大谷石

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
Jump to navigation Jump to search
切り出された大谷石

大谷石(おおやいし)は軽石凝灰岩で、栃木県宇都宮市北西部の大谷町付近一帯で採掘される石材である。柔らかく加工がしやすいことから、古くから外壁土蔵などの建材として使用されてきた。

成分・成因と分布[編集]

珪酸第二酸化鉄酸化アルミニウム酸化マンガン石灰酸化マグネシウムカリウムナトリウムなどを含む。日本列島の大半がまだ海中にあった新生代第三紀の前半、火山噴火して噴出した火山灰砂礫が海水中に沈殿して、それが凝固してできたものとされている。

大谷町付近の大谷石の分布は、東西4km、南北6kmにわたる。2009年度時点で採石場は12カ所、出荷量は年2万t程度、推定埋蔵量は約6億t。一部で露天掘りも行われているが、地下数十mから100mを超える地下で切り出す坑内掘りが多いことが特色である。最盛期の昭和40年代には約120カ所の採石場が稼働していた[1]

特徴と用途[編集]

大谷石の石塀
大谷石の石塀(拡大)
餃子像(宇都宮駅 旧東口広場)

軽くて軟らかいため加工しやすく、さらに 耐火性に優れている。このため住宅かまど、石防火壁門柱敷石・貼石など)、倉庫、大きな建築物の石垣、斜面の土止め石(擁壁)といった幅広い用途を持つ。耐火性・蓄熱性の高さからパンピザを焼く窯や石釜の構造材としても用いられる。

産地に近い宇都宮周辺では古くから、石蔵をはじめとした建築物の外壁、プラットホーム、石垣や階段、門柱に大谷石が盛んに利用されている。テレビ番組とのタイアップにより当初は宇都宮駅東口に設置された餃子像や、1932年に建設された宇都宮カトリック教会(通称:松が峰教会)も大谷石造である。

同じく地元にある下野国分寺宇都宮城などの築造にも古くから使われた。多孔質の独特な風合いが広く知られるようになったのは、アメリカの建築家フランク・ロイド・ライトが、帝国ホテル旧本館(東京)に用いてからである[2]

地下から切り出した直後は水分が多いため青みがかっており、乾燥するにつれ茶色っぽい白色に落ち着く[3]。表面に点在する茶色の斑点は「ミソ」と呼ばれる。「ミソ」が大きい荒目より、小さい細目(さいめ)が高級品とされる。

多孔質故に風雨に晒される野外では劣化が早く、第二次世界大戦後はコンクリートに押された。近年は厚さ2cm程度に薄くスライスする技術が開発されたほか、見た目の美しさが再評価されている。さらに吸湿や消臭、音響効果があることも分かり、住宅や店舗の内装、音楽ホールへの利用が広がっている。

地下空洞の利用と陥没事故[編集]

操業を終えた採石場跡に残る広大な地下空洞はワイン日本酒納豆などの貯蔵・熟成に使われているほか、観光・学習施設として「大谷資料館」が開設されている。非日常的な光景を求めて、映画ロケーション撮影やパーティ、展示会などにも活用されている[4]

一方で、特に古い採石場跡の地表部が陥没する事故も起きている[5]

年表[編集]

大谷資料館内部
  • 6-7世紀:切石積横穴式石室を持つ古墳に加工が容易な大谷石等が多く用いられる。
  • 741年:現在の栃木県、下野国分寺・下野国分尼寺礎石、地覆石、羽目石に使用される。
  • 810年大谷寺の本尊(大谷観音)は弘法大師自らが大谷石を彫り、完成させたとされる。
  • 1922年フランク・ロイド・ライト設計の帝国ホテルに使用される。玄関部は現在、博物館明治村に保存されている。
  • 1932年:宇都宮カトリック教会に使用される(現存する国内最大の大谷石建造物)。
  • 1944年:大谷石地下採掘場の広大な空間は、陸軍糧秣廠・被服廠の地下秘密倉庫に利用される。
  • 1951年坂倉準三設計の神奈川県立近代美術館に使用される。
  • 1969年:大谷石地下採掘場は年平均気温が8度前後であるため、政府米(古々米)の保管庫として利用される。
  • 1979年:3月、大谷資料館がオープン。地下採掘場が公開される。
  • 1989年:2月、宇都宮市大谷町坂本地区にあった昔の採掘場の跡地の地下空間が直径100m、深さ30mにわたり陥没。周囲が住宅地であったことから、住民が避難する騒ぎとなった。
  • 2010年:6月、大谷石産業によって32年ぶりに新しい採掘場「石の里 希望」が作られた。宇都宮市も、市内において住宅に大谷石を使用した場合に費用を助成する制度を始めた。

採掘[編集]

手掘り時代[編集]

機械化される以前の手掘り時代には、つるはしが切り出しに利用されていた。手掘りによる採掘法では、五十石(5×1×3尺)の大きさの石を一本掘るのに、つるはしを4,000回も振るったとされる。また1人の1日の採掘量は10本だった。このような手掘りによる採掘は、採掘方法が機械化された1960年頃まで行われていた。

機械化後[編集]

大谷石発掘の機械化が考えられるようになったのは、1952年からで、機械が大谷全体に普及したのは1960年頃である。機械による採掘法では50石の大きさの石が1人で1日50本採掘可能である。

運搬[編集]

手掘り時代には地下の深い採掘場から背負って運び出していた。石塀に使用される石(50石)1本の重さが70kg程あり、重い石では140kgの石まで1人で1本担ぎ出したとされている。外に運び出された石は馬車や人車(トロッコ)、荷船で遠くまで運ばれた。現在では、地下の深い採石場からはモーター・ウィンチという機械で石が巻き上げられ、トラック貨物列車で全国各地に運び出されている。

エピソード[編集]

大谷石はフランク・ロイド・ライト設計の帝国ホテルライト館(旧所在地は東京都千代田区内幸町、現在は愛知県の屋外型展示博物館・明治村に中央玄関を中心に移築され保存)の建材として使用されたが、その完成披露宴の当日である1923年9月1日、披露宴の準備の真っ最中に関東大震災に遭遇した。しかし、小規模な損傷を受けたもののほぼ無傷なままで残った。このことを設計者のライトは知り、狂喜したという。

関連作品[編集]

  • 喰霊-零-:戦闘場面に地下採石場が登場する。

脚注・出典[編集]

  1. ^ 大谷石 宇都宮市ホームページ(2018年3月31日閲覧)
  2. ^ 大谷石利用の歴史 栃木県教育委員会とちぎ ふるさと学習(2018年3月31日閲覧)
  3. ^ 山南石材店(2018年3月31日閲覧)
  4. ^ 「融通無碍 よみがえる大谷石」『日本経済新聞』朝刊2018年3月4日 NIKKEI The STYLE
  5. ^ 【大谷石ルネサンス】採掘跡 安全調査を徹底『読売新聞』地域ニュース・サイト(2013年11月4日)2018年3月31日閲覧

関連項目[編集]

外部リンク[編集]