石川三四郎

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石川 三四郎(いしかわ さんしろう、1876年5月23日 - 1956年11月28日)は、日本の社会運動家・アナーキスト作家。筆名の「旭山」も使用する。

来歴[編集]

1876年5月23日埼玉県児玉郡山王堂村[1]に、戸長であった五十嵐九十郎・シゲの三男として生まれる[2]。生家は、利根川沿岸で江戸時代から船着き問屋を営み、名主も務めてきた家であった。父は三四郎が兵役にとられるのを嫌い、「一家の主人」には兵役免除が適用されるため[2]、同村の石川半三郎の養子とした。

東京法学院に在学中、海老名弾正本郷教会に通ってキリスト教に接近し、卒業のころに受洗する。

1901年7月に東京法学院を卒業、高等文官試験を断念し、堺利彦花井卓蔵の斡旋で『万朝報』の発行所である朝報社に入社する[2]

1903年11月、『万朝報』が日露反戦論から開戦論に転換したことを受けて朝報社を退社していた堺と幸徳秋水平民社を開業すると、これに同調して朝報社を退社し平民社に合流[3]非戦論社会主義を主張して週刊『平民新聞』や『直言』に多くの論説を発表した。平民社は第1次桂内閣の弾圧を受け、『平民新聞』はたびたび発売禁止となり、石川や幸徳、堺らには罰金刑や投獄が繰り返された[4]

1905(明治38)年1月、『平民新聞』が1周年記念に『共産党宣言』を翻訳・掲載したことを契機に、幸徳らは逮捕、印刷機械等が没収され、『平民新聞』は廃刊に追い込まれた[4]。平民社の解散以後、石川は木下尚江の誘いを受けキリスト教社会主義の立場を採る『新紀元』を創刊。この時期、田中正造と行動を共にし、足尾銅山鉱毒事件に取り組んだ。この頃『日本社会主義史』を執筆[5]

1906(明治39)年6月、渡米から帰国した幸徳が労働者の直接行動を訴えると、石川は『新紀元』を廃刊して幸徳と合流し[要出典]、翌1907(明治40)年1月に幸徳とともに『日刊・平民新聞』の刊行を強行[5]。同紙は3ヵ月で廃刊に追い込まれた[5]。また、日本社会党の分裂を阻止するため第2回大会で加入し、堺と並んで幹事に選出された。

1910(明治43)年5月、大逆事件の際は、事件前に雑誌『世界婦人』に書いた記事により禁固・罰金刑を受けて同年7月28日まで留置されており、釈放後再び拘束され家宅捜索を受けたものの、嫌疑なしとして釈放された[6]。翌1911(明治44)年1月18日に大審院で幸徳ら24人は死刑判決を受け、石川は処刑3日前の同月21日に東京監獄で幸徳らと面会している[7]

1912(明治45)年に『哲人カアペンター』を翻訳出版[8]徳富蘆花が序文を寄せ、石川の人物について紹介した[8]

[いつ?]石川は大逆事件に大きな衝撃を受け、ベルギーや中国のアナキストの支援を受けてヨーロッパに渡った。イギリス、フランス、ベルギーなどでルクリュ一家やエドワード・カーペンターなどと親交を結び、第一次世界大戦に遭遇。[いつ?]第一次大戦後、日本に帰国。

1921(大正10)年10月、欧州行のため乗船した箱根丸侯爵徳川義親と知り合う[9]。帰国後、国電田端の崖の上の長屋で暮らし、訳書『エリゼ・ルクリュ』、『社会運動史』を執筆[10]。この頃、徳川に娘のフランス語の家庭教師として雇用される[11]

1923(大正12)年9月、関東大震災直後に田端警察署に拘束されたが、同署を訪れた徳川により釈放され、衰弱していたため、また東京にいると危険だとして、北海道・八雲町徳川農場に移され、静養[12]。翌1924年1月に帰京し、清浦内閣の頃、徳川による貴族院改革案の起草に協力した[13]

大杉栄死後の日本のアナキズムの中心人物の一人となる。1927年(昭和2年)、共学社を設立。1929年(昭和4年)、雑誌「ディナミック」を創刊。

石川は、多くのアナキストが満州事変前後に農本主義などに絡めとられていく中、満州事変を鋭く批判してアナキズムの孤塁を守った。

石川は、デモクラシーを「土民生活」と翻訳し、独自の土民生活・土民思想を主張、大地に根差し、農民や協同組合による自治の生活や社会を理想としたが、権力と一線を画し下からの自治を重視した点において、農本主義とは異なるものだった。太平洋戦争中は、独自の歴史観から東洋史研究にも取り組んだ。

