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'''2代目 桂小南'''(かつら こなん、[[1920年]][[1月2日]] - [[1996年]][[5月4日]])は、[[東京]]で[[上方落語]]を演じた[[落語家]]。特に「[[いかけ屋]]」で知られる。本名は谷田金次郎(たにた きんじろう)。
2代目 ''' 小南'''(かつら こなん、[[1920年]][[1月2日]] - [[1996年]][[5月4日]])は、[[東京]]で[[上方落語]]を演じた[[落語家]]。特に「[[いかけ屋]]」で知られる。本名は谷田 金次郎(たにた きんじろう)。


== 経歴 ==
== 経歴 ==
1920年([[大正]]9年)、[[京都府]][[北桑田郡]][[山国村]]井戸(現在の[[京都市]][[右京区]])に[[左官]]谷田政吉の三男として生まれる<ref name=annai71>[[#案内|『落語案内』(1982)pp.71-78]]</ref><ref group="注釈">生家は、[[臨済宗#臨済宗天龍寺派]]の[[常照皇寺]]のある十数戸よりなる[[集落]]にあり、小学校から4キロメートルも離れていた。[[#案内|『落語の案内』(1982)pp.71-72]]</ref>。[[小学校]]を修了したのちの[[1933年]]([[昭和]]8年)、京都市今出川寺町の印刷に奉公し、1年後の1934年(昭和9年)に京都市内の呉服問屋にうつった。呉服問屋では、すぐに東京[[日本橋 (東京都中央区)|日本橋]]に移された。丁稚修行から5年問屋につとめた後、[[1939年]](昭和14年)、[[三遊亭金馬 (3代目)|3代目三遊亭金馬]]の内弟子となり、[[山遊亭金太郎]]を名乗る。入門当初は金馬が[[東宝]]専属であったため、[[寄席]]の定席には出られず、主に[[東宝名人会]]で[[前座]]を務めていた。[[太平洋戦争]]中は召集を受け、[[1945年]](昭和20年)に復員した<ref group="注釈">部隊では金馬の弟子ということもあり、お座敷がかかって引っ張りだこの状態となったが、[[腸チフス]]のため死線をさまよったこともある。[[#案内|『落語案内』(1982)pp.129-134]]</ref>。[[1951年]]、定席の高座に出るために金馬の口利きで[[桂小文治 (2代目)|2代目桂小文治]]の身内となる。[[1958年]](昭和33年)9月、[[桂文楽 (8代目)|8代目桂文楽]]の好意で2代目桂小南を襲名して[[真打]]となった。[[落語芸術協会]]所属。[[出囃子 (落語)|出囃子]]は『野崎』
1920年([[大正]]9年)、[[京都府]][[北桑田郡]][[山国村]]井戸(現在の[[京都市]][[右京区]])に[[左官|左官業]]谷田政吉の三男として生まれる<ref name=annai71>[[#案内|『落語案内』(1982)pp.71-78]]</ref><ref group="注釈">生家は、[[臨済宗#臨済宗天龍寺派]]の[[常照皇寺]]のある十数戸よりなる[[集落]]にあり、小学校から4キロメートルも離れていた。[[#案内|『落語の案内』(1982)pp.71-72]]</ref>。[[小学校]]を修了したのちの[[1933年]]([[昭和]]8年)、[[京都市]]今出川寺町の印刷[[年季奉公|奉公]]し、1年後の[[1934年]](昭和9年)に京都市内の呉服問屋にうつった。呉服問屋では、すぐに東京[[日本橋 (東京都中央区)|日本橋]]に移された。


