らなかった。
1477年、シャルル突進公はロレーヌ公ルネ2世との戦争中にナンシーの戦いで戦死し、ブルゴーニュ国内は大混乱に陥った。国内では貴族が権利の拡大を画策し始め、さらにフランスもブルゴーニュに侵攻した。孤立無援のマリーは婚約者マクシミリアンに結婚(=救援)を要請し、1477年8月19日、ガンの聖バボ教会で挙式した。
マクシミリアンはフランドル及びブラバントから兵を召集したが[1]、軍事展開上必要なスイス傭兵を十分確保出来なかったため、南ドイツからも傭兵を募った[2]。彼は部隊にスイス式の武装と戦陣の展開の訓練を施した。1479年8月、ギネガテの戦いで歩兵の密集方陣を採り[3]、ルイ11世のフランス騎士団を撃破してフランドルの領土を確保したが、これがハプスブルク家とフランス王家の確執の始まりとなった。
マリーと共に公国内の各地を歴訪したマクシミリアンは、当時辺境の地であったウィーンと比較し、フランドルの繁栄に驚かされ、文化や制度に影響を受け、懸命に学んだという。当初、マリーとは上流階級の教養語であったラテン語でコミュニケーションを取っていたが、安定な統治のために間もなくフランス語をマリーから教わり、現地語のフラマン語を宮廷付きの婦人から学び、それぞれの言語を母国語であったのように理解し、書くことができるようになるほど習得した。マクシミリアンは後に反乱にも遭ったものの、おおむね好意的に受け入れられ、統治にも卓越した能力を示した。
政略結婚ではあったものの、マリーとは共に狩りに出かけたり、互いの言語を教え合ったりと非常に仲むつまじい夫婦であったといわれており、フィリップとマルグリット(マルガレーテ)の2子(次男フランソワは夭折)に恵まれた。しかし1482年3月、マリーは落馬事故により死亡した。彼女は「フィリップとマルグリット2人を公国の相続人に指定し、嫡男フィリップが15歳に達するまでは夫マクシミリアンをその後見人とするものである」という遺言状に記し、家臣には夫マクシミリアンに仕えるよう言い残した。
しかしマリーの死後、フィリップが公位を継承してマクシミリアンが摂政になると、公国内の各地で反乱が起こった。以後マクシミリアンはガンをはじめとするブルゴーニュ内の反ハプスブルク派の都市や諸侯、フランス王(ルイ11世と次代のシャルル8世)との間で旧ブルゴーニュ所領を巡る戦争を続けることになった(これは1493年5月に締結されるサンリス協定まで続いた)[4]。また1482年12月に締結されたアラスの和議により2歳の娘マルグリットはフランス王太子シャルル(後のシャルル8世)と婚約させられ、フランスで養育されることとなった。
フランドル兵を失ったマクシミリアンは本格的にランツクネヒトの徴募と育成を行なうことになったが、スイス式の密集方陣を展開する戦法は従来の騎士による布陣や軍事展開に対して有利であった為、諸国のスイス人傭兵やランツクネヒトへの需要が高まり、騎士の時代は終焉を遂げることになった。
ローマ王・神聖ローマ皇帝
1486年、神聖ローマ帝国の後継者ローマ王に選出された。ただし、ここでの「神聖ローマ帝国」とは、父フリードリヒ3世が中央集権化をドイツ語民族総体レベルで推進する意図をもって「ドイツ国民の」と形容しており、すでに世界帝国的な意味は持たなくなっていた。
この頃、戦争も継続中であったことから、マクシミリアンは市民からビール税など新しい税金を取り立てる。しかし、そうした一方的な増税は、多額の税金を宮廷に納める代わりに自由市民として法律に守られ、都市の行政にも参加していたフランドルの商人や職人は受け入れがたいものであった。増税などに不満を抱いた市民たちに、隣国フランスが密かに接近して反旗を唆したことで1488年2月、ガン、ブリュージュ、イープルを首班とする親仏派のネーデルラント諸都市がマクシミリアンをフランスへ引き渡そうとした策略により、彼はブリュージュの胡椒を売買する商人のクラーネンブルク屋敷に幽閉された。
