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入江為守

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
いりえ ためもり

入江 為守
生誕 1868年5月12日
京都府
死没 (1936-03-19) 1936年3月19日(67歳没)
東京都
墓地 青山霊園
国籍 日本の旗 日本
職業 貴族院議員、官僚歌人
著名な実績明治天皇御集』、『昭憲皇太后御集』編纂
配偶者 入江信子(柳原前光の娘)
子供 入江為常(長男)
坊城朔子(坊城俊良夫人)
高木邦子(高木正得夫人・崇仁親王妃百合子母)
入江相政(三男)
冷泉為理
養父:入江為福
親戚 冷泉為紀(兄)
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入江 為守(いりえ ためもり、1868年5月12日慶応4年4月20日[1][2]〉 - 1936年昭和11年〉3月19日[1][2])は、明治時代から昭和時代前期にかけて活躍した日本の貴族院議員、官僚歌人[2]。位階・勲等は、正二位勲一等[3]子爵昭和天皇侍従長を務めた入江相政は為守の三男[2]

略歴

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京都に冷泉為理の四男として生まれ[1]、後に入江為福の養子となる[2]。母は柳原隆光の娘・よし[4]。幼名は太美麿[1]。妻は柳原前光の娘・信子[1]

1875年明治8年)2月22日、家督を継承し[1]1884年(明治17年)7月8日、子爵を叙爵した[5]1897年(明治30年)7月10日、貴族院議員となり[6]、1914年(大正3年)4月29日まで在任[7]

また、東宮侍従長となり、1926年(昭和元年)12月25日昭和天皇践祚に伴い侍従次長に就任した[8]。翌1927年(昭和2年)3月3日に辞し[8]3月4日皇太后宮大夫に就任した[2][注釈 1]

その間の1915年大正4年)からは御歌所長も兼ね、『明治天皇御集』、『昭憲皇太后御集』編集事業を完成させた[2]

栄典

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脚注

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注釈

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  1. ^ 皇太后宮大夫大森鍾一3月3日に亡くなったことによる転任。

出典

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  1. ^ a b c d e f 霞会館 1996, p. 202.
  2. ^ a b c d e f g 日本人名大辞典 2001, p. 239.
  3. ^ 『官報』 第2765号 1936年3月24日 「叙任及辞令」
  4. ^ 『現代華族譜要』日本史籍協会、1929年 705頁
  5. ^ 『官報』第308号、明治17年7月9日。
  6. ^ 貴族院事務局 1947, p. 8.
  7. ^ 貴族院事務局 1947, p. 22.
  8. ^ a b 皇室事典 2019, p. 588.
  9. ^ 『官報』第3428号「叙任及辞令」1924年1月30日。
  10. ^ 『官報』第1499号・付録「辞令二」1931年12月28日。

参考文献

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  • 『現代華族譜要』日本史籍協会、1929年。
  • 『貴族院要覧(丙)』(昭和21年12月増訂)貴族院事務局、1947年。doi:10.11501/1653722 
  • 平成新修旧華族家系大成:上巻』霞会館編、吉川弘文館、1996年。 
  • 『日本人名大辞典』講談社、2001年。ISBN 978-4-06-210800-3 
  • 『皇室事典:令和版』皇室事典編集委員会編著、KADOKAWA、2019年。ISBN 978-4-04-400490-3 
公職
先代
久我通久
所長心得
日本の旗 御歌所長
1912年 - 1915年
次代
三条公輝
所長事務取扱
日本の爵位
先代
叙爵
子爵
入江家初代
1884年 - 1936年
次代
入江為常