設楽幸嗣

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
したら こうじ
設楽 幸嗣
本名
生年月日 (1946-06-04) 1946年6月4日(77歳)
出生地 日本の旗 日本 山形県酒田市
職業 作曲家編曲家音楽プロデューサー俳優子役
ジャンル 劇場用映画テレビ映画
活動期間 1955年 -
著名な家族 設楽幸聖 (父)
一楽庵宗美 (母)
武満徹 (叔父)
事務所 F.B.C. Performing Arts
公式サイト https://www.fbc1978.com/
主な作品
お早よう
テンプレートを表示

設楽 幸嗣(したら こうじ、1946年6月4日 - )は、日本の作曲家編曲家音楽プロデューサーであり、元俳優、元子役俳優である[1][2][3][4][5][6][7]。本名同じ[1][5]

人物・来歴[編集]

1946年(昭和21年)6月4日山形県酒田市に生まれる[1][2][3][5]。父は設楽幸聖(日本正統運命学研究会会長)、母は一楽庵宗美石州流茶道)、作曲家の武満徹は叔父にあたる[1][3]

父の幸聖が松竹の洋画宣伝部に在籍していた1951年(昭和26年)、『夢と知りせば』に出演する子役を探していた同作の監督の中村登に見いだされ、木暮実千代演じる「阿久津絹代」の息子「光久」役で同作に出演、同作は1952年(昭和27年)1月3日に公開されて映画界にデビューした[1][4][5]。1953年(昭和28年)には東宝に貸し出され、千葉泰樹監督の『愛情について』、熊谷久虎監督の『白魚』、杉江敏男監督の『サラリーマンの歌』、および南旺映画製作、新東宝配給、斎藤達雄監督の『純情社員』にも出演した[1][4][5][6]。1959年(昭和34年)には学校法人玉川学園中学校に進学、高校も同学園に進学した[1]

1965年(昭和40年)には国立音楽大学作曲科に入学、在学中もNHK総合テレビジョンおはなはん』等に出演したが、1969年(昭和44年)3月、同学を卒業と同時に俳優業からは引退、音楽の道に進む[1]。1971年(昭和46年)、満25歳でアメリカ合衆国ロサンゼルスに留学、1975年(昭和50年)に帰国した[1]。1978年(昭和53年)8月29日・8月30日の両日、日本武道館で行われたアリスのライヴで、設楽が作詞・作曲した『10000人の讃歌 -FBC組曲"WE ARE NOT ALONE"より- "WE ARE TOGETHER"』が採用され、同ライヴを収録したアルバム『栄光への脱出〜武道館ライブ』の最後の曲として、同年10月5日にリリースされた。1980年代以降の一時期、劇場用映画やテレビ映画の劇伴音楽の作曲も手がけた[4][5]

フィルモグラフィ[編集]

すべてクレジットは「出演」あるいは「音楽」である[4][5][6]。特筆以外すべて製作は「松竹大船撮影所」、配給は「松竹」である[4]。公開日の右側には役名、および東京国立近代美術館フィルムセンター(NFC)所蔵等の上映用プリントの現存状況についても記す[8][9]

出演
音楽

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i キネマ旬報社[1979], p.268.
  2. ^ a b 設楽幸嗣jlogos.com, エア、2012年12月3日閲覧。
  3. ^ a b c 設楽幸嗣フェイスブック、2012年12月3日閲覧。
  4. ^ a b c d e f 設楽幸嗣日本映画データベース、2012年12月3日閲覧。
  5. ^ a b c d e f g 設楽幸嗣KINENOTE、2012年12月3日閲覧。
  6. ^ a b c 設楽幸嗣、映画データベース、東宝、2012年12月3日閲覧。
  7. ^ 設楽幸嗣テレビドラマデータベース、2012年12月3日閲覧。
  8. ^ a b c d e f g h 設楽幸嗣東京国立近代美術館フィルムセンター、2012年12月3日閲覧。
  9. ^ a b 所蔵映画フィルム検索システム、東京国立近代美術館フィルムセンター、2012年12月3日閲覧。

参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]