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「エドワード1世 (イングランド王)」の版間の差分

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'''エドワード1世'''('''Edward I''', [[1239年]]6月17日 - [[1307年]]7月7日)は、[[プランタジネット朝]]の[[イングランド王国|イングランド]]王(在位[[1272年]] - [[1307年]])。[[ヘンリー3世 (イングランド王)|ヘンリー3世]]の長男。渾名は "Longshanks"(ロングシャンクス、「長い足」「長脛王」、身長が190cmあったから)と "Hammer of the Scots"(ハンマー・オブ・ザ・スコッツ、「スコットランド人への鉄槌」であった
'''エドワード1世'''({{lang-en|'''Edward I'''}}, [[1239年]]6月17日 - [[1307年]]7月7日)は、[[プランタジネット朝]]の[[イングランド王国|イングランド]]王(在位[[1272年]][[11月17日]] - [[1307年]][[7月7日]])。

[[ヘンリー3世 (イングランド王)|ヘンリー3世]]の長男であり、[[1272年]]に父王の崩御で即位し、以降[[1307年]]の崩御までイングランド王として君臨した。内政面では法整備を進めたことや[[1295年]]に[[代議制]]議会の要素が強い{{仮リンク|模範議会|en|Model Parliament}}を招集したことなどが特筆される。外交は近隣諸国との戦争に明け暮れ、[[ウェールズ]]や[[スコットランド]]に侵攻して併合したり、[[アキテーヌ]]を巡って[[フランス]]と戦争するなどした。しかしスコットランド支配は激しい抵抗運動を招いて最終的には破綻し、フランスとの戦争はやがて[[百年戦争]]へと繋がっていく。

渾名は "Longshanks"(ロングシャンクス、「長い足」「長脛王」、身長が190cmあったため)および"Hammer of the Scots"(ハンマー・オブ・ザ・スコッツ、「スコットランド人への鉄槌」)。

== 概要 ==
[[1230年]]に[[イングランド王]][[ヘンリー3世 (イングランド王)|ヘンリー3世]]の長男として[[ロンドン]]で生まれた。[[1254年]]にはフランスに対するけん制として、[[カスティーリャ王国|カスティーリャ]][[カスティーリャ君主一覧|王]]・[[レオン王国|レオン]][[レオン君主一覧|王]][[フェルナンド3世 (カスティーリャ王)|フェルナンド3世]]の娘[[エリナー・オブ・カスティル|エリナー]]と結婚した(''→[[#生い立ち|生い立ち]]'')。

[[1258年]]に{{仮リンク|オックスフォード議会|en|Oxford Parliament (1258)}}で可決された王権を制約する[[オックスフォード条項]]をめぐってヘンリー3世やエドワードら王権側と第6代[[レスター伯]][[シモン・ド・モンフォール]]ら改革派諸侯の対立が深まり、[[1264年]]に両者は[[第二次バロン戦争]]で衝突した。{{仮リンク|ルイスの戦い|en|Battle of Lewes}}に敗れて一時父王とともに虜囚の身となったが、翌[[1265年]]に脱走に成功し、{{仮リンク|イーブシャムの戦い|en|Battle of Evesham}}でレスター伯を敗死させて王室に権力を取り戻した(''→[[#改革派諸侯との戦い|改革派諸侯との戦い]]'')。

内乱終結後には父王に代わって国政を主導。オックスフォード条項は否定したが、王権以上に貴族権力を抑制する[[ウェストミンスター条項]]は認め、これを汲んだ{{仮リンク|マールバラ法|en|Statute of Marlborough}}を制定した。1270年からは[[第8回十字軍]]に参加した(''→[[#内乱終結後|内乱終結後]]'')。

[[1272年]]にヘンリー3世の崩御により国王に即位した(''→[[#国王に即位|国王に即位]]'')。内政面では法律家のブレーンを抱えてイングランドの法整備に努めた。とりわけ[[動産]][[差押]]に制限を設けたことは中世的な[[自力救済]]の抑制に資した(''→[[#法整備|法整備]]'')。また王室の封臣を増やす目的で[[1290年]]に制定された{{仮リンク|再下封禁止法|en|Quia Emptores}}は結果として封建制の崩壊を推進し、封建主義社会から議会制国家への移行を促すことになった(''→[[#封建制の崩壊|封建制の崩壊]]'')。他方[[1290年]]には[[ユダヤ人]]追放を実施している(''→[[#ユダヤ人追放|ユダヤ人追放]]'')。

外交面では戦争に明け暮れた。[[1277年]]と[[1282年]]から[[1284年]]にかけては[[プリンス・オブ・ウェールズ|ウェールズ大公]](プリンス・オブ・ウェールズ)[[ルウェリン・アプ・グリフィズ]]が統治する[[ウェールズ]]に侵攻し、ルウェリンを敗死させて同国を併合した。後にウェールズ大公の地位を自らの皇太子[[エドワード2世 (イングランド王)|エドワード]](エドワード2世)に与え、以降この称号は英国皇太子に与えるのが伝統となった(''→[[#ウェールズ侵攻|ウェールズ侵攻]]'')。

つづいてスコットランドに狙いを定め、[[1291年]]には同国の王位継承争いに介入し、御しやすそうな[[ジョン・ベイリャル]]を支持して彼を王位につけ、自らに臣従を誓わせた(''→[[#スコットランド王位継承への介入|スコットランド王位継承への介入]]'')。スコットランド国内でイングランドへの反発が高まり、[[1295年]]にはジョン・ベイリャルやスコットランド貴族たちが反旗を翻したが、[[1296年]]にスコットランド侵攻を行って{{仮リンク|ダンバーの戦い (1296年)|label=ダンバーの戦い|en|Battle of Dunbar (1296)}}でスコットランド軍を撃破した。ベイリャルを廃位して王権を自らに譲渡させた(''→[[#スコットランド侵攻|スコットランド侵攻]]'')。

