柳家小さん (3代目)
3代目 | |
本名 | 豊島 銀之助 |
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生年月日 | 1857年9月20日 |
没年月日 | 1930年11月29日(73歳没) |
出身地 | 日本江戸小石川鷹匠町(東京都文京区)[1] |
師匠 | 初代談洲楼燕枝 3代目春風亭柳枝 4代目都々一坊扇歌 2代目禽語楼小さん |
名跡 | 1. 柳亭燕賀(1882年 - 1883年) 2. 柳亭燕花(1883年 - 1886年) 3. 都川歌太郎(1886年 - 1892年) 4. 初代柳家小三治(1892年 - 1895年) 5. 3代目柳家小さん(1895年 - 1928年) |
活動期間 | 1882年 - 1928年 |
所属 | 東京寄席演芸株式会社(1917年 - 1923年) 落語協会(1923年 - 1928年) |
備考 | |
落語協会会長(1924年 - 1926年) | |
3代目 柳家 小さん(やなぎや こさん、1857年9月20日[2] - 1930年11月29日)は落語家。本名は豊島銀之助。生家は一橋家家臣の家である。
来歴
江戸小石川鷹匠町[1]、一橋家家臣の家に生まれ、幼いころから林逸斎の漢学や洋学校で学問を習ったがあまりにも没頭し労症を心配した母が富本節をやっていたので習わせるようになる。声が美声とか粋などともてはやされ唄のほうに興味・関心が行くようになり生家も勘当され本所横網町の袋物屋に預けられる、しかしそこの近所にもうた沢の稽古場があったので足しげく通うようになる。16歳で勘当を許され家督を相続、私財を譲り受け麹町六丁目に煙草屋を開業した。しかし稽古屋通いは収まらず常磐津の初代常磐津林中に正式に弟子入りした家寿太夫から和國太夫を名乗るが、旅回りの途中に初代土橋亭里う馬の門下になり、2代目土橋亭志ん馬が喉を痛め声が出ないので代演で高座に上がることになる。高座で軽い小噺の後に常磐津を語り最後はたっぷりと人情噺を語って評判になった。時には大ネタの「いろは日蓮記」「仮名手本忠臣蔵」を通しで語ることもあった。
帰京後の1882年(ないし1883年)に初代談洲楼燕枝の門下となり柳亭燕賀となる。1883年頃に3代目春風亭柳枝に可愛がられたために柳亭燕花を名乗る。その後、師匠柳枝の前名、燕路を名乗らないかと薦められたが、柳枝の弟子で2代目燕路の弟子たちの反対で立ち消え。そのごたごたで廃業を余儀なくされた。諦めきれずに1886年(ないし1887年)に4代目都々一坊扇歌一門で噺家に復帰し都川歌太郎と名乗ったが、継子扱いだったので見かねた2代目禽語楼小さんが引き取り1892年6月に初代柳家小三治(はじめは小さん次)を襲名し真打昇進。その後は人気も上がって出世し、師匠小さんが1895年ころから病気がちになり、3月日本橋木原亭で隠居名である柳家禽語楼を名乗ったと同時に小さんの名を譲られ、同年3月に3代目襲名。1905年には「第一次落語研究会」の発起人に。
得意ネタは上方落語ネタを江戸落語に移植した演目が多い。特に4代目桂文吾から口伝された「らくだ」が有名である。他にも「碁泥」・「にらみ返し」「天災」「かぼちゃ屋」「猫久」「粗忽の釘」「青菜」「うどんや」などがある。特にお酒の入る酔っ払い噺は得意としたが自身は一滴もお酒を飲めなかった。弟子は他の噺家に飲ませ観察し研究・観察したという。明治末期から引退する昭和初期までに多くのSPレコードを吹き込み内容は東京ネタ限らず上方ネタ、音曲、常磐津まで幅広く残した。なお、寄席によく通っていた夏目漱石は、「彼と時を同じうして生きている我々は大変な仕合せである」と『三四郎』の中で書いている。
1924年 - 1926年に5代目柳亭左楽の後任で東京落語協会(現落語協会)2代目会長就任。
1928年4月に9番弟子4代目蝶花楼馬楽(後の4代目柳家小さん)に小さんの名を譲り、自らは引退した。
