長良川の戦い

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長良川の戦い
鵜飼大橋 2.jpg
稲葉山(金華山)と長良川
戦争戦国時代 (日本)
年月日弘治2年4月(1556年4月)
場所美濃長良川
結果斎藤義龍の勝利、斎藤道三の討死
交戦勢力
斎藤義龍軍撫子紋 斎藤道三軍二頭波紋
指導者・指揮官
斎藤義龍撫子紋 斎藤道三二頭波紋
戦力
17500余 2700余
損害
不明 不明

長良川の戦い(ながらがわのたたかい)は、1556年弘治2年)4月に斎藤道三とその嫡男・斎藤義龍との間で美濃国岐阜県)の長良川にて行われた合戦である。

美濃国主・斎藤道三
その嫡男・斎藤義龍

合戦の原因[編集]

1542年天文11年)名門土岐氏に替わって美濃国主となった斎藤道三は、1554年(天文23年)に嫡男義龍に国を譲り、隠居した[注釈 1]。しかし、道三はしだいに義龍を「耄(おいぼれ)者」と考えるようになり、その弟の孫四郎喜平次を「利口者」だからと溺愛し、三男の喜平次には「一色右兵衛大輔[1][注釈 2]」と名乗らせた。長兄の義龍を差し置いて名門一色氏の姓と官途を与え、さらに二人の弟は奢り高ぶり、義龍を侮るようになったため、道三と義龍の不仲は深刻なものとなった。そのことを無念に思い、弘治元年(1555年)10月、義龍は病に臥せる振りをし、奥[注釈 3]へと籠った。自身を廃嫡し、父道三が寵愛する二人の弟いずれかを跡継ぎにするのではないかと、考えた義龍は、対抗手段を取ろうと策をめぐらした。

開戦まで[編集]

そして翌11月22日に道三が山下(麓の井口)の私邸に出向いた隙に義龍は動き、二人の弟(喜平次、孫四郎)のもとに叔父の長井道利を使わせ「自分は重病であり、時を待つのみである。会って一言申し上げたいの入来されたい」と自分の傍に二人の弟を呼び寄せた。道利が一計を図り、まず次の間[注釈 4]で道利が刀を置いた。それに倣い二人にも刀を置かせた。対面の席で酒を振る舞い、酔わせてから寵臣の日根野弘就が自慢の太刀で殺害した。なお二人の弟を謀殺した義龍は山下の道三に使者を送り、その顛末を自ら道三に伝えた。このとき道三は仰天し、急ぎ兵を集め城下の町を焼き払い、火煙に紛れて城下から逃れた。

長良川を超えると山県の大桑城にまで逃れた。その年はそのまま暮れた。明くる年の雪解けとともに情勢は緊迫し、春にはついに両者は決戦を決意して骨肉相争う事態となった。

戦闘と結果[編集]

長良川の戦い[編集]

4月18日、初め道三は鶴山へと布陣した。道三の娘婿である尾張織田信長木曽川飛騨川を舟で越えて大良(岐阜県羽島市)の戸島、東蔵坊に至りここに陣所を構える。そして同月20日辰の刻に義龍軍が長良川南岸に動いたのに応じ、道三軍は鶴山を下りて長良川まで進軍して、北岸に移動し、ここで両者は激突した。

なお道三が国主となるまでの経緯もあって思うように兵が集まらず、重臣の西美濃三人衆をはじめとした家中の大半は義龍を支持し、義龍軍17500余名に対し道三が動員できたのはわずか2700余名と義龍軍が優勢であった。

合戦は義龍軍の先手竹腰道鎮の突撃で始まった。竹腰勢は円陣を組み長良川を押し渡り、道三の本陣へと迫り、旗本に切りかかった。乱戦となったが、道三の指揮で竹腰勢は敗走し、道三旗本により道鎮は討ち取られた。それを見た義龍は自ら旗本を率いて川を越えて、陣を固めた。この時、義龍勢の中から長屋甚右衛門が一騎討ちを挑み、道三軍から柴田角内がそれに応じ、両者の一騎討ちが始まった。勝負は柴田が長屋の首を挙げたことにより決すると、両軍とも全軍に突撃を命じた。

それにより乱戦となるが、道三は緒戦こそ優勢に戦いを進めるも兵力差は如何ともしがたく、ついに道三の前に義龍勢が押し寄せてきた。道三勢が崩れて、長井忠左衛門道勝が生け捕りにして義龍の前へ引き据えようと突進して道三に組み付き、もみ合っていたところへ小牧源太が道三の脛を薙ぎ、首を切り落とした。これに忠左衛門は激怒したが、後の証拠として道三の鼻を削ぎ懐に収め、その場は退いた。これにより、合戦は終わりを迎えた。なお道三の娘婿にあたる織田信長が援軍を派遣していたものの、合戦に間に合わなかった。

戦後[編集]

首実検を行い、その場所に道三の首が運ばれてきた。このとき義龍は「我が身の不徳より出た罪」と出家を宣言し、これ以後「はんか」と名乗った[注釈 5]。この「范可/飯賀(はんか)」とは唐の故事にある名で、義龍と同じく止むを得ない事情により、父親を殺した者という[1][注釈 6]