マクシミリアンは父である皇帝フリードリヒ3世に助けを求め、同年5月にローマ王救出のための帝国軍の派兵により自由の身となり、ネーデルラントを後にした。帝国軍は諸都市への攻囲を行ったが、マクシミリアンの信任を得ていたフィリップ・フォン・クレーフェが諸都市側に寝返って善戦したため、諸都市を陥落させるには至らなかった。「ローマ王救出」という当初の目的を失っていたこともあり、同年8月頃から撤収が開始され、10月にフリードリヒ自身もネーデルラントを立ち去った。市民や商人が最も手ごわい相手となり、対立して窮地に追い込まれ、異なる文化の統治の難しさを経験したマクシミリアンはこれ以降、他の各地で商人たちを積極的に味方につける施政を行っていく。
オーストリアに帰国した後、1489年に一族のチロル領主ジークムント大公と妹クニグンデの婿であるバイエルン公アルブレヒト4世との間に紛争が持ち上がった。マクシミリアンは血縁でもある両者の仲介を行った。紛争の原因は、ジークムント大公が領地を抵当にバイエルン公から莫大な借金をしながら返済しないことであった。1490年3月にマクシミリアンが借金ごとチロルを継承したことで、紛争は和解した。マクシミリアンはアルプスに囲まれた街インスブルックに都を置き、借金を返済するための経済改革に着手した。当時のチロルは法律も整備されず、貴族が勝手に税金を取るなど、宮廷内部の汚職や腐敗が蔓延し、ジークムント自身も放蕩の限りを尽くしていた。マクシミリアンは6年間でチロルの腐敗を一掃し、借金の返済も終えた。その手助けをしたのが商人たちで、中でもフッガー家のヤーコブ・フッガーには銀の採掘権を与え、引き換えに莫大な収益を上げ、そこから惜しみなく芸術へつぎ込まれた。また、チロルの鉱山から産出される豊かな資源を利用して、インスブルックに武器工場を建てた。
また、フランスを挟撃するためブルターニュ公国の継承権を持つアンヌ公女と婚約し、代理人結婚を行った。更にハンガリーに制圧されていたオーストリア諸都市の奪回を進め、同年8月ハンガリー軍からウィーンを解放した。それ以降、父帝の命により対ハンガリー施策に専念せざるを得なくなり、アンヌとの正式な結婚は先送りにされた。
1491年、フランス王シャルル8世がブルターニュへ侵攻、首都レンヌを包囲し、孤立したアンヌに結婚を迫った。同年12月6日アンヌはシャルル8世と結婚し、1492年2月15日ローマ教皇インノケンティウス8世がシャルルとアンヌの結婚の追認とシャルルとマクシミリアンの娘マルグリットとの離婚を特赦したため、マクシミリアンはアンヌとの婚姻によるブルターニュとの同盟を断念した。マクシミリアンは娘の帰国を要求し、何ヶ月間もフランス宮廷と交渉を続けたが、対話は平行線をたどった。フランス側はあわよくばマルグリットをフランスの侯爵と縁付かせ、彼女の婚資をフランスへ併合しようと企んでいたためである。マクシミリアンは自分と娘が世に笑い者にされた屈辱とフランスのあざとさに激怒した。
1492年10月、ネーデルラント叛乱軍の首魁フィリップ・フォン・クレーフェが帝国軍の将軍アルブレヒト・フォン・ザクセンに降伏し、ネーデルラント諸都市に対するハプスブルク家の統治が確立した。同年12月、マクシミリアンはマルグリットの婚資としてフランスに併合されていたブルゴーニュ自由伯領(フランシュ=コンテ)に侵攻、翌1493年3月にはブルゴーニュ自由伯領のほぼ全域を回復し、フランス側の譲歩を引き出すことに成功した。
1493年5月23日、サンリスの和約を締結、マルグリットのフランスからネーデルラントへの帰国とブルゴーニュ公の遺領分割が決定された。この時から、ハプスブルク家とフランス王家の長きにわたる対立が決定的になった。
1493年8月、父の死に伴い神聖ローマ皇帝に選出された。大空位時代以後、皇帝位は諸家の間を変遷していたが、以後はハプスブルク家による世襲が確定していく、しかし、ローマ訪問をヴェネツィアの反対により阻止されたためトリエントで帝位についた。これを機にカトリックを後ろ盾とする皇帝の権威はローマと教皇から離脱し、マクシミリアンはローマでの教皇による戴冠を経ずに帝位についた最初の皇帝となった[5][6]。各地を領有するマクシミリアンには、領地の歴訪や旅の頻度が増加していった。またミラノ公国のスフォルツァ家の公女ビアンカと再婚し、ミラノを事実上の支配下に置き、イタリア進出を図ったが、そのためにフランス王シャルル8世の野心が引き起こしたイタリア戦争に巻き込まれることとなった。