フランスとの外交関係は[[パリ条約 (1259年)|パリ条約]]以降良好に推移していたが、[[1294年]]にフランス王[[フィリップ4世 (フランス王)|フィリップ4世]]がエドワードの領有するアキテーヌの没収を宣言したため、フランスとも開戦するに至った(''→[[#英仏戦争|英仏戦争]]'')。

フランスやスコットランドとの戦争には膨大な戦費が必要だったことから、[[1295年]]に彼が招集した議会は、下級聖職者や州騎士、各都市の市民の代表などを含めた広範な社会階層の代表者を集めた議会となった。そのため[[代議制]]の性格が強い議会となり、後世の議会の模範となったとされ、「{{仮リンク|模範議会|en|Model Parliament}}」と呼ばれる(''→[[#模範議会|模範議会]]'')。しかし高額の課税に反発は高まり、特に[[1297年]]の[[フランドル]]出兵に際して恣意的課税を行おうとしたのを機に諸侯との対立が再燃した。その対立の中で諸侯や議会から国王の恣意的課税を制限する[[マグナカルタ]]など既存の法律の確認あるいは新規の立法を強要された。この諸侯との対立は崩御まで解消されることはなかった(''→[[#諸侯との対立再燃|諸侯との対立再燃]]'')。

スコットランドでは彼が総督に任じた第6代[[サリー伯爵|サリー伯]][[ジョン・ド・ワーレン (第6代サリー伯爵)|ジョン・ド・ワーレン]]が過酷な統治を行っていたが、[[ウィリアム・ウォレス]]らの抵抗運動の激化を招いた。ウォレスを[[フォルカークの戦い]]で破り、捕らえて残虐刑で処刑することには成功したが、スコットランドの抵抗運動はますます激しくなった(''→[[#ウィリアム・ウォレスとの戦い|ウィリアム・ウォレスとの戦い]]'')。つづいてエドワードに王位を否定されていた[[ロバート1世 (スコットランド王)|ロバート・ブルース]]がスコットランド王ロバート1世に即位することで反旗を翻した。その追討のために出陣した際の[[1307年]]に崩御した。彼に代わって国王に即位した[[エドワード2世 (イングランド王)|エドワード2世]]はロバート1世に敗れてスコットランドを失うこととなる(''→[[#ロバート1世との戦いと崩御|ロバート1世との戦いと崩御]]'')。


== 生涯 ==
== 生涯 ==
=== 生い立ち ===
[[第2次バロン戦争]]([[1264年]] - [[1267年]])では、[[1265年]][[8月4日]]の{{仮リンク|イーブシャムの戦い|en|Battle of Evesham}}で父を助けて改革派の諸侯を破り、国政の実権を掌握した。[[1272年]]に父王が死去した時、エドワードは[[第8回十字軍]]に遠征中でイングランドを不在にしていたが、諸侯によって国王に推戴された。[[1273年]]に帰国して、土地保有制度改革や教会裁判権の抑制などの諸政策を次々と打ち出し、保守派と改革派の融和を図って国内を安定させた。[[1277年]]、イングランド王への忠誠を拒否した[[グウィネズ (ウェールズ)|グウィネズ]]([[ウェールズ]]の王国)の支配者[[ルウェリン・アプ・グリフィズ]]を攻撃し、ルウェリン・アプ・グリフィズは討ち死にした。[[プリンス・オブ・ウェールズ]]は{{仮リンク|ダフィズ・アプ・グリフィズ|en|Dafydd ap Gruffydd}}が継承したが、[[1283年]][[9月30日]]に捕らえられたダフィズ・アプ・グリフィズが死刑宣告され[[10月3日]]に過酷な[[首吊り・内臓抉り・四つ裂きの刑]]で処刑された。[[1290年]][[7月18日]]、{{仮リンク|追放布告|en|Edict of Expulsion}}によって[[ユダヤ人]]を追放した<ref>350年後の[[1657年]]、[[オリバー・クロムウェル]]によってユダヤ人の帰還が許された。</ref>。[[1290年]][[9月26日]]に[[スコットランド]]女王[[マーガレット (スコットランド女王)|マーガレット]]が死去すると王位継承権者たちの争いに介入し、[[1292年]]に[[ジョン・ベイリャル (スコットランド王)|ジョン・ベイリャル]]をスコットランド王位につけイングランド王に臣従させた。
[[1230年]][[6月17日]]に[[イングランド王]][[ヘンリー3世 (イングランド王)|ヘンリー3世]]と王妃[[エリナー・オブ・プロヴァンス]]の長男として[[ロンドン]]・[[ウェストミンスター宮殿]]に生まれる<ref name="thepeerage.com">{{Cite web |url= http://www.thepeerage.com/p10191.htm#i101903 |title=Edward I 'Longshanks', King of England|accessdate= 2015-11-26 |last= Lundy |first= Darryl |work= [http://thepeerage.com/ thepeerage.com] |language= 英語 }}</ref>。[[エドワード懺悔王|エドワード証聖王]]にあやかってエドワードと名付けられた。これまで[[プランタジネット朝]]の王はすべてフランス名だったが、彼ははじめてイングランド風の名前が与えられた王である{{sfn|森護|1986|p=102}}。


