ハッド (潜水艦)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。水雷艇鷂 (会話 | 投稿記録) による 2020年11月3日 (火) 11:50個人設定で未設定ならUTC)時点の版であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

艦歴
発注
起工 1941年10月1日[1]
進水 1942年6月12日[1]
就役 1942年10月9日[1]
退役 1946年2月16日[1]
除籍 1958年8月1日[1]
その後 1959年5月4日にスクラップとして売却[1]
性能諸元
排水量 1,525トン(水上)[2]
2,424トン(水中)[2]
全長 307 ft (93.6 m)(水線長)
311 ft 9 in (95.02m)(全長)[2]
全幅 27.3 ft (8.31 m)[2]
吃水 17.0 ft (5.2 m)(最大)[2]
機関 ホーヴェン=オーエンス=レントシュラー(H.O.R.)ディーゼルエンジン 4基
(換装後)ゼネラルモーターズ278A16気筒6,500馬力ディーゼルエンジン 4基
ゼネラル・エレクトリック2,740馬力発電機2基[2]
最大速 水上:21 ノット (39 km/h)[3]
水中:9 ノット (17 km/h)[3]
航続距離 11,000カイリ(10ノット時)
(19 km/h 時に 20,000 km)[3]
試験深度 300 ft (90 m)[3]
巡航期間 潜航2ノット (3.7 km/h) 時48時間、哨戒活動75日間[3]
乗員 (平時)士官6名、兵員54名[3]
兵装 (竣工時)3インチ砲1基、20ミリ機銃[4]
(1943年12月)4インチ砲1基、20ミリ機関銃2基、30口径機銃[5]
(1945年6月)5インチ砲1基、40ミリ機関砲2基[6]
21インチ魚雷発射管10基

ハッド (USS Haddo, SS-255) は、アメリカ海軍潜水艦ガトー級潜水艦の一隻。艦名はアメリカ合衆国及びカナダ沿岸に生息するカラフトマス(ピンクサーモン)の通称に因む。なお、退役から18年後にパーミット級原子力潜水艦6番艦として2代目ハッド (SSN-604)が就役している。

カラフトマス(通称Haddo

艦歴

ハッドはコネチカット州グロトンエレクトリック・ボート社で起工する。1942年6月21日にチャールズ・F・ラッセル夫人によって進水し、艦長ウォーレス・L・レント少佐(アナポリス1925年組)の指揮下10月9日に就役する。

大西洋での第1から第3の哨戒 1943年4月 - 7月

ハッドはニューイングランド水域での整調後、1943年4月9日にニューロンドンを出航。最初の哨戒を兼ねてスコットランドロスネース英語版への大洋航路を警戒巡航する。4月30日、ハッドは21日間の哨戒を終えてロスネースに帰投。第50潜水艦部隊に合流し、ノルウェーに潜むドイツ艦隊の出動に備えた。

5月18日[7]、ハッドは2回目の哨戒でアイルランド西方海上に向かった[8]。しかし、この哨戒では敵を見なかった。6月23日、ハッドは37日間の行動を終えてロスネースに帰投[9]。艦長がジョン・コーブス少佐(アナポリス1930年組)に代わった。

7月10日、ハッドは3回目の哨戒で大西洋に向かった[4]。この時点で、この方面は獲物が少ないことがはっきりしており、ハッドや僚艦はそのままアメリカ本国に帰ることとなった。7月29日、ハッドは19日間の行動を終えてニューロンドンに帰投[4]。帰投後、ハッドは8月17日から18日にかけて、ニューポートに於いてマーク18型電池魚雷英語版の試験に従事した[4]。その後、ハッドは太平洋艦隊に配属されることとなり、8月21日にニューロンドンを出航[4]パナマ運河を経由して9月13日にカリフォルニア州メア・アイランド海軍造船所に到着し、オーバーホールに入った[4]。このオーバーホールで、旧式でトラブルが多く信頼性に欠けていたH.O.R.エンジンを、本来搭載されるGM社製278A16気筒エンジンに換装した[4]。オーバーホールが終わると真珠湾に回航され、11月25日に到着した[4]

