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現代の歴史家でも信長による古代的権威の克服・宗教的束縛からの解放を目的とした合理的な行動として肯定的に評価する説もあるが<ref>「現代の歴史家もまた、古代的権威の克服、宗教的束縛からの解放としてこの行為を高く評価するのに至ったのである」[[林屋辰三郎]] 『天下一統』</ref>、[[林屋辰三郎]]のように[[武田信玄]]が比叡山復興を旗印にしたことによる不利と、比叡山勢力を[[石山本願寺]]対策に利用することもできたという指摘をし、戦略的に満点とはいえないとする論者<ref name="hayashiya"/>もいる。
現代の歴史家でも信長による古代的権威の克服・宗教的束縛からの解放を目的とした合理的な行動として肯定的に評価する説もあるが<ref>「現代の歴史家もまた、古代的権威の克服、宗教的束縛からの解放としてこの行為を高く評価するのに至ったのである」[[林屋辰三郎]] 『天下一統』</ref>、[[林屋辰三郎]]のように[[武田信玄]]が比叡山復興を旗印にしたことによる不利と、比叡山勢力を[[石山本願寺]]対策に利用することもできたという指摘をし、戦略的に満点とはいえないとする論者<ref name="hayashiya"/>もいる。


以上ように肯定的な評価をする一方で、院日記の著者が属している興福寺歴史的に比叡山とは長い対立関係にあったこと、信長公記や甫庵太閤記の元となる多くの資料の著者である太田牛一が信長の家臣であったことにも留意すべきであろう。また、後世の肯定的評価をする歴史家も現代の政教分離思想や、自身の政治的立場という要素が多分に含まれていることにも注意が必要である。



同時代の人間として、山科言継は『言継卿日記』において「仏法破滅」「王法いかがあるべきことか」と不安と動揺を吐露し、天皇家でも『御湯殿上日記』において
以上のように後世に肯定的な評価をする者がいる一方で、同時代の人間、山科言継は『言継卿日記』において「仏法破滅」「王法いかがあるべきことか」と不安と動揺を吐露し、天皇家でも『御湯殿上日記』において
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ちか比(ごろ)ことのはもなき事にて、天下のため笑止なること、筆にもつくしかたき事なり|
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と批判的に評している。先述のように武田信玄が焼討ちを非難して比叡山復興の旗印にするといったことからも、同時代の多くの人間から批判された。
と批判的に評している。先述のように武田信玄が焼討ちを非難して比叡山復興の旗印にするといったことからも、同時代の多くの人間から批判された。
また、先述の肯定的な評価をした院日記の著者が属している所属する多聞院は興福寺の[[塔頭]]であり、歴史的に比叡山とは長い対立関係にあったこと、信長公記や甫庵太閤記の元となる多くの資料の著者である太田牛一が信長の家臣であったことにも留意すべきであろう。また、後世の肯定的評価をする歴史家も現代の政教分離思想や、自身の政治的立場という要素が多分に含まれていることにも注意が必要である。
また、『信長公記』でも焼討ちの理由は比叡山が浅井、朝倉方についたのでその憤りを散ぜんがためと記しており、「年来の御胸朦(わだかまり)を散ぜられおわんぬ」としている。すなわち焼討ちは敵対したものに対する攻撃であったというのが本質である<ref>池上裕子『日本の歴史15-織豊政権と江戸幕府』講談社2002年、41頁</ref>。信長公記の記す「天道のおそれをも顧みず、淫乱、魚鳥を食し」云々の下りは大義名分であり、討伐するための論理である<ref>神田千里『一向一揆と石山合戦』吉川弘文館2007年</ref>。

加えて『信長公記』でも焼討ちの理由は比叡山が浅井、朝倉方についたのでその憤りを散ぜんがためと記しており、「年来の御胸朦(わだかまり)を散ぜられおわんぬ」としている。すなわち焼討ちは敵対したものに対する攻撃であったというのが本質である<ref>池上裕子『日本の歴史15-織豊政権と江戸幕府』講談社2002年、41頁</ref>。信長公記の記す「天道のおそれをも顧みず、淫乱、魚鳥を食し」云々の下りは大義名分であり、討伐するための論理である<ref>神田千里『一向一揆と石山合戦』吉川弘文館2007年</ref>。



