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{{Infobox 人物
[[Image:Marius Petipa cabinet card.jpg|175px|thumb|right|マリウス・プティパ]]
|氏名 = マリウス・プティパ
'''マリウス・プティパ'''(Marius Petipa、[[1818年]]([[1822年]]など異説あり)[[3月11日]]、[[マルセイユ]] - [[1910年]][[7月14日]]、[[クリミア半島|クリミア]]・グルズフ)は、[[ロシア帝国|帝政ロシア]]で活躍した、[[フランス]]人[[バレエダンサー]]・[[振付師]]・台本作家。[[クラシック・バレエ]]の基礎を築いた人物である。日本語では'''マリユス'''とも表記。
|ふりがな =
|画像 = Marius Petipa -1898.jpg
|画像サイズ = <!-- 省略値は180x180px -->
|画像説明 = マリウス・プティパ
|生年月日 = [[1818年]][[3月11日]]
|生誕地 = [[マルセイユ]]
|没年月日 = [[1910年]][[7月14日]]
|死没地 = [[クリミア半島|クリミア]]・グルズフ
|職業 = [[バレエダンサー]]、[[振付家]]
|出身校 =
|配偶者 =
|子供 =
}}
{{ウィキポータルリンク|舞台芸術}}
'''マリウス・プティパ'''({{lang-fr-short|''Marius Petipa''}}、[[1818年]][[3月11日]] - [[1910年]][[7月14日]])は、[[フランス]]出身の[[バレエダンサー]]・[[振付家]]である{{Sfn|クレイン|2010|pp=444-445}}。1847年に[[ロシア]]に渡り、1869年から1903年にかけて[[マリインスキー劇場|帝室劇場]](現在の[[マリインスキー・バレエ]])の首席[[バレエマスター]](振付指導兼責任者)を務めた{{Sfn|クレイン|2010|pp=444-445}}{{Sfn|守山|2004|p=46}}。

19世紀後半のロシアで『[[眠れる森の美女 (チャイコフスキー)|眠れる森の美女]]』をはじめとする多数のバレエを創作し、クラシック・バレエ(古典バレエ)の形式を確立させたほか、『[[ジゼル]]』『[[海賊 (バレエ)|海賊]]』など既存のバレエの改訂も手がけた<ref name="クラシック・バレエ" group="注釈" />。今日上演されるクラシック・バレエ作品でプティパ以前からあったものは、そのほとんどがプティパによる改訂を経ている{{Sfn|平野|2020|p=53}}。後世の振付家にも多大な影響を与えており、「クラシック・バレエの父」とも称される{{Sfn|鈴木|2018|p=35}}{{Sfn|渡辺|2018|p=47}}。


==生涯==
==生涯==
===西ヨーロッパでの活動===
[[マルセイユ]]に生まれる。父はバレエ振付師ジャン=アントワーヌ・プティパ、母は女優、ヴィクトリンヌ・モーレル。兄はバレエダンサー・振付師の[[リュシアン・プティパ]]。出生時にはミシェル=ヴィクトル=マリウス=アルフォンス(Michel-Victor-Marius-Alphonse)と名付けられた。[[1831年]]に[[ブリュッセル]]のモネ劇場で初めて舞台に立つ。その後[[ベルギー独立革命]]を逃れて[[1835年]]ごろからは[[ボルドー]]でダンサーとして活躍し、[[1838年]]ごろからは[[ナント]]で活動する。[[1839年]]の北米巡業の後、再びボルドーに戻るも、興行主の破綻により[[1843年]]より4年間、[[マドリッド]]に活動の拠点を移す。
[[ファイル:PetipaAsChild.JPG|thumb|150px|15歳頃のプティパ(1833年頃)]]
1818年3月11日、[[フランス]]の[[マルセイユ]]に生まれる<ref name="年齢" group="注釈" />{{Sfn|クレイン|2010|p=444}}。両親は共に舞台人で、父ジャン=アントワーヌは[[バレエダンサー|ダンサー]]兼[[振付家]]、母ヴィクトリーヌは[[俳優]]だった{{Sfn|平野|2020|p=49}}{{Sfn|鈴木|2002|p=340}}。


マリウスは、3歳年上の兄[[リュシアン・プティパ]]と共に父からバレエを教わり、兄弟は共にダンサーになった{{Sfn|鈴木|2002|p=340}}。ダンサーとしての評価は兄の方が高く、リュシアンは後に[[パリ・オペラ座バレエ|パリ・オペラ座]]に入団して高い名声を得た{{Sfn|平野|2020|p=49}}。一方、弟マリウスは希望していたオペラ座に入団することは叶わず、ヨーロッパ各地の劇場を転々とした後にロシアへ渡ることになる{{Sfn|ダンスマガジン編集部|1999|p=28}}{{Sfn|鈴木|2018|p=36}}。
[[1847年]]、[[サンクトペテルブルク]]の[[マリインスキー劇場]]にてプリンシパル・ダンサーとして契約する。プティパがスペインを去ったのは、スペインでの情事のためとも言われる。その後はマリインスキー劇場でダンサー・振り付け師・台本作家として活躍を続け、[[1869年]]に同劇場のバレエ監督に就任。[[1904年]]の退任まで「[[眠れる森の美女 (チャイコフスキー)|眠れる森の美女]]」以下の三大バレエと呼ばれる[[ピョートル・チャイコフスキー|チャイコフスキー]]作品をはじめ、数多くの作品を発表した。また[[1855年]]から[[1887年]]の間、付属バレエ学校の校長も勤めた。プティパはグランパ・ド・ドゥの確立を行った


プティパは1831年、13歳のときに、[[ブリュッセル]]で行われた父親の一座の公演で初舞台を踏んだ{{Sfn|クレイン|2010|p=444}}{{Sfn|鈴木ほか|2012|p=62}}。以降、父親の一座の団員としてヨーロッパ各地を巡業する{{Sfn|平野|2020|p=49}}。1838年からは[[ナント]]の劇場でダンサー兼バレエマスターとして契約し、この劇場で初めてバレエの振付を手掛けた{{Sfn|ダンスマガジン編集部|1999|p=28}}。その後、[[パリ]]で[[オーギュスト・ヴェストリス]]に師事して技術を磨いてから、[[ボルドー]]の劇場でダンサーとして活動するが、この劇場は短期間で財政破綻してしまう{{Sfn|ダンスマガジン編集部|1999|p=28}}{{Sfn|平野|2020|p=50}}。そこで、1843年(1844年とも)に[[スペイン]]に渡り、1846年まで同地に滞在した{{Sfn|平野|2020|pp=49-50}}。
晩年はクリミア半島のグルズフで療養にあたり、1910年、この世を去った。


プティパは[[マドリード]]のシルコ劇場で仕事を得るが、やがて自身の恋愛沙汰がきっかけでフランスの[[外交官]]と[[決闘]]事件を起こし、指名手配を受けて、フランス、[[イングランド]]、[[スコットランド]]まで逃亡した{{Sfn|ダンスマガジン編集部|1999|p=28}}{{Sfn|平野|2020|p=50}}。
==作品==