問屋に5年つとめた後、[[1939年]](昭和14年)、[[三遊亭金馬 (3代目)|3代目三遊亭金馬]]の内弟子となり、[[山遊亭金太郎]]を名乗る。入門当初は金馬が[[東宝]]専属であったため、[[寄席]]の定席には出られず、主に[[東宝名人会]]で[[前座]]を務めていた。[[太平洋戦争]]中は召集を受け、[[1945年]](昭和20年)に復員した<ref group="注釈">部隊では金馬の弟子ということもあり、お座敷がかかって引っ張りだこの状態となったが、[[腸チフス]]のため死線をさまよったこともある。[[#案内|『落語案内』(1982)pp.129-134]]</ref>。[[1951年]]、定席の高座に出るために金馬の口利きで[[桂小文治 (2代目)|2代目桂小文治]]の身内となる。[[1958年]](昭和33年)9月、[[桂文楽 (8代目)|8代目桂文楽]]の好意で2代目桂小南を襲名して[[真打]]となった。[[落語芸術協会]]所属。[[出囃子 (落語)|出囃子]]は『野崎』。
[[丹波国|丹波]][[り]]が抜けず伸び悩んでいたところ、師匠の三遊亭金馬(3代目より上方噺に転向するように言われ、それまで習得した江戸噺を封印した<ref name=iki20>[[#いき2|『落語のいき』(2009)pp.20-21]]</ref>。以降、大阪の「[[富貴 (寄席)|富貴]]」「[[戎橋松竹]]」などといった寄席に出かけては、ヘタリ([[囃子]]方)を勤めるら、上方の若手([[桂米朝 (3代目)|3代目桂米朝]]、[[桂春団治 (3代目)|3代目桂春團治]]、[[笑福亭松鶴 (6代目)|6代目笑福亭松鶴]]、[[桂文枝 (5代目)|5代目桂文枝]]ら)に混じって、古老落語家から上方噺を教わった。小南に稽古をつけた[[橘ノ圓都]]が自信を取り戻し高座に復帰したという例もあったが、これは[[上方落語]]復興の一側面を物語るエピソードある。


[[丹波国|丹波]][[日本語の方言のアクセント|なまり]]が抜けず伸び悩んでいたところ、師匠の3代目金馬より上方噺に転向するように言われ、それまで習得した江戸噺を封印した<ref name=iki20>[[#いき2|『落語のいき』(2009)pp.20-21]]</ref>。以降、大阪の「[[富貴 (寄席)#上本町の富貴|富貴]]」「[[戎橋松竹]]」などといった寄席に出かけては、ヘタリ([[囃子]]方)を勤めるかたわら、上方の若手([[桂米朝 (3代目)|3代目桂米朝]]、[[桂春団治 (3代目)|3代目桂春團治]]、[[笑福亭松鶴 (6代目)|6代目笑福亭松鶴]]、[[桂文枝 (5代目)|5代目桂文枝]]ら)に混じって、古老落語家から上方噺を教わった。このとき、小南に稽古をつけた[[橘ノ圓都]]が自信を取り戻し高座に復帰したという上方落語復興の一側面を物語るエピソードある。
独特な口調は「小南落語」とも呼ばれた。芸に厳しく、終生「稽古の鬼」と称された。[[1969年]](昭和44年)には[[文化庁]][[芸術祭 (文化庁)|芸術祭]]大賞を受賞しており、[[1968年]](昭和43年)と[[1981年]](昭和56年)には[[芸術祭 (文化庁)|文化庁芸術祭]]の奨励賞、[[1989年]]([[平成]]元年)には[[芸術選奨]]文部大臣賞を受賞した。


独特な口調は「小南落語」とも呼ばれた。芸に厳しく、終生「稽古の鬼」と称された。[[1969年]](昭和44年)には[[文化庁]][[芸術祭 (文化庁)|芸術祭]]大賞を受賞しており、[[1968年]](昭和43年)と[[1981年]](昭和56年)には文化庁芸術祭の奨励賞、[[1989年]]([[平成]]元年)には[[芸術選奨]]文部大臣賞を受賞した。
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1996年([[平成]]8年)に死去した。享年77(満{{没年齢|1920|1|2|1996|5|4}})。
1996年([[平成]]8年)に死去した。享年77(満{{没年齢|1920|1|2|1996|5|4}})。


== 得意ネタ ==
== 得意ネタ ==
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得意ネタは200を超える。
*『[[菊江の仏壇]]』
* 『[[いかけ屋]]』
*『帯久』
* [[帯久]]
*『土橋万歳
* [[菊江の仏壇]]
*『[[ぜんざい公社]]』
* 『[[三十石]]』
*『[[いかけ屋]]』
* 『[[しじみ屋]]』
*『[[菜刀息子]]』
* 『[[七度狐]]』
*『[[胴乱の幸助]]』
* 『[[ぜんざい公社]]』
*『[[河豚鍋]]』
* 『[[代書|代書屋]]』
*『[[三十石]]』
* 『[[胴乱の幸助]]』
*『[[箒屋娘]]』
* 『[[土橋萬歳]]』
*『[[夢八]]』
* 『[[菜刀息子]]』
*『[[七度狐]]』
* 『[[雛鍔]]』
*『[[しじみや]]』
* 『[[百年目]]』
*『[[百年目]]』
* 『[[河豚鍋]]』
*『[[代書屋]]』
* 『[[]]』
*『[[雛鍔]]』
* 『[[夢八]]』
*『[[ん廻し]]』 など。
* 『[[ん廻し]]』
: など、得意ネタは200を超えた。CBSソニーからLPレコードが残されている。