2010年3月9日 (火) 06:46時点における版

比叡山焼き討ち

延暦寺の根本中堂
戦争山岳戦
年月日元亀2年9月12日(1571年9月30日
場所比叡山周辺
結果織田信長の勝利
交戦勢力
織田信長軍 延暦寺山門衆
指導者・指揮官
織田信長
明智光秀
池田恒興
柴田勝家
佐久間信盛
木下秀吉
武井夕庵
中川清秀
丹羽長秀
不明
戦力
約30,000兵 約4,000(内僧兵は300兵程度)
損害
不明 約3,000-4,000名(非戦闘員も含む)

比叡山焼き討ち(ひえいざんやきうち)は元亀2年9月12日(1571年9月30日)に行われた戦い。この戦いで、織田信長僧侶、学僧、上人児童をことごとく刎ねたと言われている。またこの戦いはルイス・フロイス書簡[1]にも記載されている。一方近年の発掘調査から全山にわたる掃討戦ではなく、場所も限定的で短期間に終了した可能性も指摘されている。

開戦までの経緯

比叡山と信長が対立したきっかけとして、信長が比叡山領を横領した事実が指摘されている。永禄十二年に天台座主應胤法親王が朝廷に働きかけた結果、朝廷は寺領回復を求める綸旨を下しているが、信長はこれに従わなかった。これにより、比叡山は困窮したと言われている。 元亀元年6月28日(1570年7月30日)の姉川の戦いで勝利した織田信長であったが、同年8月26日野田城・福島城の戦いでは逆に浅井長政朝倉義景連合軍に背後を突かれ、浅井長政、朝倉義景連合軍は比叡山に立てこもり比叡山の攻防戦(志賀の陣)となったが、正親町天皇の調停により和睦した。

しかし、浅井長政、朝倉義景連合軍の軍事力は強大で、しかも近江南部・甲賀には六角義賢が抑えており、また野田城・福島城の戦いで勝利した三好三人衆摂津国河内国を抑えて再び京奪還を狙っていた。更に石山本願寺を率いる顕如は、摂津国、河内国、近江国、伊勢国、そして織田信長のお膝元でもある尾張国の門徒衆にも号令を発し、各地で反乱が広がる様子を見せていた。

細川幽斎像

この時期、織田信長は岐阜と京都に拠点があったが、両拠点を結ぶ近江の街道にはそれぞれ有力な軍事力に包囲されつつあり、是が非でもこの包囲網を打破する必要があった。そこで織田信長は、まずは岐阜と京都の中間地点でもある近江国南部から平定する必要がありと考えたらしく、翌元亀2年(1571年)の正月の賀礼に、岐阜城へ訪れた細川藤孝らに向かって「今年こそ山門(比叡山)を滅ぼすべし」と決意を述べたと伝わっている。

手始めに同年1月2日、横山城城主であった木下秀吉に命じて大坂から越前国に通じる海路、陸路を封鎖させた。石山本願寺と浅井長政・朝倉義景連合軍、六角義賢との連絡を遮断するのが目的であった。織田信長から木下秀吉への命令書が、

北国より大坂への通路の緒商人、その外往還の者の事、姉川より朝妻のでの間、海陸共に堅く以って相留めるべき候。若し下々用捨て候者これ有るは、聞き立て成敗すべきの状、件の如し。

—尋憲記

とあり、尋問して不審な者は殺害せよ、と厳しく命じている。この時の通行封鎖はかなり厳重だったらしく、『尋憲記』によると奈良の尋憲の使者も止められたので引き返したと記されている。

