柳亭市馬
柳亭 市馬(りゅうてい いちば)または三遊亭市馬(さんゆうてい いちば)は落語家の名跡。柳亭市馬の当代は4代目を名乗る。最後に三遊亭市馬を名乗った落語家も4代目を名乗った(後述)。
- 歴代
初代
[編集]| 初代 | |
| 本名 | 味波 庄太郎 |
|---|---|
| 別名 | 野ざらしの市馬 |
| 生年月日 | 不詳年 |
| 没年月日 | 1924年 |
| 出身地 | |
| 師匠 | 2代目三遊亭小圓朝 土橋亭里う馬(6代目または7代目) 3代目柳家小さん |
| 名跡 | 1. 三遊亭金我 (時期不明) 2. 土橋亭里う好 (時期不明) 3. 柳家小三太 (? - 1910年) 4. 柳家歌太郎 (1910年 - 1916年) 5. 春風燕柳 (1916年 - 1918年) 6. 初代柳亭市馬 (1918年 - 1924年) |
| 活動期間 | ? - 1924年? |
| 家族 | 三遊亭市馬(叔父) |
| 所属 | 三遊派 柳派 |
俗に初代 柳亭 市馬(りゅうてい いちば、生年不詳 - 1924年(大正13年)?[2])は、明治から大正にかけての落語家。本名:味波 庄太郎[2]。三遊亭市馬(味波文之助、上記)の甥とされる[2][注釈 1]。享年について『古今東西落語家事典』は「60歳前後カ」と記す[2]。別名「野ざらしの市馬」
経歴・人物 (初代)
[編集]初代三遊亭金馬に入門し、三遊亭金我の名を与えられる[2]。その後6代目土橋亭里う馬または7代目土橋亭里う馬の門下に転じ、土橋亭里う好に改名[2]。1900年代の前半(1902年 - 1906年・明治30年代後半)には3代目柳家小さんの門に転じ、柳家小三太となる[2]。1910年ごろに柳家歌太郎、1916年1月に春風燕柳に改名[2]。
『古今東西落語家事典』は「一時大阪に飛び出したことがあったらしい」と記し[2]、1910年代に神戸で活動していた橘ノ圓都は回想の中で、神戸の寄席で分裂騒動が起きた際に市馬(出典書籍では「市場」と誤記)にも支援を仰いだが、その後再び統合される段になって興行主が圓都を残して市馬らを切るというのに納得ができず一時噺家を退いたと述べている[3]。
1917年に演芸会社が発足した際には小さん一門として「会社派」に所属した[2]。1918年3月に叔父の名である市馬に改名することになったが、柳派所属だったため亭号を「柳亭」とした[2]。「柳亭市馬」の名跡は、この市馬を初代とし、以降代数を重ねている。
1918年か1919年ごろから東西会に移るも、晩年は不遇だったとされる[2]。
関東大震災後に8代目林家正蔵(当時は3代目三遊亭圓楽)が訪ねたところ病気で寝ていたが、翌年に死去したという[2]。死去時点での年齢について8代目正蔵は「六十歳ぐらいじゃァなかったでしょうかねぇ」と述べている[2]。
芸風 (初代)
[編集]6代目三遊亭圓生によるとよく演じたのは『野ざらし』『船徳』『石返し』『へっつい幽霊』『尻餅』などだったが、何をやってもうまかったと評している[2]。
一方、冒頭に愚痴っぽい話を長くするため、席亭や他の落語家の心証はよくなかったという[2]。
落語のほか音曲でも才能を見せ、叔父(三遊亭市馬)から伝えられた『推量節』が有名だった[2][4]。『ご存じ古今東西噺家紳士録』の「噺家紳士録」(市馬の解説は橘左近)によると、ほかにも江戸初代文廼家かしくと組んで太鼓と歌を交互に担当するレコードを残している[4]。
2代目
[編集]| 2代目 | |
| 本名 | 小山 喜太郎 |
|---|---|
| 別名 | 左官屋の市馬 |
| 生年月日 | 1892年11月11日 |
| 没年月日 | 不詳年 |
| 出身地 | |
| 師匠 | 7代目土橋亭里う馬 2代目蜃気楼龍玉 |
| 名跡 | 1. 土橋亭龍若 2. 蜃気楼龍若(1918年 - 1920年) 3. 三遊亭圓璃(1920年 - 1924年) 4. 2代目三遊亭市馬(1924年 - 1927年) 5. 柳家五蝶(1927年) 6. 2代目柳亭市馬(1927年 - 1936年) 7. 5代目五明楼玉輔(1936年 - 1938年) 8. 2代目柳亭市馬(1938年 - ?) |
| 出囃子 | @ |
| 活動期間 | 1918年 - ? |
| 所属 | 三遊派 柳派 |
2代目 柳亭 市馬(りゅうてい いちば、1892年11月11日 - 没年不詳[1])は、大正から昭和にかけての落語家。本名:小山 喜太郎[1]。俗に「左官屋の市馬」と呼ばれる[5]。
経歴・人物 (2代目)
[編集]元の家業が左官屋だったため、「左官屋の市馬」と呼ばれる[5]。林家彦六 (8代目林家正蔵)によると、生まれ育ちが「佐竹」の「下町っ子」で[注釈 2]、柳亭左鏡が率いた天狗連の「左鏡連」に所属していたという[7]。
