貴ノ嶺明彦
貴ノ嶺 明彦(たかのみね あきひこ、1959年1月23日 - )は、福岡県遠賀郡水巻町出身で井筒部屋(入門時は君ヶ濱部屋)に所属した大相撲力士。本名は岡崎 明彦(おかざき あきひこ)。現役時代の体格は185cm、102kg。最高位は東前頭12枚目(1989年3月場所)。得意手は右四つ、上手投げ、血液型はB型。
来歴・人物
[編集]水巻町立水巻中学校、福岡県立遠賀高等学校ではラグビーに熱中したが、高校を5ヵ月ほどで中退して君ヶ濱部屋へ入門。1974年9月場所で初土俵を踏んだ。当初の四股名は、本名でもある「岡崎」。因みに母方の叔父は、かつて「別府」という名の出羽海部屋の力士だった。なお所属は、師匠(元関脇・鶴ヶ嶺)が君ヶ濱から井筒へ年寄名を変更した事に伴い、1978年1月場所より井筒部屋に変わっている。
取的時代が長く何度も辞めようと思ったが、努力の甲斐あって、1988年7月場所では東幕下10枚目の地位で琴錦(19歳で十両に昇進したものの、当時は幕下に陥落していた)や久島海・小城ノ花・鎌苅(のちの貴闘力)[1]といった当時のホープ達を次々と破って全勝優勝を遂げた。翌9月場所、初土俵から苦節14年で新十両に昇進。すると気持ちが吹っ切れたのか、十両で3場所連続勝ち越して、一気に入幕を果たした。所要84場所での十両昇進、同87場所での新入幕はともに当時の最スロー記録(新十両の記録は後に出羽の郷が、新入幕のそれは星岩涛が更新)。左上手から、振り回すような上手投げが得意であった。
新入幕の場所では苦戦し、4勝11敗と大敗して幕内はこの1場所のみで終わったが、当場所の頑張りは師匠や部屋の関取衆から大いに称えられた。現役晩年は幕下43枚目まで陥落し、1991年5月場所後、32歳で廃業。同場所では初日の黒星以外は勝ち続けて6勝1敗の好成績を残し、有終の美を飾った。
廃業後は暫くの間、大阪府東大阪市の相撲料理店「朝潮」に勤務していた。
現在は、新聞配達員として働いているという(『情報ライブ ミヤネ屋』、2011年2月10日放送回より)。
故郷の水巻町歴史資料館には、化粧廻しが展示されている[2]。
エピソード
[編集]- 年下の弟弟子で自身より先に関取になった大関・霧島や関脇・逆鉾、関脇・寺尾からは「岡崎さん」と、本名で呼ばれていた。
- 1989年3月場所では、逆鉾・寺尾の兄弟がともに関脇に在位した上、貴ノ嶺が新入幕を果たし、井筒部屋は1977年12月に14代井筒が再興して以降最多となる幕内力士6人の大所帯となり、番付発表の際には取材が殺到した。これに対して兄弟の実父であり、師匠でもあった14代井筒は「今場所の番付は家宝」と発言していた。但し同場所では貴ノ嶺を含む当該6人は、霧島(10勝5敗)以外全員負け越してしまった。
主な戦績
[編集]- 通算成績:403勝376敗9休 勝率.517
- 幕内成績:4勝11敗 勝率.267
- 現役在位:100場所
- 幕内在位:1場所
- 各段優勝
- 幕下優勝:1回(1988年7月場所)
場所別成績
[編集]一月場所 初場所(東京) |
三月場所 春場所(大阪) |
五月場所 夏場所(東京) |
七月場所 名古屋場所(愛知) |
九月場所 秋場所(東京) |
十一月場所 九州場所(福岡) |
|
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1974年 (昭和49年) |
x | x | x | x | (前相撲) | 西序ノ口16枚目 3–4 |
1975年 (昭和50年) |
西序ノ口8枚目 4–3 |
東序二段85枚目 3–4 |
西序二段92枚目 3–4 |
東序二段100枚目 5–2 |
西序二段66枚目 4–3 |
西序二段43枚目 4–3 |
1976年 (昭和51年) |
東序二段25枚目 3–4 |
西序二段39枚目 2–5 |
西序二段59枚目 5–2 |
西序二段18枚目 4–3 |
東三段目88枚目 2–5 |
西序二段21枚目 5–2 |
1977年 (昭和52年) |
西三段目63枚目 2–5 |
東序二段筆頭 4–3 |
西三段目75枚目 5–2 |
西三段目37枚目 2–5 |
東三段目61枚目 5–2 |
東三段目22枚目 1–4–2 |
1978年 (昭和53年) |
東三段目52枚目 休場 0–0–7 |
西序二段7枚目 5–2 |
東三段目59枚目 3–4 |
東三段目71枚目 5–2 |
東三段目44枚目 6–1 |
東幕下60枚目 2–5 |
1979年 (昭和54年) |
東三段目24枚目 3–4 |
東三段目41枚目 6–1 |