次いで同年2月磯野員昌が守っていた佐和山城を降伏させ丹羽長秀を城主に据え、岐阜城から湖岸平野への通路を確保した。しかし同年6月長島一向一揆では、織田信長軍の有力武将であった氏家卜全が戦死、柴田勝家も負傷する大敗を喫した。更に江北では、一向一揆勢と浅井長政軍が連合軍となって、再び姉川に出軍し堀秀村を攻め立てたが、こちらは木下秀吉軍が堀を援けて奮戦し、一向一揆勢、浅井長政連合軍は敗退した。

このような状況の中、とうとう織田信長自身が出軍することになった。同年8月18日浅井長政の居城となっていた小谷城を攻め、同年9月1日柴田勝家、佐久間信盛に命じ、浅井長政と同盟関係にあった、六角義賢と近江国の一向一揆衆の拠点となっていた志村城小川城を攻城した。志村城は670もの首級があがり、ほぼ全滅に近かったと思われている。それを見て小川城の城兵は投降してきた。また金ヶ森城も攻城したがこちらも大きな戦闘も無く落城した。

同年9月11日には織田信長軍は坂本三井寺周辺に進軍させた。ここに比叡山攻略が整った。信長の本陣は三井寺山内の山岡景猶の屋敷に置かれた。

戦いの状況

池田恒興画像
日吉大社の本殿

当時の比叡山の主は正親町天皇の皇弟である覚恕法親王であった。比叡山は京都を狙う者にとって、北陸路と東国路の交差点になっており、山上には数多い坊舎があって、数万の兵を擁することが可能な戦略的に重要な拠点となっていた。

先の比叡山の攻防戦では、織田信長が横領した寺領の返還を約束する講和も拒絶し、浅井長政、朝倉義景連合軍を援けたりもしたので、『戦国合戦大辞典』によると「軍事的拠点を、完全に破却したようと考えた」としている。第一次信長包囲網で各勢力から包囲される中、近江国の平定と比叡山の無能力化が、戦線打破の重要課題と考えられていた。比叡山の無能力化とは、比叡山が織田信長方に属さない以上、軍事的役割の抹殺つまり比叡山の徹底的破壊を意味している。

しかし織田信長軍の武将の中に、この考え方に賛同しない者もいた。『甫庵信長記』によると佐久間信盛と武井夕庵らが、

この山と申す事は、人王五十代桓武天皇、延暦年中に伝教大師と御心を合せ、御建立ありしよう以来、王城の鎮守として既に八百年に及ぶまで、遂に山門の嗷訴をだに不用と云う事なし、然るに今の世澆季とは申しながら、斯る不思議を承り候事、前代未聞の戦にて御座候

—甫庵信長記

と「前代未聞の戦」という言葉を使い強く諌めたが、織田信長はこれに激しく反論し全山焼き討ちが決定されたと思われている。ただこのくだりは『織田信長総合辞典』によると「『信長公記』にも見えないから事実か否か明らかではない」と解説している。

この時池田恒興が進言し、夜になってしまえば逃散する者も出るであろうから、早朝を待って取り巻いて攻めれば一人も討ち洩らすことなく討ち取る事が出来る、とした。織田信長はこの言を聞き入れ、同年9月11日夜中より比叡山の東麓を3万兵が隙間なく取り巻いて、早朝の合図を待った。

この動きを察知した延暦寺は、黄金の判金三百を、また堅田からは二百を贈って攻撃中止を嘆願したが、織田信長はこれを受け入れず追い返した。ここに至り戦闘止む無しとしたのか、坂本周辺に住んでいた僧侶僧兵達を山頂にある根本中堂に集合させ、また坂本の住民やその妻子も山の方に逃げ延びた。

翌12日午前六時前後小雨が降る中、織田信長は全軍に総攻撃を命じた。まず織田信長軍は坂本、堅田周辺を放火し、それを合図に各所で法螺貝と鬨の声があがり、攻め上がっていた。『信長公記』にこの時の惨状を、