『古今東西落語家事典』は、最初に7代目土橋亭里う馬の門人となり、土橋亭龍若を名乗ったとする[1]。1920年ごろ、2代目蜃気楼龍玉の門下に移り、蜃気楼圓璃となる[1]。一方、『ご存じ古今東西噺家紳士録』の「噺家紳士録」は1918年ごろに2代目蜃気楼龍玉に入門して「蜃気楼龍若」を名乗り、1920年ごろに三遊亭圓璃に名を改めたとする[5]。
1921年4月に真打に昇進した[5]。1924年5月に2代目三遊亭市馬を襲名する[1][5]。『ご存じ古今東西噺家紳士録』の「噺家紳士録」は、人気が低迷したために襲名を実施したとする[5]。林家彦六によれば、ひいき筋にはインテリが多かったという[7]。妻も女学校を出た女性だった[5][7]。
このあとの名跡につき『古今東西落語家事典』は襲名からまもなく亭号を柳亭に改め、1927年に柳家五蝶と改名するも、ほどなく市馬に復したとする[1]。一方『ご存じ古今東西噺家紳士録』の「噺家紳士録」は亭号の変更を記さず、1927年4月に柳亭五蝶となったが同月中に柳亭市馬になったとする[5]。
1935年ごろ5代目五明楼玉輔を襲名[5]。これは4代目五明楼玉輔の実子で、当時廃業し新宿で洋食店を経営していた五明樓玉の助から名跡を譲り受けたものだった[5]。しかし1938年、柳亭市馬に再改名した[5]。『古今東西落語家事典』によると1943年まで名簿に名前が掲載されているが、没年は不明である[1]。『ご存じ古今東西噺家紳士録』の「噺家紳士録」は没年を「昭和20年頃? 」とする[5]。これが正しければ1945年前後の死去となる。
得意演目は『夢金』だった[5]。怪談噺や人情噺は左鏡から伝えられた[5][7]。林家彦六によれば、ラジオ放送で口演が途中で止まるアクシデントを起こし、アナウンサーが「病気で倒れた」と説明してレコードをかけて穴を埋めたことが芸歴のつまずきになったという[7]。
3代目
[編集]| 3代目 | |
| 本名 | |
|---|---|
| 別名 | ポコちゃんの市馬 |
| 生年月日 | 1902年4月20日 |
| 没年月日 | 1955年12月28日(53歳没) |
| 出身地 | |
| 師匠 | 3代目三遊亭圓遊 |
| 名跡 | 1. 月の家月松 (? - 1924年) 2. 3代目三遊亭三福 (1924年 - 1942年) 3. 4代目三遊亭圓楽 (1942年 - 1947年) 4. 3代目柳亭市馬 (1947年 - 1955年) |
| 活動期間 | ? - 1955年 |
| 活動内容 | 落語 幇間 太神楽 |
| 所属 | 三遊派 柳派 |
3代目 柳亭 市馬(りゅうてい いちば、1902年4月20日 - 1955年12月28日[1])は、大正から昭和にかけての落語家。本名:柴田 一[1]。俗に「ポコちゃんの市馬」[8]。
経歴 (3代目)
[編集]2代目月の家圓鏡に入門し、月の家月松を名乗る[1]。1924年に師匠の前名のひとつである三遊亭三福を3代目として襲名した[1]。『ご存じ古今東西噺家紳士録』の「噺家紳士録」は改名を1924年5月とし、真打昇進も同月とする[8]。
芸風・人物 (3代目)
[編集]幇間、大神楽、ピン芸(一口芝居)などの余芸もものにした[8]。3代目三遊亭圓歌の実家を間借りして生活しており、圓歌に落語家になることを勧めたのは市馬である[要出典]。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 古今東西落語家事典 1989, p. 458, 索引小事典―江戸・東京.
- 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 古今東西落語家事典 1989, pp. 161–162, 江戸・東京篇 八、睦会と諸派(柳亭市馬の項).
- ↑ わが心の自叙伝 1973, pp. 59–60.
- 1 2 橘左近「噺家紳士録(野ざらしの市馬 初代柳亭市馬の項)」『ご存じ古今東西噺家紳士録』
- 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 橘左近「噺家紳士録(左官屋の二代目柳亭市馬の項)」『ご存じ古今東西噺家紳士録』
- ↑ 竹町地区 - 台東区
- 1 2 3 4 5 林家正蔵「圓楽時代§柳亭市馬」『林家正蔵集』 別巻 『正蔵一代』、青蛙房、1974年、109-111頁。NDLJP:12476443/62。
- 1 2 3 「噺家紳士録(ポコちゃんの三代目柳亭市馬の項・担当は橘左近)」『ご存じ古今東西噺家紳士録』