洗礼式の際には叔父(叔母の夫)にあたる第6代[[レスター伯]][[シモン・ド・モンフォール]]が[[代父]]を務めたが、このレスター伯は後にエドワードに討ち取られることになる{{sfn|森護|1986|p=103}}。
さらに[[1294年]]、[[ガスコーニュ]]地方をめぐって[[フランス王国|フランス]]との戦争を開始すると、以後10年間にわたってフランスやその同盟国であった[[スコットランド王国|スコットランド]]との抗争に明け暮れた。翌[[1295年]]、対フランス戦費調達に召集した議会は、聖職者・貴族・州および都市の代表が実状にあって構成されていたため{{仮リンク|モデル議会|en|Model Parliament|ladel=模範議会}}({{lang|en|Model Parliament}})と呼ばれる。[[1296年]]、ジョン・ベイリャルがフランスと同盟して反旗を翻すと、ジョン・ベイリャルを逮捕。スコットランドには総督を置き、スコットランドを統治下においた。翌年に[[ウィリアム・ウォレス]]を指導者とする反乱が起きた。[[1298年]]にエドワードは[[フォルカークの戦い]]でこれを破ったが、その後もウォレスはゲリラ戦により抵抗した。[[1301年]]に長男エドワード([[エドワード2世 (イングランド王)|エドワード2世]])を[[プリンス・オブ・ウェールズ]]と称させた。[[1303年]]フランスと講和するとスコットランドに再度遠征し、[[1305年]]、ウォレスを捕らえて処刑することに成功したが、最終的に反イングランド派に推された[[ロバート1世 (スコットランド王)|ロバート・ド・ブルース]]がスコットランド王に即位した。[[1307年]]に3度目のスコットランド遠征の途上で病死した。


[[1254年]]に[[カスティーリャ王国|カスティーリャ]]=[[レオン王国|レオン]]王国首都[[ブルゴス]]において[[カスティーリャ君主一覧|カスティーリャ王]]・[[レオン君主一覧|レオン王]][[フェルナンド3世 (カスティーリャ王)|フェルナンド3世]]の娘[[エリナー・オブ・カスティル|エリナー]]と結婚した。カスティーリャ=レオン王国は未だイングランド王が統治権を残すフランスの[[アキテーヌ公|アキテーヌ公領]]の背後に位置しており、フランス王のアキテーヌ侵攻を防ぐための政略結婚だった{{sfn|森護|1986|p=103-104}}。
== 人物 ==
エドワード1世は隣国との争いに明け暮れる生涯を送ったが、結婚生活は平和だった。意思の強固な野心家であり、武勇に優れ、政策に妙をきわめ、計略と搾取が巧みであった。賢王と賛えられ、イングランド史上屈指の名君とされている。また[[トランプ]]のキングのモデルとも言われている。


=== 改革派諸侯との戦い ===
スコットランド側から描いた映画『[[ブレイブハート]]』には、残虐非道な王として登場する。
[[File:A Chronicle of England - Page 251 - Death of de Montfort.jpg|250px|thumb|1265年8月、{{仮リンク|イーブシャムの戦い|en|Battle of Evesham}}でエドワード軍に敗れて戦死する改革派諸侯の指導者第6代[[レスター伯]][[シモン・ド・モンフォール]]を描いた絵画]]
金欠の王庫に財政援助を求めるためにヘンリー3世が[[1258年]]に招集した{{仮リンク|オックスフォード議会|en|Oxford Parliament (1258)}}ではレスター伯を中心とした改革派諸侯が[[オックスフォード条項]]を可決させて国王権力の制限を図り、ヘンリー3世やエドワードと対立を深めた{{sfn|松村赳|富田虎男|2000| p=549}}{{sfn|青山吉信(編)|1991| p=265-267}}。さらに翌[[1259年]]に[[ウェストミンスター]]に召集された議会では[[ウェストミンスター条項]]が可決されるが、これは国王以上に領主裁判権をはじめとする貴族権力を制限していた{{sfn|松村赳|富田虎男|2000| p=809}}。改革派諸侯が一枚岩ではないことに目を付けたエドワードが貴族たちに対する反撃で盛り込んだものという{{sfn|森護|1986|p=95}}。

ヘンリー3世ははじめオックスフォード条項遵守の誓約をしたが、[[1261年]]になってオックスフォード条項遵守誓約の無効を[[教皇]]から認めてもらい、これにより国王と諸侯の対立が深まった。両派は競うように地方の掌握に努めるようになった{{sfn|松村赳|富田虎男|2000| p=549}}{{sfn|青山吉信(編)|1991| p=268}}。そして[[1264年]]5月に至って両派は[[ルイス (イングランド)|ルイス]]で戦闘に及び、[[第2次バロン戦争]]が始まった。緒戦の{{仮リンク|ルイスの戦い|en|Battle of Lewes}}は諸侯軍の圧勝に終わり、エドワードも父王も捕虜にされた{{sfn|森護|1986|p=95}}{{sfn|松村赳|富田虎男|2000| p=223}}。この後1年ほどレスター伯が王不在の政府を主導したが、[[1265年]]5月にエドワードが脱走し、同年8月の{{仮リンク|イーブシャムの戦い|en|Battle of Evesham}}でレスター伯を敗死させて王室に権力を取り戻すことに成功した{{sfn|森護|1986|p=96}}{{sfn|青山吉信(編)|1991| p=269}}。

ついでエドワードとヘンリー3世は[[1266年]]6月に改革派諸侯が立てこもった{{仮リンク|ケニルワース城|en|Kenilworth Castle}}を包囲するも、難攻不落の同城を陥落させることはできなかった。そこで{{仮リンク|ケニルワース宣言|en|Dictum of Kenilworth}}を発した。同宣言はオックスフォード条項は破棄するとしつつ、反乱に関わった程度に応じて罰金を支払えばそれ以上処罰しないことを改革派諸侯たちに保証していた。その結果、諸侯たちはしばらく様子を見ながらも大半は年末までに宣言を受けいれて投降した{{sfn|松村赳|富田虎男|2000| p=388}}。

