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黒目川上流域の遊歩道の下里氷川神社までの区間の開通を追記
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{{Pathnav|日本|東京都|東久留米市|frame=1}}
[[ファイル:Grove of Zelkova Trees and Hedges Yanagikubo.jpg|サムネイル|150px|古民家を囲む屋敷林と生垣(柳窪4丁目)]]
{{Infobox settlement
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[[File:Old Farmer's House and Zelkova Trees Yanagikubo.jpg|thumb|150px|古民家と欅の古木(柳窪1丁目)]]
[[File:Old Farmer's House and Zelkova Trees Yanagikubo.jpg|thumb|150px|古民家と欅の古木(柳窪1丁目)]]
'''柳窪'''(やなぎくぼ)は、[[東京都]][[東久留米市]]の西端に位置する[[町丁|行政町名]]である{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会 編|1978|p=1103}}。柳窪一丁目から柳窪五丁目まである{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会 編|1978|p=1103}}。'''柳久保'''とも表記する{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会 編|1978|p=722}}。[[住民基本台帳]]に基づく[[2017年]](平成29年)[[4月1日]]現在の[[人口]]は5,412人<ref>{{cite web|url=http://www.city.higashikurume.lg.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/008/870/h29.4.1.jinko.pdf|title=平成29年3月分住民基本台帳人口調べ(平成29年4月1日現在)|publisher=東久留米市市民部市民課住民記録係|date=2017-04-01|accessdate=2017-04-22}}</ref>、[[2013年]](平成25年)[[1月1日]]現在の[[面積]]は0.89[[平方キロメートル|km<sup>2</sup>]]<ref name="area"/>。[[郵便番号]]は[[東久留米郵便局|203-0044]]<ref name="pc"/>。
'''柳窪'''(やなぎくぼ)は、[[東京都]][[東久留米市]]の西端に位置する地区の行政町名である。東久留米市内を流れる[[黒目川]]の源流域の柳窪には、江戸末期から昭和初期までに建築された伝統的な造りの大・中型民家、白壁の[[土蔵]]群、[[古民家]]を取り囲むヒイラギの生垣、ケヤキ・カシなどの高木・巨木がそびえ立つ[[屋敷林]]が見られ、周辺の畑地と併せて、江戸時代の[[武蔵野]]の農村集落の面影を今に残している<ref>NPO法人東久留米の水と景観を守る会・柳窪の環境景観の保全を考える会『緑の島へようこそ 柳窪旧集落・「顧想園」・柳窪ばやしのご案内』NPO法人東久留米の水と景観を守る会,p.2</ref>。黒目川源流域に沿った一帯(1.36ヘクタール)は東京都が管理する「柳窪緑地保全地域」に指定されている<ref>柳久保緑地保全地域(http://www.kankyo.metro.tokyo.jp/nature/natural_environment/tokyo/area/33_yanagikubo.html) 東京都環境局.2016年12月23日閲覧</ref>。


東久留米市内を流れる[[黒目川]]の源流域の柳窪には、[[江戸時代]]末期から[[昭和]]初期までに建築された伝統的な造りの大・中型民家、白壁の[[土蔵]]群、[[古民家]]を取り囲む[[ヒイラギ]]の[[生垣]]、[[ケヤキ]]・[[カシ]]などの高木・巨木がそびえ立つ[[屋敷林]]が見られ、周辺の畑地と併せて、江戸時代の[[武蔵野]]の農村集落の面影を今に残している<ref>NPO法人東久留米の水と景観を守る会・柳窪の環境景観の保全を考える会『緑の島へようこそ 柳窪旧集落・「顧想園」・柳窪ばやしのご案内』NPO法人東久留米の水と景観を守る会,p.2</ref>。黒目川源流域に沿った一帯1.3592[[ヘクタール]]は[[東京都庁|東京都]]が管理する「柳窪緑地保全地域」に指定されている<ref>{{cite web|title=柳久保緑地保全地域|url=http://www.kankyo.metro.tokyo.jp/nature/natural_environment/tokyo/area/33_yanagikubo.html|publlisher=東京都環境局|accessdate=2017-04-22}}</ref>。
== 沿革 ==
江戸時代の人々は[[武蔵野]]の荒地を開墾し田畑を広げた。東久留米市域の村々は江戸時代初期またはそれ以前から存在していたが、旧柳窪村は江戸時代に入ってから開発された村で、寛文10年(1670)に幕府領(天領)となった。安政5年(1858)に一時期熊本藩の領地となったが、その時期を除いて幕府領は幕末まで続いた。村が成立して間もない元禄11年(1698)、その石高は僅かに7石でしかなかったが、宝永6年(1709)、隣接する田無村の飛地から74石が分けられ、合わせて82石2斗の村高となった。享保18年(1733)には102石に、幕末ごろには柳窪新田分を含め233石となっている<ref>東久留米市教育委員会生涯学習課文化財係『東久留米の江戸時代~文化財からみた東久留米の村々』東久留米市,2005年3月,p.94</ref><ref>東久留米市史編纂委員会『東久留米市史』東久留米市,1979,pp.320-323</ref>。


== 地理 ==
江戸時代の文献や石造物には「柳窪」または「柳久保」と表記されている。現在の住居表示では柳窪1丁目~5丁目を中心に、下里4丁目の一部が含まれる。柳窪村の江戸時代、文政10年(1827)の家数は38軒、人口は222人、明治5年(1872)の家数は42軒、人口は253人だった。明治5年(1872)から神奈川県に編入され、明治22年(1889)に柳窪村など8村に柳窪新田などを加えて久留米村が成立した。明治26年(1893)に東京府に編入し、昭和18年(1943)に東京都となった<ref>東久留米市教育委員会生涯学習課『くるめの文化財 第21号~旧柳窪村』東久留米市,2005年11月</ref>。
東久留米市の西端に位置し、西は[[東村山市]]、南は[[小平市]]と接する{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会 編|1978|p=1103}}。南部を東西方向に[[新青梅街道]]が通過する地域であり、大部分は[[住宅地]]として利用されている{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会 編|1978|p=1103}}。二丁目に[[山崎製パン]]武蔵野工場、四丁目に黒目川の[[水源]]、五丁目に東久留米市立第十小学校がある{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会 編|1978|p=1103}}。


北は下里三丁目・四丁目、東は滝山五丁目・六丁目、南は小平市大沼町二丁目・四丁目、小平市美園町三丁目、西は東村山市萩山町五丁目、東村山市恩多町一丁目・二丁目、青葉町一丁目と接する。
この地域も昭和30年以降、東京のベッドタウンとして開発が進み、多くの畑地や果樹園が住宅地に姿を変える。危機感を抱いた地元地権者の有志たちは、宅地開発の荒波のなかで緑と景観を守るべく、柳窪地区の12.2ヘクタールの土地を都市計画法上の「市街化調整区域」へ編入(逆線引き)を東京都に申請し、平成2年(1990)に認められた<ref>顧想園『みどりのなかの登録有形文化財~顧想園 ご案内』顧想園,p.1</ref>。これにより、隣接する「柳窪緑地保全地域」と併せて、上空から見ると市街化地域の中に浮かぶ「緑の島」と呼べるような景観が残されることになった。


=== 小・中学校の学区 ===
== 古民家と屋敷林 ==
[[公立学校|公立]]の[[小学校|小]]・[[中学校]]に通学する場合、[[学区]]は次のように指定されている<ref>{{cite web|url=http://www.city.higashikurume.lg.jp/shisei/kyoiku/nyugaku/1001830.html|title=東久留米市立小学校の通学区域表|date=2015-0324|accessdate=2017-04-22|publisher=東久留米市教育部学務課学事係}}</ref><ref>{{cite web|url=http://www.city.higashikurume.lg.jp/shisei/kyoiku/nyugaku/1001832.html|title=東久留米市立小・中学校の通学学校早見表|date=2015-08-13|accessdate=2017-04-22|publisher=東久留米市教育部学務課学事係}}</ref>。このうち、第十小学校は柳窪五丁目にある{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会 編|1978|p=1103}}。
{| class="wikitable"
!丁目!!区域!!小学校!!中学校
|-
|rowspan="2"|柳窪一丁目||9番、10番1号・36号〜55号||[[東久留米市立下里小学校|下里小学校]]||rowspan="6"|[[東久留米市立下里中学校|下里中学校]]
|-
|上記以外||rowspan="5"|第十小学校
|-
|柳窪二丁目||rowspan="4"|全域
|-
|柳窪三丁目
|-
|柳窪四丁目
|-
|柳窪五丁目
|}