九月十二日、叡山を取詰め、根本中堂、山王二十一社を初め奉り、零仏、零社、僧坊、経巻一字も残さず、一時に雲霞のごとく焼き払い、灰燼の地と為社哀れなれ、山下の男女老若、右往、左往に廃忘を致し、取物も取敢へず、悉くかちはだしにして八王子山に逃上り、社内ほ逃籠、諸卒四方より鬨声を上げて攻め上る、僧俗、児童、智者、上人一々に首をきり、信長公の御目に懸け、是は山頭において其隠れなき高僧、貴僧、有智の僧と申し、其他美女、小童其員を知れず召捕り — 信長公記

信長比叡山を焼く/絵本太閤記 二編巻六

と記載されている。これによると延暦寺の僧兵達も必死で防戦したが四方から焼き攻め立てられ、日吉大社の奥宮の八王子山も立て篭もった者もいたようだがここも攻め崩された。日吉大社には山下より多くの避難民も逃げ込んでいたが、ことごとく殺戮されたことが公記の記述にある。織田信長軍は日吉大社以外の場所でも徹底して、逃げどまう僧侶、学僧、上人、児童は見つけ次第捕えられ、首をことごとく刎ね、目も当てられぬ惨状であったと思われている。この戦いで『信長公記』には数千の死者、ルイス・フロイス書簡には約千五百名の死者と記載されている。また『言継卿記』によると非戦闘員の男女、子供を含めて3,000-4,000名が殺されていたとしている。死者には周辺に住む比叡山領に住む多くの避難民が含まれている。一方木下秀吉隊の半分は湖上を固め、小舟で逃れる者たちをからめ捕えた。しかし『比叡山』によると、陸路の香芳谷を守る木下秀吉隊は寛大だったようで、ここから宝物を抱えて山門衆が脱出に成功し、後の国宝に指定される「二十五菩薩来迎図」や「慈恵大師画像」が兵火から逃れられたと伝わっている。

戦後の状況

山門再興判物/比叡寺蔵

戦後処理は明智光秀に任せ、織田信長は翌13日午前九時頃に、精鋭の馬廻り衆を従えて比叡山を出立、上洛していった。その後三宅・金森の戦いでは近江国の寺院を放火していく。延暦寺や日吉神社は一旦消滅し、寺領、社領はことごとく没収され明智光秀、佐久間信盛、中川重政、柴田勝家、丹羽長秀に配分した。この5人の武将達は自らの領土を持ちながら、各与力らがこの地域に派遣し治める事になる。特に明智光秀と佐久間信盛はこの地域を中心に支配することになり、明智光秀は坂本城を築城することになる。

一方延暦寺の方は、正覚院豪盛らがなんとか逃げ切ることが出来、甲斐国武田信玄に庇護を求めた。武田信玄は彼らを保護し、延暦寺を復興しようと企てたが、実現をみるに至らなかった。その後本能寺の変で織田信長は倒れ、明智光秀も山崎の戦いで敗れると、生き残った僧侶達は続々と帰山し始めた。その後羽柴秀吉に山門の復興を願い出たが、織田信長の恨みの深さゆえ、簡単には許されなかった。山門復興こそ簡単には許さなかったが、詮舜とその兄賢珍の二人の僧侶を意気に感じ、それより陣営の出入りを許され、軍政や政務について相談し徐々に羽柴秀吉の心をつかんでいったと思われている。

そして小牧・長久手の戦いで出軍している羽柴秀吉に犬山城で、後重になる要請により天正12年(1584年)5月1日に、正覚院豪盛と徳雲軒全宗に山門再興判物を発し、造営費用として青銅一万を寄進した。