第4、第5、第6の哨戒 1943年12月 - 1944年7月

12月14日、ハッドは4回目の哨戒でタリビー (USS Tullibee, SS-284) 、ハダック (USS Haddock, SS-231) 、ハリバット (USS Halibut, SS-232) とともにフィリピン方面に向かった[4]ルソン島沿いを行動して敵とのいくつかの接触を得たものの、戦果を挙げることはなかった[10]。1944年2月4日、ハッドは53日間の行動を終えてフリーマントルに帰投。艦長が太平洋艦隊司令長官チェスター・ニミッツの長男であるチェスター・W・ニミッツ・ジュニア少佐(アナポリス1936年組)に代わった。

2月29日、ハッドは5回目の哨戒で南シナ海に向かった。ジャワ海マカッサル海峡を経て哨戒海域に入るコースを進んだハッドは、3月8日に南緯07度59分 東経115度03分 / 南緯7.983度 東経115.050度 / -7.983; 115.050ロンボク海峡で敵艦船を発見して魚雷を3本発射したが、魚雷が早期爆発を起こしたため失敗した[11]。3月14日夜、ハッドは南緯00度33分 東経119度08分 / 南緯0.550度 東経119.133度 / -0.550; 119.133のマカッサル海峡北方でタンカーとその護衛艦を発見するが、その護衛艦は「旧スチュワート」に酷似していた[12]。ハッドはタンカーに対して魚雷を3本、「旧スチュワート」に対して魚雷を3本の計6本発射し、1つの不確実な命中を記録した[12][注釈 1]。ハッドはミンドロ海峡を経由して南シナ海に入り、インドシナ半島沖に進む[13]。3月23日夜、ハッドは北緯14度34分 東経109度25分 / 北緯14.567度 東経109.417度 / 14.567; 109.417キノン北方25キロの地点で海軍徴傭船第三寿宝丸(入交商店、430トン)[14][15]を発見し、魚雷を2本発射したが命中した様子がなかったので、浮上して4インチ砲で砲撃し、第三寿宝丸は海岸に座礁した[14][16]。3月29日未明、ハッドは北緯17度39分 東経109度54分 / 北緯17.650度 東経109.900度 / 17.650; 109.900の海南島近海でレーダーによりタサ13船団を発見[17][18]。魚雷を4本発射し、輸送船日安丸(日産汽船、6,197トン)に命中させて損傷を与えた[18][19][20]。4月1日未明にもハッドは北緯16度36分 東経109度06分 / 北緯16.600度 東経109.100度 / 16.600; 109.100の地点で沿岸輸送船と護衛艦を発見し、魚雷を2本発射して1本を命中させたと判断した[21]。4月4日夜にもレーダーで13ノットで航行中と思われる大きな目標を探知し、翌4月5日未明に北緯12度16分 東経111度20分 / 北緯12.267度 東経111.333度 / 12.267; 111.333の地点で浮上攻撃によりタンカー永洋丸(日本油槽船、8,673トン)と護衛艦に対し魚雷を計7本発射したが、命中しなかった[22][23]。4月22日、ハッドは54日間の行動を終えてフリーマントルに帰投した。

5月18日、ハッドは6回目の哨戒で東インド諸島セレベス海方面に向かった。5月30日にモロタイ島沖で航空機の制圧を受けて潜航避退した後、浮上して観測すると6隻の輸送船団を発見[24]。攻撃を試みたが、どうしても射程圏に接近することができなかった。6月11日、ハッドは北緯07度13分 東経123度13分 / 北緯7.217度 東経123.217度 / 7.217; 123.217の地点で2隻の250トン級トロール船型輸送船を発見し、浮上砲戦で撃沈した[25]。6月14日まではタウィタウィに在泊している第一機動艦隊小沢治三郎中将)の監視を行った。その後航空機に発見され、以後の10日間は「発見されては潜航して避退」の繰り返しだった。7月16日、ハッドは59日間の行動を終えてフリーマントルに帰投した。

