武井夕庵

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武井 夕庵(たけい せきあん[1]、生没年不詳)は、織田信長右筆官僚茶人でもある。助直(すけなお)。官位肥後守二位法印、爾云、妙云。

生涯[ソースを編集]

はじめは美濃国守護土岐氏、次いで美濃斎藤氏道三義龍龍興の3代にわたって右筆として近侍する。弘治元年(1555年)、道三が義龍を廃嫡しようとした際は日根野弘就とともに義龍についた。さらに義龍が弟の孫四郎喜平次を殺害し、道三に反逆した時もこれに従い、道三と袂を分かった(長良川の戦い[2]

永禄10年(1567年)より、斎藤氏を滅ぼした織田信長に仕えて右筆及び側近官僚(吏僚)となり、客の取次や京都の行政官の一員として活動した。また検視、重要時の奉行や使者も務めた。毛利氏への添状の発給[注釈 1]羽柴秀吉とともに担当し、毛利側の小早川隆景吉川元春らとの交渉にあたるなど外交面でも活躍した[3]

天正2年(1574年)3月27日、信長が東大寺正倉院蘭奢待を切りとった際は、9人の奉行の内の1人となる。天正3年(1575年)、二位法印に叙任する。同年11月6・7日、信長が多くの廷臣や寺社に領地を与えた際の実務を数人で担当する。信長からの信頼は厚かったとみられ、天正7年(1579年)に完成した安土城内の夕庵邸は、森成利津田信澄織田信忠に次ぐ場所に建設されている。

また茶人としても活躍し、天正6年(1578年元旦、安土城での許し茶湯を始める許可者の総覧の茶会では織田信忠に次いでいた(『信長公記』)[4]

天正8年(1580年)3月5日、石山本願寺への勅命講和の勅使に佐久間信盛とともに奉行として同行し、その後の検視と勅使の取次役も務めた。同年8月12日、信長の折檻状によって佐久間信盛が追放される際、使者3人の内の1人となる。

天正9年(1581年)2月28日の京都御馬揃え謡曲山姥の衣装で参加した時は70余歳だった。同年5月10日、降伏した和泉国槇尾寺の破却の検視役5人の内の1人となる。

天正10年(1582年)の本能寺の変後、10月28日に吉田兼見を訪問している。天正13年(1585年)1月23日、訪問した山科言経を歓待したという記録が『言経卿記』で確認できるが、後の消息は不明である[5]。織田政権の吏僚は知行を持たずに信長に近侍する形で活動していたため、信長の死で力を失い、かつ高齢でもあったことから、表舞台から消えていったとみられる[6]

子の十左衛門は浅野幸長に仕え、紀伊日高郡有田郡の代官を務めたという(浅野家諸士伝)。

江戸期の編纂書・軍記や伝承の説話[ソースを編集]

  • 元亀2年(1571年)、比叡山焼き討ちを信長が行おうとした際に、佐久間信盛とともに、これを諌めている(『甫庵信長記』)。
  • 天正4年(1576年)頃、越前・加賀で一向門徒衆を撫で斬りにした信長に対して諫言した(同上)。
  • 天正6年(1578年)1月、宮中の節会や礼学の保護を信長に勧める(同上)。
  • 天正6年(1578年)10月、茶道に力を入れ過ぎると武道が疎かになると信長に諫言した(『当代記』)。
  • 年代不明だが、戦いに明け暮れて家中で礼儀が疎かになったので、家中の礼法をただすように信長に諫言した(『武家事紀』)。

以上のように信長に諫言をしたという説話が多い。これらは全面的に信用できる史料ではないが、半分くらいは本当ではないかと思われる。[3]

脚注[ソースを編集]

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注釈[ソースを編集]

  1. ^ 朱印状に添えられた書状で、朱印状発給までの経過説明や細目を解説する。信長の下では担当が決まっていて、原則担当武将と吏僚が2人で組んでいた。[3]

出典[ソースを編集]

  1. ^ フロイス日本史』の読みのとおり。
  2. ^ 『濃飛両国通史』下巻 岐阜県教育会 編刊 1924年 近代デジタルライブラリー 359-360コマ 2015年3月22日閲覧
  3. ^ a b c 『信長の親衛隊 戦国覇者の多彩な人材』谷口克広 P.3-21・176-179 中公新書 1998年
  4. ^ 『ここまでわかった!明智光秀の謎』収載「"文化人"としての光秀」桐野作人<研究引用元は、「織田政権における茶湯の湯」竹本千鶴>2014年 新人物文庫 KADOKAWA
  5. ^ 『信長の親衛隊 戦国覇者の多彩な人材』谷口克広 P.208 中公新書 1998年
  6. ^ 『信長の天下所司代 筆頭吏僚 村井貞勝』谷口克広 P.223 中公新書 2009年


参考文献[ソースを編集]

  • 『信長の親衛隊 戦国覇者の多彩な人材』谷口克広 中公新書 1998年
  • 『信長公記』太田牛一 奥野高広、岩沢愿彦 校注、角川文庫ソフィア 1969年