その後[編集]

大良河原での戦い[編集]

長良川での勝利で士気の上がった義龍軍は、首実検を終えたあと大良口の信長の陣所にも兵を差し向けてきた。両軍は大良の河原で激突した。信長側は山口取手介土方彦三郎雄久の父)が討ち死にし、また森可成は義龍軍の千石又一と渡り合い、馬上で斬り合い膝を斬られて退いた。

この状況の中、ようやく信長に道三討ち死にの報が伝わった。信長はまず雑人・牛馬を後方に下げると「殿(しんがり)は信長が引き受ける」と言い、全ての兵を川を渡って退かせ、信長自身は舟一艘で川に残った。義龍軍の騎馬がいくらか川端まで駆けて来ると、信長は鉄砲を撃った。騎馬武者は渡河を断念した。それにより追撃を払い信長は退却することができた。

尾張への影響[編集]

斎藤道三の死は、隣国尾張にも影響。尾張上四郡を支配する「岩倉織田家」当主・織田伊勢守信安は斎藤義龍と呼応し、清洲近くの下之郷(春日町)の村に放火した。これに対し、信長は岩倉織田家の領地に攻め入り、岩倉付近の領地を焼き払った。一方、尾張下四郡を支配[注釈 7]する「勝幡織田家」(弾正忠家)の家中にも、義龍や信安と呼応して信長から離反し信長の弟・信行(信勝)を擁しようとする不穏な動きがあり、やがてこれは勝幡織田家の家督争いへと発展していく。

道三死後の美濃[編集]

父斎藤道三を討ち果たしたその子斎藤義龍であったが、その後5年ほどで急死した。

家督は義龍の子斎藤龍興が継ぐが、尾張の織田信長の美濃侵攻により、没落して美濃を追われ、後に越前朝倉氏のもとに身を寄せて信長に反抗を続けるも刀根坂の戦いにおいて戦死したという。

織田家では美濃斎藤家跡取として濃姫の弟である斎藤利治美濃斎藤氏継承し、兄である斎藤利堯も重臣となった。

備考[編集]

道三塚。長良川氾濫のため、当初の場所から移動している。岐阜市指定史跡[2]

俗説として義龍の実父は道三によって美濃を追われた前守護土岐頼芸とする説があるが、江戸時代に編纂された『美濃国諸家系譜』の記述が出典であるため不明。また、近年勝俣鎮夫によって唱えられた説では、道三は重臣との対立によって義龍を擁した重臣達によって当主の地位を追われたため、義龍とそれを支持する重臣達を排除するためにこの戦いを起こしたとされている。

以前は『信長公記』の記述により、道三が最初に本陣を置いたのは鷺山城と考えられていたが、現在は鶴山に置いたという説が有力とされる。

この合戦で明智氏は道三に与したため、義龍により居城の明智城を攻められ、辛うじて脱出した明智光秀は流浪の生活が始まったとする説がある。

道三の最後について、元家臣の長井忠左衛門小牧源太林主水らの追跡をうけ、くみつかれて脛をなで斬りにされた上に鼻を削がれた。元家臣の小真木源太により、道三塚へ手厚く葬られた。

援軍に来た織田軍は間に合わず、斎藤利治(道三の末子)らの道三残存軍と合流し撤退を開始したが、斎藤軍の追撃を受けた。信長自ら殿軍をし最新の鉄砲を使い追撃を振り切り、その日のうちに撤退した。

長良川で対陣している最中に道三は、信長へ「美濃国譲り状」を記した。[3]

脚注[編集]

注釈[編集]

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  1. ^ 江戸期の軍記物にはこのとき道三は鷺山城に隠居したというが、資料的価値が高い『信長公記』には親子4人(道三・義龍・孫四郎・喜平次)で稲葉山城に居城したとあることから、信憑性はないといえる。
  2. ^ 主家の土岐氏も土岐成頼が一色出身なこともあり、その三代孫の頼栄は一色姓を名乗っている
  3. ^ 『信長公記』には親子4人で稲葉山城に居城していたとあるため、稲葉山城の「奥」だと推定される。
  4. ^ 主君のいる部屋の次にある部屋で、主君に仕える者の控えの部屋。
  5. ^ 義龍が「范可/飯賀(はんか)」を名乗るのは、実際には道三殺害以前からである。
  6. ^ この「范可」にまつわる故事の実在は確認されていない。
  7. ^ 織田下四郡を支配していた清洲織田家の織田大和守信友を滅ぼしたため。

出典[編集]

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  1. ^ a b 『信長公記』
  2. ^ 岐阜市内の指定等文化財一覧”. 岐阜市 (2012年4月6日). 2013年3月31日閲覧。
  3. ^ 弘治二年(1556年)4月19日付けで書かれた手紙であり、「道三の遺言状」とも、「信長への国譲り状」とも言われる。現存する物は計3通ある。手紙は織田軍へ合流した斎藤利治へ渡した可能性が高い。

参考文献[編集]

  • 『信長公記』
  • 『週刊 新説 戦乱の日本史 第37号 美濃国盗り』2008年10月24日発売 小学館

関連項目[編集]

外部リンク[編集]