=== 古民家と屋敷林 ===
[[File:Old Thatched Dwelling Kosoen Yanagikubo.jpg|thumb|150px|顧想園_村野家住宅(柳窪4丁目)]]
[[File:Old Thatched Dwelling Kosoen Yanagikubo.jpg|thumb|150px|顧想園_村野家住宅(柳窪4丁目)]]
柳窪には[[屋敷林]]に囲まれた江戸末期から明治初期の大型民家5軒と明治中期から昭和初期の中規模の伝統的な民家8軒が残っている。また、養蚕による生糸の輸出で栄えた時代の建物もそのいくつかは今も現存し、暮らしに使われている<ref>NPO法人東久留米の水と景観を守る会・柳窪の環境景観の保全を考える会『緑の島へようこそ 柳窪旧集落・「顧想園」・柳窪ばやしのご案内』NPO法人東久留米の水と景観を守る会,p.4</ref>。
柳窪には[[屋敷林]]に囲まれた江戸時代末期から[[明治]]初期の大型民家5軒と明治中期から昭和初期の中規模の伝統的な民家8軒が残っている。また、[[養蚕]]による[[生糸]]の輸出で栄えた時代の建物もそのいくつかは今も現存し、暮らしに使われている<ref>NPO法人東久留米の水と景観を守る会・柳窪の環境景観の保全を考える会『緑の島へようこそ 柳窪旧集落・「顧想園」・柳窪ばやしのご案内』NPO法人東久留米の水と景観を守る会,p.4</ref>。


この旧集落内に[[土蔵]]が21棟建っている。白壁の土蔵が20棟、外壁に大谷石が積まれている土蔵が1棟で、農村風景の歴史的な環境が維持されている中で、この地区の景観の重要な要素となっている。江戸時代、大都市となった江戸においては大火が頻繁に起こった。そのため享保期以降、幕府は防火対策のひとつとして土蔵等の建築を奨励した。以来、土蔵の建築は農村部にも普及することとなった。柳窪においても幕末から明治・大正期にかけて築かれた土蔵は多い。平成20年(2008)、日本女子大学住居学科による調査対象となった土蔵群は幕末期3、明治初期3、明治30年代3、大正期1、年代不詳1となっている<ref>住居学科・鈴木賢次『東京都東久留米市柳窪地区に残る武蔵野の景観II-土蔵の形式と特徴について日本女子大学紀要 家政学部 第57号』日本女子大学,2010,pp.118-119</ref>。
この旧集落内に[[土蔵]]が21棟建っている。白壁の土蔵が20棟、外壁に[[大谷石]]が積まれている土蔵が1棟で、農村風景の歴史的な環境が維持されている中で、この地区の[[景観]]の重要な要素となっている。江戸時代、[[大都市]]となった[[江戸]]においては大火が頻繁に起こった。そのため[[享保]]([[1716年]] - [[1735年]])以降、幕府は防火対策のひとつとして土蔵等の建築を奨励した。以来、土蔵の建築は農村部にも普及することとなった。柳窪においても幕末から明治・大正期にかけて築かれた土蔵は多い。2008年(平成20年)の[[日本女子大学]]住居学科による調査対象となった土蔵群は幕末期3、明治初期3、明治30年代3、大正期1、年代不詳1となっている<ref>住居学科・鈴木賢次『東京都東久留米市柳窪地区に残る武蔵野の景観II-土蔵の形式と特徴について日本女子大学紀要 家政学部 第57号』日本女子大学,2010,pp.118-119</ref>。


村野家住宅(柳窪4丁目)は、唯一市内に残る江戸時代の茅葺民家である。同住宅は、江戸から大正期にかけて建てられた貴重な建物として、平成23年(2011)に主屋等7件が国登録有形文化財に登録された<ref>東久留米市教育委員会生涯学習課『くるめの文化財 第27号国登録有形文化財「村野家住宅」』東久留米市,2011年5月</ref>。同年それらの建物を総称して「顧想園」と命名し、春と秋に一般公募の見学会(都文化財ウイークへの参加など)が実施されている。
柳窪四丁目の村野家住宅は、唯一東久留米市内に残る江戸時代の[[茅葺]]民家である。同住宅は、江戸から大正期にかけて建てられた貴重な建物として、2011年(平成23年に主屋等7件が日本[[登録有形文化財]]に登録された<ref>東久留米市教育委員会生涯学習課『くるめの文化財 第27号国登録有形文化財「村野家住宅」』東久留米市,2011年5月</ref>。同年それらの建物を総称して「顧想園」と命名し、春と秋に一般公募の見学会(都文化財ウイークへの参加など)が実施されている。


== 黒目川源流域と湧水 ==
=== 黒目川源流域と湧水 ===
[[File:Kurome River and Spring Yanagikubo.jpg|thumb|150px|天神社前の黒目川と湧水_東京名湧水57選(柳窪4丁目)]]
[[File:Kurome River and Spring Yanagikubo.jpg|thumb|150px|天神社前の黒目川と湧水_東京名湧水57選(柳窪丁目)]]
現在は[[小平霊園]]内にあり、昔はさいかちの木が何本も生えていたのでそう呼ばれる「[[さいかち窪]]」(柳窪3丁目)は、地形的には[[黒目川]]の源流部にあたり、雨量の多いときに稀ではあるが林の中に湧水が出現する「幻の湧水」と言われる<ref>東久留米市教育委員会生涯学習課『くるめの文化財 第21号~旧柳窪村』東久留米市,2005年11月</ref>。[[黒目川]]沿いの天神社(柳窪4丁目)付近の湧水は、[[東京の名湧水57選]]に指定された<ref>東京の名湧水57選一覧(http://www.kankyo.metro.tokyo.jp/water/conservation/spring_water/tokyo/index.html) 東京都環境局.2016年12月23日閲覧</ref>。季節や天候により水量は変動し枯れることもあるが、透明でゆるやかな流れと伝統ある社殿、周辺の曲がりくねった道や道祖神は、昔ながらの風景を残している。
現在は[[小平霊園]]内にあり、昔はさいかちの木が何本も生えていたのでそう呼ばれる「[[さいかち窪]]」(柳窪丁目)は、[[地形]]的には黒目川の源流部にあたり、雨量の多いときに稀ではあるが林の中に湧水が出現する「幻の湧水」と言われる<ref>東久留米市教育委員会生涯学習課『くるめの文化財 第21号~旧柳窪村』東久留米市,2005年11月</ref>。黒目川沿いの天神社(柳窪丁目)付近の湧水は、[[東京の名湧水57選]]に指定された<ref>{{cite web|title=東京の名湧水57選一覧|url=http://www.kankyo.metro.tokyo.jp/water/conservation/spring_water/tokyo/index.html|publisher=東京都環境局|accessdate=2017-04-22}}</ref>。季節や天候により水量は変動し枯れることもあるが、透明でゆるやかな流れと伝統ある社殿、周辺の曲がりくねった道や道祖神は、昔ながらの風景を残している。


