鵜藤俊平

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鵜藤 俊平
1936年、ベルリンにて
選手情報
フルネーム うとう しゅんぺい
国籍 日本の旗 日本
生年月日 (1918-12-01) 1918年12月1日(105歳)
生誕地 静岡県小笠郡佐束村
獲得メダル
日本の旗 日本
競泳
オリンピック
1936 ベルリン 男子 400m自由形
1936 ベルリン 男子 1500m自由形
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鵜藤 俊平(うとう しゅんぺい、1918年大正7年)12月1日 - )は、日本水泳選手。1936年ベルリンオリンピック400m自由形銀メダリスト、1500m自由形銅メダリスト。

概要[編集]

1936年ベルリンオリンピック400メートル自由形で銀メダル、1500メートル自由形で銅メダルを獲得している。立教大学出身。

経歴[編集]

1936年、1500m自由形メダリストのジャック・メディカ(左)、寺田登(中央)と

静岡県小笠郡佐束村出身[1][註釈 1]。競泳は旧制掛川中学校(現在の静岡県立掛川西高等学校)に入ってから始めた[2]。中学在籍時の1934年、当時県下に知られた名門中農(現在の磐田農業高校)の強豪選手を破り、一躍注目を浴びる。「すぐに入学してベルリンを目指せ」という熱心な誘いに乗り卒業まで1年を残して1935年立教大学へ進学(掛川中学は卒業待遇となった)[2]

1936年のベルリンオリンピックでは400m自由形でジャック・メディカに次ぐ銀メダル[2]、1500m自由形でも寺田登、メディカに次いで銅メダルを獲得した[3]

戦後は生活が苦しく一時はメダルも質屋に預けたこともある[1]。1950年に新潟日報に入社したが職場でもいじめを受け、下戸であったため左遷され部長止まりだった[1]。定年退職後は千葉市で農業を行っていると2000年に報じられた[1]

2001年以降の動向に関してはメディアで報道されていないが2018年の誕生日で満100歳となり、確実な記録の残る日本のオリンピックメダリストでは初となった[註釈 2]

2019年4月にニューヨーク在住のスポーツライター・及川彩子がTwitter上で所在について情報提供を求めるツイートをしたが、ツイートの返信では有益な情報は集まっていなかった[4]。しかし、旧制掛川中学校・掛川西高校の同窓会報誌『東京冀北会会報』<第31号 令和元年11月16日発行>において、「2019年4月に東京冀北会のHPに、ニューヨーク在住のスポーツライターの方から鵜藤さんの所在について問合せメールが入った」「……その後鵜藤さんはご存命とわかり、更に息子さんと連絡が取れ、オリンピックのメダルは鵜藤さんの手元にあるということです。」との記載があり所在と存命が確認された[5]

脚注[編集]

註釈[編集]

  1. ^ 静岡県小笠郡佐束村は、のちの静岡県掛川市に該当する。
  2. ^ それ以前の日本のメダリストでは、1932年ロサンゼルスオリンピックホッケー代表(銀メダル)の浜田駿吉の99歳(2009年没)が最高齢である。

出典[編集]

  1. ^ a b c d 「あのメダルは今」”. 日刊スポーツ (2000年3月21日). 2010年3月6日閲覧。
  2. ^ a b c OBが五輪で「銀」逸材育てた水泳部”. 中日新聞 (2000年8月24日). 2010年3月6日閲覧。
  3. ^ 寺田登-無心の19歳、水のマラソン制す”. サンケイスポーツ (2004年). 2010年3月6日閲覧。
  4. ^ Ayako Oikawa [@AyakoOikawa] (2019年4月15日). "【#拡散希望】そのアメリカ人男性はベルリン五輪で水泳代表だった鵜藤俊平さんも探されています。". X(旧Twitter)より2020年2月29日閲覧
  5. ^ 『東京冀北会会報』<第31号 令和元年11月16日発行>”. 2020年7月8日閲覧。

外部リンク[編集]