比叡山焼き討ちの約13年後のことであった。

延暦寺の発掘調査

織田信長画像/浄厳院蔵

昭和後期に大講堂の建替え工事や奥比叡ドライブウェイの工事に伴う発掘調査が断続的に行われ、比叡山焼き討ちに関する考古学的再検討が行われた。

考古学者である兼康保明の「織田信長比叡山焼打ちの考古学的再検討」(『滋賀考古学論叢』第1集)によると、明確に織田信長の比叡山焼打ちで焼失が指摘できる建物は、根本中堂と大講堂のみで、他の場所でも焼土層が確認できるのが、この比叡山焼打ち以前に廃絶していたものが大半であったと指摘している。また遺物に関しても平安時代の遺物が顕著であるとしている。発掘調査地点は、比叡山の全山にわたって調査されたわけではなく東塔西塔横川と限定されているが、比叡山焼打ち時には、比叡山に所在していた堂舎の数は限定的で、坂本城の遺物に比較して16世紀の遺物は少ないことから、『多聞院日記』に記載されているように、僧侶の多くは坂本周辺に下っていた。従って『言継卿記』や『御湯殿の上の日記』に記載されている、寺社堂塔五百余棟が一宇も残らず灰になり、僧侶男女三千人がひとりひとり首をきられて、全山が火の海になり、9月15日までに放火が断続的に実施され、大量虐殺が行われたという説は、誇張が過ぎるのではないかと指摘している。『信長の天下布武への道』では「殺戮は八王寺山を中心に行われたようである」としている。

兼康は、これまでとは視点を変えて「織田信長の人物像をはじめとする戦国時代の歴史観を再構築しなくてはならない時期が訪れつつある」と結論付けている。

評価

この挙については当時の比叡山が堕落していたことが指摘され、焼き討ちの責を比叡山に帰する指摘が多く行われている[2]

当時の史料である1570年(元亀元年)の『多聞院日記』にも「(比叡山の僧は)修学を怠り、一山相果てるような有様であった」と記されており、 『信長公記』にもこのような記述がある。

山本山下の僧衆、王城の鎮守たりといえども、行躰、行法、出家の作法にもかかわらず、天下の嘲弄をも恥じず、天道のおそれをも顧みず、淫乱、魚鳥を食し、金銀まいないにふけり、浅井・朝倉をひきい、ほしいままに相働く — 信長公記

このため後世の比叡山側への同情は薄く、小瀬甫庵も『太閤記』で「山門を亡ぼす者は山門なり」と批判している。儒学者である新井白石が『読史余論』で「その事は残忍なりといえども、永く叡僧(比叡山の僧)の兇悪を除けり、是亦天下に功有事の一つ成べし」として以降、比叡山焼き討ちは肯定的に評価されてきた。

現代の歴史家でも信長による古代的権威の克服・宗教的束縛からの解放を目的とした合理的な行動として肯定的に評価する説もあるが[3]林屋辰三郎のように武田信玄が比叡山復興を旗印にしたことによる不利と、比叡山勢力を石山本願寺対策に利用することもできたという指摘をし、戦略的に満点とはいえないとする論者[2]もいる。


以上のように後世に肯定的な評価をする者がいる一方で、同時代の人間、山科言継は『言継卿日記』において「仏法破滅」「王法いかがあるべきことか」と不安と動揺を吐露し、天皇家でも『御湯殿上日記』において

ちか比(ごろ)ことのはもなき事にて、天下のため笑止なること、筆にもつくしかたき事なり

と批判的に評している。先述のように武田信玄が焼討ちを非難して比叡山復興の旗印にするといったことからも、同時代の多くの人間からは批判された。 また、先述の肯定的な評価をした多聞院日記の著者が属している所属する多聞院は興福寺の塔頭であり、歴史的に比叡山とは長い対立関係にあったこと、信長公記や甫庵太閤記の元となる多くの資料の著者である太田牛一が信長の家臣であったことにも留意すべきであろう。また、後世の肯定的評価をする歴史家も現代の政教分離思想や、自身の政治的立場という要素が多分に含まれていることにも注意が必要である。

加えて『信長公記』でも焼討ちの理由は比叡山が浅井、朝倉方についたのでその憤りを散ぜんがためと記しており、「年来の御胸朦(わだかまり)を散ぜられおわんぬ」としている。すなわち焼討ちは敵対したものに対する攻撃であったというのが本質である[4]。信長公記の記す「天道のおそれをも顧みず、淫乱、魚鳥を食し」云々の下りは大義名分であり、討伐するための論理である[5]