平成25年(2013)に新青梅街道から[[黒目川]]沿いに柳窪を縦断して下流の柳橋まで約1kmにわたる遊歩道が開通した。「さいかちの道」と名付けられたこの道は、東京都指定の「雑木林のみち」の延長でもある<ref>NPO法人東久留米の水と景観を守る会・柳窪の環境景観の保全を考える会『緑の島へようこそ 柳窪旧集落・「顧想園」・柳窪ばやしのご案内』NPO法人東久留米の水と景観を守る会,p.2</ref><ref>雑木林のみち黒目川・柳窪コース(http://www.kankyo.metro.tokyo.jp/nature/natural_environment/tokyo/thicket_way/course_03.html) 東京都環境局.2016年12月23日閲覧</ref>。柳橋から下流には久留米西団地内の「しんやま親水広場」を抜ける遊歩道が整備されており、更にその先の下里氷川神社まで延伸する遊歩道は平成29年(2017)4月に開通した<ref>東久留米市企画経営室秘書広報課『広報ひがしくるめ No.1186』東久留米市,2017年4月,p.3</ref>。これにより新青梅街道から下里氷川神社まで黒目川に沿う約2.1kmの親水化整備区間の遊歩道が完成した。
[[2013年]](平成25年に新青梅街道から黒目川沿いに柳窪を縦断して下流の柳橋まで約1kmにわたる遊歩道が開通した。「さいかちの道」と名付けられたこの道は、東京都指定の「雑木林のみち」の延長でもある<ref>NPO法人東久留米の水と景観を守る会・柳窪の環境景観の保全を考える会『緑の島へようこそ 柳窪旧集落・「顧想園」・柳窪ばやしのご案内』NPO法人東久留米の水と景観を守る会,p.2</ref><ref>{{cite web|title=雑木林のみち黒目川・柳窪コース|url=http://www.kankyo.metro.tokyo.jp/nature/natural_environment/tokyo/thicket_way/course_03.html|publisher=東京都環境局|accessdate=2017-04-22}}</ref>。柳橋から下流には久留米西団地内の「しんやま親水広場」を抜ける遊歩道が整備されており、更にその先の下里氷川神社まで延伸する遊歩道は2017年(平成29年)4月に開通した<ref>東久留米市企画経営室秘書広報課『広報ひがしくるめ No.1186』東久留米市,2017年4月,p.3</ref>。これにより新青梅街道から下里氷川神社まで黒目川に沿う約2.1kmの親水化整備区間の遊歩道が完成した。

== 歴史 ==
=== 近世から近代 ===
江戸時代の人々は[[武蔵野]]の荒地を開墾し田畑を広げた。東久留米市域の村々は江戸時代初期またはそれ以前から存在していたが、旧柳窪村は江戸時代に入ってから開発された村で、[[寛文]]10年([[1670年]])に幕府領([[天領]])となった。[[安政]]5年([[1858年]])に一時期[[熊本藩]]の領地となったが、その時期を除いて幕府領は幕末まで続いた。村が成立して間もない[[元禄]]11年([[1698年]])、その石高は僅かに7石でしかなかったが、[[宝永]]6年([[1709年]])、隣接する[[田無市|田無村]]の[[飛地]]から74石が分けられ、合わせて82石2斗の村高となった。[[享保]]18年([[1733年]])には102石に、幕末ごろには柳窪新田分を含め233石となっている<ref>東久留米市教育委員会生涯学習課文化財係『東久留米の江戸時代〜文化財からみた東久留米の村々』東久留米市,2005年3月,p.94</ref><ref>東久留米市史編纂委員会『東久留米市史』東久留米市,1979,pp.320-323</ref>。

江戸時代の文献や石造物には「柳窪」または「柳久保」と表記されている。現在の[[住居表示]]では柳窪一丁目 - 五丁目を中心に、下里四丁目の一部が含まれる。柳窪村の江戸時代、[[文政]]10年([[1827年]])の家数は38軒、人口は222人、[[1872年]]([[明治5年]])の家数は42軒、人口は253人だった。1872年(明治5年)から[[神奈川県]]に編入され、[[1889年]](明治22年)に柳窪村など8村に柳窪新田などを加えて久留米村が成立した。[[1893年]](明治26年)に[[東京府]]に編入し、[[1943年]](昭和18年)に東京都となった<ref>東久留米市教育委員会生涯学習課『くるめの文化財 第21号〜旧柳窪村』東久留米市,2005年11月</ref>。

==== 武州世直し一揆と柳窪 ====
[[File:Alcove Post in the Murano House Damaged during the Major Farmers' Riot Yanagikubo.jpg|thumb|150px|武州世直し一揆の床柱の傷_顧想園(柳窪4丁目)]]
[[慶応]]2年[[6月13日 (旧暦)|6月13日]]([[1866年]][[7月24日]])、[[秩父郡]]上名栗村に端を発し、武蔵17郡・[[上野国|上野]]2郡に及んだ武州[[世直し一揆]]には、農民・民衆等10万人余が参加したといわれる。一揆勢は各地で米の安売りや施金・施米、質地証文・借金証文の廃棄などを求めて次つぎに豪農・豪商を襲いながら、鎮圧される[[6月19日 (旧暦)|同月19日]](西暦[[7月30日]])までの7日間のあいだにその勢いは燎原の火のごとく関東西部各地に広がった。打ちこわしの被害にあった村は202村。幕末期、しかも将軍のお膝元で起きた[[関東地方|関東]]最大のこの農民一揆が[[幕藩体制]]に与えた衝撃は大きく、幕府の威信を揺るがし、その瓦解を早めた要因のひとつとなった<ref>飯能市名栗村史編集委員会『名栗の歴史(上)』飯能市,2008,p.422</ref>。

この武州世直し一揆勢の行く先は柳窪にも向けられた。[[6月14日 (旧暦)|6月14日]] - [[6月15日 (旧暦)|15日]](西暦[[7月25日]] - [[7月26日|26日]])に扇町屋、所沢などで豪・農商を襲い、[[6月16日 (旧暦)|16日]](西暦[[7月27日]])早朝には大岱村の亀次郎宅を打ちこわしたあと、柳窪村の名主七郎右衛門宅と分家・農業七次郎宅にも打ちこわしをかけた。その数は数百人との説もあるが定かではない。一揆勢に立ち向かった鎮圧勢力は、江川代官所でかねてより特別の訓練を受けていた農民の武装組織、いわゆる江川農兵であった。田無村に出張中の江川代官所の役人は柳窪村打ちこわしの報を受け、すぐさま鉄砲をもった農兵16人と村役人や人足など150人ほどをひきつれ出陣した。農兵は七次郎宅打ちこわし中の一揆勢に向けて容赦なく発砲した。その結果、武器をもたない一揆勢はたちまち総崩れとなり、居宅は凄惨な事件現場と化した。即死者8名、逮捕者13名、負傷者80余名という結果を残して、一揆勢は鎮圧・壊滅された<ref>東久留米市史編纂委員会『東久留米市史』東久留米市,1979,pp.484-485</ref>。
事件発生の翌慶応3年4月([[1867年]]5月)、襲撃を受けた農業村野七次郎ら12人の上層農は今後に備えて食料の備蓄などについて対策を講じている。それは、自然災害や農民の困窮する事態に備えて、村人全員257人60日分の食糧を備蓄すること、また非常の際、窮民への助成金として金10両を積み立てておくことを取り決めた。その記録が残されている<ref>東久留米市史編纂委員会『東久留米市史 史料』東久留米市,1978,pp.224-225</ref>。

村野七次郎宅であった村野家住宅(柳窪四丁目)には、主屋の奥座敷の床柱や長押に鋸や鎌などによると思われる襲撃の傷跡が今も残っている<ref>顧想園『みどりのなかの登録有形文化財〜顧想園 ご案内』顧想園,p.4</ref>。

=== 現代 ===
この地域も[[1955年]](昭和30年)以降、東京の[[ベッドタウン]]として開発が進み、多くの畑地や果樹園が住宅地に姿を変える。危機感を抱いた地元地権者の有志たちは、宅地開発の荒波のなかで緑と景観を守るべく、柳窪地区の12.2ヘクタールの土地を[[都市計画法]]上の「市街化調整区域」へ編入すること(逆線引き)を東京都に申請し、[[1990年]](平成2年)に認められた<ref>顧想園『みどりのなかの登録有形文化財〜顧想園 ご案内』顧想園,p.1</ref>。これにより、隣接する「柳窪緑地保全地域」と併せて、上空から見ると市街化地域の中に浮かぶ「緑の島」と呼べるような景観が残されることになった。[[1969年]](昭和44年)[[11月1日]]に住居表示を導入した{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会 編|1978|p=722}}。これと前後して柳窪と柳窪新田を柳窪一丁目から柳窪五丁目とし、一部は下里、南町、弥生町へ移行した{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会 編|1978|p=722}}。