第7の哨戒 1944年8月 - 10月

8月8日、ハッドは7回目の哨戒でヘイク (USS Hake, SS-256) 、ハーダー (USS Harder, SS-257) 、レイ (USS Ray, SS-271) とウルフパックを構成し、南シナ海およびルソン島近海に向かった[26]。8月18日昼過ぎ、レイがパラワン島沖でミ12船団を発見し、陸軍タンカー南星丸(拿捕船、元イギリス船プレイドン/日東汽船委託、5,878トン)を撃沈した。レイは以後もミ12船団と接触を続けたが、ミ12船団は8月20日にミンドロ島パルアン湾に入泊。同じ日の夜にハーダーからミンドロ島カラビテ岬沖で会合するという連絡が入った[27]。翌8月21日未明、ハッドはハーダーと会合し、レイとギターロ (USS Guitarro, SS-363) も呼び寄せてあることを教えられる[28]。ミ12船団は朝に航行を再開してマニラに向かった。ウルフパックは、ミ12船団が湾外に出てくるところを見計らって船団を攻め立てた。ハッドは7時30分ごろに北緯13度23分 東経120度19分 / 北緯13.383度 東経120.317度 / 13.383; 120.317の地点で3隻の輸送船に対し魚雷を6本発射し、輸送船のるほうく丸川崎汽船、6,576トン)の左舷機関室に1本が命中して、輸送船金龍丸(大光商船、4,392トン)にも魚雷が命中[29]。のるほうく丸は急速に沈み、8時過ぎには金龍丸も沈没した。また、2TL型戦時標準タンカーの太栄丸(日東汽船、10,045総トン)にも魚雷1本が向かったものの、魚雷は太栄丸の中央部船底下を通過してルソン島の岩に命中して爆発した。護衛艦は100発以上もの爆雷を投下したものの、ウルフパックにはなんら損害はなかった。攻撃が終わると、ハッドはハーダーとともにマニラ湾に向かった。

海防艦佐渡

翌8月22日4時ごろ、ハッドとハーダーは北緯14度25分 東経120度00分 / 北緯14.417度 東経120.000度 / 14.417; 120.000バターン半島マリベレス英語版の西方50キロ地点で、レーダーにより3個の目標を探知した。この3個の目標は、ヒ71船団を護衛して8月18日から21日にかけて対潜掃討を行い、その後マニラに向かっていた海防艦佐渡松輪日振であった。海防艦はルソン島寄りから松輪、日振が平行し、佐渡はその後ろを航行し三角形の陣形を成していた。2隻は機会をうかがいつつ追尾したが、ハッドからはやや攻撃しにくい態勢だったらしく、ニミッツは攻撃すべきかどうか判断しかねていた。ハーダー艦長サミュエル・D・ディーレイ少佐(アナポリス1930年組)から「(攻撃は)いけそうだ。目標は小さくない」とニミッツにはっぱをかけ、ともに雷撃を行った[30]。ハッドとハーダーが一斉に雷撃を行った結果、魚雷は槍襖のように海防艦に向かっていき、いずれも命中する結果となった。ハッドは魚雷を3本発射し、うち1本は佐渡の中央部に命中し、航行不能に陥らせた[30][31]。間髪入れず二度目の攻撃で魚雷を3本発射したが、これは命中しなかった[32]。三度目の雷撃でも魚雷を3本発射し、佐渡にふたたび魚雷を命中させて、ついに佐渡を撃沈した[33]。また、後部だけ浮いていた日振には命中せず、日振はハーダーが仕留めた[30]。ハッドは夜に入って別の駆逐艦を発見し魚雷を4本発射したが、命中しなかった[34]

駆逐艦朝風(1924年)
測量艦勝力

8月23日朝、ハッドとハーダーは北緯16度06分 東経119度44分 / 北緯16.100度 東経119.733度 / 16.100; 119.733のルソン島ボリナオ英語版沖でタンカー二洋丸(浅野物産、10,022トン)と駆逐艦朝風を発見[35]。ハッドは二洋丸を攻撃するつもりで魚雷を5本発射したが、魚雷は朝風に1本が命中[36]。大破し、行動不能となった朝風は付近を通りかかった機帆船の曳航でダソル湾に座礁したが夜になって沈没した。この攻撃でハッドは魚雷を使い果たしたが、今回の哨戒がまだ10日あまりしか経っていなかったので、一旦ミオス・ウンディ島に戻って魚雷を補給してから哨戒を再開することにして、ヘイクと入れ替わるようにハーダーと別れた。ハーダーは翌日討ち取られた。8月30日、ハッドはミオス・ウンディ島に到着し補給を行った[37]。補給を終えたハッドは9月3日に出航[37]。9月7日に輸送船団を発見して攻撃に移ろうとしたが、護衛艦に発見され潜航避退を余儀なくされ、その間に目標の輸送船団は去ってしまった[38]。翌9月8日には北緯11度48分 東経121度10分 / 北緯11.800度 東経121.167度 / 11.800; 121.167の地点で日の丸を掲げたサンパンを発見し、浮上砲戦で撃ち沈めた[39]。その後スービック湾方面に移動し、フィリピンを空襲する第38任務部隊マーク・ミッチャー中将)の支援に従事した。9月20日、ハッドは北緯13度27分 東経120度15分 / 北緯13.450度 東経120.250度 / 13.450; 120.250のミンドロ島カラビテ岬沖で輸送船団を発見し、魚雷を4本発射して「神風型駆逐艦」に1つの命中があったことを報告[40]。9月21日には病院船高砂丸大阪商船、9,347トン)を発見したが、当然ながら無視。ニミッツ艦長は高砂丸のことを「美しい病院船」と戦時日誌に記した[41]。その夜、ハッドは小雨が降る中で、ブルネイに向かっていた測量艦勝力を発見。ハッドは魚雷6本を発射し、うち1本が右舷前部に命中した勝力はあっという間に前部につんのめるようにして沈んでいき、北緯13度03分 東経119度20分 / 北緯13.050度 東経119.333度 / 13.050; 119.333の地点で沈没した[42][43]。9月22日には、第38任務部隊の搭乗員を救助した[44]。10月3日、ハッドは52日間の行動を終えてフリーマントルに帰投。ニミッツ艦長は一連の哨戒で海軍殊勲部隊章を受章して転勤した。これにより、艦長がフランク・C・リンチ・ジュニア少佐(アナポリス1938年組)に代わった。