プティパは60近くの作品を制作しており、その中には現在でも上演されている作品も多い。中でも、チャイコフスキーの音楽による「[[眠れる森の美女 (チャイコフスキー)|眠れる森の美女]]」、「[[くるみ割り人形]]」、「[[白鳥の湖]]」や、[[レオン・ミンクス]]の音楽による「[[ドン・キホーテ (バレエ)|ドン・キホーテ]]」などは、世界中で[[クラシック・バレエ]]の古典レパートリーとして上演されている。また、他の振付家による作品の改訂でも有名で、「[[ジゼル]]」、「[[ラ・バヤデール]]」、「[[海賊 (バレエ)|海賊]]」、「[[エスメラルダ (バレエ)|エスメラルダ]]」、「[[コッペリア]]」、「[[ラ・フィユ・マル・ガルデ]]」、「{{仮リンク|せむしの仔馬|en|The Little Humpbacked Horse (ballet)}}」が知られる。特に前2者は今日でもプティパ版あるいはそれを元にした改訂版の上演が多い。なお、「[[白鳥の湖]]」はプティパの代表作とされるが、実際にはヴェンツェル・ライジンガーの振付で初演されており、再演にあたってプティパが[[レフ・イワノフ]]と共同で改訂を行ったものが好評を得て定着したものである。
===ロシアへ===
指名手配犯となったプティパは、1847年5月、父ジャン=アントワーヌと共に[[ロシア]]の[[サンクトペテルブルク]]へ渡る{{Sfn|ダンスマガジン編集部|1999|p=28}}{{Sfn|平野|2020|p=51}}。当時のロシア宮廷は、ヨーロッパ各地から優れた芸術家を招いており、マリウスはダンサー兼バレエマスター、ジャン=アントワーヌは舞踊学校の教師の職を得ることになった{{Sfn|平野|2020|p=50}}{{Sfn|鈴木|2002|p=341}}。なお、ジャン=アントワーヌが1855年に没した後、教師の仕事は息子のマリウスが引き継いだ{{Sfn|鈴木|2002|p=341}}。

1847年9月、プティパのサンクトペテルブルクでの初仕事にあたる『[[パキータ]]』ロシア初演が行われた{{Sfn|ダンスマガジン編集部|1999|p=28}}。本作は前年にパリに初演された作品であり、プティパは主役のリュシアンと、ジプシーの群の長の二役を演じたほか、父と共に演出にも携わった{{Sfn|平野|2020|p=51}}。

翌1848年、プティパと同じくフランスから招かれた[[ジュール・ペロー]]が、帝室劇場の首席バレエマスターに就任した{{Sfn|鈴木|2002|p=341}}。ペローの下で、プティパは振付の機会をほとんど与えられなかったため、しばらくはダンサーとしての仕事に専念せざるをえなかった{{Sfn|鈴木|2002|pp=341-342}}。しかし、振付への意欲を持ち続けていたプティパは、ペローの助手を務めながら、兄リュシアンを通じてパリの新作バレエの情報を収集するなど、研鑽を積んだ{{Sfn|平野|2020|p=51}}{{Sfn|薄井|1999|p=86}}。1855年、プティパは最初の重要な作品である『{{仮リンク|グラナダの星|en|L'Etoile de Grenade}}』を発表した{{Sfn|クレイン|2010|p=445}}。

[[ファイル:Petipa Maruis La Fille du Pharaon.jpg|thumb|160px|『{{仮リンク|ファラオの娘|en|The Pharaoh's Daughter}}』に出演するプティパ]]
1859年、ペローに代わってフランスから招聘された[[アルチュール・サン=レオン]]が首席バレエマスターに就任した{{Sfn|鈴木|2002|p=342}}。サン=レオンはヨーロッパ各地を回る多忙な生活を送っていたこともあり、前任のペローとは対照的に、助手のプティパが振付を行うことに寛容であった{{Sfn|鈴木|2002|p=342}}{{Sfn|森田|1999|p=74}}。プティパの出世作となったのは、1862年に初演された『{{仮リンク|ファラオの娘|en|The Pharaoh's Daughter}}』である{{Sfn|鈴木|1994|p=162}}。本作は、ダンサーの{{仮リンク|カロリーナ・ロザーティ|en|Carolina Rosati}}の引退記念として、初演の2ヶ月前に急遽制作が決まったが、プティパはこれを引き受け、わずか6週間で3幕9場の大作バレエを完成させた{{Sfn|ダンスマガジン編集部|1999|p=28}}{{Sfn|森田|1999|pp=74-75}}。この作品の成功を機に、プティパは第二バレエマスターに任命された{{Sfn|鈴木|2002|p=344}}。本作でプティパは主役のタオールを演じたが、ダンサーとしての仕事はこれが最後であり、以後は振付に専念するようになった{{Sfn|平野|2020|p=51}}。

===首席バレエマスターとしての活動===
[[File:Petipa MI.jpg|left|thumb|150px|プティパ(1870年)]]
1869年、プティパは、フランスに帰ったサン=レオンの後任として首席バレエマスターに就任した{{Sfn|平野|2020|pp=52-53}}。同年、プティパは[[モスクワ]]の帝室劇場(現[[ボリショイ劇場]])から依頼を受け、『[[ドン・キホーテ (バレエ)|ドン・キホーテ]]』を制作している{{Sfn|ダンスマガジン編集部|1998|p=102}}。その後も精力的に作品を発表し、1877年には代表作の一つである『[[ラ・バヤデール]]』を成功させた{{Sfn|鈴木|2002|p=351}}。また、既存のバレエ作品の改訂も数多く手掛け、『[[ジゼル]]』や『[[コッペリア]]』などの改訂演出を発表した{{Sfn|守山|2004|p=47}}。

[[File:Sleeping beauty cast.jpg|thumb|250px|『[[眠れる森の美女 (チャイコフスキー)|眠れる森の美女]]』初演(1890年)]]
1886年、ペテルブルク帝室劇場の総裁に{{仮リンク|イワン・フセヴォロジスキー|en|Ivan Vsevolozhsky}}が就任する{{Sfn|平野|2020|p=76}}。フセヴォロジスキーは劇場政策の責任者として様々な改革を行ったが、その一つが、一流の作曲家に作曲を委託してバレエ作品を上演することであった{{Sfn|鈴木|2002|pp=371-373}}。フセヴォロジスキーは[[ピョートル・チャイコフスキー]]に作曲を依頼し、1990年にプティパ振付によるバレエ『[[眠れる森の美女 (チャイコフスキー)|眠れる森の美女]]』を初演した{{Sfn|ダンスマガジン編集部|1998|p=110}}。『眠れる森の美女』の成功を受けて、翌々年の1892年には、同じくチャイコフスキー作曲によるバレエ『[[くるみ割り人形]]』が制作された{{Sfn|森田|1999|p=213}}{{Sfn|クレイン|2010|p=159}}。プティパは『くるみ割り人形』の台本・振付を担当する予定であったが、初演の3ヶ月前に病に倒れたため、振付のみ[[レフ・イワノフ]]が代行した{{Sfn|クレイン|2010|p=159}}{{Sfn|ダンスマガジン編集部|1998|p=42}}。さらに、1895年には、チャイコフスキーが初めて作曲したバレエ『[[白鳥の湖]]』(1877年初演)の蘇演が行われた{{Sfn|森田|1999|pp=95-96}}{{Sfn|鈴木|2002|p=363}}。蘇演版の振付はプティパとイワノフが分担し、第1幕と第3幕はプティパ、第2幕と第4幕はイワノフが担当した{{Sfn|鈴木|2018|p=38}}。チャイコフスキーが作曲を手掛け、プティパが携わったこの3作品は、「三大バレエ」と呼ばれて現在まで広く親しまれている{{Sfn|ダンスマガジン編集部|1999|p=34}}。

===引退と晩年===
1899年にフセヴォロジスキーが帝室劇場総裁を引退した後、1901年からはウラジーミル・テリャコフスキーが帝室劇場の最高幹部に就任した{{Sfn|平野|2020|p=234}}。テリャコフスキーは、[[コンスタンチン・コローヴィン]]や{{仮リンク|アレクサンドル・ゴロヴィーン (美術家)|label=アレクサンドル・ゴロヴィーン|en|Aleksandr Golovin (artist)}}ら新進の画家を舞台美術に起用したり、若手振付家{{仮リンク|アレクサンドル・ゴルスキー|en|Alexander Alexeyevich Gorsky}}にプティパ作品の改訂を行わせたりと、新世代の芸術家を積極的に登用した人物で、19世紀的な芸術を信奉するプティパとは対立関係にあった{{Sfn|平野|2020|pp=235, 267}}。