東幕下55枚目 5–2 |
西幕下35枚目 2–5 |
東幕下58枚目 4–3 |
東幕下47枚目 4–3 |
1980年 (昭和55年) |
西幕下37枚目 3–4 |
西幕下47枚目 3–4 |
西三段目2枚目 3–4 |
西三段目13枚目 5–2 |
東幕下49枚目 3–4 |
西三段目2枚目 1–6 |
1981年 (昭和56年) |
西三段目29枚目 6–1 |
東幕下50枚目 3–4 |
西幕下60枚目 4–3 |
東幕下46枚目 5–2 |
西幕下28枚目 2–5 |
東幕下45枚目 2–5 |
1982年 (昭和57年) |
西三段目6枚目 5–2 |
西幕下42枚目 4–3 |
西幕下32枚目 3–4 |
東幕下47枚目 3–4 |
東三段目5枚目 5–2 |
東幕下47枚目 4–3 |
1983年 (昭和58年) |
西幕下38枚目 3–4 |
東幕下51枚目 5–2 |
西幕下31枚目 2–5 |
東幕下55枚目 1–6 |
東三段目30枚目 5–2 |
東三段目4枚目 5–2 |
1984年 (昭和59年) |
東幕下43枚目 4–3 |
東幕下34枚目 5–2 |
東幕下18枚目 3–4 |
東幕下27枚目 4–3 |
東幕下19枚目 4–3 |
東幕下12枚目 2–5 |
1985年 (昭和60年) |
西幕下31枚目 5–2 |
東幕下16枚目 5–2 |
東幕下8枚目 4–3 |
東幕下5枚目 3–4 |
西幕下10枚目 2–5 |
西幕下25枚目 5–2 |
1986年 (昭和61年) |
西幕下12枚目 4–3 |
西幕下8枚目 2–5 |
東幕下24枚目 4–3 |
西幕下17枚目 3–4 |
西幕下27枚目 5–2 |
西幕下14枚目 4–3 |
1987年 (昭和62年) |
西幕下9枚目 4–3 |
西幕下6枚目 5–2 |
東幕下2枚目 2–5 |
東幕下17枚目 2–5 |
西幕下38枚目 3–4 |
東幕下49枚目 6–1 |
1988年 (昭和63年) |
東幕下25枚目 4–3 |
西幕下14枚目 5–2 |
西幕下5枚目 3–4 |
東幕下10枚目 優勝 7–0 |
西十両11枚目 8–7 |
西十両8枚目 10–5 |
1989年 (平成元年) |
西十両筆頭 9–6 |
東前頭12枚目 4–11 |
西十両4枚目 6–9 |
西十両9枚目 7–8 |
西十両10枚目 7–8 |
西十両12枚目 8–7 |
1990年 (平成2年) |
西十両9枚目 8–7 |
東十両6枚目 5–10 |
東十両13枚目 5–10 |
西幕下6枚目 1–6 |
東幕下34枚目 3–4 |
東幕下43枚目 5–2 |
1991年 (平成3年) |
東幕下25枚目 3–4 |
西幕下32枚目 3–4 |
東幕下42枚目 引退 6–1–0 |
x | x | x |
各欄の数字は、「勝ち-負け-休場」を示す。 優勝 引退 休場 十両 幕下 三賞:敢=敢闘賞、殊=殊勲賞、技=技能賞 その他:★=金星 番付階級:幕内 - 十両 - 幕下 - 三段目 - 序二段 - 序ノ口 幕内序列:横綱 - 大関 - 関脇 - 小結 - 前頭(「#数字」は各位内の序列) |
幕内対戦成績
[編集]力士名 | 勝数 | 負数 | 力士名 | 勝数 | 負数 | 力士名 | 勝数 | 負数 | 力士名 | 勝数 | 負数 |
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旭道山 | 0 | 1 | 高望山 | 0 | 1 | 琴富士 | 0 | 1 | 貴ノ浜 | 0 | 1 |
孝乃富士 | 1 | 0 | 隆三杉 | 0 | 1 | 多賀竜 | 1 | 0 | 玉龍 | 0 | 1 |
栃乃和歌 | 0 | 1 | 富士乃真 | 1 | 0 | 益荒雄 | 0 | 1 | 三杉里 | 0 | 1 |
両国 | 0 | 1 |
改名歴
[編集]- 岡崎(おかざき、1974年11月場所-1976年1月場所)
- 貴ノ嶺(たかのみね、1976年3月場所-1991年5月場所)
脚注
[編集]- ^ 貴闘力の著書「大相撲土俵裏」(彩図社、2022年10月)p.12~によれば、七番相撲の貴ノ嶺-鎌苅戦において、逆鉾・霧島が鎌苅に対し星を譲るよう求めた、としている(鎌苅が応じなかったため八百長は成立せず)。
- ^ 元関取・貴ノ嶺化粧まわし水巻町歴史資料館
関連項目
[編集]- 大相撲力士一覧
- 渡辺浩司 - 元・日本ハムファイターズ内野手。プロ14年目でレギュラーの座を掴むも、その後尻すぼみに終わる。