第8、第9の哨戒 1944年10月 - 1945年7月

10月28日、ハッドは8回目の哨戒でルソン島西岸方面に向かった[45]。11月9日午後、ハッドは北緯12度24分 東経120度45分 / 北緯12.400度 東経120.750度 / 12.400; 120.750のミンドロ海峡でB02船団を発見して魚雷を3本発射し、魚雷は特設運送船(給油)第二菱丸(近海油槽船、856トン)に命中して撃沈した[46]。11月25日には北緯14度01分 東経119度20分 / 北緯14.017度 東経119.333度 / 14.017; 119.333のマニラ湾口西南西海上で海防艦占守第13号海防艦を発見[47]。魚雷を6本発射し、占守の艦首に魚雷を1本命中させて撃破した[20][48][49]。12月6日夜にも北緯14度43分 東経119度39分 / 北緯14.717度 東経119.650度 / 14.717; 119.650の地点でシマ臨時船団を発見し、浮上攻撃で魚雷を計10本発射して3つの爆発を確認し、特設運送船(給油)第三共栄丸(共栄タンカー、1,182トン)と交戦した[20][50]。敵艦船攻撃の合間には前回に引き続いて搭乗員救助の任務に当たったあと、ハッドは本国への帰還を命じられた。12月27日、ハッドは60日間の行動を終えて真珠湾に帰投。3日後に出航し、1945年1月5日にメア・アイランド海軍造船所に到着してオーバーホールに入った。オーバーホールを終えたハッドは5月16日に真珠湾を出航し、サイパン島タナパグ港に進出した[51]

5月31日、ハッドは9回目の哨戒で東シナ海黄海方面に向かった。ハッドはティランテ (USS Tirante, SS-420) 、シーオウル (USS Sea Owl) 、パファー (USS Puffer, SS-268) のウルフパックに合流した[52]。前半は長崎近海で哨戒し[53]、6月13日朝には北緯32度30分 東経128度56分 / 北緯32.500度 東経128.933度 / 32.500; 128.933の地点で海防艦に対して魚雷を3本発射して少なくとも1本を命中させ、目標の撃沈を報じる[54]。後半は朝鮮半島近海に狩場を変えた。7月1日昼ごろ、ハッドは北緯38度08分 東経124度35分 / 北緯38.133度 東経124.583度 / 38.133; 124.583の朝鮮半島西岸長山串付近で、霧の中で大連から徳山に向かっていたタフ船団の接近をレーダーで探知。まず魚雷を計8本発射し、7つの爆発を報じる[55]。この攻撃で3隻の輸送船、坤利丸(政記輸船、3,106トン)、第一大雲丸(大阪商船、2,220トン)および新蜜紹号(蜜紹商船、3,106トン)を一気に撃沈した[56][57]。続いてマーク28型誘導魚雷を発射して第72号海防艦の艦尾に魚雷を命中させて撃沈[58][59]。ハッドは浮上してその場を立ち去ろうとしたが、他の護衛艦の射撃を受けて小破したので、ハッドは潜航避退して難を逃れた。翌7月2日夕刻、ハッドは北緯38度02分 東経124度41分 / 北緯38.033度 東経124.683度 / 38.033; 124.683の地点で2隻のジャンクを浮上砲戦で撃沈し[60]、大連沖に向かった。7月3日にも北緯38度27分 東経121度00分 / 北緯38.450度 東経121.000度 / 38.450; 121.000の地点でディーゼルトロール船あるいは小型タンカーを発見し、まず40ミリ機関砲で射撃を行ったのち、浮上したまま魚雷を3本発射したものの命中せず、哨戒艇をうまく交わした[61]。7月16日、ハッドは46日間の行動を終えてグアムアプラ港に帰投した。

