肥田次郎
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肥田 次郎(ひだ じろう、1906年(明治39年)9月28日[1] – 1974年(昭和49年)5月10日[2][3])は、大正から昭和期の労働運動家、政治家。衆議院議員。
経歴
[編集]岡山県[3]で貧しい小作農家に生れる[4]。八百屋、呉服屋、食堂などで働き大阪に移った[4]。
1921年(大正10年)ころ初めてメーデーに参加[4]。1922年(大正11年)南海鉄道(後の南海電気鉄道)に電気工夫として入社[4]。電気労働組合に加入[4]。独学でアナキズムを学んだ[4]。1923年(大正12年)大阪英語学校初等科で学び[2][3]、徴兵され陸軍伍長で除隊[2]。南海鉄道技師となる[2]。
戦後、南海電鉄労働組合執行委員長、日本私鉄労働組合関西地方連合会執行委員長、大阪地方交通運輸労働組合協議会議長、大阪府地方労働委員、同あっせん委員などを務めた[2][3]。
1960年(昭和35年)11月の第29回衆議院議員総選挙に大阪府第5区から左派社会党公認で出馬して初当選[5]。1963年(昭和38年)11月の第30回総選挙(日本社会党公認)でも再選され[6]、衆議院議員に連続2期在任した[2][3]。この間、裁判官訴追委員予備員、衆議院運輸委員会理事、社会党大阪府連副委員長、同選挙対策委員長、同党物価対策特別委員会事務局長、同交通政策副委員長、同港湾対策特別委員会事務局長、同私鉄対策特別委員会事務局長などを務めた[2][3]。
その後、日本私鉄労働組合総連合会顧問、南海労働組合顧問などに就任した[2][3]。
国政選挙歴
[編集]- 第27回衆議院議員総選挙(大阪府第5区、1955年2月、左派社会党公認)落選[7]
- 第28回衆議院議員総選挙(大阪府第5区、1958年5月、日本社会党公認)次点落選[5]
- 第29回衆議院議員総選挙(大阪府第5区、1960年11月、日本社会党公認)当選[5]
- 第30回衆議院議員総選挙(大阪府第5区、1963年11月、日本社会党公認)当選[6]
- 第31回衆議院議員総選挙(大阪府第5区、1967年1月、日本社会党公認)次点落選[6]
- 第32回衆議院議員総選挙(大阪府第5区、1969年12月、日本社会党公認)次点落選[8]
脚註
[編集]参考文献
[編集]- 大阪図書出版編『大阪紳士録 第1版』大阪図書出版、1959年。
- 白鳥令監修『激動の日本政治史 明治大正昭和 歴代国会議員史録(下巻)』阿坂書房、1979年。
- 衆議院・参議院『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 『国政選挙総覧 1947-2016』日外アソシエーツ、2017年。
- 肥田次郎、随想「氏より育ち」『月刊社会党』71、日本社会党中央本部機関紙局、1963年5月、100-101頁。