山田秀典
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山田 秀典(やまだ ひでのり、1836年〈天保7年〉[1] - 1882年〈明治15年〉1月6日[2])は、幕末の熊本藩士、明治期の内務官僚。青森県令。幼名・平太[2]、平兵衛[3]。
経歴
[編集]熊本藩士の家に生まれた[3]。
維新政府の十三等出仕となる[3]。明治4年8月(1871年)、内務省土木寮・土木権頭に就任[4]。1873年11月、新川県権令に転じ、同県令に昇進。
1876年8月、青森県令に就任[3]。産業振興に尽力し、国内各地から馬耕教師(熊本県)、養蚕教師(福島県)、藍教師(高知県)、麻教師(栃木県)、製紙教師(長野県)などを招いて実際の指導を行わせた[5]。また、自由民権派と保守派の一致協力を推進しようとするが、保守派の反発を招き郡長辞任などで抵抗を受けた[3][5]。1882年1月、県政報告のため滞在していた東京で死去した[5]。
親族
[編集]脚注
[編集]参考文献
[編集]- 歴代知事編纂会編『新編日本の歴代知事』歴代知事編纂会、1991年。
- 秦郁彦編『日本官僚制総合事典:1868 - 2000』東京大学出版会、2001年。
- 『青森県百科事典』東奥日報社、1981年。
- 大植四郎編『明治過去帳』新訂初版、東京美術、1971年(原著私家版1935年)。
- 干河岸貫一編『明治百傑伝』青木嵩山堂、1902年。
- 「官員全書 その2 明治壬申5月(防衛省防衛研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.C14020134100