川端一彰

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川端 一彰
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 和歌山県和歌山市
生年月日 (1968-03-12) 1968年3月12日(56歳)
身長
体重
180 cm
74 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 内野手外野手
プロ入り 1989年 ドラフト5位
初出場 1992年6月2日
最終出場 2000年10月10日(引退試合)
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

川端 一彰(かわばた かずあき、1968年3月12日 - )は、和歌山県和歌山市[1]出身の元プロ野球選手内野手外野手)。

現在は、横浜DeNAベイスターズのチーム運営部スコアラー

経歴[編集]

星林高校から中央大学へ進学。1学年上に笘篠賢治、2学年下に中山雅行がいた。入学時は2部リーグも、1部昇格した2年春からレギュラーとなり、4年春は東都大学リーグ3位となる打率.357を記録するが当時の中大は低迷期にあり、入替戦で敗れると最後の秋季リーグ戦は2部[1]。一部リーグ通算60試合出場、209打数53安打、打率.254、2本塁打、8打点。

1989年のプロ野球ドラフト会議にて横浜大洋ホエールズから5位で指名を受けて入団[1]。契約金4000万円・年俸480万円(金額は推定)と決まった[2]

内外野どちらもこなすユーティリティプレイヤーで、シュアなバッティングも持ち味で二軍では1992年に首位打者になる[1]ものの、一軍ではなかなか出場機会を得られなかった。

プロ3年目の1992年に一軍初出場を果たし、1996年に監督就任した大矢明彦に見出だされ一軍に定着する[1]と、いぶし銀の打撃と成功率の高いバントで存在感を発揮。進藤達哉と三塁の定位置を争い36試合に先発出場した。翌1997年は主に外野の準レギュラーとして活躍。チームが38年ぶりの優勝を果たした1998年は、駒田徳広ロバート・ローズ・進藤達哉・石井琢朗といった鉄壁の内野陣がある中で、万永貴司とともに貴重な内野の控えとして優勝に貢献した。

その後は故障で二軍生活を余儀なくされ、2000年限りで現役を引退。功労者として10月10日に秋元宏作と共に引退試合が行われた。

内外野と守備位置がころころ変わったのは、出場機会を得るためとは言え、結果として器用貧乏と揶揄されることにもなった。

引退後の2001年からは横浜のスコアラーを務め[1]、2007年に大矢が監督に復帰してからは大矢の脇に座り、ブレーンとして活躍した。

詳細情報[編集]

年度別打撃成績[編集]

















































O
P
S
1992 大洋
横浜
3 2 2 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 1 0 .000 .000 .000 .000
1993 2 1 1 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 .000 .000 .000 .000
1995 6 7 7 0 1 0 0 0 1 2 0 0 0 0 0 0 0 1 0 .143 .143 .143 .286
1996 80 163 146 20 40 4 2 2 54 9 0 0 10 0 6 0 1 28 2 .274 .307 .370 .677
1997 69 146 122 13 37 7 3 1 53 15 1 2 6 2 16 0 0 24 2 .303 .379 .434 .813
1998 43 63 54 5 12 2 0 0 14 1 0 2 5 0 4 0 0 11 0 .222 .276 .259 .535
2000 1 1 1 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 .000 .000 .000 .000
通算:7年 204 383 333 38 90 13 5 3 122 27 1 4 21 2 26 0 1 65 4 .270 .323 .366 .690
  • 大洋(横浜大洋ホエールズ)は、1993年に横浜(横浜ベイスターズ)に球団名を変更

記録[編集]

背番号[編集]

  • 38 (1990年 - 2000年)

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、173ページ
  2. ^ 毎日新聞東京版 1989年12月17日(朝刊)13版25面

関連項目[編集]

外部リンク[編集]