跡見花蹊
あとみ かけい 跡見 花蹊 | |
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生誕 | 1840年5月10日![]() (現在の大阪市浪速区) |
死没 | 1926年1月10日(85歳没) |
職業 | 教育者、日本画家、書家 |
著名な実績 | 跡見女学校創立 |
親 | 跡見重敬[1](父、「跡見塾」経営) |
親戚 | 跡見玉枝(従妹) 跡見泰(甥) |
家族 | 跡見李子(養女、万里小路通房の娘) |
跡見 花蹊(あとみ かけい、1840年5月10日(天保11年4月9日) - 1926年(大正15年)1月10日)は、日本の教育者、日本画家、書家。学校法人跡見学園の創設者。甥は浦和画家の跡見泰。
人物・概要[編集]
摂津国西成郡木津村(現在の大阪市浪速区)生まれ。本名は瀧野。父重敬は寺子屋を営んでいた。幼少時より書や画などを習い、12歳の時石垣東山に入門、その後禎野楚山について画を学ぶ。
17歳の時の1856年(安政3年)に京都に遊学する。頼山陽門下の宮原節庵に漢籍、詩文、書を学ぶ。画は円山応立・中島来章から円山派(写生派)を、日根対山から南宗派(文人派)をそれぞれ学び、それぞれを生かした画風を作り上げた。その後1859年(安政6年)に大坂に戻り、父が大坂・中之島(現在の大阪市北区)に開いていた私塾「跡見塾」を継いだ。
その後1866年(慶応2年)に京都に移って私塾を開く。1870年(明治3年)には京都の私塾を閉じて上京し、東京神田猿楽町で私塾を開く。次いで明治8年(1875年)には東京・神田中猿楽町(現在の東京都千代田区)に「跡見女学校」を開校した。この跡見女学校が、現在の跡見学園のルーツとなっている。
幕末・明治維新の混沌を目の当たりにしたことで女子教育の重要性を認識したことが、跡見の教育方針の原点となっている。跡見女学校では古来の文化や風俗を重視し、漢学や書道、茶道、体操などを導入し、知識習得だけにとどまらない情操教育を図った。
1871年(明治4年)3月8日、外務省から清国向けの画帖を依頼される。この作品は現在、台北の国立故宮博物院に『故画 清花蹊女子冊頁』として所蔵されている。故画とあることから、当時の清国皇帝同治帝に献上されたものと考えられ、日清修好条規を締結する際に、日本国から清国皇帝に献上されたものの一つとされた可能性が高いとされる[2]。
1887年(明治20年)3月9日、『東京日日新聞』に花蹊訃報の誤った記事が掲載され、お悔やみを述べる使者が次々と訪れ、お供え用の花、菓子、香典まで届く事態となる。そのようななかでも花蹊は、いつもどおりに授業を行い、数日後には、跡見女学校の転居地として小石川柳町の土地を決める[3]。このエピソードは教育者としての花蹊の熱意を物語るものといえよう。
また教育者としてだけでなく、日本画家書家としても活躍した。明治5年(1872年)と26年(1893年)御前揮毫の栄誉を賜り、学校経営者としてのみならず画家としても著名だった。書家としても「跡見流」といわれる書風を築き上げた。
家族[編集]
- 父方従妹の跡見玉枝(1859~1943)も日本画家で、桜の絵を良くしたことで知られる。紀州新宮藩士跡見勝三の娘で、花蹊から四条派絵画の手ほどきを受け、長谷川玉峰、望月玉泉らに師事、京都高等女学校の教師を経て上京し、跡見学校や共立女子職業学校(現・共立女子大学)で教師をしながら画家活動を続けた[4]。1904年、セントルイス万国博覧会に出品して銅賞を受賞、滞米中にボストン美術館で個展も開催した[5]。帰国後、内親王御用係を務め、皇室にたびたび画を献上した[4]。
- 万里小路通房の娘・李子を養女にし、跡見女学校の二代目校長とした。