[[File:Magic mirror by A. Golovin 01.jpg|thumb|250px|{{仮リンク|アレクサンドル・ゴロヴィーン (美術家)|label=A・ゴロヴィーン|en|Aleksandr Golovin (artist)}}による『{{仮リンク|魔法の鏡 (バレエ)|label=魔法の鏡|en|The Magic Mirror (ballet)}}』のデザイン画]]
そのような状況下で、1903年、新作バレエ『{{仮リンク|魔法の鏡 (バレエ)|label=魔法の鏡|en|The Magic Mirror (ballet)}}』が上演されたが、本作はプティパの事実上の引退作となった{{Sfn|平野|2020|pp=229,232}}。本作は、プティパの帝室劇場勤続55周年記念として制作されたもので、原作は[[グリム童話]]の『[[白雪姫]]』と、[[アレクサンドル・プーシキン]]がこの童話を翻案した民話詩『{{仮リンク|死せる王女と七人の勇士の物語|en|The Tale of the Dead Princess and the Seven Knights}}』である{{Sfn|平野|2020|pp=229,238}}。振付・演出はプティパ、台本はプティパとフセヴォロジスキーが手掛け、音楽には若手の{{仮リンク|アルセーニー・コレシチェンコ|en|Arseny Koreshchenko}}、舞台美術にはアレクサンドル・ゴロヴィーンが起用された{{Sfn|平野|2020|p=236}}。しかし、プティパはリハーサルの段階から本作の出来に不満を漏らし、とりわけ舞台美術を酷評していた{{Sfn|平野|2020|pp=253-255}}。

『魔法の鏡』は1903年2月9日に初演されたが、19世紀的なプティパの振付と、ゴロヴィーンの進歩的な「[[芸術世界]]」派の舞台美術、そしてコレシチェンコの[[ロマン派音楽#後期ロマン派音楽(1850-)|後期ロマン主義]]の音楽は上手く調和せず、公演は失敗とみなされた{{Sfn|平野|2020|pp=239,265-268}}。プティパは終身バレエマスターの地位を与えられたが、『魔法の鏡』以降は振付・上演に携わることはなかった{{Sfn|平野|2020|p=232}}。なお、『魔法の鏡』の次回作として、プティパの新作バレエ『バラのつぼみと蝶の物語』が準備されていたが、[[日露戦争]]の勃発により上演はキャンセルされた{{Sfn|平野|2020|p=268}}。

[[File:Санкт-Петербург, Тихвинское кладбище, могила М.И. Петипа.JPG|thumb|150px|プティパの墓]]
1903年9月、プティパは首席バレエマスターの地位を公式に辞し、その後は[[クリミア半島|クリミア]]で引退生活を送った{{Sfn|薄井|1999|p=93}}{{Sfn|ダンスマガジン編集部|1999|p=29}}。1906年には、サンクトペテルブルクで回想録が出版された{{Sfn|クレイン|2010|p=445}}。1910年7月14日、クリミアのグズルフにて92歳で没した{{Sfn|村山|2018|p=46}}。

===私生活===
プティパは生涯で2度結婚し、9人の子供をもうけている{{Sfn|鈴木|2002|p=340}}{{Sfn|鈴木|2018|p=37}}。1854年、プティパは最初の妻であるマリヤ・セルゲーエヴナ・スロフチコワと結婚した{{Sfn|クレイン|2010|p=445}}{{Sfn|プティパ|1993|pp=57,217}}。マリヤは帝室劇場バレエ学校の生徒で、卒業と同時にプティパと結婚し、ダンサーとして活躍したが、1869年に離婚した{{Sfn|クレイン|2010|p=445}}。二人の間に生まれた娘[[マリー・プティパ|マリヤ・マリウソヴナ]]は、帝室劇場のダンサーとなり、『[[眠れる森の美女 (チャイコフスキー)|眠れる森の美女]]』のリラの精を初演したことで知られている{{Sfn|クレイン|2010|p=445}}{{Sfn|鈴木|2018|p=37}}。

後にプティパは、36歳年下のリュボーフィ・レオニドワと再婚し、二男四女をもうけた{{Sfn|鈴木|2018|p=37}}。息子2人は俳優となり、娘4人のうち、長女は帝室劇場のダンサーになったが、次女は早逝、三女はダンサーとなったもののすぐに引退、四女はダンサーから俳優に転向した{{Sfn|鈴木|2018|p=37}}。

==主要作品==
プティパは生涯で60作近いバレエの演出・振付を行ったが、今日全幕上演される作品はそのごく一部であり、多くの作品は失われたか、[[ガラコンサート|ガラ公演]]などで部分的に上演されるのみである{{Sfn|平野|2020|p=54}}。以下、主な作品を挙げる{{Sfn|プティパ|1993|pp=200-206}}。

===プティパが振り付けた作品===
[[File:Pharaoh's Daughter -Pas de Fleche -Mathilde Kschessinska -1898 -2.jpg|thumb|200px|『{{仮リンク|ファラオの娘|en|The Pharaoh's Daughter}}』を演じる[[マチルダ・クシェシンスカヤ|M・クシェシンスカヤ]](1898年)]]
*『{{仮リンク|グラナダの星|en|L'Etoile de Grenade}}』(1855年)
*『[[青いダリア]]』(1860年)
*『{{仮リンク|ファラオの娘|en|The Pharaoh's Daughter}}』(1862年)
*『[[カンダウレス王 (バレエ)|カンダウレス王]]』(1868年)
*『[[ドン・キホーテ (バレエ)|ドン・キホーテ]]』(1869年)
*『[[ラ・バヤデール]]』(1877年)
*『[[タリスマン (バレエ)|タリスマン]]』(1889年)
*『[[眠れる森の美女 (チャイコフスキー)|眠れる森の美女]]』(1890年)
*『[[騎兵隊の休止]]』(1896年)
*『[[ライモンダ]]』(1898年)
*『[[四季 (グラズノフ)|四季]]』(1900年)
*『[[アルレキナーダ]]』(1900年)
*『{{仮リンク|魔法の鏡 (バレエ)|label=魔法の鏡|en|The Magic Mirror (ballet)}}』(1903年)
[[File:Raymonda Act III.JPG|thumb|300px|『[[ライモンダ]]』第3幕より(1898年)]]

===他の振付家と共同制作した作品===
*『[[くるみ割り人形]]』(1892年。台本はプティパ、振付は[[レフ・イワノフ|L・イワノフ]]。)
*『[[シンデレラ (フィチンゴフ=シェーリ)|シンデレラ]]』(1893年。[[エンリコ・チェケッティ|E・チェケッティ]]、L・イワノフとの共同振付。)
*『[[フローラの目覚め]]』(1894年。L・イワノフとの共同振付){{Sfn|渡辺|2018|p=48}}