天下に君臨し、時には天皇もしのぐ権力を振りかざし傍若無人の振る舞い、仏法を説く事を忘れた、うつつを抜かす教団に織田信長が天に代わって鉄鎚を下す[6]、という側面もあったのではないかと考えられている。

補説

明智光秀書状/個人蔵
  • この戦いのきっかけは、織田信長が美濃国にあった延暦寺の山門領を押領したところから始まり、延暦寺側が浅井長政、朝倉義景連合軍に味方した事から、徐々に双方の感情が高まっていったと思われている。
  • 右書状は、元亀2年(1571年)9月2日付となっており、比叡山焼討ち直前に地元の国人和田秀純に宛てた明智光秀の直筆書状で、織田信長軍に味方してくれた礼、恩賞は望み次第、雄琴城に弾薬、兵士を補給する事、またあらぬ疑いを避けるため人質を差し出すように細かく指示を出し、織田信長軍の湖東の進軍ルートが詳しく記載されている。柴田勝家、佐久間信盛らが志村城、小川城を攻城している中、一方の明智光秀は地元国人衆の懐柔工作を実施し、比叡山焼き討ちの準備を整えていたのではないかと考えられている。
  • 比叡山は戦略上の重要な地域ではあったが、大規模な僧兵隊が駐屯していたわけではなく、織田信長の眼前の敵ではなかったと思われている。第一次信長包囲網が形成しつつある中、なぜ比叡山を攻撃したのか、『図説織田信長』によると兵法の常道ではなかったかと解説している。束になって攻撃されると、さすがの戦の天才と言われた織田信長でも勝ち目は無いので、相手の最も弱いところを一つずつ潰していく「各個撃破戦法」をとる事になったのではないか、と記載している。
  • 林屋辰三郎はこの時期に、信長が近江における宿所を比叡山とは創設以来の対立関係にあった園城寺(三井寺)光浄院にしていたことを指摘している。

脚注

  1. ^ 「戦国合戦大事典」267頁
  2. ^ a b 林屋辰三郎 『日本の歴史 天下一統』
  3. ^ 「現代の歴史家もまた、古代的権威の克服、宗教的束縛からの解放としてこの行為を高く評価するのに至ったのである」林屋辰三郎 『天下一統』
  4. ^ 池上裕子『日本の歴史15-織豊政権と江戸幕府』講談社2002年、41頁
  5. ^ 神田千里『一向一揆と石山合戦』吉川弘文館2007年
  6. ^ 「京都・近江戦国時代をゆく」36頁

参考文献

三井寺の一切経蔵
  • 武田鏡村『織田信長石山本願寺合戦全史-顕如との十年戦争の真実-』KKベストセラーズ、2003年1月、89頁-91頁。
  • 岡田正人編著『織田信長総合辞典』雄山閣出版、1999年9月、348頁。
  • 戦国合戦史研究会編著『戦国合戦大事典 第四巻』新人物往来社、1989年4月、264頁-267頁。
  • 大津市歴史博物館『信長戦国近江』大津市歴史博物館、1992年11月、17頁-22頁。
  • 景山春樹、村山修一『比叡山-その宗教と歴史-』日本放送出版、1970年4月、190頁-196頁。
  • 谷口克広『信長の天下布武への道』吉川弘文館、2006年12月、102頁-105頁。
  • 兼康保明「織田信長比叡山焼打ちの考古学的再検討」(『滋賀考古学論叢』第1集、滋賀考古学論叢刊行会、1981年4月)、57頁-64頁。
  • 小和田哲男・宮上茂隆編著『図説織田信長』河出書房新社、1991年12月、56頁-59頁。
  • 津田三郎『京都・近江戦国時代をゆく』淡交社、2008年3月、34頁-37頁。
  • 『戦国信長記』双葉社、2008年2月、32頁-33頁。
  • 林屋辰三郎『日本の歴史 天下一統』中公文庫、1974年3月、144頁-148頁。

関連項目

延暦寺の大講堂

外部リンク