== 柳久保小麦 ==
== 柳久保小麦 ==
[[File:Yanagikubo Wheat (Right) Indigenous to the Old Yanagikubo Village.jpg|thumb|150px|left|柳久保小麦(右):従来種の小麦(左)より穂丈が長く太い]]
[[File:Yanagikubo Wheat (Right) Indigenous to the Old Yanagikubo Village.jpg|thumb|150px|left|柳久保小麦(右):従来種の小麦(左)より穂丈が長く太い]]
かねてより、柳窪は「柳久保小麦」発祥の地としてその名が知られている。柳久保小麦は、嘉永3年(1850)あるいは嘉永4年(1851)、柳窪の奥住又右衛門が旅先から持ち帰った一穂の麦から生まれたとする説<ref>東久留米市教育委員会生涯学習課文化財係『東久留米の江戸時代~文化財からみた東久留米の村々』東久留米市,2005年3月,p.105</ref><ref>高橋重雄『多摩のあゆみ 第136号特集 近現代の多摩農業 柳久保小麦』公益財団法人たましん地域文化財団,2009年11月,p.46</ref>が流布されているが、一方、江戸から肥料にまぎれて運ばれてきた国の長穂の種を又右衛門が発見して増殖したとする説<ref>NPO法人東久留米の水と景観を守る会・柳窪の環境景観の保全を考える会『緑の島へようこそ 柳窪旧集落・「顧想園」・柳窪ばやしのご案内』NPO法人東久留米の水と景観を守る会,p.6</ref>もあり、その経緯は必ずしも明確にはなっていない。優良な小麦だったので評判になり、「又右衛門種」あるいは「柳久保小麦」と呼ばれ、東京各地や神奈川県など近隣県の農家でも栽培された<ref>江戸東京やさいマップ(http://www.tokyo-ja.or.jp/farming/edomap_index.html) JA東京中央会.2016年12月23日閲覧</ref>。この麦からは良質の粉ができ、「人が集まればうどん」の地域の習わしの中で、柳久保小麦の人気は高かった。柳久保小麦は、普通の小麦より穂丈が長く太いため、家屋の屋根材としても広く利用された。当時の民家は茅葺き屋根が多く、屋根材として不足する茅を補うために柳久保小麦の麦藁が使われた<ref>東久留米市教育委員会生涯学習課文化財係『東久留米の江戸時代文化財からみた東久留米の村々』東久留米市,2005年3月,p.105</ref>。
かねてより、柳窪は「柳久保小麦」発祥の地としてその名が知られている。柳久保小麦は、[[嘉永]]3年([[1850年]])あるいは嘉永4年([[1851年]])、柳窪の奥住又右衛門が旅先から持ち帰った一穂の麦から生まれたとする説<ref>東久留米市教育委員会生涯学習課文化財係『東久留米の江戸時代~文化財からみた東久留米の村々』東久留米市,2005年3月,p.105</ref><ref>高橋重雄『多摩のあゆみ 第136号特集 近現代の多摩農業 柳久保小麦』公益財団法人たましん地域文化財団,2009年11月,p.46</ref>が流布されているが、一方、江戸から肥料にまぎれて運ばれてきた日本の長穂の種を又右衛門が発見して増殖したとする説<ref>NPO法人東久留米の水と景観を守る会・柳窪の環境景観の保全を考える会『緑の島へようこそ 柳窪旧集落・「顧想園」・柳窪ばやしのご案内』NPO法人東久留米の水と景観を守る会,p.6</ref>もあり、その経緯は必ずしも明確にはなっていない。優良な小麦だったので評判になり、「又右衛門種」あるいは「柳久保小麦」と呼ばれ、東京各地や神奈川県など近隣県の農家でも栽培された<ref>{{cite web|title=江戸東京やさいマップ|url=http://www.tokyo-ja.or.jp/farming/edomap_index.html|publisher=JA東京中央会|accessdate=2017-04-22}}</ref>。この麦からは良質の粉ができ、「人が集まればうどん」の地域の習わしの中で、柳久保小麦の人気は高かった。柳久保小麦は、普通の小麦より穂丈が長く太いため、家屋の屋根材としても広く利用された。当時の民家は茅葺き屋根が多く、屋根材として不足する茅を補うために柳久保小麦の麦藁が使われた<ref>東久留米市教育委員会生涯学習課文化財係『東久留米の江戸時代文化財からみた東久留米の村々』東久留米市,2005年3月,p.105</ref>。


しかし、栽培にあたっては丈高のため倒れやすく、収穫量も他品種の約3分の1と少ないことから、昭和17年(1942)、戦時中の食糧増産政策により作付けが中止された。その後、昭和60年(1985)に又右衛門の子孫が農林省生物資源研究所(つくば市)に保存されていた種を譲り受けて播種し<ref>高橋重雄『多摩のあゆみ 第136号特集 近現代の多摩農業 柳久保小麦』公益財団法人たましん地域文化財団,2009年11月,p.46</ref>、昭和63年(1988)に46年ぶりに栽培復活た<ref>東久留米市教育委員会生涯学習課文化財係『東久留米の江戸時代文化財からみた東久留米の村々』東久留米市,2005年3月,p.105</ref>。
しかし、栽培にあたっては丈高のため倒れやすく、収穫量も他品種の約3分の1と少ないことから、[[1942年]](昭和17年)に戦時中の食糧増産政策により作付けが中止された。その後、[[1985年]](昭和60年に又右衛門の子孫が[[つくば市]]の[[農林水産]][[農業生物資源研究所]]に保存されていた種を譲り受けて播種し<ref>高橋重雄『多摩のあゆみ 第136号特集 近現代の多摩農業 柳久保小麦』公益財団法人たましん地域文化財団,2009年11月,p.46</ref>、1988年(昭和63年に46年ぶりに栽培復活させた<ref>東久留米市教育委員会生涯学習課文化財係『東久留米の江戸時代文化財からみた東久留米の村々』東久留米市,2005年3月,p.105</ref>。

現在は、東久留米市内の10数軒の農家の協力により耕作され、うどん・ラーメン・かりんとう・饅頭・パン・クッキーなど関連商品が市内で販売されている<ref>NPO法人東久留米の水と景観を守る会・柳窪の環境景観の保全を考える会『緑の島へようこそ 柳窪旧集落・「顧想園」・柳窪ばやしのご案内』NPO法人東久留米の水と景観を守る会,p.6</ref><ref>東久留米市役所産業政策課『東久留米大好きっ!』東久留米市,2014年8月</ref>。
[[2010年代]]は、東久留米市内の10数軒の農家の協力により耕作され、うどん・ラーメン・かりんとう・饅頭・パン・クッキーなど関連商品が市内で販売されている<ref>NPO法人東久留米の水と景観を守る会・柳窪の環境景観の保全を考える会『緑の島へようこそ 柳窪旧集落・「顧想園」・柳窪ばやしのご案内』NPO法人東久留米の水と景観を守る会,p.6</ref><ref>東久留米市役所産業政策課『東久留米大好きっ!』東久留米市,2014年8月</ref>。

== 交通 ==
{{節stub}}
柳窪南部を東西方向に[[新青梅街道]]が通過する{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会 編|1978|p=1103}}。

== 施設 ==
{{節stub}}
'''二丁目'''
* [[山崎製パン]]武蔵野工場{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会 編|1978|p=1103}}
'''五丁目'''
* 東久留米市立第十小学校{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会 編|1978|p=1103}}