=== 内乱終結後 ===
[[File:Pictures of English History Plate XXVI - Prince Edward and His Wife.jpg|180px|thumb|十字軍の際に[[エリナー・オブ・カスティル|エリナー]]がエドワードの毒を口で吸いだしたという逸話を描いた絵画]]
内乱終結後のヘンリー3世晩年の統治はエドワードによって主導されていた{{sfn|森護|1986|p=96}}{{sfn|青山吉信(編)|1991| p=270}}。改革派諸侯を破ったとはいえ、彼らの定めた立憲的原則を全否定するのは王権の不安定を招くと判断したエドワードは、[[1266年]]にウェストミンスター条項に盛り込まれている諸改革案を確認するとともに[[1267年]]の{{仮リンク|マールバラ法|en|Statute of Marlborough}}でその定着を図った{{sfn|青山吉信(編)|1991| p=270}}{{sfn|松村赳|富田虎男|2000| p=456/809}}。しかしこのマールバラ法は、ウェストミンスター条項の流れを汲んで王権の抑制より貴族の権力の抑制を図るものであった。領主裁判所の誤審上訴権を国王裁判所が独占する権利を定めることで内乱中に衰えた王の司法権力の回復を図っていた。さらに[[動産]][[差押]]が認められる場合やその手続きも定め、当時広く社会に横行していた領主による自力救済的な差押さえを抑制した{{sfn|青山吉信(編)|1991| p=278-279}}。

[[1270年]]8月からは[[第8回十字軍]]に参加し、イングランドを不在にした{{sfn|松村赳|富田虎男|2000| p=223}}{{sfn|森護|1986|p=105}}。[[1272年]]夏に[[エルサレム]]でイスラムの暗殺者に毒付き短剣で手傷を負わされるも妻エリナーが毒を口で吸いだすなど献身的な治療をしたおかげで一命をとりとめたという逸話があるが、これはエリナーを美化するための創作で史実ではないといわれる{{sfn|森護|1986|p=105}}。

=== 国王に即位 ===
[[File:Eduard1 biskupove.jpg|180px|thumb|エドワード1世]]
[[1272年]][[11月16日]]にヘンリー3世が崩御したとき、エドワードは十字軍からの帰途の途中で[[アルプス山脈|アルプス山麓]]にいた。そして[[11月20日]]の父の大葬の日に外国の地からイングランド王位の継承を宣言した。母エレナーを摂政に任じ、自身は帰国を急がず、[[ガスコーニュ]]の安定や[[フランドル]]での貿易問題解決のためのフランス王との交渉を続けた{{sfn|森護|1986|p=105-106}}。

それらの目的を達したのちの[[1274年]]にようやくイングランドへ帰国し、同年[[8月19日]]に[[ウェストミンスター寺院]]で戴冠式を行った。このようにのんびりと王位継承を行ったことはエドワード1世の王権が極めて安定していたことを意味している{{sfn|森護|1986|p=106}}。内乱終結後は国王の強い指導力のもとに国王と諸侯の関係が極めて緊密になっていた{{sfn|青山吉信(編)|1991| p=273}}。

=== 法整備 ===
エドワード1世の功績の一つは法整備を押し進めたことである。ローマ法学の教授フランチェスコ・アックルシを招くとともに、皇太子時代からの書記官で法律に詳しいバース司教の{{仮リンク|ロバート・バーネル|en|Robert Burnell}}を[[大法官]]に任じた。彼らの主導で様々な法整備が押し進められた{{sfn|松村赳|富田虎男|2000| p=107/223}}{{sfn|森護|1986|p=108}}。

マールバラ法の差押制限を強化するため、[[1275年]]には「財務府の差押手続き」が定められた。これは公権力による差押の場合について規定しており、国王の役人による不正の排除を目的としていた。さらに[[1285年]]にはウェストミンスター第二法で領主による悪意の差押に罰則を設けたり、差押を実行する代官の資格などを規定した。これらの法定は中世的な[[自力救済]]を大きく制限するのに資した{{sfn|青山吉信(編)|1991| p=279}}。

[[1278年]]には{{仮リンク|権限開示令状|en|Quo warranto}}を発して、領主特権を主張する者は[[巡回裁判所|巡回裁判官]]にその権原を明示すべきこと、明示しない場合はその特権は失われる旨を定めた。これは内乱の影響で領主特権が曖昧になって簒奪されたり、濫用されたりしているのに歯止めをかける狙いがあった{{sfn|青山吉信(編)|1991| p=278}}{{sfn|松村赳|富田虎男|2000| p=615}}。[[1285年]]には従来の様々な治安維持法を一つにまとめて拡張・強化した{{仮リンク|ウィンチェスター法|en|Statute of Winchester}}を制定した{{sfn|松村赳|富田虎男|2000| p=824}}。

=== 封建制の崩壊 ===
イングランドでは、エドワード1世時代にはすでに[[封建制]](土地の接受を通して主君と家臣が主従関係を持ち、家臣が主君に対して軍役奉仕義務を負う制度)はすでに消滅過程に入っていた。領主と土地保有者の間の土地接受関係は続いていたが、土地保有者が領主に対して負う義務は軍役奉仕より金銭に移行しつつあり、したがって両者の関係は「主君と家臣」というより、「地主と借地人」といったほうが適切になりつつあった{{sfn|青山吉信(編)|1991| p=273}}。

封建制崩壊に拍車がかけたのは[[1290年]]に制定された{{仮リンク|再下封禁止法|en|Quia Emptores}}だった。これは国王や領主から土地を受封している土地保有者が土地を誰かに売却する再下封をした場合、購入者は売却者に対してではなく、国王や領主に直接に封臣としての奉仕責任を負うことを規定していた。国王や領主の封建的収入を上昇させる目的の法律だったが、これにより国王直接受封者の数が急増し、諸階層の水平化が進んで封建制度の精神の崩壊を招いた。すなわち国王の直接封臣であることはもはや何の自慢にもならなくなり、議会招集を受けることこそが自慢になった。これは封建社会から議会制国家への移行を促す効果があった{{sfn|トレヴェリアン|1973| p=183}}。

だがともかく国王の封臣は急増したので国王の封建的収入は増え、王権強化に資した{{sfn|松村赳|富田虎男|2000| p=614}}。

=== ユダヤ人追放 ===
中世ヨーロッパにおいてユダヤ人はキリスト教会が禁じていた金融業によって財力をつけたが、高い金利で債務者から憎まれることが多く、ユダヤ人が頼れるのは国王の保護だけであった。保護を受ける代わりにユダヤ人は国王に命じられるままに金を献上せねばならなかった。ユダヤ人は国王の「私有財産」「奴隷」状態だった。もし国王が保護の手を引きあげればユダヤ人虐殺が起こるのが常だった{{sfn|トレヴェリアン|1973| p=181}}。