8月10日、ハッドは10回目の哨戒で日本近海に向かったが、間もなく日本が降伏したため哨戒は終了した。終戦を迎えると、ハッドはこの近辺にいた僚艦とともに東京湾に向かい、9月2日に戦艦ミズーリ (USS Missouri, BB-63) 艦上で行われた降伏文書調印式に参列した。参列後帰路に就き、真珠湾を経由して9月28日にパナマ運河を通過し、10月6日にニューロンドンに到着した。

戦後

ハッドは1946年2月16日に退役し保管された。そのまま現役に戻ることがないまま1958年8月1日に除籍され、1959年4月30日にスクラップとしてペンシルベニア州フィラデルフィアのルリア・ブラザーズ社に売却された。

7回目の哨戒における海軍殊勲部隊章に加えて、ハッドは第二次世界大戦の戦功で6個の従軍星章を受章した。ハッドの第5、第7、第8、第9回目の哨戒は成功として記録された。

脚注

注釈

  1. ^ ちなみに「本物(第102号哨戒艇)」は3月14日、パラオに停泊中である(#PB102p.5)。

出典

  1. ^ a b c d e f #Friedmanpp.285-304
  2. ^ a b c d e f #Bauer
  3. ^ a b c d e f #Friedmanpp.305-311
  4. ^ a b c d e f g h i #SS-255, USS HADDOp.26
  5. ^ #SS-255, USS HADDOp.26,85
  6. ^ #SS-255, USS HADDOpp.276-277
  7. ^ #SS-255, USS HADDOp.13
  8. ^ #SS-255, USS HADDOp.17
  9. ^ #SS-255, USS HADDOp.18
  10. ^ #SS-255, USS HADDOp.37
  11. ^ #SS-255, USS HADDOp.51, pp.72-73
  12. ^ a b #SS-255, USS HADDOp.55, pp.74-75
  13. ^ #SS-255, USS HADDOpp.56-57
  14. ^ a b #十一特根1903p.15
  15. ^ #十一特根p.167
  16. ^ #SS-255, USS HADDOpp.57-58, pp.75-76, p.85
  17. ^ #SS-255, USS HADDOp.59,78
  18. ^ a b #一護1903p.73
  19. ^ #SS-255, USS HADDOpp.78-79
  20. ^ a b c The Official Chronology of the U.S. Navy in World War II Chapter VI: 1944” (英語). HyperWar. 2012年5月28日閲覧。
  21. ^ #SS-255, USS HADDOpp.61-62, pp.80-81
  22. ^ #SS-255, USS HADDOpp.62-63, pp.82-83
  23. ^ #十一特根1904p.28
  24. ^ #SS-255, USS HADDOp.100,121
  25. ^ #SS-255, USS HADDOpp.107-108, p.129
  26. ^ #SS-255, USS HADDOp.139
  27. ^ #SS-255, USS HADDOp.143
  28. ^ #SS-255, USS HADDOp.144
  29. ^ #SS-255, USS HADDOpp.144-147, pp.190-191
  30. ^ a b c #Blairp.718
  31. ^ #SS-255, USS HADDOp.148, pp.192-193
  32. ^ #SS-255, USS HADDOp.148, pp.194-195
  33. ^ #SS-255, USS HADDOp.149, pp.196-197
  34. ^ #SS-255, USS HADDOp.150, pp.199-200
  35. ^ #SS-255, USS HADDOpp.151-152
  36. ^ #SS-255, USS HADDOp.152, pp.201-202, p.216
  37. ^ a b #SS-255, USS HADDOp.154
  38. ^ #SS-255, USS HADDOpp.155-156
  39. ^ #SS-255, USS HADDOp.157,207
  40. ^ #SS-255, USS HADDOpp.162-164, pp.203-204
  41. ^ #SS-255, USS HADDOp.165
  42. ^ #SS-255, USS HADDOp.166
  43. ^ #勝力(2)p.24
  44. ^ #SS-255, USS HADDOp.168
  45. ^ #SS-255, USS HADDOp.218
  46. ^ #SS-255, USS HADDOpp.222-223, pp.252-253
  47. ^ #SS-255, USS HADDOp.254
  48. ^ #SS-255, USS HADDOpp.254-255
  49. ^ #海防艦戦記p.59
  50. ^ #SS-255, USS HADDOpp.235-237, pp.256-259
  51. ^ #SS-255, USS HADDOp.277
  52. ^ #SS-255, USS HADDOpp.279-280
  53. ^ #SS-255, USS HADDOp.283
  54. ^ #SS-255, USS HADDOpp.283-285, pp.310-311
  55. ^ #SS-255, USS HADDOp.294, pp.312-313
  56. ^ The Official Chronology of the U.S. Navy in World War II Chapter VII: 1945” (英語). HyperWar. 2012年5月28日閲覧。
  57. ^ #駒宮p.376
  58. ^ #SS-255, USS HADDOp.333, pp.381-383
  59. ^ #海防艦戦記pp.859-860
  60. ^ #SS-255, USS HADDOp.297,318
  61. ^ #SS-255, USS HADDOpp.297-299, pp.314-315

