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橘家圓蔵 (4代目)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
4代目 橘家たちばなや 圓蔵えんぞう
4代目 橘家(たちばなや) 圓蔵(えんぞう)
三ツ組橘は、橘家圓蔵一門の定紋である。
本名 松本 栄吉
別名 品川の圓蔵
生年月日 1864年
没年月日 1922年2月8日
出身地 日本の旗 日本・江戸
現∶東京都品川区
師匠 4代目三遊亭圓生
名跡 1.三遊亭さん生
(1887年 - 1890年)
2.4代目橘家圓蔵
(1890年 - 1922年)
活動期間 1887年 - 1922年
活動内容 古典落語
地噺
所属 三遊派
(1887年 - 1917年)
東京寄席演芸株式会社
(1917年 - 1922年)

4代目 橘家 圓蔵(たちばなや えんぞう、1864年(没年齢からの逆算) - 1922年2月8日)は、明治大正期の江戸落語落語家[1]。本名∶松本 栄吉[1]品川歩行(かち)新宿北品川よりも北側)居住で、その地で芸者屋を営んだことから、「品川の圓蔵」と呼ばれた[1]

来歴

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父は浅草向柳原で古着商を営んでいた[1]

15歳で父と、19歳で母と死別した[1]。父の知人が営む人形芝居(西川力蔵の一座)で修業したが、千葉県上総国下総国)の巡業先で相次いで大難に遭遇して嫌気が差し、帰京する[1]6代目三遊亭圓生によると、足の役ばかりなので見切りをつけたという[要出典]

帰京後、1887年6月に[要出典]4代目三遊亭圓生に入門し、「さん生」を名乗る[1]1887年7月に八丁堀の寄席「朝田亭」で初高座を踏んだ[1]

1890年9月、二つ目に昇進し[要出典]、4代目橘家圓蔵に改名[1]。このころ師匠圓生の薫陶を受け鍛えられた。

「・・・四代目圓生はわがままな人で、高座にあがってしゃべってるうちに『ちょいとすみません、お客様、下着を着て上がりましたが、どうも暑くてしょうがないから、今ぬいでまいりますから』って、すウっとおりちゃう。そして『おい、お前、ちょいと演ってな。』ってうちの師匠があげられるんですって。・・・とにかくその時分に、うまいうまいと評判の圓生がおりちゃって、弟子があがって演じるんですから大変なことです。・・・つまりそれで鍛えられたんでしょうね。情けですよ、こわい情けですけどね。・・・『あの時は実に苦しかったけど、今思えばやっぱりそれが師匠の情けだ』ってよく言ってました。」6代目三遊亭圓生[要出典]

1897年10月[要出典]に真打に昇進する[1]

1905年、「第一次落語研究会」の発起人の一人となる[1]。先輩格の他の落語家を差し置いての指名だった[1]。会員の中でできる演目が最も少ないのではないかと危惧されたが、実際に会が始まると一番多かったとされる[1]

1922年2月、 横浜の寄席「新富亭」 の上席に出演中に気管支喘息を発症し、休演後の同月8日に死去した[1]。享年59(満57歳もしくは58歳没)。没後の同年4月18日に、横浜の弘明寺に門弟や関係者により碑が建立された(墓碑銘は3代目柳家小さんの揮毫)[2]

師匠の4代目圓生は、生前「圓生は品川(圓蔵)に継がせる。」と語っていたが、圓蔵は結局圓生を襲名せぬまま死去した[要出典]

芸風

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立て板に水の能弁で、芥川龍之介は「この人は全身が舌だ」と感嘆したという[1]

落し噺、地噺などを得意とした[1]。主な演目に『弥次郎』『首提灯』『高尾』『お血脈』『廓の穴』などがある[1]。『首提灯』や『蔵前駕籠』は、圓蔵が話を膨らませたとされる[1]。田舎者が主人公の『松山鏡』『百川』『みいら取り』でも持ち味を発揮した[1]。一方、人情噺にはすぐれなかったとされる[1]

弟子の6代目三遊亭圓生の話では、『山門』で石川五右衛門が欄干に足をかけて久吉を睨みつけるのを「その顔色ってのは、噺家が永代橋シャッポを飛ばしたようなもんで」と警句を飛ばし、その上手さとおかしさに客席を沸かせたという[要出典]

人物

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妻は吉原遊廓芸者出身で、前記の芸者屋の名称「富桔梗(ふうききょう)」は彼女の名に由来する[1]

弟子の6代目三遊亭圓生は以下のような証言を残している[要出典]

「うちの師匠ってのは、きちんとした人でしたね。羽織なんかもなまじっかな前座にはたたませないんです。たたんでも気に入らない。たたむとこから何からじっと見てて、ちょっとでも曲がってたりなんかすると、ぱあっとひろげちゃって自分でたたみ直す。だから非常に気難しい人のように思われてたが、そういう訳じゃなくて、几帳面なんですね。」
「・・・決して、おさまったり容体ぶるってことがない、ざっくばらんな人なんです。夜なんぞは弟子たちとみんな一緒に話をしたりなんかするのが好きで、人の話を聞いてにこにこ笑いながら、時々警句をとばす。それがまたうまいんです。」
「・・・随分毒舌を吐き、ひとの悪口を言いましたが、それでいて相手を決しておこらせなかった。そこにやはり話術の妙というものがあったからだろうと思います。」

一門弟子

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門下(弟子)の育成には力を入れ3代目柳家小さんと並ぶほどだった。

色物

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廃業

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  • 橘家鶴蔵

脚注

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  1. 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 古今東西落語家事典 1989, pp. 138–139, 江戸・東京篇 七、落語研究会の名人達(四代目橘家圓蔵の項:担当は山本進).
  2. 竹内秀雄「故 六代目三遊亭圓生師を偲んで」『煙洲先生と横浜』煙洲会、1984年4月4日、pp.105 - 109(該当記述はp.109にある)

参考文献

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  • 諸芸懇話会; 大阪芸能懇話会 編『古今東西落語家事典平凡社、1989年4月7日。ISBN 4-582-12612-X