イングランドにユダヤ人が最初に入ってきたのは[[ノルマン・コンクエスト]]の時に[[ウィリアム1世 (イングランド王)|ウィリアム征服王]]に従ってであった。それ以前のアングロサクソン時代はあまりに原始的な社会だったので、金融業が入り込む余地はなかったが、フランスから来た[[ノルマン朝]]と[[プランタジネット朝]]の国王たちは他の大陸諸国の王たちと同じくユダヤ金融業者を必要とした{{sfn|トレヴェリアン|1973| p=181}}。

ところが[[1290年]]になってエドワード1世はユダヤ人をイングランドから追放した。要因としては国王がユダヤ人を追放すると人々からは自己犠牲の行為として称賛されること{{sfn|トレヴェリアン|1973| p=181}}、「微利金貸し」のキリスト教徒から金融を受ける目途が立ったため{{sfn|トレヴェリアン|1973| p=181}}、財産没収による一時的な収入増加が見込めることなどである{{sfn|松村赳|富田虎男|2000| p=223}}。ユダヤ人追放後イングランド金融はフランドル人、イタリア人、さらに後にはイングランド人資本家によって担われるようになっていく。ユダヤ人が再びイングランドに移民するのは近世の[[ステュアート朝]]以降である{{sfn|トレヴェリアン|1973| p=181-182}}。

=== ウェールズ侵攻 ===
[[File:Llywelyn le Dernier.jpg|180px|thumb|[[プリンス・オブ・ウェールズ|ウェールズ大公]][[ルウェリン・アプ・グリフィズ]]。エドワード1世の[[1282年]]の侵攻で敗死した]]
エドワード1世が即位した頃のウェールズの統治者は[[プリンス・オブ・ウェールズ|ウェールズ大公]](プリンス・オブ・ウェールズ)[[ルウェリン・アプ・グリフィズ]]だった。エドワード1世はルウェリンに対して二度招集をかけて臣下の礼をとるよう求めたが、ルウェリンは招集に応じなかった。エドワードは[[1272年]]にルウェリンを大逆者と宣告した{{sfn|青山吉信(編)|1991| p=323}}。

この宣告を受けてルウェリンに領土を奪取されていたイングランドの{{仮リンク|ウェールズ辺境伯|en|Welsh Marches}}たちがウェールズ侵攻を展開するようになった。また[[グウィネズ]]地方(ルウェリンの直接統治下)以外のウェールズ人領主の取り込みも図り、ルウェリンをウェールズ内で孤立に追いやった。そのうえで1277年7月に[[チェスター]]から1万5000人の軍勢を率いてウェールズ侵攻を開始した{{sfn|青山吉信(編)|1991| p=323}}。

これに対してルウェリンはゲリラ戦で抵抗するも、結局同年秋にはイングランドへの全面屈服の{{仮リンク|アベルコンウィ条約|en|Treaty of Aberconwy}}を締結することを余儀なくされた。この条約によりルウェリンは他のウェールズ人領主への宗主権を失い、グウィネズの統治権も兄弟で分け合い、ウェールズ内のエドワード1世の王領も大幅に拡大されることになった。さらにもしルウェリンが子供のないまま死去したらその所領はエドワードに没収されることも盛り込まれた{{sfn|青山吉信(編)|1991| p=323-324}}。

この条約でウェールズのほぼ全土を手中にしたエドワード1世は、イングランドの法を押し付けて、ケルトの法やウェールズ人の感受性を無視した統治を行った{{sfn|トレヴェリアン|1973| p=203}}。特に巡回裁判制度を持ち込んだのはエドワード1世の統治力を著しく高めた{{sfn|青山吉信(編)|1991| p=324}}。しかしその過酷な統治はウェールズ人の反乱を誘発し、やがてルウェリンもそれに参加した。これを受けてエドワード1世は[[1282年]]から[[1284年]]にかけて再度ウェールズ侵攻を行った{{sfn|トレヴェリアン|1973| p=203}}。この戦いの際にルウェリンは敗死し、ウェールズ大公の地位は弟{{仮リンク|ダフィズ・アプ・グリフィズ|en|Dafydd ap Gruffydd}}が継承したが、彼も[[1283年]][[9月30日]]に捕らえられて[[大逆罪 (イギリス)|大逆罪]]で死刑宣告され、[[10月3日]]に過酷な[[首吊り・内臓抉り・四つ裂きの刑]]で処刑された。こうしてウェールズの独立をかけた最後の戦いは失敗に終わり、以降ウェールズが政治的独立を手にすることは二度となかった{{sfn|青山吉信(編)|1991| p=326}}。

[[1301年]]になってエドワード1世は皇太子[[エドワード2世 (イングランド王)|エドワード(後のエドワード2世)]]にウェールズ大公の称号を与えた。ウェールズの称号を残すことでウェールズ人の反感を和らげる目的だったという。以降イングランド・イギリス王室の皇太子はこの称号を名乗るのが慣例となり、その伝統は現在に至るまで続いている{{sfn|森護|1986|p=111}}{{sfn|松村赳|富田虎男|2000| p=601}}。またウェールズの征服でイングランド軍はウェールズの長弓の用法が入り、エドワード1世は歩兵の特殊兵器としてスコットランド侵攻でこれを活用する{{sfn|トレヴェリアン|1973| p=202}}。

=== スコットランド王位継承への介入 ===
[[File:A Chronicle of England - Page 262 - Edward Acknowledged as Suzerain of Scotland.jpg|250px|thumb|スコットランドへの宗主権を確認するエドワード1世]]
ウェールズ征服後、エドワード1世は北方スコットランド併合計画を本格化させた。