== 文化財 ==
== 文化財 ==
[[File:Jizo Statue and Stone Monuments by the Roadside Yanagikubo.jpg|thumb|150px|地蔵菩薩、石橋供養塔、庚申塔(柳窪天神下)]]
[[File:Jizo Statue and Stone Monuments by the Roadside Yanagikubo.jpg|thumb|150px|地蔵菩薩、石橋供養塔、庚申塔(柳窪天神下)]]
*明治時代村地引絵図(市有形文化財第11号)東久留米市教育委員会所蔵 明治時代初期
*明治時代村地引絵図(市有形文化財第11号)東久留米市教育委員会所蔵 明治時代初期
:明治6年(1873)の地租改正令により作成されたもので、地租改正図ともいわれ、徴税の基本となる村絵図である。当時の8村1新田9ヵ村の全図9枚が残存しており、旧柳窪村の絵図も含まれている<ref>東久留米市教育委員会社会教育部社会教育課『東久留米市文化財資料集第12集-指定文化財編』東久留米市,1990,p.16</ref>。
:1873年(明治6年の地租改正令により作成されたもので、[[地租改正]]図ともいわれ、徴税の基本となる村絵図である。当時の8村1新田9ヵ村の全図9枚が残存しており、旧柳窪村の絵図も含まれている<ref>東久留米市教育委員会社会教育部社会教育課『東久留米市文化財資料集第12集-指定文化財編』東久留米市,1990,p.16</ref>。
*庚申塔(市有形民俗文化財第2号)柳窪4丁目長福寺下 明和元年(1764)
*庚申塔(市有形民俗文化財第2号)柳窪丁目長福寺下 [[明和]]元年([[1764年]])
:正面に青面金剛の立像を現し、像の足下に三猿を配している<ref>東久留米市教育委員会社会教育部社会教育課『東久留米市文化財資料集第12集-指定文化財編』東久留米市,1990,p.28</ref>。
:正面に青面金剛の立像を現し、像の足下に三猿を配している<ref>東久留米市教育委員会社会教育部社会教育課『東久留米市文化財資料集第12集-指定文化財編』東久留米市,1990,p.28</ref>。
*地蔵菩薩石像(市有形民俗文化財第25号)柳窪5丁目墓地 宝永3年(1706)
*地蔵菩薩石像(市有形民俗文化財第25号)柳窪5丁目墓地 宝永3年(1706年)
:市内で2番目に古い地蔵菩薩の石像。丸彫りに近い浮き彫りに仕上げられている。蓮弁には奥住、内田、村野など造立者の名前が見られる<ref>東久留米市教育委員会社会教育部社会教育課『東久留米市文化財資料集第12集-指定文化財編』東久留米市,1990,p.32</ref>。
:市内で2番目に古い地蔵菩薩の石像。丸彫りに近い浮き彫りに仕上げられている。蓮弁には奥住、内田、村野など造立者の名前が見られる<ref>東久留米市教育委員会社会教育部社会教育課『東久留米市文化財資料集第12集-指定文化財編』東久留米市,1990,p.32</ref>。
*石橋供養塔(市有形民俗文化財第3号)柳窪4丁目長福寺下 明和6年(1769)
*石橋供養塔(市有形民俗文化財第3号)柳窪4丁目長福寺下 明和6年([[1769年]])
:石柱型の供養塔で、正面光背形の窪みの中に観世音菩薩の立像を彫り、造立の趣旨と紀年銘を示している<ref>東久留米市教育委員会社会教育部社会教育課『東久留米市文化財資料集第12集-指定文化財編』東久留米市,1990,p.42</ref>。
:石柱型の供養塔で、正面光背形の窪みの中に観世音菩薩の立像を彫り、造立の趣旨と紀年銘を示している<ref>東久留米市教育委員会社会教育部社会教育課『東久留米市文化財資料集第12集-指定文化財編』東久留米市,1990,p.42</ref>。
*地蔵菩薩石像(市有形民俗文化財第30号)柳窪4丁目長福寺下 江戸時代後期
*地蔵菩薩石像(市有形民俗文化財第30号)柳窪丁目長福寺下 江戸時代後期
:江戸時代の新田開発集落の面影を残す柳窪にあって、当時の村名(柳久保村)が彫られている地蔵菩薩石像として貴重<ref>東久留米市教育委員会教育部生涯学習課『ふるさとマップ 東久留米の文化財』東久留米市,2015</ref>。
:江戸時代の新田開発集落の面影を残す柳窪にあって、当時の村名(柳久保村)が彫られている地蔵菩薩石像として貴重<ref>東久留米市教育委員会教育部生涯学習課『ふるさとマップ 東久留米の文化財』東久留米市,2015</ref>。
*柳窪囃子(市無形民俗文化財第2号)
*柳窪囃子(市無形民俗文化財第2号)
:天神社の春・秋祭で執り行う。柳窪囃子の流派は重松流。江戸時代末に所沢市の古谷重松が江戸の祭囃子から独自の旋律を考案したと伝えられる<ref>東久留米市教育委員会社会教育部社会教育課『東久留米市文化財資料集第12集-指定文化財編』東久留米市,1990,p.47</ref>。
:天神社の春・秋祭で執り行う。柳窪囃子の流派は重松流。江戸時代末に所沢市の古谷重松が江戸の祭囃子から独自の旋律を考案したと伝えられる<ref>東久留米市教育委員会社会教育部社会教育課『東久留米市文化財資料集第12集-指定文化財編』東久留米市,1990,p.47</ref>。


== 出典・脚注 ==
== 武州世直し一揆と柳窪 ==
{{Reflist|2}}
[[File:Alcove Post in the Murano House Damaged during the Major Farmers' Riot Yanagikubo.jpg|thumb|150px|武州世直し一揆の床柱の傷_顧想園(柳窪4丁目)]]
慶応2年(1866)6月13日、[[埼玉県]][[秩父郡]]上名栗村に端を発し、武蔵17郡・上野2郡に及んだ武州[[世直し一揆]]には、農民・民衆等10万人余が参加したといわれる。一揆勢は各地で米の安売りや施金・施米、質地証文・借金証文の廃棄などを求めて次つぎに豪農・豪商を襲いながら、鎮圧される同月19日までの7日間のあいだにその勢いは燎原の火のごとく関東西部各地に広がった。打ちこわしの被害にあった村は202村。幕末期、しかも将軍のお膝元で起きた関東最大のこの農民一揆が幕藩体制に与えた衝撃は大きく、幕府の威信を揺るがし、その瓦解を早めた要因のひとつとなった<ref>飯能市名栗村史編集委員会『名栗の歴史(上)』飯能市,2008,p.422</ref>。

この武州世直し一揆勢の行く先は柳窪にも向けられた。6月14日~15日に扇町屋、所沢などで豪・農商を襲い、16日早朝には大岱村の亀次郎宅を打ちこわしたあと、柳窪村の名主七郎右衛門宅と分家・農業七次郎宅にも打ちこわしをかけた。その数は数百人との説もあるが定かではない。一揆勢に立ち向かった鎮圧勢力は、江川代官所でかねてより特別の訓練を受けていた農民の武装組織、いわゆる江川農兵であった。田無村に出張中の江川代官所の役人は柳窪村打ちこわしの報を受け、すぐさま鉄砲をもった農兵16人と村役人や人足など150人ほどをひきつれ出陣した。農兵は七次郎宅打ちこわし中の一揆勢に向けて容赦なく発砲した。その結果、武器をもたない一揆勢はたちまち総崩れとなり、居宅は凄惨な事件現場と化した。即死者8名、逮捕者13名、負傷者80余名という結果を残して、一揆勢は鎮圧・壊滅された<ref>東久留米市史編纂委員会『東久留米市史』東久留米市,1979,pp.484-485</ref>。
事件発生の翌年(慶応3年)4月、襲撃を受けた農業村野七次郎ら12人の上層農は今後に備えて食料の備蓄などについて対策を講じている。それは、自然災害や農民の困窮する事態に備えて、村人全員257人60日分の食糧を備蓄すること、また非常の際、窮民への助成金として金10両を積み立てておくことを取り決めた。その記録が残されている<ref>東久留米市史編纂委員会『東久留米市史 史料』東久留米市,1978,pp.224-225</ref>。