1495年、ヴォルムスにて帝国議会を召集、イタリア戦争の戦争資金が不足していたため諸侯に援助を要請した。皇帝の窮状を見たマインツ大司教(選帝侯)ベルトルト・フォン・ヘネベルクをはじめとする聖俗の諸侯は、帝国と皇帝権力の分離を要求した。マクシミリアン1世はこれに抵抗するも妥協を余儀なくされ、永久ラント平和令発布、帝国最高法院、帝国統治院の設置、帝国議会の整備などの内政改革が行われた。以後、神聖ローマ帝国は中央集権的ではなく領邦国家の連合としての道を歩むことになる。
1496年、フランス国王シャルル8世の動きを封じるため、2人の子フィリップ美公とマルグリットをカトリック両王の子女と結婚させた(後述)。
1508年、ローマでの戴冠を妨害したヴェネツィア共和国に対し攻撃を開始する(フリウリ戦争)。戦争は膠着したが、マルグリットによりフランス、教皇、スペインによるカンブレー同盟(対ヴェネツィア同盟)が成立。しかしフランスがヴェネツィアとの戦いに勝利し、同盟内で突出し始めると、教皇をはじめ他の同盟国イングランドやスイスが反発し、これに対抗する動きが出た[5]。
1511年、教皇主導の対仏同盟、神聖同盟を結成する。しかし翌年ヴェネツィアは同盟を脱退し、フランスと同盟を結ぶ。
1512年、「ドイツ国民の神聖ローマ帝国」という言葉を使用し、神聖ローマ帝国の版図がもはやドイツ語圏及びその周辺に限られること、世界帝国の建設という目的の放棄を明確にした。
1513年、イングランド王ヘンリー8世と連合し、ギネガテの戦いでフランスを撃破する。しかし戦況は国によって勝敗が錯綜し、同盟は最終的に瓦解した(1516年にブリュッセルで和議を締結、さらにその2年後にヴェネツィアとも和睦が成立した)[5]。
1515年、ウィーン会議でハンガリー王国を治めるヤギェウォ家との二重婚姻を決定し、孫フェルディナント1世に始まるハプスブルク君主国の成立を方向づけた。こうして神聖ローマ帝国が弱体化する一方、ハプスブルク家は隆盛を極めることになった。
1519年、ヴェルスで病没した。インスブルックの宮廷教会内に霊廟を準備していたが、24,000グルデンの借金を理由に滞在を拒否されており、遺言により遺体は母エレオノーレが眠るヴィーナーノイシュタットの聖ゲオルク教会に埋葬された。しかし心臓だけはブリュージュ(ブルッヘ)の聖母教会にある最愛の妻マリーの墓に共に埋葬された。
結婚政策
「戦争は他家に任せておけ。幸いなオーストリアよ、汝は結婚せよ」の言葉が示すとおり、ハプスブルク家は婚姻により領土を拡大してきた。その最も成功した例はマクシミリアンの時代であった。
- 自身の結婚によりブルゴーニュ自由伯領、ネーデルラントを獲得した。
- 子フィリップとマルグリットをそれぞれカスティーリャ=アラゴン王家の王女フアナとアストゥリアス公(王太子)フアンと結婚させた。マルグリットの夫フアンらの早世により、イベリア半島の大部分と、ナポリ、シチリアを獲得した。フィリップは早世するが、その子カールはのちにスペイン王(カルロス1世)と神聖ローマ皇帝(カール5世)を兼ね、ハプスブルク家隆盛の基礎を築いた。スペインはアメリカ大陸を征服し、日の沈まない帝国を築いた。
- 孫フェルディナント(後の皇帝フェルディナント1世)とマリアをハンガリーのヤギェウォ家の子女と結婚させた。マリアの夫ラヨシュ2世は1526年にモハッチの戦いで戦死し、この結婚を取り決めたウィーン会議(1515年)の決議に従い、ラヨシュの姉アンナの夫であるフェルディナントがハンガリーとボヘミアの王位を継承した。
文化的功績
- 1498年、旅から旅への日々を過ごしていたマクシミリアンは、やがて楽団を同行させるようになり、旅先での儀式はもちろん、旅の途中でも演奏をさせた。旅の楽団のメンバーは、後に作られたウィーンの王宮礼拝堂の聖歌隊に参加させ、宮廷礼拝堂少年聖歌隊と創設した(ウィーン少年合唱団の前身)。
- アルブレヒト・デューラーを庇護。
- 神聖ローマ帝国領土内に郵便制度を導入した。
人物
- 武勇に秀で、ギネガテの戦いでは自らも下馬して勇戦し、大砲を撃つのが好きだった。