ちょうど[[1286年]]にスコットランド王[[アレグザンダー3世 (スコットランド王)|アレグザンダー3世]]が崩御し、ノルウェーにいる3歳のアレグザンダーの孫娘[[マーガレット (スコットランド女王)|マーガレット]]がスコットランド女王に即位したが、エドワードはこれをスコットランド乗っ取りの千載一遇のチャンスと見た。さっそくマーガレットと自分の息子エドワードの結婚の赦免を教皇に願い出るとともにスコットランド長老会議と交渉を行い、[[1289年]]にはスコットランドとの間に{{仮リンク|バーガム条約|en|Treaty of Birgham}}を締結して婚約を成立させた。同条約には「スコットランドの権利、法律、自由ならび慣習は完全に保持され、スコットランド王国は自由にして別個の王国として存続する」と定められていたが、エドワードの狙いは当初より併合であり、条約を守る気などさらさら無かった。しかし[[1290年]]、ノルウェーからスコットランドへ向かう道中にマーガレットが崩御したため、この目論みは失敗に終わった{{sfn|青山吉信(編)|1991| p=348-349}}{{sfn|森護|1986|p=113}}。

マーガレットの崩御でスコットランド王室の傍流たちが次々と王位継承権を主張するようになり、とりわけ[[ウィリアム1世 (スコットランド王)|ウィリアム1世]]の弟{{仮リンク|ハンティンドン伯|en|Earl of Huntingdon}}{{仮リンク|デイヴィッド (ハンティンドン伯)|label=デイヴィッド|en|David, Earl of Huntingdon}}の女系子孫にあたる3人、ベイリャル卿[[ジョン・ベイリャル]](デイヴィッドの長女マーガレットの孫)、アナンデール卿{{仮リンク|ロバート・ド・ブルース (第5代アナンデール卿)|label=ロバート・ド・ブルース|en|Robert de Brus, 5th Lord of Annandale}}(デイヴィッドの次女イザベラの子)、ヘイスティングズ卿{{仮リンク|ジョン・ヘイスティングス (初代ヘイスティングス男爵)|label=ジョン・ヘイスティングス|en|John Hastings, 1st Baron Hastings}}(デイヴィッドの三女エイダの孫)の三人が有力候補となった。3人の対立は激しくなる一方で、内乱に発展することを恐れた{{仮リンク|聖アンドリューズ司教|en|Bishop of St Andrews}}{{仮リンク|ウィリアム・フレイザー (司教)|label=ウィリアム・フレイザー|en|William Fraser (bishop)}}は、エドワード1世に書簡を送って「陛下が国境まで出御されて決定し給わんことを」と懇願した。このときのフレイザーの対応は今日までスコットランド人から売国行為として批判されるが、仲介できるほど力を持った者はエドワード1世しかなく、内乱を避けるためにはやむを得ない判断だったと弁護もされている{{sfn|青山吉信(編)|1991| p=349-350}}。

エドワード1世は、ただちにこれを了承して介入を開始した。そして1291年5月にスコットランドの聖職者・貴族を北イングランド・{{仮リンク|ノラム城|en|Norham Castle}}に招集して彼らに「朕が正当な宗主ではないという証拠を示しうるか?」と問うて、スコットランドを自らの宗主権下に置こうとした。スコットランドの聖職者・貴族たちは「国王がいないため自分たちには答える権限がない」と述べて回答を避けたが、エドワード1世はこれを王位継承候補全員から臣従を得れば自分に臣従することを認めた回答と判断し、ベイリャルとブルースをはじめとする王位継承候補7人と個別に会見して、全員から自分への臣従を取り付けた{{sfn|青山吉信(編)|1991| p=350}}。

そして1291年8月にスコットランド王を決定する「大訴訟(Great Cause)」を主催した。法定の査定官は104人いたが、ベイリャルとブルースがそれぞれ40人を指名し、残る24人はエドワード1世が指名したため、エドワード1世の決定次第であった。審議はベイリャルが長女の系統の立場を生かして有利に進め、エドワード1世もベイリャルを温厚で操り人形にしやすしと見ていたのでイングランド査定官たちはこぞって彼を支持し、結果1292年11月にベイリャルを王とする旨の裁定が下された{{sfn|青山吉信(編)|1991| p=350}}{{sfn|森護|1986|p=114}}。こうしてイングランド宗主権下のスコットランド王が誕生することになった{{sfn|青山吉信(編)|1991| p=351}}。

=== 英仏戦争 ===
イングランド王室プランタジネット家(アンジュー家)はもともとフランス大貴族であり、[[アンジュー帝国]]と呼ばれる巨大な領地をフランス北西部に所有していたが、[[1202年]]からのフランス王の所領没収宣言・侵攻を受けて[[ジョン (イングランド王)|ジョン王]]は南アキテーヌ(ガスコーニュ)以外を喪失した。その後イングランド王はたびたびフランス出兵を行って領土を取り戻そうとしたものの、すべて失敗に終わった{{sfn|青山吉信(編)|1991| p=251-253/261}}{{sfn|佐藤賢一|2003|p=51-54}}。結局[[1259年]]には[[パリ条約 (1259年)|パリ条約]]が締結され、アキテーヌ地方をイングランド王に残すということで両者は妥協した。このおかげで以降[[1290年代]]初頭まで英仏関係は平穏に推移した{{sfn|青山吉信(編)|1991| p=280}}。

ところが[[1293年]]にイングランドとガスコーニュ船籍の船団がノルマンデー船籍の船団に攻撃を仕掛けて打ち破り、[[ラ・ロシェル]]を襲撃する事件が発生した。アテキーヌを狙っていたフランス王[[フィリップ4世 (フランス王)|フィリップ4世]]はエドワードのガスコーニュの領主としての責任を追及し、[[1294年]]にガスコーニュを含む全アキテーヌの所領を没収すると宣告した。これはフランス王によるアンジュー領侵攻の再開と考えられたのでエドワードは[[1294年]]にもフランス出兵を開始し、{{仮リンク|英仏戦争 (1294年-1303年)|label=英仏戦争|en|Anglo-French War of 1294–1303}}が勃発した。[[百年戦争]]は[[エドワード3世 (イングランド王)|エドワード3世]]の時代に始まるが、実質的にはこのときから始まっていたと考えられている{{sfn|青山吉信(編)|1991| p=280}}。