敗戦直後に「無政府主義宣言」を書き、日本アナキスト連盟を組織。昭和天皇への共鳴と支持を主張して、左派やアナキストからの非難を受けたが、石川がもともと通常の右や左の範疇に属さない、独自の論理と思想の人間であったことを考えれば、戦中の抵抗も敗戦時の天皇支持も、石川においては一貫した独自の感性や思想に基づいたものだったといえる。

養女に評論家の望月百合子がいる。

著書・史料[編集]

  • 『日本社会主義史』1906年。
  • 『哲人カアペンター』東雲堂書店、1912年。NCID BN07275115
  • 『近世土民哲学』1933年。
  • 『社会美学としての無政府主義』1946年、組合書店(組合叢書)。
  • 『石川三四郎選集』全7巻、黒色戦線社。
  • 『石川三四郎著作集』全8巻、青土社。
  • 唐沢柳三編『石川三四郎書簡集』、ソオル社、1957年12月。

登場作品[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 1889年から1954年まで合併により児玉郡旭村、現在の埼玉県本庄市山王堂
  2. ^ a b c 中野 1977, p. 79.
  3. ^ 中野 1977, pp. 79-81.
  4. ^ a b 中野 1977, pp. 81-82.
  5. ^ a b c 中野 1977, p. 82.
  6. ^ 中野 1977, p. 83.
  7. ^ 中野 1977, pp. 52,83.
  8. ^ a b 中野 1977, p. 78.
  9. ^ 中野 1977, p. 77.
  10. ^ 中野 1977, p. 84.
  11. ^ 中野 1977, pp. 84-85.
  12. ^ 中野 1977, pp. 86-87.
  13. ^ 中野 1977, pp. 88-92.

参考文献[編集]

  • 板垣哲夫『近代日本のアナーキズム思想』、吉川弘文館、1996年3月。ISBN 4-642-03661-X
  • 稲田敦子『共生思想の先駆的系譜-石川三四郎とエドワード・カーペンター』、木魂社、2000年1月。ISBN 4-87746-082-9
  • 大原緑峯〔=大沢正道〕『石川三四郎-魂の導師』(『シリーズ民間日本学者』11)、リブロポート、1987年10月。ISBN 4-8457-0287-8
  • 北沢文武『学問と愛、そして反逆』(『石川三四郎の生涯と思想』上)、鳩の森書房、1974年7月。
  • 北沢文武『学問と愛、そして反逆』(『石川三四郎の生涯と思想』下)、鳩の森書房、1974年8月。
  • 北沢文武『帝力、我に何かあらんや』(『石川三四郎の生涯と思想』完結編)、鳩の森書房、1976年4月。
  • 後藤彰信『石川三四郎と日本アナーキズム』、同成社、2016年7月。ISBN 978-4-88621-731-8
  • 埼玉県本庄市立図書館編『石川三四郎資料目録-埼玉県本庄市立図書館所蔵』、埼玉県本庄市立図書館、2000年3月。
  • 竹内則之「石川三四郎の「土民生活〔デモクラシー〕」思想-その生成と構造をめぐって」、『武蔵大学人文学会雑誌』第12巻第1号(通巻第44号)、1980年9月。
  • 津村喬「石川三四郎-自由で自然な生活をめざした生のあり方におけるアナキスト」、青地晨ほか『人物昭和史』8(漂泊の生涯)、筑摩書房、1978年6月。
  • 中野, 雅夫 『革命は芸術なり‐徳川義親の生涯』 学芸書林、1977年全国書誌番号:78013751
  • 西山拓「石川三四郎の理想社会論」、早稲田大学『ソシオサイエンス』第8号、2002年3月。
  • 西山拓「石川三四郎と消費組合-自主的消費組合構想について」、『協同組合研究』第21巻第4号(通巻第58号)、2002年6月。
  • 西山拓「石川三四郎の「社会文芸」の試み-創作「五十年後の日本」について」、『社会文学』第18号、2003年1月。
  • 米原謙「第一次世界大戦と石川三四郎-亡命アナキストの思想的軌跡」、『阪大法学』第46巻第2号、1996年6月。
  • 山口晃編『木学舎だより』(『石川三四郎研究・季刊個人誌』)創刊号(1997年9月)~

外部リンク[編集]