CBSソニーからLPレコードが残されている。


== エピソード ==
== エピソード ==
* 代小南の弟子に[[桂文楽 (8代目)|8代目文楽]]がおり彼が持つ「[[三遊亭右女助|右女助]]」の名跡を継ぐべく交渉に及んだ金太郎(当時、2代目小南)が、逆に文楽に見込まれ、文楽の師匠の名である「小南」を譲られることとなった。
* 2小南(当時金太郎)は、もとは「[[三遊亭右女助|右女助]]」の名跡を継ぐべく、[[桂文楽 (8代目)|8代目文楽]]との交渉に及んだが、逆に文楽に見込まれ、彼が持つもうひとつの名跡の「小南」を譲られることとなった(初代小南は文楽の師匠である)
* 出身地は京都府北桑田郡山国村(のちの[[京北町]])であるが、説明するのに面倒だからと「京都出身」で通していた。このため、京都市出身と理解する人も少なくなかった。なお、[[2005年]](平成17年)4月京北町は京都市に編入されている。
* 説明するのに面倒だからと「京都出身」で通していた。このため、京都市出身と理解する人も少なくなかった。なお、山国村は1955年(昭和30年)に[[京北町]]となり、さらに[[2005年]](平成17年に京都市右京区に編入されている。
* [[小学生]]向けの古典落語の本を出版し、各地で「学校寄席」を開くなど、[[柳亭燕路 (6代目)|6代目柳亭燕路]]と同様に低年齢層への[[古典落語]]普及に努めた。
* [[小学生]]向けの古典落語の本を出版し、各地で「学校寄席」を開くなど、[[柳亭燕路 (6代目)|6代目柳亭燕路]]と同様に低年齢層への[[古典落語]]普及に努めた(後述)
* 趣味は[[水彩画]]仕事で地方に行った際は[[画廊]]や[[骨董]]をよく巡った。
* 趣味は[[水彩画]]仕事で地方に行った際は[[画廊]]や[[美術商|骨董]]をよく巡った。


==著書==
==著書==
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* {{Cite book|和書|author=|editor=|chapter=|year=1982|month=6|title=落語案内|publisher=[[立風書房]]|asin=B000J7KLJO|ref=案内}}
* {{Cite book|和書|author=|editor=|chapter=|year=1982|month=6|title=落語案内|publisher=[[立風書房]]|asin=B000J7KLJO|ref=案内}}
=== 共著 ===
=== 共著 ===
*[[ひこねのりお]]イラスト・小南)「おもしろ落語ランド」1-3 金の星社 1987.5
* おもしろ落語ランド 1-3([[ひこねのりお]]イラスト・小南文 [[金の星社]] 1987.5)
**じゅげむ/目黒のさんまISBN 4323040717
** [[寿限無|じゅげむ]]/[[目黒のさんま]] ISBN 4323040717
**花の都/てんしきISBN 4323040733
** [[花の都 (落語)|花の都]]/[[転失気|てんしき]] ISBN 4323040733
**まんじゅうこわい/平林ISBN 4323040725
** [[まんじゅうこわい]]/[[平林]] ISBN 4323040725


== 脚注 ==
== 脚注 ==
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== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|author=|year=2009|month=3|title=落語のいき 第2巻 食と旅噺編|publisher=[[小学館]]|series=小学館DVD BOOK|isbn=978-4-09-480382-2|ref=いき2}}
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* 古今東西落語家事典(平凡社、1989年)
* 古今東西落語家事典([[平凡社]]、1989年)
* 上方落語ノート(桂米朝著、青蛙房、1978年)
* 上方落語ノート([[桂米朝 (3代目)|桂米朝]]著、青蛙房、1978年)
* 続・上方落語ノート(桂米朝著、青蛙房、1985年)
* 続・上方落語ノート(桂米朝著、青蛙房、1985年)
* 落語案内 楽屋への招待(桂小南著、立風書房、1982年)
* 落語案内 楽屋への招待(桂小南著、立風書房、1982年)


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
*[[小文治一門]]
* [[小文治一門]]