このときの戦いは[[1299年]]までに旧領を回復してフィリップ4世と和議することで一応解決した。この和議の際にフィリップ4世の妹[[マーガレット・オブ・フランス]]と結婚している(エレナーとは1290年に死別していた){{sfn|松村赳|富田虎男|2000| p=223}}。

=== スコットランド侵攻 ===
スコットランド国王ジョン(ジョン・ベイリャル)は即位以来エドワードに臣従を誓っていたが、それに対するスコットランド内の反発は高まっていた{{sfn|森護|1986|p=113}}。特に[[1294年]]に対仏開戦でエドワードがスコットランドに徴兵要求をしたことでスコットランド人の反英感情は爆発した。後にエドワード1世はこの徴兵要求を取り消しているが、反英感情が収まることはなかった{{sfn|青山吉信(編)|1991| p=353}}。

こうした空気の中、ジョン王はイングランド王への臣従を取り消した{{sfn|森護|1986|p=114}}。[[1295年]]7月には司教や貴族から成る反英諮問機関「スコットランド王国の共同体」が創設されて、今後この組織が国政の責任を負うことになった。さらに1295年10月にはスコットランドとフランスの攻守同盟がパリで締結された{{sfn|青山吉信(編)|1991| p=353}}。

これに対してエドワード1世は1296年3月にもスコットランド侵攻を開始し、4月には{{仮リンク|ダンバーの戦い (1296年)|label=ダンバーの戦い|en|Battle of Dunbar (1296)}}でスコットランド軍を撃破して多数のスコットランド貴族を捕虜にした。ジョン王も7月には投降し、イングランド王への「反逆」を犯したことを「告白」させられた。そしてフランスとの同盟を破棄し、王位を空席にして王権はエドワード1世に譲ることを認めさせられた。エドワード1世はスコットランド王権を示す[[王冠]]や[[王笏]]、[[スクーンの石]]などをロンドンへ持ち帰らせた{{sfn|青山吉信(編)|1991| p=353}}。

=== 模範議会 ===
[[File:Medieval parliament edward.Jpg|180px|thumb|議会を招集するエドワード1世。]]
スコットランドやフランスとの戦争の戦費を募るためエドワード1世は、[[1295年]]11月に議会を招集した。膨大な軍資金を集めるためには社会各層の協力が必要との認識から、このときの議会は各階層から広範に代表を募ったため、この後のイングランド議会の[[代議制]]の模範になったという意味で19世紀の歴史家に「{{仮リンク|模範議会|en|Model Parliament}}」と名付けられた{{sfn|松村赳|富田虎男|2000| p=479}}。

この模範議会で招集されたのは、伯爵7人、その他封建貴族(男爵)、大司教や司教などの高位聖職者41人、修道院長や助祭長などの下級聖職者70人、各司教座聖堂参事会の聖職者代表1名、各司教管区から聖職者代表2名、各州の州騎士2人ずつ、都市や自由都市の市民代表各2名ずつである{{sfn|松村赳|富田虎男|2000| p=479}}。

たしかにそれ以前の議会と比べれば、代議制的要素が強く、社会各層がよく代表されていたといえるため、エドワード1世をレスター伯シモン・ド・モンフォール(彼が権力を握っていた1264年から1265年にかけての議会も広範な社会階層から代表を集めた)とともに「[[イギリス議会]]の父」とすることがある。しかしこの時の議会はいまだ[[貴族院 (イギリス)|貴族院]]と[[庶民院]]に分離していなかったし、下級聖職者は途中で議会に出席しなくなった。またこの模範議会の後もしばしば代議制要素が全くない(あるいはわずかしかない)議会が開催されたので、エドワードを現在のイギリス議会の骨格を決定した人物かのように語ったり、この議会を「模範」と称するのは無理があるとの反論もある{{sfn|松村赳|富田虎男|2000| p=479}}{{sfn|中村英勝|1959|p=32-33}}。そうした説によればイギリス議会はエドワード1世やレスター伯シモン・ド・モンフォールのような特定の個人の創意でできたものではなく、12世紀から13世紀のイングランドの歴史過程の中で徐々に形成されたものであるとされる{{sfn|中村英勝|1959|p=33}}。

=== 諸侯との対立再燃 ===
[[File:A Chronicle of England - Page 273 - Edward Threatens the Lord Marshal.jpg|250px|thumb|フランドル出兵を拒否する第5代[[ノーフォーク伯爵|ノーフォーク伯]]{{仮リンク|ロジャー・ビゴット (第5代ノーフォーク伯)|label=ロジャー・ビゴット|en|Roger Bigod, 5th Earl of Norfolk}}と第3代{{仮リンク|ヘレフォード伯爵|label=ヘレフォード伯|en|Earl of Hereford}}{{仮リンク|ハンフリー・ド・ブーン (第3代ヘレフォード伯)|label=ハンフリー・ド・ブーン|en|Humphrey de Bohun, 3rd Earl of Hereford}}に対して「出動しないなら絞首刑だ」と脅迫するエドワード1世]]
エドワード1世の戦争には膨大な戦費が必要であったが、その課税は激しい反発を招いた{{sfn|青山吉信(編)|1991| p=281}}。[[1296年]]には教会が教皇[[ボニファティウス8世 (ローマ教皇)|ボニファティウス8世]]の勅書を理由に課税を拒否するようになった。これに対してエドワード1世は教会が財政に協力しないなら、今後王権は教会の財産や聖職者の生命の保護をしない旨を宣告し、課税拒否運動の中心の聖職者たちの追放を行った{{sfn|森護|1988|p=107}}。