参考文献

  • (issuu) SS-255, USS HADDO. Historic Naval Ships Association. http://issuu.com/hnsa/docs/ss-255_haddo?mode=a_p 
  • アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
    • Ref.C08030630800『自昭和十九年三月一日至昭和十九年三月三十一日 第百二号哨戒艇戦時日誌』。 
    • Ref.C08030257600『自昭和十九年三月一日至昭和十九年三月三十一日 第十一特別根拠地隊戦時日誌』、12-22頁。 
    • Ref.C08030257600『自昭和十九年四月一日至昭和十九年四月三十日 第十一特別根拠地隊戦時日誌』、23-322頁。 
    • Ref.C08030140300『自昭和十九年三月一日至昭和十九年三月三十一日 第一海上護衛隊戦時日誌』、54-78頁。 
    • Ref.C08030635800『特務艦勝力戦闘詳報(第六号) 昭和十九年九月二十一日「マニラ」沖戦闘』、18-23頁。 
    • Ref.C08030635800『昭和十九年九月二十一日 特務艦(測量艦)勝力沈没顛末報告』、24-45頁。 
  • Roscoe, Theodore. United States Submarine Operetions in World War II. Annapolis, Maryland: Naval Institute press. ISBN 0-87021-731-3 
  • 財団法人海上労働協会(編)『復刻版 日本商船隊戦時遭難史』財団法人海上労働協会/成山堂書店、2007年(原著1962年)。ISBN 978-4-425-30336-6 
  • Blair,Jr, Clay (1975). Silent Victory The U.S.Submarine War Against Japan. Philadelphia and New York: J. B. Lippincott Company. ISBN 0-397-00753-1 
  • 海防艦顕彰会(編)『海防艦戦記』海防艦顕彰会/原書房、1982年。 
  • 駒宮真七郎『戦時輸送船団史』出版協同社、1987年。ISBN 4-87970-047-9 
  • 木俣滋郎『敵潜水艦攻撃』朝日ソノラマ、1989年。ISBN 4-257-17218-5 
  • 木俣滋郎『日本海防艦戦史』図書出版社、1993年。ISBN 4-8099-0192-0 
  • Bauer, K. Jack; Roberts, Stephen S. (1991). Register of Ships of the U.S. Navy, 1775-1990: Major Combatants. Westport, Connecticut: Greenwood Press. pp. 271-273. ISBN 0-313-26202-0 
  • Friedman, Norman (1995). U.S. Submarines Through 1945: An Illustrated Design History. Annapolis, Maryland: United States Naval Institute. ISBN 1-55750-263-3 
  • 野間恒『商船が語る太平洋戦争 商船三井戦時船史』野間恒(私家版)、2004年。 
  • 林寛司(作表)、戦前船舶研究会(資料提供)「特設艦船原簿/日本海軍徴用船舶原簿」『戦前船舶』第104号、戦前船舶研究会、2004年。 
  • 大塚好古「米潜水艦の兵装と諸装備」『歴史群像 太平洋戦史シリーズ63 徹底比較 日米潜水艦』学習研究社、2008年、173-186頁。ISBN 978-4-05-605004-2 

外部リンク