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2014年12月21日 (日) 16:13時点における版

2代目 桂 小南(かつら こなん、1920年1月2日 - 1996年5月4日)は、東京上方落語を演じた落語家。特に「いかけ屋」で知られる。本名は谷田 金次郎(たにた きんじろう)。

経歴

1920年(大正9年)、京都府北桑田郡山国村井戸(現在の京都市右京区)に、左官業・谷田政吉の三男として生まれる[1][注釈 1]小学校を修了したのちの1933年昭和8年)、京都市今出川寺町の印刷店に奉公し、1年後の1934年(昭和9年)に京都市内の呉服問屋にうつった。呉服問屋では、すぐに東京日本橋に移された。

問屋に5年つとめた後、1939年(昭和14年)、3代目三遊亭金馬の内弟子となり、山遊亭金太郎を名乗る。入門当初は金馬が東宝専属であったため、寄席の定席には出られず、主に東宝名人会前座を務めていた。太平洋戦争中は召集を受け、1945年(昭和20年)に復員した[注釈 2]1951年、定席の高座に出るために金馬の口利きで2代目桂小文治の身内となる。1958年(昭和33年)9月、8代目桂文楽の好意で2代目桂小南を襲名して真打となった。落語芸術協会所属。出囃子は『野崎』。

丹波なまりが抜けず伸び悩んでいたところ、師匠の3代目金馬より上方噺に転向するように言われ、それまで習得した江戸噺を封印した[2]。以降、大阪の「富貴」「戎橋松竹」などといった寄席に出かけては、ヘタリ(囃子方)を勤めるかたわら、上方の若手(3代目桂米朝3代目桂春團治6代目笑福亭松鶴5代目桂文枝ら)に混じって、古老落語家から上方噺を教わった。このとき、小南に稽古をつけた橘ノ圓都が自信を取り戻し高座に復帰した、という上方落語復興の一側面を物語るエピソードがある。

独特な口調は「小南落語」とも呼ばれた。芸に厳しく、終生「稽古の鬼」と称された。1969年(昭和44年)には文化庁芸術祭大賞を受賞しており、1968年(昭和43年)と1981年(昭和56年)には文化庁芸術祭の奨励賞、1989年平成元年)には芸術選奨文部大臣賞を受賞した。

門下には、桂文朝桂南喬桂南八桂南治桂南なん、3代目山遊亭金太郎桂小南治がいる[2][注釈 3]

1996年(平成8年)に死去した。享年77(満76歳没)。

得意ネタ

など、得意ネタは200を超えた。CBSソニーからLPレコードが残されている。

エピソード

  • 2代目小南(当時、金太郎)は、もとは「右女助」の名跡を継ぐべく、8代目文楽との交渉に及んだが、逆に文楽に見込まれ、彼が持つもうひとつの名跡の「小南」を譲られることとなった(初代小南は文楽の師匠である)。
  • 説明するのに面倒だから、と「京都出身」で通していた。このため、京都市出身と理解する人も少なくなかった。なお、山国村は1955年(昭和30年)に京北町となり、さらに2005年(平成17年)に京都市右京区に編入されている。
  • 小学生向けの古典落語の本を出版し、各地で「学校寄席」を開くなど、6代目柳亭燕路と同様に低年齢層への古典落語普及に努めた(後述)。
  • 趣味は水彩画。仕事で地方に行った際は画廊骨董店をよく巡った。

著書

単著

共著

脚注

注釈

  1. ^ 生家は、臨済宗#臨済宗天龍寺派常照皇寺のある十数戸よりなる集落にあり、小学校から4キロメートルも離れていた。『落語の案内』(1982)pp.71-72
  2. ^ 部隊では金馬の弟子ということもあり、お座敷がかかって引っ張りだこの状態となったが、腸チフスのため死線をさまよったこともある。『落語案内』(1982)pp.129-134
  3. ^ 弟子は全員江戸噺家で、東京弁で落語を演じている。

出典

参考文献

  • 『落語のいき 第2巻 食と旅噺編』小学館〈小学館DVD BOOK〉、2009年3月。ISBN 978-4-09-480382-2 
  • 古今東西落語家事典(平凡社、1989年)
  • 上方落語ノート(桂米朝著、青蛙房、1978年)
  • 続・上方落語ノート(桂米朝著、青蛙房、1985年)
  • 落語案内 楽屋への招待(桂小南著、立風書房、1982年)

関連項目