大高康
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大高康 おおたか やすし | |
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生年月日 | 1899年1月8日 |
出生地 | 茨城県 |
没年月日 | 1969年1月29日(70歳没) |
出身校 | 茨城県立水戸中学校(現茨城県立水戸第一高等学校)卒業 |
所属政党 |
(改進党→) (日本民主党→) 自由民主党 |
称号 |
従四位 勲二等瑞宝章 |
選挙区 | 旧茨城2区 |
当選回数 | 4回 |
在任期間 |
1953年4月19日 - 1958年4月25日 1960年11月20日 - 1966年12月27日 |
第48代茨城県議会議長 | |
在任期間 | 1950年7月30日 - 1951年5月22日 |
高萩町長 | |
高萩町会議員 |
大高 康(おおたか やすし、1899年(明治32年)1月8日[1] - 1969年(昭和44年)1月29日[2][3])は、大正・昭和期の実業家、政治家。衆議院議員(4期)、茨城県多賀郡高萩町長。
経歴
[編集]茨城県出身[2][3]。1917年(大正6年)茨城県立水戸中学校(現茨城県立水戸第一高等学校)を卒業した[2][3]。
高萩町会議員、高萩町長[1]、同消防団長[1]、茨城県会議員、同議長などを務めた[4][2][3]。1953年(昭和28年)4月の第26回衆議院議員総選挙に茨城県第2区から改進党公認で出馬して初当選[2][3][5]。第27回総選挙で再選されたが、1958年(昭和33年)5月の第28回総選挙は次点で落選[6]。1960年(昭和35年)11月の第29回総選挙と第30回総選挙で再選され[7]、衆議院議員に通算4期在任した[2][3]。この間、第2次池田第1次改造内閣郵政政務次官、裁判官弾劾裁判所裁判官、日本民主党政調会郵政部長、自由民主党総務局人事部長、同副幹事長、同国会対策副委員長、同代議士会副会長などを務めた[2][3]。
その他、高萩林材取締役社長、日立セメント取締役などを務めた[3]。
1969年(昭和44年)1月29日死去、70歳。死没日をもって勲二等瑞宝章追贈、従四位に叙される[8]。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 『日本人事録 第6版』全国篇、中央探偵社、1963年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 『新訂 政治家人名事典 明治~昭和』日外アソシエーツ、2003年。
- 『国政選挙総覧 1947-2016』日外アソシエーツ、2017年。