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前田康介

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
前田 康介
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 愛媛県松山市
生年月日 (1945-02-21) 1945年2月21日(79歳)
身長
体重
174 cm
67 kg
選手情報
投球・打席 左投左打
ポジション 投手
プロ入り 1969年 ドラフト1位
初出場 1970年4月12日
最終出場 1974年5月25日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

前田 康介(まえだ こうすけ、本名:前田 康雄〈まえだ やすお〉、旧姓は北尾、1945年2月21日 - )は、愛媛県出身の元プロ野球選手投手)。左投左打。1972年登録名を「前田康介」に改め、現役引退後も同名義を使用した。

来歴・人物

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愛媛県出身。松山北高校では、1960年に1年生エースとして秋季県大会決勝に進出。松山商山下律夫と投げ合い、敗退するが注目を集める。1962年夏の甲子園県予選でも準々決勝に進出するが、村上公康のいた西条高に延長10回の熱戦の末に敗退。

卒業後は東洋大学に進む。東都大学リーグでは、在学中は二部リーグにとどまるが、1966年秋季リーグ後の入替戦で一部リーグの芝工大を降し、後輩に後を託した。大学同期に上垣内誠がいる。

卒業後は電電四国に入社、1968年都市対抗野球大会高知相互銀行の補強選手として出場。翌年の大会も電電四国の主戦投手として連続出場を果たす[1]。この時のチームメートに小金丸満がいた。1969年ドラフト会議においてロッテオリオンズ(現・千葉ロッテマリーンズ)から1位指名を受け入団(2位は小金丸であった)。

主にシュート、カーブを武器とし、1970年にはルーキーながら日本シリーズに登板。入団2年目となる1971年シーズンにプロ初勝利を記録する。主に中継ぎ投手として起用されたが、入団3年目の1972年には19試合の登板で0勝5敗の防御率5点台と不振に陥り、翌1973年は1試合のみの登板に終わった。同年オフに戦力外通告を受け、間もなく太平洋クラブライオンズ(後の埼玉西武ライオンズ)に移籍。しかし太平洋でも一軍登板機会は移籍1年目の4試合のみに留まり、1976年限りで現役を引退した。

引退後もライオンズ球団に在籍し、1978年にはスコアラー、1980年以降は打撃投手を務め、その後球団フロント入りする。スコアラー時代は名スコアラーと評され一流の分析力で的確な指示を出すプロだったという[2]2011年シーズンまで取締役球団本部長職を務め、同年の公式戦全日程終了をもって退団した[3]

詳細情報

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年度別投手成績

[編集]




















































W
H
I
P
1970 ロッテ 18 1 0 0 0 0 1 -- -- .000 94 20.2 23 3 11 0 0 14 1 0 15 13 5.57 1.65
1971 18 2 0 0 0 1 1 -- -- .500 101 23.1 19 2 15 2 0 19 1 1 11 10 3.91 1.46
1972 19 4 0 0 0 0 5 -- -- .000 163 33.1 49 5 23 1 1 11 1 0 24 21 5.73 2.16
1973 1 0 0 0 0 0 0 -- -- ---- 4 0.1 3 1 0 0 0 0 0 0 3 3 81.00 9.00
1974 太平洋 4 0 0 0 0 0 0 0 -- ---- 12 2.0 2 1 5 0 0 0 0 0 5 5 22.50 3.50
通算:5年 60 7 0 0 0 1 7 0 -- .125 374 79.2 96 12 54 3 1 44 3 1 58 52 5.85 1.88

記録

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背番号

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  • 16 (1970年 - 1972年)
  • 14 (1973年)
  • 30 (1974年 - 1975年)
  • 62 (1976年)
  • 84 (1980年 - 1981年)
  • 93 (1982年 - 1991年)
  • 01 (1992年 - 1993年)

登録名

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  • 前田 康雄 (まえだ やすお、1970年 - 1971年)
  • 前田 康介 (まえだ こうすけ、1972年 - 1976年)

脚注

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  1. ^ 「都市対抗野球大会60年史」日本野球連盟 毎日新聞社 1990年
  2. ^ 黄金時代西武の名スコアラー 原辰徳攻略法完全把握していた - ポストセブン
  3. ^ 2011/10/18 人事のお知らせ - 埼玉西武ライオンズ公式サイト

関連項目

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外部リンク

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