黒潮 (駆逐艦)
艦歴 | |
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計画 | マル3計画 |
起工 | 1937年8月31日 |
進水 | 1938年10月25日 |
就役 | 1940年1月27日 |
その後 | 1943年4月28日戦没 |
除籍 | 1943年6月20日 |
要目 | |
排水量 | 基準:2,033トン |
全長 | 118.5メートル |
全幅 | 10.8メートル |
吃水 | 3.8メートル |
機関 | 艦本式衝動タービン2基2軸 ロ号艦本式缶3基 52,000馬力 |
最大速 | 35.5ノット |
航続距離 | 5,000浬/18ノット |
兵員 | 239人 |
兵装 (竣工時) |
50口径12.7cm連装砲×3 25mm連装機関砲(機銃)×2 61cm魚雷発射管4連装×2 対潜水艦用爆雷16個 他 |
黒潮(くろしお/くろしほ)は、日本海軍の駆逐艦。陽炎型の3番艦である。
艦歴
藤永田造船所で1937年8月に起工、1940年1月に竣工し同時に第15駆逐隊に編入された。
1941年6月23日、連合艦隊の第16回応用訓練が終了した午後6時頃、日向灘で同型艦「夏潮」に衝突し停止していた朝潮型「峯雲」に、後続していたため追突し損傷を受けた。修理は呉工廠において約1ヶ月間かけて行われた。
太平洋戦争開戦時には、同型艦「親潮」「早潮」「夏潮」と共に第2水雷戦隊第15駆逐隊に所属。1941年12月、ダバオ、ホロ攻略作戦に参加した。
1942年1月4日、メナド攻略作戦に参加し、以降、ケンダリー攻略作戦、アンボン攻略作戦、マカッサル攻略作戦に参加。2月8日、マカッサル沖で米潜水艦「S-37」(USS S-37, SS-142)の雷撃を受け航行不能となった僚艦「夏潮」をケンダリーまで曳航したが、途中の2月9日に「夏潮」は浸水のため沈没した。以後、クーパン攻略作戦、ジャワ南方機動作戦に参加、3月15日、スターリング湾を出港し、呉まで空母「加賀」を護衛した。4月にフィリピン、カガヤン攻略作戦に参加後、5月10日、マニラを出港し呉まで空母「翔鶴」を護衛した。また、ドーリットル空襲のあった4月18日には宮崎県都井岬沖で敵機に対して主砲10発と機銃31発を発射したが戦果は無かった[1]。
6月のミッドウェー海戦では第11航空戦隊の護衛任務に就いた。7月にはペナン沖で対潜警戒活動を実施、8月からガダルカナル島輸送に10回従事した。10月、南太平洋海戦、翌月、第三次ソロモン海戦・ルンガ沖夜戦に参加。
1943年1月以降、ルッセル島攻略、ガダルカナル島撤退作戦に参加。2月4日、コロンバンガラ島東方で米軍機の攻撃を受け小破し、21日から呉工廠で修理を行った。4月2日、横須賀を出港し、空母「大鷹」「冲鷹」をトラックまで護衛した。
4月、ムンダやコロンバンガラ島の部隊が栄養不良などのために戦力が低下していたため部隊の補充交代が実施されることになり、4月29日から5月8日にかけて駆逐艦による6回のコロンバンガラ輸送が行われることになった[2]。黒潮は4月29日の第一回、5月3日の第三回と参加したが[3]、毎回同じ航路を取ったため5月6日にアメリカの機雷敷設艦ブリーズ、プレーブル、ギャンブルがブラケット水道に機雷を敷設した[4]。5月7日17時、黒潮は駆逐艦親潮、陽炎とともにブインから第五回の輸送に出発した[3]。3隻は前回同様ファーガスン水道、ブラケット水道を通って8日1時ごろにコロンバンガラ島ビラ沖に入泊し、搭載人員、物資を下ろして帰還者を乗せると3時10分ごろに出港した[5]。3時49分、アウェイ島北西約0.6海里で親潮が触雷[6]。それを潜水艦の雷撃と考えた黒潮と陽炎は爆雷を投下したが、4時11分ごろに今度は陽炎が触雷し、5時6分に黒潮も触雷して瞬時に沈没した[6]。損傷した親潮と陽炎も結局沈没した。黒潮では83名の戦死者が出た[6]。
6月20日に除籍。
歴代艦長
艦長
- 岡本次郎 中佐:1940年1月27日 -
- 前田新一郎 中佐:1940年11月15日 -
- 宇垣環 中佐:1941年9月10日 -
- 竹内一 中佐:1942年11月10日 -
- 杉谷永秀 中佐:1943年2月23日 -
脚注
参考文献
- 防衛庁防衛研修所戦史室、『戦史叢書 南東方面海軍作戦3 ガ島撤収後』、朝雲新聞社、1976年
- 木俣滋郎、『日本水雷戦史』、図書出版社、1986年
参考資料
- 雑誌「丸」編集部『ハンディ版 日本海軍艦艇写真集17 駆逐艦 初春型・白露型・朝潮型・陽炎型・夕雲型・島風』光人社、1997年。