- 文化や技術の面でもマクシミリアンは様々な民族から優れたものを取り込み、帝国全体に拡げていった。しかし、各民族の文化を尊重し、言語を統一したりしなかった。
- ラテン語、ドイツ語、フランス語、フラマン語、スペイン語、イタリア語、英語、チェコ語、ハンガリー語、スロベニア語と、マクシミリアンは領土内の様々な言語を学び、語学力に長けていた。いくつもの言葉で書かれたマクシミリアンのサイン入りの文書が現存しており、白王伝には「王が民衆と同じ言葉で語ると、民衆はとても満足し、王に特別な愛情を抱いた」と述べている。
系譜
マクシミリアン1世 | 父: フリードリヒ3世 |
祖父: エルンスト (オーストリア公)
|
曾祖父: レオポルト3世 (オーストリア公)
|
曾祖母: ヴィリディス | |||
祖母: ツィンブルギス |
曾祖父: シェモヴィト4世 (マソフシェ公)
| ||
曾祖母: アレクサンドラ | |||
母: エレオノーレ |
祖父: ドゥアルテ1世 (ポルトガル王)
|
曾祖父: ジョアン1世 (ポルトガル王)
| |
曾祖母: フィリパ | |||
祖母: レオノール |
曾祖父: フェルナンド1世 (アラゴン王)
| ||
曾祖母: レオノール |
マクシミリアン1世の母方の祖父はポルトガル王ドゥアルテ1世である。他方、マリーの父方の祖母イザベルはドゥアルテ1世の妹であった。従って、マクシミリアン1世とマリーは又従兄妹の関係である。
関連資料
- 「白王伝」(Der Weisskunig) - マクシミリアン1世の生涯を表した木版挿絵入り書籍。1775年刊行。ウィーン美術史美術館所蔵
- 「マクシミリアン1世の凱旋」- 偉大さを誇示するために架空の行進を描いた、ハンス・ブルクマイアー作の連作版画。1526年発表。サンフランシスコ美術館所蔵
- 「中世最後の騎士―皇帝マクシミリアン1世伝」江村洋 (中央公論社:1987年) - 国内で出版されている唯一の伝記。
参考文献・脚注
- 『ドイツ傭兵の文化史』R・バウマン著、菊池良生訳(新評論、2002年)
- ^ これらの部隊は条件付きでしか召集出来ず、戦争が終結した後には召集を解除しなければならなかった(R.バウマン、p.49-50)
- ^ ランツクネヒトの始まり。但し、この名称が用語として定着するのは1480年代半ばである(R.バウマン、p.50)
- ^ マクシミリアンや幾人かのフランドル諸侯は、この戦いで一時的にではあるが戦列に加わって歩兵を鼓舞した。その後の戦争でもしばしば彼らは自ら隊列に加わったが、当時の貴族騎士と歩兵の社会的な隔たりの大きさからすれば革新的なことだった(R.バウマン、p.51-52)
- ^ 『スイス・ベネルクス史』(山川出版社、1998年)p.226
- ^ a b c 『オースリア史』E・ツェルナー著、リンツビヒラ裕美訳(彩流社、2000年)p.206-207
- ^ それまで神聖ローマ皇帝はローマで教皇により戴冠される習わしであった。
関連項目
外部リンク
- サンフランシスコ美術館「マクシミリアン1世の凱旋」がサイト上で閲覧可能。
- ウィーン美術史美術館「白王伝」の一部がサイト上で閲覧可能。
- 東京藝術大学コレクション展「ドイツ・ネーデルラントの近世版画―マクシミリアン1世の時代を中心に―」
- インスブルックの霊廟(英語)
先代 フリードリヒ3世 |
神聖ローマ皇帝 1493年 - 1519年 |
次代 カール5世 |
先代 フリードリヒ3世 |
ドイツ王(ローマ王) 1486年 - 1519年 |
次代 カール5世 |
先代 フリードリヒ3世 |
上オーストリア大公 チロル伯 1490年 - 1519年 |
次代 カール5世 |
先代 ジークムント |
内オーストリア大公 シュタイアーマルク公 ケルンテン公 1490年 - 1519年 |
次代 カール5世 |
先代 マリー女公 |
ブルゴーニュ公(名目上) ブルゴーニュ伯 ブラバント公 リンブルク公 ルクセンブルク公 フランドル伯 エノー伯 ホラント伯 1477年 - 1482年 マリーと共同統治 |
次代 フィリップ美公 |