== 参考文献 ==
村野七次郎宅である現在の村野家住宅(柳窪4丁目)には、主屋の奥座敷の床柱や長押に鋸や鎌などによると思われる襲撃の傷跡が今も残っている<ref>顧想園『みどりのなかの登録有形文化財~顧想園 ご案内』顧想園,p.4</ref>。
* {{cite book|和書|editor=「角川日本地名大辞典」編纂委員会 編|title=[[角川日本地名大辞典]] 13 東京都|publisher=[[角川書店]]|date=1978年10月27日|page=1253|ref={{sfnref|「角川日本地名大辞典」編纂委員会 編|1978}}}}{{全国書誌番号|79000112}}

* {{cite journal|和書|author=鈴木賢次|title=東京都東久留米市柳窪地区に残る武蔵野の景観|journal=日本女子大学紀要 家政学部|issue=56|publisher=[[日本女子大学]]|date=2009-02-26|pages=93-102|naid=110007087609|ref={{sfnref|鈴木|2009}}}}
== 出典・脚注 ==
{{Reflist}}


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
*[[黒目川]]
* [[黒目川]]
*[[屋敷林]]
* [[屋敷林]]
*[[世直し一揆]]
* [[世直し一揆]]


== 外部リンク ==
== 外部リンク ==
*[http://www.city.higashikurume.lg.jp/shisei/profile/bunkazai/1002392.html 東久留米市ホームページ・国登録有形文化財(建造物)]
* [http://www.city.higashikurume.lg.jp/shisetsu/kouen/1001504/index.html 柳窪] - 東久留米市
* [http://www.city.higashikurume.lg.jp/shisei/profile/bunkazai/1002392.html 東久留米市ホームページ・国登録有形文化財(建造物)]
*[http://www.city.higashikurume.lg.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/002/407/1_saikati.pdf 東久留米市ホームページ『リバーサイド歩くるめ・ちょっと寄り道散歩道黒目川上流 さいかち窪コース』]
* [http://www.city.higashikurume.lg.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/002/407/1_saikati.pdf 東久留米市ホームページ『リバーサイド歩くるめ・ちょっと寄り道散歩道黒目川上流 さいかち窪コース』]
*[http://kuru-chan.com/0158mizutokeikan/ くるくるチャンネル・NPO法人 東久留米の水と景観を守る会]
* [http://kuru-chan.com/0158mizutokeikan/ くるくるチャンネル・NPO法人 東久留米の水と景観を守る会]

== 文献 ==
*住居学科・鈴木賢次『東京都東久留米市柳窪地区に残る武蔵野の景観~日本女子大学紀要 家政学部 第56号』日本女子大学,2009


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[[Category:東久留米市の歴史]]
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[[Category:東京都の町・字]]
[[Category:東久留米市の歴史]]

2017年4月21日 (金) 20:09時点における版

柳窪
古民家を囲む屋敷林と生垣(柳窪4丁目)
古民家を囲む屋敷林と生垣(柳窪4丁目)
柳窪の位置(東京都内)
柳窪
柳窪
柳窪の位置
北緯35度44分42.9秒 東経139度29分44.2秒 / 北緯35.745250度 東経139.495611度 / 35.745250; 139.495611
日本の旗 日本
都道府県 東京都
東久留米市
面積
(2013年1月1日[1]
 • 合計 0.89 km2
標高
64.0 m
人口
 • 合計 5,412人人
等時帯 UTC+9 (日本標準時)
郵便番号
市外局番 042[4]
ナンバープレート 多摩[5]
自動車登録住所コード 13 521 0247[6]
※座標・標高はくるみ保育園(柳窪二丁目15番6号)付近
古民家と欅の古木(柳窪1丁目)

柳窪(やなぎくぼ)は、東京都東久留米市の西端に位置する行政町名である[7]。柳窪一丁目から柳窪五丁目まである[7]柳久保とも表記する[8]住民基本台帳に基づく2017年(平成29年)4月1日現在の人口は5,412人[9]2013年(平成25年)1月1日現在の面積は0.89km2[1]郵便番号203-0044[3]

東久留米市内を流れる黒目川の源流域の柳窪には、江戸時代末期から昭和初期までに建築された伝統的な造りの大・中型民家、白壁の土蔵群、古民家を取り囲むヒイラギ生垣ケヤキカシなどの高木・巨木がそびえ立つ屋敷林が見られ、周辺の畑地と併せて、江戸時代の武蔵野の農村集落の面影を今に残している[10]。黒目川源流域に沿った一帯1.3592ヘクタール東京都が管理する「柳窪緑地保全地域」に指定されている[11]

地理

東久留米市の西端に位置し、西は東村山市、南は小平市と接する[7]。南部を東西方向に新青梅街道が通過する地域であり、大部分は住宅地として利用されている[7]。二丁目に山崎製パン武蔵野工場、四丁目に黒目川の水源、五丁目に東久留米市立第十小学校がある[7]

北は下里三丁目・四丁目、東は滝山五丁目・六丁目、南は小平市大沼町二丁目・四丁目、小平市美園町三丁目、西は東村山市萩山町五丁目、東村山市恩多町一丁目・二丁目、青葉町一丁目と接する。

小・中学校の学区

公立中学校に通学する場合、学区は次のように指定されている[12][13]。このうち、第十小学校は柳窪五丁目にある[7]

丁目 区域 小学校 中学校
柳窪一丁目 9番、10番1号・36号〜55号 下里小学校 下里中学校
上記以外 第十小学校
柳窪二丁目 全域
柳窪三丁目
柳窪四丁目
柳窪五丁目

古民家と屋敷林

顧想園_村野家住宅(柳窪4丁目)

柳窪には屋敷林に囲まれた江戸時代末期から明治初期の大型民家5軒と明治中期から昭和初期の中規模の伝統的な民家8軒が残っている。また、養蚕による生糸の輸出で栄えた時代の建物もそのいくつかは今も現存し、暮らしに使われている[14]

この旧集落内に土蔵が21棟建っている。白壁の土蔵が20棟、外壁に大谷石が積まれている土蔵が1棟で、農村風景の歴史的な環境が維持されている中で、この地区の景観の重要な要素となっている。江戸時代、大都市となった江戸においては大火が頻繁に起こった。そのため享保期(1716年 - 1735年)以降、幕府は防火対策のひとつとして土蔵等の建築を奨励した。以来、土蔵の建築は農村部にも普及することとなった。柳窪においても幕末から明治・大正期にかけて築かれた土蔵は多い。2008年(平成20年)の日本女子大学住居学科による調査対象となった土蔵群は幕末期3、明治初期3、明治30年代3、大正期1、年代不詳1となっている[15]

柳窪四丁目の村野家住宅は、唯一東久留米市内に残る江戸時代の茅葺民家である。同住宅は、江戸から大正期にかけて建てられた貴重な建物として、2011年(平成23年)に主屋等7件が日本国登録有形文化財に登録された[16]。同年それらの建物を総称して「顧想園」と命名し、春と秋に一般公募の見学会(都文化財ウイークへの参加など)が実施されている。

黒目川源流域と湧水

天神社前の黒目川と湧水_東京名湧水57選(柳窪四丁目)

現在は小平霊園内にあり、昔はさいかちの木が何本も生えていたのでそう呼ばれる「さいかち窪」(柳窪三丁目)は、地形的には黒目川の源流部にあたり、雨量の多いときに稀ではあるが林の中に湧水が出現する「幻の湧水」と言われる[17]。黒目川沿いの天神社(柳窪四丁目)付近の湧水は、東京の名湧水57選に指定された[18]。季節や天候により水量は変動し枯れることもあるが、透明でゆるやかな流れと伝統ある社殿、周辺の曲がりくねった道や道祖神は、昔ながらの風景を残している。

