勢多 (砲艦)
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艦歴 | |
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計画 | 1920年度 |
起工 | 1922年4月29日(日本) 1923年1月25日(上海、工事着手) |
進水 | 1923年6月30日(上海) |
完成 | 1922年11月(日本) |
就役 | 1923年10月6日 |
除籍 | 1945年9月30日(大日本帝国海軍) 1960年代(人民解放軍) |
性能諸元(竣工時) | |
排水量 | 基準:330t 常備:338t 公試:383t |
全長 | 56.08m |
全幅 | 8.23m |
吃水 | 1.02m (公試平均) |
主缶 | ロ号艦本式混焼缶2基 |
主機 | 直立2段膨張レシプロ2基2軸 2,100hp |
速力 | 16.0kt |
航続距離 | 1,750NM / 10.0kt (石炭20t 重油74t) |
乗員 | 62名 |
兵装 | 40口径8cm単装高角砲2門 留式7.7mm機銃6挺 |
艦歴
[編集]播磨造船所において1922年11月に完成、それを解体し上海に輸送、東華造船会社で組立てを行い、1923年10月6日に竣工、二等砲艦に類別された。
1931年6月1日、砲艦に類別変更。翌年の第一次上海事変において、上海や長江方面の警備に従事した。日中戦争において、上海陸上作戦の支援、長江遡行作戦に加わった。太平洋戦争においては、長江流域の警備に従事した。1944年10月1日に軍艦から除かれ艦艇の砲艦に類別が変更された。
終戦時には上海で顕在であり、その後、中華民国に接収され国府海軍の「長徳 Chang-Teh」となった。1949年11月30日に郝穴等と共に中華人民共和国に投降。「閩江」と改名され、1960年代まで在籍していた。
艦長
[編集]※『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」に基づく。
- 艤装員長
- 鈴木幸三 少佐:1923年1月20日 - 1923年10月6日
- 艦長
- 鈴木幸三 少佐:1923年10月6日 - 1925年1月6日[1]
- 岩原盛恵 少佐:1925年1月6日[1] - 1925年11月17日[2]
- 池田七郎 少佐:1925年11月17日[2] - 1926年6月1日[3]
- 山崎助一 少佐:1926年6月1日 - 1926年12月1日
- 河原金之輔 少佐:1926年12月1日[4] - 1927年11月15日[5]
- 柴田弥一郎 少佐:1927年11月15日 - 1929年10月10日
- 大谷雄介 少佐:1929年10月10日[6] - 1931年6月5日[7]
- 来島茂雄 少佐:1931年6月5日[7] - 1932年12月1日[8]
- 杉本道雄 中佐:1932年12月1日 - 1933年11月1日
- 中尾八郎 中佐:1933年11月1日 - 1934年11月1日
- 上条深志 中佐:1934年11月1日 - 1935年11月15日
- 吉見信一 中佐:1935年11月15日 - 1937年10月7日
- 寺崎隆治 少佐:1937年10月7日 - 1938年7月27日[9]
- 近藤三郎 中佐:1938年7月27日 - 1940年6月1日
- 岸良幸 中佐:1940年6月1日 - 1940年10月5日
- 宮下亮 少佐:1940年10月5日[10] -
同型艦
[編集]脚注
[編集]- ^ a b 『官報』第3710号、大正14年1月7日。
- ^ a b 『官報』第3971号、大正14年11月18日。
- ^ 『官報』第4131号、大正15年6月2日。
- ^ 『官報』第4283号、大正15年12月2日。
- ^ 『官報』第266号、昭和2年11月16日。
- ^ 『官報』第836号、昭和4年10月11日。
- ^ a b 『官報』第1329号、昭和6年6月6日。
- ^ 『官報』第1778号、昭和7年12月2日。
- ^ 「海軍辞令公報(部内限)号外 第217号 昭和13年7月28日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072074100
- ^ 「海軍辞令公報(部内限)第540号 昭和15年10月5日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072079000
参考資料
[編集]関連項目
[編集]外部リンク
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