===改訂演出を行った作品===
*『[[パキータ]]』(1847年改訂演出。原振付[[ジョゼフ・マジリエ|J・マジリエ]]、1846年初演。)<ref name="パキータ" group="注釈" />
*『[[海賊 (バレエ)|海賊]]』(1863年改訂演出。原振付J・マジリエ、1856年初演。)
*『[[ドナウの娘]]』(1880年改訂演出。原振付[[フィリッポ・タリオーニ|F・タリオーニ]]、1836年初演。)
*『[[ラ・ヴィヴァンディエール]]』(1881年改訂演出。原振付[[アルチュール・サン=レオン|A・サン=レオン]]、1848年初演。)
*『[[ジゼル]]』(1884年改訂演出。原振付[[ジャン・コラーリ|J・コラーリ]]と[[ジュール・ペロー|J・ペロー]]、1841年初演。)
*『[[コッペリア]]』(1884年改訂演出。原振付A・サン=レオン、1870年初演。)
*『[[ラ・フィユ・マル・ガルデ]]』(1885年改訂演出。原振付[[ジャン・ドーベルヴァル|J・ドーベルヴァル]]、1789年初演。)
*『[[エスメラルダ (バレエ)|エスメラルダ]]』(1886年改訂演出。原振付J・ペロー、1844年初演。)
*『[[ラ・シルフィード]]』(1892年改訂演出。原振付F・タリオーニ、1832年初演。)
*『[[白鳥の湖]]』(1895年、L・イワノフとの共同振付により改訂演出。原振付{{仮リンク|ウェンツェル・レイジンゲル|label=W・レイジンゲル|en|Julius Reisinger}}、1877年初演。){{Sfn|クレイン|2010|p=378}}
*『[[せむしの仔馬 (バレエ)|せむしの仔馬]]』(1895年改訂演出。原振付A・サン=レオン、1864年初演。)

==作品の特徴==
===プティパ以前のバレエ===
[[File:La sylphide d'apres le tableau original appartenant a Madelle. Taglioni (NYPL b12149154-5455488).jpg|thumb|200px|ロマンティック・バレエの代表作『[[ラ・シルフィード]]』]]
バレエの起源は[[ルネサンス]]期のイタリアまで遡るが、今日一般に上演されているのは、19世紀前半以降に生まれた作品である{{Sfn|クレイン|2010|p=402}}{{Sfn|鈴木ほか|2012|p=46}}。この時期に生まれた『[[ラ・シルフィード]]』(1832年)や『[[ジゼル]]』(1841年)、『[[パキータ]]』(1846年)などの作品は「ロマンティック・バレエ」と呼ばれる{{Sfn|クレイン|2010|pp=375,611}}{{Sfn|鈴木|2002|p=200}}。ロマンティック・バレエの特徴は、当時のヨーロッパの思想的潮流であった[[ロマン主義]]の影響を受け、異国や超自然的存在への憧憬を描いたことである{{Sfn|守山|2004|pp=115-116}}{{Sfn|鈴木ほか|2012|pp=46-47}}。例えば『ラ・シルフィード』は[[スコットランド]]を舞台に、主人公の青年と、空気の精[[シルフ|シルフィード]]との悲恋を描いている{{Sfn|鈴木ほか|2012|pp=47-48}}。

19世紀前半のバレエのもう一つの特徴は、ダンスにおける技術革新である{{Sfn|鈴木ほか|2012|p=49}}。前世紀に比べ、ダンサーの跳躍の高さや脚を上げる高さ、回転の回数といった技巧が重視されるようになり、そのような風潮の中で、女性ダンサーが爪先立ちをする[[トウシューズ|ポワント技法]]も生まれた{{Sfn|鈴木ほか|2012|pp=49-51}}。

プティパがダンサーとして活動を開始したのは、このようなロマンティック・バレエの全盛期であった。プティパの兄[[リュシアン・プティパ|リュシアン]]は、『ジゼル』と『パキータ』の初演者であり、弟であるプティパも後にこれらの作品を演じている{{Sfn|クレイン|2010|pp=445-446}}。

===プティパの功績===
ロシアで振付家として活躍するようになったプティパは、ロマンティック・バレエの異国情緒や幻想性を引き継ぎつつも、より様式美・形式美を重んじた作品を創作した{{Sfn|守山|2004|pp=47-50}}。プティパが確立したバレエは、その形式主義的性格から「クラシック([[古典主義]])・バレエ」と呼ばれる{{Sfn|守山|2004|p=49}}<ref name="クラシック・バレエ" group="注釈" />。具体的には、以下のような構成上の特徴が見られる{{Sfn|守山|2004|p=48}}。

第一に、[[コール・ド・バレエ]]の装飾的な使用である{{Sfn|守山|2004|p=48}}。プティパ作品では、女性ダンサーによる群舞の場面が盛り込まれており、『[[眠れる森の美女 (チャイコフスキー)|眠れる森の美女]]』や『[[ドン・キホーテ (バレエ)|ドン・キホーテ]]』、『[[ラ・バヤデール]]』などがよく知られている{{Sfn|守山|2004|pp=86-91}}。これらの場面では、ダンサーたちが、抽象化された森林、あるいは単なる装飾模様などに擬せられ、複雑なフォーメーションの群舞を披露する{{Sfn|守山|2004|pp=86-91}}。

第二に、[[パ・ド・ドゥ#グラン・パ・ド・ドゥ|グラン・パ・ド・ドゥ]]形式の確立である{{Sfn|守山|2004|p=48}}。プティパ作品のクライマックスには、グラン・パ・ド・ドゥと呼ばれる主役の男女二人の踊りが挿入される{{Sfn|鈴木ほか|2012|pp=69,93}}。グラン・パ・ド・ドゥは三部構成となっており、①男女が緩やかな音楽で踊るアダージョ、②男性・女性それぞれの[[ヴァリアシオン (バレエ)|ヴァリアシオン]]、③男女が共に跳躍や回転などの華やかな技を披露するコーダ、という形式が定められている{{Sfn|赤尾|2002|p=150-152}}<ref name="グラン・パ・ド・ドゥ" group="注釈" />。

第三に、ディヴェルティスマンの効果的な配置である{{Sfn|守山|2004|p=48}}。ディヴェルティスマンとは、物語の展開とは直接関係しない、挿入的な舞踊シーンを指す{{Sfn|守山|2004|p=100}}。数人で踊られるものから大規模な群舞まで、その形式は様々である{{Sfn|守山|2004|p=105}}。ディヴェルティスマンが果たす機能も多様で、例えば、グラン・パ・ド・ドゥの前に置かれて観客の期待を高めつつ場面を盛り上げたり、民族舞踊のテクニックを取り入れたダンスで観客を楽しませたり、といった役割がある{{Sfn|守山|2004|pp=102-107}}。著名な例として、『[[白鳥の湖]]』の民族舞踊や、『眠れる森の美女』における童話の登場人物たちの踊り、『[[くるみ割り人形]]』のお菓子の国の踊りなどが挙げられる{{Sfn|守山|2004|pp=105-106}}。

{{Gallery
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|File:Bajadera, choreografia Natalia Makarowa wg Mariusa Petipy, Polski Balet Narodowy, fot. Ewa Krasucka TW-ON.jpg|女性ダンサーによる'''[[コール・ド・バレエ]]'''(『[[ラ・バヤデール]]』より)
|File:Tamara-Vadin2.jpg|'''[[グラン・パ・ド・ドゥ]]'''<br />(『[[眠れる森の美女 (チャイコフスキー)|眠れる森の美女]]』より)
|File:Nut BrettPruitt 16 018 (30556577864).jpg|様々な踊りを披露する'''ディヴェルティスマン'''(『[[くるみ割り人形]]』より)
}}

このような形式を備えたプティパ作品においては、高度な舞踊技術を披露する場面と、マイム(身振り)で物語を進行させる場面とが分離され、前者に重点が置かれるようになった{{Sfn|鈴木ほか|2012|pp=68-69}}{{Sfn|ダンスマガジン編集部|1999|p=26}}。これは、前時代のロマンティック・バレエが、舞踊と物語を一体化させ、マイムを舞踊的に表現することを目指していたのと対照的である{{Sfn|鈴木ほか|2012|p=68}}<ref name="サン=レオン" group="注釈" />。