最晩年の1923年頃からは脳軟化症による認知症を発症したために同じ噺を続けてしまう、別の噺が混ざってしまうなど悲惨な姿を人々の前に出していた。1929年には自宅を出たまま行方不明になり、翌日世田谷の公園で発見された時には子供と遊んでいる姿が新聞に記載された。
1930年11月29日死去。享年74。墓所は4代目橘家圓喬と同じ東京目白の雑司ケ谷・法明寺にある。
芸風・人物
一時常盤津を修業した事もあり声がよく、噺に音曲を入れるなどのアレンジを施して華やかさを加えた。人格者で6代目三遊亭圓生は「噺家でも、芸をちゃんとやろうという者は、正しい心を持たなければいけない。正直にして正しい心をもってやるんだよ。」と諭されたと自叙伝「寄席育ち」(青蛙房、1976年)に書いている。芸や生き方は、林家彦六・5代目古今亭今輔・6代目春風亭柳橋・7代目三笑亭可楽らに影響を与えたが、特に彦六は常に小さんの心で居ろという戒めを大事にし「小心居」という言葉を座右の銘とした。
一方で落語を地でいくような粗忽な面もあり、羽織を間違えて二枚着て、次の寄席に行ってしまったこともあるという[3]。また銭湯に足袋を履いたまま入ったりしたこともあった。また地震が苦手であった(生年中に関東大震災に遭っている)。
一門弟子
弟子・若手の面倒見がよく尊敬されたため多くの弟子を輩出した。
- 桂文慶(田中六太郎)
- 2代目談洲楼燕枝
- 柳家小三郎(藤田鉄五郎)
- 3代目柳家小山三(中井清之助)
- 初代柳亭市馬(味波庄太郎)
- 柳家小ゑん(後に能の出囃子方に転職)
- 2代目春風亭年枝(篠原亀吉)
- 初代柳家小まん(梅村わか)
- 3代目蝶花楼馬楽(元は3代目春風亭柳枝の弟子だが、師匠柳枝に破門され、小さん門下に移籍)
- 式亭三馬
- 8代目朝寝坊むらく
- 三遊亭金遊斎(元柳家小二三、後に三遊亭小圓遊門下から2代目三遊亭金馬門下)
- 初代柳家小せん(元は4代目麗々亭柳橋の弟子だが、師匠柳橋死去に伴い、小さん門下に移籍したが後に病のため失明、大病などで夭折)
- 3代目古今亭今輔
- 2代目柳家つばめ
- 帰天斎小正一(松岡後の平山平吉)
- 三遊亭花圓遊
- 4代目柳家小さん
- 三升家勝ぐり(鈴木峯次郎)
- 柳亭芝楽(伊藤栄三郎)
- 初代橘ノ圓
- 初代柳家小はん
- 初代柳家蝠丸(息子は10代目桂文治)
- 6代目春風亭柳枝
- 柳家三好(中田宗太郎)
- 2代目松柳亭鶴枝
- 2代目柳家小せん(後に落語協会事務員に転職)
- 6代目柳家小三治
- 柳家小三太(関根、後の増田久四郎、師匠小さんよりも先に逝去した)
- 3代目柳家つばめ
- 初代柳家三語楼(元は2代目談洲楼燕枝の弟子だが、小さん門下に移籍するが、後に東京落語協会脱会したが、後に復帰するが、再度脱会した)
- 3代目三升家小勝(「セルロイドの象」)
- 柳家金語楼(後に兄弟子三語楼門下に移籍した)
- 柳家燕花(松本金太郎)
- 8代目柳家小三治(戦後、落語協会事務員に転職)
- 春風亭柳語楼(中村菊次郎)
- 初代江戸家猫八(物真似師)
- 3代目松柳亭鶴枝
- 柳家金三(浜根茂平)
- 柳家小團治(後に漫才に転向しリーガル千太・万吉の万吉)
- 柳家小半治(田代藤太郎)
- 5代目古今亭今輔(元は初代三遊亭右女助の弟子だが、初代柳亭市馬の紹介で小さん門下に移籍。小さんの引退前の1926年に2代目桂小文治門下に移籍した)
- 9代目桂文治(元は7代目翁家さん馬の弟子だが、師匠さん馬と不仲となり小さん門下に移籍した)
- 林家彦六(元は4代目橘家圓蔵門下の内輪だったが、圓蔵の死後、小さん門下に移籍、師匠の引退前年に4代目小さん門下に移籍した)
ほか
脚注
参考文献
- 諸芸懇話会、大阪芸能懇話会共編『古今東西落語家事典』平凡社、ISBN 458212612X
- 演芸博物館 白編 小島貞二
関連項目
外部リンク
- 『小さん落語会』柳家小さん口演 (三芳屋, 1908)