2013年(平成25年)に新青梅街道から黒目川沿いに柳窪を縦断して下流の柳橋まで約1kmにわたる遊歩道が開通した。「さいかちの道」と名付けられたこの道は、東京都指定の「雑木林のみち」の延長でもある[19][20]。柳橋から下流には久留米西団地内の「しんやま親水広場」を抜ける遊歩道が整備されており、更にその先の下里氷川神社まで延伸する遊歩道は2017年(平成29年)4月に開通した[21]。これにより新青梅街道から下里氷川神社まで黒目川に沿う約2.1kmの親水化整備区間の遊歩道が完成した。

歴史

近世から近代

江戸時代の人々は武蔵野の荒地を開墾し田畑を広げた。東久留米市域の村々は江戸時代初期またはそれ以前から存在していたが、旧柳窪村は江戸時代に入ってから開発された村で、寛文10年(1670年)に幕府領(天領)となった。安政5年(1858年)に一時期熊本藩の領地となったが、その時期を除いて幕府領は幕末まで続いた。村が成立して間もない元禄11年(1698年)、その石高は僅かに7石でしかなかったが、宝永6年(1709年)、隣接する田無村飛地から74石が分けられ、合わせて82石2斗の村高となった。享保18年(1733年)には102石に、幕末ごろには柳窪新田分を含め233石となっている[22][23]

江戸時代の文献や石造物には「柳窪」または「柳久保」と表記されている。現在の住居表示では柳窪一丁目 - 五丁目を中心に、下里四丁目の一部が含まれる。柳窪村の江戸時代、文政10年(1827年)の家数は38軒、人口は222人、1872年明治5年)の家数は42軒、人口は253人だった。1872年(明治5年)から神奈川県に編入され、1889年(明治22年)に柳窪村など8村に柳窪新田などを加えて久留米村が成立した。1893年(明治26年)に東京府に編入し、1943年(昭和18年)に東京都となった[24]

武州世直し一揆と柳窪

武州世直し一揆の床柱の傷_顧想園(柳窪4丁目)

慶応2年6月13日1866年7月24日)、秩父郡上名栗村に端を発し、武蔵17郡・上野2郡に及んだ武州世直し一揆には、農民・民衆等10万人余が参加したといわれる。一揆勢は各地で米の安売りや施金・施米、質地証文・借金証文の廃棄などを求めて次つぎに豪農・豪商を襲いながら、鎮圧される同月19日(西暦7月30日)までの7日間のあいだにその勢いは燎原の火のごとく関東西部各地に広がった。打ちこわしの被害にあった村は202村。幕末期、しかも将軍のお膝元で起きた関東最大のこの農民一揆が幕藩体制に与えた衝撃は大きく、幕府の威信を揺るがし、その瓦解を早めた要因のひとつとなった[25]

この武州世直し一揆勢の行く先は柳窪にも向けられた。6月14日 - 15日(西暦7月25日 - 26日)に扇町屋、所沢などで豪・農商を襲い、16日(西暦7月27日)早朝には大岱村の亀次郎宅を打ちこわしたあと、柳窪村の名主七郎右衛門宅と分家・農業七次郎宅にも打ちこわしをかけた。その数は数百人との説もあるが定かではない。一揆勢に立ち向かった鎮圧勢力は、江川代官所でかねてより特別の訓練を受けていた農民の武装組織、いわゆる江川農兵であった。田無村に出張中の江川代官所の役人は柳窪村打ちこわしの報を受け、すぐさま鉄砲をもった農兵16人と村役人や人足など150人ほどをひきつれ出陣した。農兵は七次郎宅打ちこわし中の一揆勢に向けて容赦なく発砲した。その結果、武器をもたない一揆勢はたちまち総崩れとなり、居宅は凄惨な事件現場と化した。即死者8名、逮捕者13名、負傷者80余名という結果を残して、一揆勢は鎮圧・壊滅された[26]。 事件発生の翌慶応3年4月(1867年5月)、襲撃を受けた農業村野七次郎ら12人の上層農は今後に備えて食料の備蓄などについて対策を講じている。それは、自然災害や農民の困窮する事態に備えて、村人全員257人60日分の食糧を備蓄すること、また非常の際、窮民への助成金として金10両を積み立てておくことを取り決めた。その記録が残されている[27]

村野七次郎宅であった村野家住宅(柳窪四丁目)には、主屋の奥座敷の床柱や長押に鋸や鎌などによると思われる襲撃の傷跡が今も残っている[28]

現代

この地域も1955年(昭和30年)以降、東京のベッドタウンとして開発が進み、多くの畑地や果樹園が住宅地に姿を変える。危機感を抱いた地元地権者の有志たちは、宅地開発の荒波のなかで緑と景観を守るべく、柳窪地区の12.2ヘクタールの土地を都市計画法上の「市街化調整区域」へ編入すること(逆線引き)を東京都に申請し、1990年(平成2年)に認められた[29]。これにより、隣接する「柳窪緑地保全地域」と併せて、上空から見ると市街化地域の中に浮かぶ「緑の島」と呼べるような景観が残されることになった。1969年(昭和44年)11月1日に住居表示を導入した[8]。これと前後して柳窪と柳窪新田を柳窪一丁目から柳窪五丁目とし、一部は下里、南町、弥生町へ移行した[8]

柳久保小麦

柳久保小麦(右):従来種の小麦(左)より穂丈が長く太い

かねてより、柳窪は「柳久保小麦」発祥の地としてその名が知られている。柳久保小麦は、嘉永3年(1850年)あるいは嘉永4年(1851年)、柳窪の奥住又右衛門が旅先から持ち帰った一穂の麦から生まれたとする説[30][31]が流布されているが、一方、江戸から肥料にまぎれて運ばれてきた日本国外の長穂の種を又右衛門が発見して増殖したとする説[32]もあり、その経緯は必ずしも明確にはなっていない。優良な小麦だったので評判になり、「又右衛門種」あるいは「柳久保小麦」と呼ばれ、東京各地や神奈川県など近隣県の農家でも栽培された[33]。この麦からは良質の粉ができ、「人が集まればうどん」の地域の習わしの中で、柳久保小麦の人気は高かった。柳久保小麦は、普通の小麦より穂丈が長く太いため、家屋の屋根材としても広く利用された。当時の民家は茅葺き屋根が多く、屋根材として不足する茅を補うために柳久保小麦の麦藁が使われた[34]

しかし、栽培にあたっては丈高のため倒れやすく、収穫量も他品種の約3分の1と少ないことから、1942年(昭和17年)に戦時中の食糧増産政策により作付けが中止された。その後、1985年(昭和60年)に又右衛門の子孫がつくば市農林水産省農業生物資源研究所に保存されていた種を譲り受けて播種し[35]、1988年(昭和63年)に46年ぶりに栽培を復活させた[36]

2010年代は、東久留米市内の10数軒の農家の協力により耕作され、うどん・ラーメン・かりんとう・饅頭・パン・クッキーなど関連商品が市内で販売されている[37][38]

交通

柳窪南部を東西方向に新青梅街道が通過する[7]

施設

二丁目

五丁目

  • 東久留米市立第十小学校[7]

文化財

地蔵菩薩、石橋供養塔、庚申塔(柳窪天神下)
  • 明治時代村地引絵図(市有形文化財第11号)東久留米市教育委員会所蔵 明治時代初期
1873年(明治6年)の地租改正令により作成されたもので、地租改正図ともいわれ、徴税の基本となる村絵図である。当時の8村1新田9ヵ村の全図9枚が残存しており、旧柳窪村の絵図も含まれている[39]
  • 庚申塔(市有形民俗文化財第2号)柳窪四丁目長福寺下 明和元年(1764年
正面に青面金剛の立像を現し、像の足下に三猿を配している[40]
  • 地蔵菩薩石像(市有形民俗文化財第25号)柳窪5丁目墓地 宝永3年(1706年)
市内で2番目に古い地蔵菩薩の石像。丸彫りに近い浮き彫りに仕上げられている。蓮弁には奥住、内田、村野など造立者の名前が見られる[41]
  • 石橋供養塔(市有形民俗文化財第3号)柳窪4丁目長福寺下 明和6年(1769年
石柱型の供養塔で、正面光背形の窪みの中に観世音菩薩の立像を彫り、造立の趣旨と紀年銘を示している[42]
  • 地蔵菩薩石像(市有形民俗文化財第30号)柳窪四丁目長福寺下 江戸時代後期
江戸時代の新田開発集落の面影を残す柳窪にあって、当時の村名(柳久保村)が彫られている地蔵菩薩石像として貴重[43]
  • 柳窪囃子(市無形民俗文化財第2号)
天神社の春・秋祭で執り行う。柳窪囃子の流派は重松流。江戸時代末に所沢市の古谷重松が江戸の祭囃子から独自の旋律を考案したと伝えられる[44]