また、プティパのもう一つの功績として、ロマンティック・バレエの改訂上演を行い、後世へと伝えたことが挙げられる{{Sfn|守山|2004|p=47}}。『[[ジゼル]]』や『[[コッペリア]]』などのロマンティック・バレエは、フランスで初演された後、西ヨーロッパでは徐々に上演されなくなっていったが、プティパはこれらの作品を改訂して帝室劇場のレパートリーに加えた{{Sfn|守山|2004|p=47}}。今日これらの作品が上演されているのは、プティパが帝室劇場に残した作品が、20世紀に世界中へ広まったためである{{Sfn|鈴木|2002|p=382}}。

舞踊評論家の守山実花は、プティパの功績を「フランスで19世紀前半から中期に開花したロマンティック・バレエの精神世界を引き継ぎながら、世紀後半のロシアで、それを表現するための絶対的な様式美に支えられた堅固なシステムを完成させた」ことだと総括している{{Sfn|守山|2004|p=47}}。

===後世への影響===
[[File:Mikhail Fokin och Vera Fokina ur Musik- och teaterbibliotekets samlingar.jpg|thumb|170px|[[ミハイル・フォーキン|M・フォーキン]]振付『[[シェヘラザード (リムスキー=コルサコフ)#バレエ『シェヘラザード』|シェヘラザード]]』|左]]
[[File:Concerto Barocco, choreografia George Balanchine, Polski Balet Narodowy, fot. Ewa Krasucka TW-ON.jpg|thumb|230px|[[ジョージ・バランシン|G・バランシン]]振付『{{仮リンク|コンチェルト・バロッコ|en|Concerto Barocco}}』]]
20世紀の振付家たちは、プティパが確立したクラシック・バレエ様式を様々な形で変革しようとした{{Sfn|鈴木|2018|p=35}}{{Sfn|鈴木|2002|p=383}}。

帝室劇場でプティパに師事した{{仮リンク|アレクサンドル・ゴルスキー|en|Alexander Alexeyevich Gorsky}}は、20世紀初頭に[[モスクワ]]の[[ボリショイ劇場]]でバレエマスターを務め、プティパ作品の改訂演出を行った{{Sfn|ダンスマガジン編集部|1999|p=64}}。[[スタニスラフスキー・システム]]の影響を受けていたゴルスキーは、1900年に『[[ドン・キホーテ (バレエ)|ドン・キホーテ]]』の新演出を行う際、群衆役のダンサーひとりひとりに明確な役割を与え、スペインの街の人物になりきるよう指導した{{Sfn|ダンスマガジン編集部|1999|p=64}}。また、プティパ流の幾何学的な群舞の配列を崩し、非対称や対角線を目立たせた構図を取り入れた{{Sfn|鈴木ほか|2012|p=95}}。この改変はプティパの不興を買ったが、ゴルスキーの改訂版は、今日世界中で演じられている『ドン・キホーテ』の演出の基礎となった{{Sfn|鈴木|2002|p=348}}。

また、ゴルスキーと同じく帝室劇場のダンサーであった[[ミハイル・フォーキン]]は、プティパの形式主義を批判して改革を試みた{{Sfn|ダンスマガジン編集部|1999|p=42}}{{Sfn|鈴木ほか|2012|p=75}}。プティパの振付が、常にダンス・アカデミックと呼ばれる型通りの舞踊技法を中心に構成されていたのに対し、フォーキンは、バレエの演出には作品の時代背景や地域性を反映させるべきだと主張し、民族舞踊などを積極的に取り入れたほか、群舞やマイムについてもより自由で新しい表現を考案した{{Sfn|鈴木ほか|2012|pp=75-76,93-94}}。フォーキンは[[バレエ・リュス]]の最初期の振付家として活躍し、19世紀的なクラシック・バレエから現代バレエへの橋渡しという役割を担った{{Sfn|鈴木|1994|p=252}}。

一方、プティパの形式主義をさらに推し進めたのが[[ジョージ・バランシン]]である{{Sfn|守山|2004|p=48}}。帝室劇場のバレエ学校で学び、後に西ヨーロッパと[[アメリカ]]で活動したバランシンは、バレエを「観る音楽」と捉え、プティパのクラシック・バレエから物語性を排除した「プロットレス・バレエ」を生み出した{{Sfn|ダンスマガジン編集部|1999|pp=82-83}}{{Sfn|鈴木ほか|2012|p=90}}。このことは、バレエ史上最大の変革の一つであるとみなされている{{Sfn|鈴木ほか|2012|p=90}}。

==脚注==
{{脚注ヘルプ}}
===注釈===
{{Notelist|refs=
<ref name="クラシック・バレエ" group="注釈">「クラシック・バレエ(古典バレエ)」とは、広義には、ダンス・クラシックの技法を用いた舞踊作品を指し、狭義には、高度な技術的発展を遂げた19世紀後半のロシア・バレエを指す(ダンスマガジン編集部 1999, p.26)。「ダンス・クラシック」とはバレエの技法体系のことで、[[股関節]]から下肢を外旋させる「[[バレエ用語の一覧#ターンアウト|アン・ドゥオール]]」と、体幹軸を引き上げる「[[バレエ用語の一覧#引き上げ|エレヴァシオン]]」を基本原理とする(守山 2004, p.49。鈴木ほか 2012, p.113)。</ref>
<ref name="年齢" group="注釈">自伝において、プティパは自身の生年を1822年と述べているが、後年の調査により、正しい生年は1818年であることが判明している(鈴木 2018, pp.35-36)</ref>
<ref name="パキータ" group="注釈">1847年の改訂演出の際は、プティパは原振付にほとんど手を入れなかったとされる(鈴木 2002, p.341)。1881年にプティパは『パキータ』の再改訂演出を発表し、この時に[[レオン・ミンクス]]の音楽による2つの場面を追加した(平野 2020, pp.53-54)。今日『パキータ』が全幕上演されることは稀で、プティパが追加した場面の一つである「グラン・パ」が抜粋上演されることの方が多い(平野 2020, p.54)。</ref>
<ref name="サン=レオン" group="注釈">ただし、「舞踊と物語の分離」という傾向は、プティパの前に帝室劇場のバレエマスターを務めた[[アルチュール・サン=レオン]]の時点で既に現れていた(鈴木 1994, pp.157-158)。サン=レオンは物語よりも舞踊と音楽を重視し、ディヴェルティスマンを繋げたような作品を創作していた(鈴木 1994, p.158)。この点で、クラシック・バレエの確立はプティパ一人の功績ではなく、サン=レオンから続く流れをプティパが完成させたものとみなすことができる(鈴木 1994, p.161、鈴木ほか 2012, pp.69-70)。</ref>
<ref name="グラン・パ・ド・ドゥ" group="注釈">ただし、プティパの時代には、男性ヴァリアシオンは必ずしも主役によって踊られていたわけではなかった(赤尾 2002, p.151)。主役の男性ダンサーが踊るという形式が確立されていったのは、20世紀前半のことである(赤尾 2002, pp.151-152)。</ref>
}}
===出典===
{{Reflist|16em}}


== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
*{{Cite book |和書 |author=[[赤尾雄人]] |year=2002 |title=バレエ・テクニックのすべて |publisher=[[新書館]] |isbn=4403250661|ref={{SfnRef|赤尾|2002}} }}
* [http://www.balletmet.org/Notes/Petipa.html The BalletMet Dance Academy のサイトが提供する伝記記事]
*{{Cite book |和書 |author=[[薄井憲二]] |year=1999 |title=バレエ 誕生から現代までの歴史 |publisher=[[音楽之友社]] |isbn=4276250137|ref={{SfnRef|薄井|1999}} }}
*{{Cite book |和書 |author=デブラ・クレイン|coauthors=ジュディス・マックレル |translator= [[鈴木晶]]・赤尾雄人・海野敏・長野由紀|year=2010 |title=オックスフォード バレエダンス事典 |publisher=[[平凡社]] |isbn=9784582125221|ref={{SfnRef|クレイン|2010}} }}
*{{Cite book |和書 |author=鈴木晶 |year=1994 |title=踊る世紀 |publisher=新書館 |isbn=4403230385|ref={{SfnRef|鈴木|1994}}}}
*{{Cite book |和書 |author=鈴木晶 |year=2002 |title=バレエ誕生 |publisher=新書館 |isbn=4403230946|ref={{SfnRef|鈴木|2002}}}}
*{{Cite book |和書 |author=鈴木晶ほか |year=2012 |title=バレエとダンスの歴史 欧米劇場舞踊史 |publisher=平凡社 |isbn=9784582125238|ref={{SfnRef|鈴木ほか|2012}} }}
*{{Cite journal |和書|author=鈴木晶 |title=バレエの交響曲を完成させた男 プティパの生涯をたどって |date=2018-07-01 |publisher= 新書館|journal=ダンスマガジン |volume=第28巻第7号 |page=34-39 |ref={{SfnRef|鈴木|2018}} }}
*{{Cite book |和書 |author=ダンスマガジン編集部|year=1998 |title=バレエ101物語 |publisher=新書館 |isbn=9784403250323 |ref={{SfnRef|ダンスマガジン編集部|1998}}}}
*{{Cite book |和書 |author=ダンスマガジン編集部|year=1999 |title=ダンス・ハンドブック |publisher=新書館 |isbn=4403250378|ref={{SfnRef|ダンスマガジン編集部|1999}} }}
*{{Cite book |和書 |author=平野恵美子 |year=2020 |title=帝室劇場とバレエ・リュス マリウス・プティパからミハイル・フォーキンへ|publisher=[[未知谷]]|isbn=9784896426151 |ref={{SfnRef|平野|2020}}}}
*{{Cite book |和書 |author=マリウス・プティパ|translator=[[石井洋二郎]] |year=1993 |title=マリウス・プティパ自伝|publisher=新書館|isbn=4403230342 |ref={{SfnRef|プティパ|1993}}}}
*{{Cite journal |和書|author=村山久美子 |title=プティパ名作ガイド 巨匠が手がけた名作の背景 |date=2018-07-01 |publisher= 新書館|journal=ダンスマガジン |volume=第28巻第7号 |page=43-46 |ref={{SfnRef|村山|2018}}}}
*{{Cite book |和書 |author=[[森田稔]] |year=1999 |title=永遠の「白鳥の湖」  チャイコフスキーとバレエ音楽|publisher=新書館 |isbn=4403230644|ref={{SfnRef|森田|1999}}}}
*{{Cite book |和書 |author=守山実花 |year=2004 |title=もっとバレエに連れてって! |publisher=[[青弓社]]|isbn=4787271784 |ref={{SfnRef|守山|2004}}}}
*{{Cite book |和書 |author=渡辺真弓|year=2018 |title=ビジュアル版 世界の名門バレエ団 頂点に輝くバレエ・カンパニーとバレエ学校 |publisher=[[世界文化社]] |isbn=9784418182558 |ref={{SfnRef|渡辺|2018}}}}

==外部リンク==
{{Commons|Category:Marius Petipa}}
*[https://www.mariinsky.ru/en/playbill/repertoire/ballet/spkras1/ The Sleeping Beauty] - [[マリインスキー劇場]]公式サイト(英語)
  1999年に復元上演された、プティパ初演版『眠れる森の美女』の写真等が掲載されている。

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2021年11月29日 (月) 21:14時点における版

マリウス・プティパ
マリウス・プティパ
生誕 1818年3月11日
マルセイユ
死没 1910年7月14日
クリミア・グルズフ
職業 バレエダンサー振付家
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マリウス・プティパ: Marius Petipa1818年3月11日 - 1910年7月14日)は、フランス出身のバレエダンサー振付家である[1]。1847年にロシアに渡り、1869年から1903年にかけて帝室劇場(現在のマリインスキー・バレエ)の首席バレエマスター(振付指導兼責任者)を務めた[1][2]

19世紀後半のロシアで『眠れる森の美女』をはじめとする多数のバレエを創作し、クラシック・バレエ(古典バレエ)の形式を確立させたほか、『ジゼル』『海賊』など既存のバレエの改訂も手がけた[注釈 1]。今日上演されるクラシック・バレエ作品でプティパ以前からあったものは、そのほとんどがプティパによる改訂を経ている[3]。後世の振付家にも多大な影響を与えており、「クラシック・バレエの父」とも称される[4][5]

生涯

西ヨーロッパでの活動

15歳頃のプティパ(1833年頃)

1818年3月11日、フランスマルセイユに生まれる[注釈 2][6]。両親は共に舞台人で、父ジャン=アントワーヌはダンサー振付家、母ヴィクトリーヌは俳優だった[7][8]

マリウスは、3歳年上の兄リュシアン・プティパと共に父からバレエを教わり、兄弟は共にダンサーになった[8]。ダンサーとしての評価は兄の方が高く、リュシアンは後にパリ・オペラ座に入団して高い名声を得た[7]。一方、弟マリウスは希望していたオペラ座に入団することは叶わず、ヨーロッパ各地の劇場を転々とした後にロシアへ渡ることになる[9][10]

プティパは1831年、13歳のときに、ブリュッセルで行われた父親の一座の公演で初舞台を踏んだ[6][11]。以降、父親の一座の団員としてヨーロッパ各地を巡業する[7]。1838年からはナントの劇場でダンサー兼バレエマスターとして契約し、この劇場で初めてバレエの振付を手掛けた[9]。その後、パリオーギュスト・ヴェストリスに師事して技術を磨いてから、ボルドーの劇場でダンサーとして活動するが、この劇場は短期間で財政破綻してしまう[9][12]。そこで、1843年(1844年とも)にスペインに渡り、1846年まで同地に滞在した[13]

プティパはマドリードのシルコ劇場で仕事を得るが、やがて自身の恋愛沙汰がきっかけでフランスの外交官決闘事件を起こし、指名手配を受けて、フランス、イングランドスコットランドまで逃亡した[9][12]

ロシアへ

指名手配犯となったプティパは、1847年5月、父ジャン=アントワーヌと共にロシアサンクトペテルブルクへ渡る[9][14]。当時のロシア宮廷は、ヨーロッパ各地から優れた芸術家を招いており、マリウスはダンサー兼バレエマスター、ジャン=アントワーヌは舞踊学校の教師の職を得ることになった[12][15]。なお、ジャン=アントワーヌが1855年に没した後、教師の仕事は息子のマリウスが引き継いだ[15]

1847年9月、プティパのサンクトペテルブルクでの初仕事にあたる『パキータ』ロシア初演が行われた[9]。本作は前年にパリに初演された作品であり、プティパは主役のリュシアンと、ジプシーの群の長の二役を演じたほか、父と共に演出にも携わった[14]

翌1848年、プティパと同じくフランスから招かれたジュール・ペローが、帝室劇場の首席バレエマスターに就任した[15]。ペローの下で、プティパは振付の機会をほとんど与えられなかったため、しばらくはダンサーとしての仕事に専念せざるをえなかった[16]。しかし、振付への意欲を持ち続けていたプティパは、ペローの助手を務めながら、兄リュシアンを通じてパリの新作バレエの情報を収集するなど、研鑽を積んだ[14][17]。1855年、プティパは最初の重要な作品である『グラナダの星英語版』を発表した[18]