出典・脚注

  1. ^ a b 1 土地・人口”. 東久留米市 (2013年1月1日). 2017年4月22日閲覧。
  2. ^ 平成29年3月分住民基本台帳人口調べ(平成29年4月1日現在)”. 東久留米市市民部市民課住民記録係 (2017年4月1日). 2017年4月22日閲覧。
  3. ^ a b 郵便番号 2030044 の検索結果 - 日本郵便”. 日本郵便. 2017年4月22日閲覧。
  4. ^ 市外局番の一覧”. 総務省 (2014年4月3日). 2015年7月25日時点のオリジナルよりアーカイブ。2017年4月22日閲覧。
  5. ^ 東京都の陸運局”. くるなび. 2017年4月21日時点のオリジナルよりアーカイブ。2017年4月22日閲覧。
  6. ^ 住所コード検索”. 自動車登録関係コード検索システム. 国土交通省. 2017年4月21日時点のオリジナルよりアーカイブ。2017年4月22日閲覧。
  7. ^ a b c d e f g h i 「角川日本地名大辞典」編纂委員会 編 1978, p. 1103.
  8. ^ a b c 「角川日本地名大辞典」編纂委員会 編 1978, p. 722.
  9. ^ 平成29年3月分住民基本台帳人口調べ(平成29年4月1日現在)”. 東久留米市市民部市民課住民記録係 (2017年4月1日). 2017年4月22日閲覧。
  10. ^ NPO法人東久留米の水と景観を守る会・柳窪の環境景観の保全を考える会『緑の島へようこそ 柳窪旧集落・「顧想園」・柳窪ばやしのご案内』NPO法人東久留米の水と景観を守る会,p.2
  11. ^ 柳久保緑地保全地域”. 2017年4月22日閲覧。
  12. ^ 東久留米市立小学校の通学区域表”. 東久留米市教育部学務課学事係 (2015-0324). 2017年4月22日閲覧。
  13. ^ 東久留米市立小・中学校の通学学校早見表”. 東久留米市教育部学務課学事係 (2015年8月13日). 2017年4月22日閲覧。
  14. ^ NPO法人東久留米の水と景観を守る会・柳窪の環境景観の保全を考える会『緑の島へようこそ 柳窪旧集落・「顧想園」・柳窪ばやしのご案内』NPO法人東久留米の水と景観を守る会,p.4
  15. ^ 住居学科・鈴木賢次『東京都東久留米市柳窪地区に残る武蔵野の景観II-土蔵の形式と特徴について〜日本女子大学紀要 家政学部 第57号』日本女子大学,2010,pp.118-119
  16. ^ 東久留米市教育委員会生涯学習課『くるめの文化財 第27号〜国登録有形文化財「村野家住宅」』東久留米市,2011年5月
  17. ^ 東久留米市教育委員会生涯学習課『くるめの文化財 第21号~旧柳窪村』東久留米市,2005年11月
  18. ^ 東京の名湧水57選一覧”. 東京都環境局. 2017年4月22日閲覧。
  19. ^ NPO法人東久留米の水と景観を守る会・柳窪の環境景観の保全を考える会『緑の島へようこそ 柳窪旧集落・「顧想園」・柳窪ばやしのご案内』NPO法人東久留米の水と景観を守る会,p.2
  20. ^ 雑木林のみち〜黒目川・柳窪コース”. 東京都環境局. 2017年4月22日閲覧。
  21. ^ 東久留米市企画経営室秘書広報課『広報ひがしくるめ No.1186』東久留米市,2017年4月,p.3
  22. ^ 東久留米市教育委員会生涯学習課文化財係『東久留米の江戸時代〜文化財からみた東久留米の村々』東久留米市,2005年3月,p.94
  23. ^ 東久留米市史編纂委員会『東久留米市史』東久留米市,1979,pp.320-323
  24. ^ 東久留米市教育委員会生涯学習課『くるめの文化財 第21号〜旧柳窪村』東久留米市,2005年11月
  25. ^ 飯能市名栗村史編集委員会『名栗の歴史(上)』飯能市,2008,p.422
  26. ^ 東久留米市史編纂委員会『東久留米市史』東久留米市,1979,pp.484-485
  27. ^ 東久留米市史編纂委員会『東久留米市史 史料』東久留米市,1978,pp.224-225
  28. ^ 顧想園『みどりのなかの登録有形文化財〜顧想園 ご案内』顧想園,p.4
  29. ^ 顧想園『みどりのなかの登録有形文化財〜顧想園 ご案内』顧想園,p.1
  30. ^ 東久留米市教育委員会生涯学習課文化財係『東久留米の江戸時代~文化財からみた東久留米の村々』東久留米市,2005年3月,p.105
  31. ^ 高橋重雄『多摩のあゆみ 第136号〜特集 近現代の多摩農業 柳久保小麦』公益財団法人たましん地域文化財団,2009年11月,p.46
  32. ^ NPO法人東久留米の水と景観を守る会・柳窪の環境景観の保全を考える会『緑の島へようこそ 柳窪旧集落・「顧想園」・柳窪ばやしのご案内』NPO法人東久留米の水と景観を守る会,p.6
  33. ^ 江戸東京やさいマップ”. JA東京中央会. 2017年4月22日閲覧。
  34. ^ 東久留米市教育委員会生涯学習課文化財係『東久留米の江戸時代〜文化財からみた東久留米の村々』東久留米市,2005年3月,p.105
  35. ^ 高橋重雄『多摩のあゆみ 第136号〜特集 近現代の多摩農業 柳久保小麦』公益財団法人たましん地域文化財団,2009年11月,p.46
  36. ^ 東久留米市教育委員会生涯学習課文化財係『東久留米の江戸時代〜文化財からみた東久留米の村々』東久留米市,2005年3月,p.105
  37. ^ NPO法人東久留米の水と景観を守る会・柳窪の環境景観の保全を考える会『緑の島へようこそ 柳窪旧集落・「顧想園」・柳窪ばやしのご案内』NPO法人東久留米の水と景観を守る会,p.6
  38. ^ 東久留米市役所産業政策課『東久留米大好きっ!』東久留米市,2014年8月
  39. ^ 東久留米市教育委員会社会教育部社会教育課『東久留米市文化財資料集第12集-指定文化財編』東久留米市,1990,p.16
  40. ^ 東久留米市教育委員会社会教育部社会教育課『東久留米市文化財資料集第12集-指定文化財編』東久留米市,1990,p.28
  41. ^ 東久留米市教育委員会社会教育部社会教育課『東久留米市文化財資料集第12集-指定文化財編』東久留米市,1990,p.32
  42. ^ 東久留米市教育委員会社会教育部社会教育課『東久留米市文化財資料集第12集-指定文化財編』東久留米市,1990,p.42
  43. ^ 東久留米市教育委員会教育部生涯学習課『ふるさとマップ 東久留米の文化財』東久留米市,2015
  44. ^ 東久留米市教育委員会社会教育部社会教育課『東久留米市文化財資料集第12集-指定文化財編』東久留米市,1990,p.47

参考文献

  • 「角川日本地名大辞典」編纂委員会 編 編『角川日本地名大辞典 13 東京都』角川書店、1978年10月27日、1253頁。 全国書誌番号:79000112
  • 鈴木賢次「東京都東久留米市柳窪地区に残る武蔵野の景観」『日本女子大学紀要 家政学部』第56号、日本女子大学、2009年2月26日、93-102頁、NAID 110007087609 

関連項目

外部リンク