ファラオの娘英語版』に出演するプティパ

1859年、ペローに代わってフランスから招聘されたアルチュール・サン=レオンが首席バレエマスターに就任した[19]。サン=レオンはヨーロッパ各地を回る多忙な生活を送っていたこともあり、前任のペローとは対照的に、助手のプティパが振付を行うことに寛容であった[19][20]。プティパの出世作となったのは、1862年に初演された『ファラオの娘英語版』である[21]。本作は、ダンサーのカロリーナ・ロザーティ英語版の引退記念として、初演の2ヶ月前に急遽制作が決まったが、プティパはこれを引き受け、わずか6週間で3幕9場の大作バレエを完成させた[9][22]。この作品の成功を機に、プティパは第二バレエマスターに任命された[23]。本作でプティパは主役のタオールを演じたが、ダンサーとしての仕事はこれが最後であり、以後は振付に専念するようになった[14]

首席バレエマスターとしての活動

プティパ(1870年)

1869年、プティパは、フランスに帰ったサン=レオンの後任として首席バレエマスターに就任した[24]。同年、プティパはモスクワの帝室劇場(現ボリショイ劇場)から依頼を受け、『ドン・キホーテ』を制作している[25]。その後も精力的に作品を発表し、1877年には代表作の一つである『ラ・バヤデール』を成功させた[26]。また、既存のバレエ作品の改訂も数多く手掛け、『ジゼル』や『コッペリア』などの改訂演出を発表した[27]

眠れる森の美女』初演(1890年)

1886年、ペテルブルク帝室劇場の総裁にイワン・フセヴォロジスキー英語版が就任する[28]。フセヴォロジスキーは劇場政策の責任者として様々な改革を行ったが、その一つが、一流の作曲家に作曲を委託してバレエ作品を上演することであった[29]。フセヴォロジスキーはピョートル・チャイコフスキーに作曲を依頼し、1990年にプティパ振付によるバレエ『眠れる森の美女』を初演した[30]。『眠れる森の美女』の成功を受けて、翌々年の1892年には、同じくチャイコフスキー作曲によるバレエ『くるみ割り人形』が制作された[31][32]。プティパは『くるみ割り人形』の台本・振付を担当する予定であったが、初演の3ヶ月前に病に倒れたため、振付のみレフ・イワノフが代行した[32][33]。さらに、1895年には、チャイコフスキーが初めて作曲したバレエ『白鳥の湖』(1877年初演)の蘇演が行われた[34][35]。蘇演版の振付はプティパとイワノフが分担し、第1幕と第3幕はプティパ、第2幕と第4幕はイワノフが担当した[36]。チャイコフスキーが作曲を手掛け、プティパが携わったこの3作品は、「三大バレエ」と呼ばれて現在まで広く親しまれている[37]

引退と晩年

1899年にフセヴォロジスキーが帝室劇場総裁を引退した後、1901年からはウラジーミル・テリャコフスキーが帝室劇場の最高幹部に就任した[38]。テリャコフスキーは、コンスタンチン・コローヴィンアレクサンドル・ゴロヴィーン英語版ら新進の画家を舞台美術に起用したり、若手振付家アレクサンドル・ゴルスキー英語版にプティパ作品の改訂を行わせたりと、新世代の芸術家を積極的に登用した人物で、19世紀的な芸術を信奉するプティパとは対立関係にあった[39]

A・ゴロヴィーン英語版による『魔法の鏡英語版』のデザイン画

そのような状況下で、1903年、新作バレエ『魔法の鏡英語版』が上演されたが、本作はプティパの事実上の引退作となった[40]。本作は、プティパの帝室劇場勤続55周年記念として制作されたもので、原作はグリム童話の『白雪姫』と、アレクサンドル・プーシキンがこの童話を翻案した民話詩『死せる王女と七人の勇士の物語英語版』である[41]。振付・演出はプティパ、台本はプティパとフセヴォロジスキーが手掛け、音楽には若手のアルセーニー・コレシチェンコ英語版、舞台美術にはアレクサンドル・ゴロヴィーンが起用された[42]。しかし、プティパはリハーサルの段階から本作の出来に不満を漏らし、とりわけ舞台美術を酷評していた[43]

『魔法の鏡』は1903年2月9日に初演されたが、19世紀的なプティパの振付と、ゴロヴィーンの進歩的な「芸術世界」派の舞台美術、そしてコレシチェンコの後期ロマン主義の音楽は上手く調和せず、公演は失敗とみなされた[44]。プティパは終身バレエマスターの地位を与えられたが、『魔法の鏡』以降は振付・上演に携わることはなかった[45]。なお、『魔法の鏡』の次回作として、プティパの新作バレエ『バラのつぼみと蝶の物語』が準備されていたが、日露戦争の勃発により上演はキャンセルされた[46]

プティパの墓

1903年9月、プティパは首席バレエマスターの地位を公式に辞し、その後はクリミアで引退生活を送った[47][48]。1906年には、サンクトペテルブルクで回想録が出版された[18]。1910年7月14日、クリミアのグズルフにて92歳で没した[49]

私生活

プティパは生涯で2度結婚し、9人の子供をもうけている[8][50]。1854年、プティパは最初の妻であるマリヤ・セルゲーエヴナ・スロフチコワと結婚した[18][51]。マリヤは帝室劇場バレエ学校の生徒で、卒業と同時にプティパと結婚し、ダンサーとして活躍したが、1869年に離婚した[18]。二人の間に生まれた娘マリヤ・マリウソヴナは、帝室劇場のダンサーとなり、『眠れる森の美女』のリラの精を初演したことで知られている[18][50]

後にプティパは、36歳年下のリュボーフィ・レオニドワと再婚し、二男四女をもうけた[50]。息子2人は俳優となり、娘4人のうち、長女は帝室劇場のダンサーになったが、次女は早逝、三女はダンサーとなったもののすぐに引退、四女はダンサーから俳優に転向した[50]

主要作品

プティパは生涯で60作近いバレエの演出・振付を行ったが、今日全幕上演される作品はそのごく一部であり、多くの作品は失われたか、ガラ公演などで部分的に上演されるのみである[52]。以下、主な作品を挙げる[53]

プティパが振り付けた作品

ファラオの娘英語版』を演じるM・クシェシンスカヤ(1898年)
ライモンダ』第3幕より(1898年)

他の振付家と共同制作した作品

改訂演出を行った作品

作品の特徴

プティパ以前のバレエ

ロマンティック・バレエの代表作『ラ・シルフィード

バレエの起源はルネサンス期のイタリアまで遡るが、今日一般に上演されているのは、19世紀前半以降に生まれた作品である[56][57]。この時期に生まれた『ラ・シルフィード』(1832年)や『ジゼル』(1841年)、『パキータ』(1846年)などの作品は「ロマンティック・バレエ」と呼ばれる[58][59]。ロマンティック・バレエの特徴は、当時のヨーロッパの思想的潮流であったロマン主義の影響を受け、異国や超自然的存在への憧憬を描いたことである[60][61]。例えば『ラ・シルフィード』はスコットランドを舞台に、主人公の青年と、空気の精シルフィードとの悲恋を描いている[62]

19世紀前半のバレエのもう一つの特徴は、ダンスにおける技術革新である[63]。前世紀に比べ、ダンサーの跳躍の高さや脚を上げる高さ、回転の回数といった技巧が重視されるようになり、そのような風潮の中で、女性ダンサーが爪先立ちをするポワント技法も生まれた[64]

プティパがダンサーとして活動を開始したのは、このようなロマンティック・バレエの全盛期であった。プティパの兄リュシアンは、『ジゼル』と『パキータ』の初演者であり、弟であるプティパも後にこれらの作品を演じている[65]

プティパの功績

ロシアで振付家として活躍するようになったプティパは、ロマンティック・バレエの異国情緒や幻想性を引き継ぎつつも、より様式美・形式美を重んじた作品を創作した[66]。プティパが確立したバレエは、その形式主義的性格から「クラシック(古典主義)・バレエ」と呼ばれる[67][注釈 1]。具体的には、以下のような構成上の特徴が見られる[68]

第一に、コール・ド・バレエの装飾的な使用である[68]。プティパ作品では、女性ダンサーによる群舞の場面が盛り込まれており、『眠れる森の美女』や『ドン・キホーテ』、『ラ・バヤデール』などがよく知られている[69]。これらの場面では、ダンサーたちが、抽象化された森林、あるいは単なる装飾模様などに擬せられ、複雑なフォーメーションの群舞を披露する[69]

第二に、グラン・パ・ド・ドゥ形式の確立である[68]。プティパ作品のクライマックスには、グラン・パ・ド・ドゥと呼ばれる主役の男女二人の踊りが挿入される[70]。グラン・パ・ド・ドゥは三部構成となっており、①男女が緩やかな音楽で踊るアダージョ、②男性・女性それぞれのヴァリアシオン、③男女が共に跳躍や回転などの華やかな技を披露するコーダ、という形式が定められている[71][注釈 4]

第三に、ディヴェルティスマンの効果的な配置である[68]。ディヴェルティスマンとは、物語の展開とは直接関係しない、挿入的な舞踊シーンを指す[72]。数人で踊られるものから大規模な群舞まで、その形式は様々である[73]。ディヴェルティスマンが果たす機能も多様で、例えば、グラン・パ・ド・ドゥの前に置かれて観客の期待を高めつつ場面を盛り上げたり、民族舞踊のテクニックを取り入れたダンスで観客を楽しませたり、といった役割がある[74]。著名な例として、『白鳥の湖』の民族舞踊や、『眠れる森の美女』における童話の登場人物たちの踊り、『くるみ割り人形』のお菓子の国の踊りなどが挙げられる[75]

このような形式を備えたプティパ作品においては、高度な舞踊技術を披露する場面と、マイム(身振り)で物語を進行させる場面とが分離され、前者に重点が置かれるようになった[76][77]。これは、前時代のロマンティック・バレエが、舞踊と物語を一体化させ、マイムを舞踊的に表現することを目指していたのと対照的である[78][注釈 5]

また、プティパのもう一つの功績として、ロマンティック・バレエの改訂上演を行い、後世へと伝えたことが挙げられる[27]。『ジゼル』や『コッペリア』などのロマンティック・バレエは、フランスで初演された後、西ヨーロッパでは徐々に上演されなくなっていったが、プティパはこれらの作品を改訂して帝室劇場のレパートリーに加えた[27]。今日これらの作品が上演されているのは、プティパが帝室劇場に残した作品が、20世紀に世界中へ広まったためである[79]

舞踊評論家の守山実花は、プティパの功績を「フランスで19世紀前半から中期に開花したロマンティック・バレエの精神世界を引き継ぎながら、世紀後半のロシアで、それを表現するための絶対的な様式美に支えられた堅固なシステムを完成させた」ことだと総括している[27]

後世への影響

M・フォーキン振付『シェヘラザード
G・バランシン振付『コンチェルト・バロッコ英語版

20世紀の振付家たちは、プティパが確立したクラシック・バレエ様式を様々な形で変革しようとした[4][80]

帝室劇場でプティパに師事したアレクサンドル・ゴルスキー英語版は、20世紀初頭にモスクワボリショイ劇場でバレエマスターを務め、プティパ作品の改訂演出を行った[81]スタニスラフスキー・システムの影響を受けていたゴルスキーは、1900年に『ドン・キホーテ』の新演出を行う際、群衆役のダンサーひとりひとりに明確な役割を与え、スペインの街の人物になりきるよう指導した[81]。また、プティパ流の幾何学的な群舞の配列を崩し、非対称や対角線を目立たせた構図を取り入れた[82]。この改変はプティパの不興を買ったが、ゴルスキーの改訂版は、今日世界中で演じられている『ドン・キホーテ』の演出の基礎となった[83]

また、ゴルスキーと同じく帝室劇場のダンサーであったミハイル・フォーキンは、プティパの形式主義を批判して改革を試みた[84][85]。プティパの振付が、常にダンス・アカデミックと呼ばれる型通りの舞踊技法を中心に構成されていたのに対し、フォーキンは、バレエの演出には作品の時代背景や地域性を反映させるべきだと主張し、民族舞踊などを積極的に取り入れたほか、群舞やマイムについてもより自由で新しい表現を考案した[86]。フォーキンはバレエ・リュスの最初期の振付家として活躍し、19世紀的なクラシック・バレエから現代バレエへの橋渡しという役割を担った[87]

一方、プティパの形式主義をさらに推し進めたのがジョージ・バランシンである[68]。帝室劇場のバレエ学校で学び、後に西ヨーロッパとアメリカで活動したバランシンは、バレエを「観る音楽」と捉え、プティパのクラシック・バレエから物語性を排除した「プロットレス・バレエ」を生み出した[88][89]。このことは、バレエ史上最大の変革の一つであるとみなされている[89]

脚注

注釈

  1. ^ a b 「クラシック・バレエ(古典バレエ)」とは、広義には、ダンス・クラシックの技法を用いた舞踊作品を指し、狭義には、高度な技術的発展を遂げた19世紀後半のロシア・バレエを指す(ダンスマガジン編集部 1999, p.26)。「ダンス・クラシック」とはバレエの技法体系のことで、股関節から下肢を外旋させる「アン・ドゥオール」と、体幹軸を引き上げる「エレヴァシオン」を基本原理とする(守山 2004, p.49。鈴木ほか 2012, p.113)。
  2. ^ 自伝において、プティパは自身の生年を1822年と述べているが、後年の調査により、正しい生年は1818年であることが判明している(鈴木 2018, pp.35-36)
  3. ^ 1847年の改訂演出の際は、プティパは原振付にほとんど手を入れなかったとされる(鈴木 2002, p.341)。1881年にプティパは『パキータ』の再改訂演出を発表し、この時にレオン・ミンクスの音楽による2つの場面を追加した(平野 2020, pp.53-54)。今日『パキータ』が全幕上演されることは稀で、プティパが追加した場面の一つである「グラン・パ」が抜粋上演されることの方が多い(平野 2020, p.54)。
  4. ^ ただし、プティパの時代には、男性ヴァリアシオンは必ずしも主役によって踊られていたわけではなかった(赤尾 2002, p.151)。主役の男性ダンサーが踊るという形式が確立されていったのは、20世紀前半のことである(赤尾 2002, pp.151-152)。
  5. ^ ただし、「舞踊と物語の分離」という傾向は、プティパの前に帝室劇場のバレエマスターを務めたアルチュール・サン=レオンの時点で既に現れていた(鈴木 1994, pp.157-158)。サン=レオンは物語よりも舞踊と音楽を重視し、ディヴェルティスマンを繋げたような作品を創作していた(鈴木 1994, p.158)。この点で、クラシック・バレエの確立はプティパ一人の功績ではなく、サン=レオンから続く流れをプティパが完成させたものとみなすことができる(鈴木 1994, p.161、鈴木ほか 2012, pp.69-70)。

出典

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参考文献

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  • 村山久美子「プティパ名作ガイド 巨匠が手がけた名作の背景」『ダンスマガジン』第28巻第7号、新書館、2018年7月1日、43-46頁。 
  • 森田稔『永遠の「白鳥の湖」  チャイコフスキーとバレエ音楽』新書館、1999年。ISBN 4403230644 
  • 守山実花『もっとバレエに連れてって!』青弓社、2004年。ISBN 4787271784 
  • 渡辺真弓『ビジュアル版 世界の名門バレエ団 頂点に輝くバレエ・カンパニーとバレエ学校』世界文化社、2018年。ISBN 9784418182558 

外部リンク

  1999年に復元上演された、プティパ初演版『眠れる森の美女』の写真等が掲載されている。