ついで翌[[1297年]]には[[フランドル]]出兵計画をめぐって諸侯の間にもエドワード1世に対する反発が広がった。とりわけ第5代[[ノーフォーク伯爵|ノーフォーク伯]]{{仮リンク|ロジャー・ビゴット (第5代ノーフォーク伯)|label=ロジャー・ビゴット|en|Roger Bigod, 5th Earl of Norfolk}}と第3代{{仮リンク|ヘレフォード伯爵|label=ヘレフォード伯|en|Earl of Hereford}}{{仮リンク|ハンフリー・ド・ブーン (第3代ヘレフォード伯)|label=ハンフリー・ド・ブーン|en|Humphrey de Bohun, 3rd Earl of Hereford}}は、フランドルへの騎士の出征は前例がないこと、国民が戦争で疲労していること、スコットランド情勢が緊迫していること、大憲章([[マグナ・カルタ]])や{{仮リンク|御料林憲章|en|Charter of the Forest}}が守られていないこと、羊毛輸出関税が異常に高いことなどを指摘してフランドル出兵とそのための課税に反対した{{sfn|青山吉信(編)|1991| p=281-282}}。この際の2人とエドワード1世の口論は激しく、エドワード1世が「出動しないならお前たちは絞首刑だ」と叫ぶと、2人は「いや出動せぬなら絞首刑にもならぬ」と応酬したと伝わる{{sfn|青山吉信(編)|1991| p=107-108}}。

2人の異論を無視してエドワード1世は都市住民の所有する動産5分の1、農村住民の所有する動産8分の1を租税として徴収することを独断で決定し、さらに8000サックの羊毛徴発を命じた。そして[[1297年]]8月末にフランドルへ向けて出陣したが、諸侯はまるで従わず、その軍勢はわずかに200人だったという。エドワード1世の留守を狙ってノーフォーク伯とヘレフォード伯は財務府に乗り込み、「人々の同意なく、国王が恣意的に強制賦課金や羊毛徴発することは許されない」と論じて先に国王が命じた徴税を行うことを禁じた。さらに同年秋に招集が予定されていた議会に提出する文書『強制賦課金は認めないことについて(De Tallagio non Concedendo)』の起草を開始した{{sfn|青山吉信(編)|1991| p=282}}。

これによりエドワード1世と諸侯の関係が再び緊迫化し始めたが、1297年9月には[[ウィリアム・ウォレス]]率いるスコットランド軍の[[スターリングブリッジの戦い]]の勝利とイングランド北部への侵攻があり、その危機感から両者は10月に一時的に和解し、『両憲章の確認書(Confirmatio Cartarum)』を結んだ。これは大憲章と御料林憲章の確認および再公布、先の国王の恣意的課税は前例とせず、イングランドにおける租税は全王国の共同の同意により、全王国の共通の利益のためにのみ課される原則を守ること、高い羊毛関税も廃止することが盛り込まれていた。これに基づき先のエドワード1世の恣意的課税は廃止され、議会と教会はその代わりの租税案をエドワード1世に与えた{{sfn|青山吉信(編)|1991| p=282}}。

しかしこの後も諸侯と議会の国王に対する不信感は続き、[[1300年]]3月にウェストミンスターで招集された議会はエドワード1世に両憲章の全文を再確認・再公布させるとともに 『両憲章への追加条項(Articuli super Cartas)』を新たに決議した。これは両憲章の違反者に対する罰則を設けるとともに、国王の役人による物資徴発に方法と手続きを規定することで、国王の徴税活動を制限するものだった{{sfn|青山吉信(編)|1991| p=282-283}}。翌[[1301年]]に[[リンカン]]で招集された議会も国王に対する不信感が強い議会となった{{sfn|青山吉信(編)|1991| p=283}}。

[[1305年]]になるとエドワード1世は自分が1297年の文書で行った約束は強制的に押し付けられたものだと主張しはじめ、教皇にその主張の承認を求め、翌1306年に認められている。このようにエドワード1世治世末には国王と諸侯の関係は悪化して、平穏さや円滑さを欠いた状態となっていた{{sfn|青山吉信(編)|1991| p=283}}。

=== ウィリアム・ウォレスとの戦い ===
[[File:The Bishop of Durham's Charge at Falkirk.jpg|180px|thumb|エドワード率いるイングランド軍が[[ウィリアム・ウォレス|ウォレス]]率いるスコットランド軍を破った1298年6月の[[フォルカークの戦い]]を描いた絵画]]
スコットランドでは、エドワードが総督に任じた第6代[[サリー伯爵|サリー伯]][[ジョン・ド・ワーレン (第6代サリー伯爵)|ジョン・ド・ワーレン]]がスコットランド民衆を徹底的に弾圧する過酷な統治を行っていた{{sfn|森護|1988|p=114}}。

しかしそうした統治はスコットランドの中間層や民衆の抵抗運動を招き、それらは[[ウィリアム・ウォレス]]のもとで一つにまとまった。そして[[1297年]]9月に[[スターリングブリッジの戦い]]においてサリー伯率いるイングランド軍はウォレス軍に惨敗した。勢いに乗じたウォレス軍はイングランド北部[[ノーサンバーランド]]や[[カンバーランド]]へ侵攻を開始した{{sfn|森護|1988|p=116-117}}{{sfn|青山吉信(編)|1991| p=354}}。

エドワード1世はこの前月からフランドル出兵でイングランドを不在にしていたが、ウォレス軍の勝利を聞いて[[1298年]]1月にも帰国し、同年7月に[[フォルカークの戦い]]でウォレス率いるスコットランド軍を撃破した{{sfn|青山吉信(編)|1991| p=355}}。

ついで[[1300年]]からスコットランド侵攻を繰り返し、[[1303年]]5月の侵攻でついにスコットランド占領に成功した。[[1305年]]9月にはスコットランドの統治組織を定めた統治条例を発した{{sfn|青山吉信(編)|1991| p=355}}。その間ウォレスはゲリラ戦を展開したり、フランスに援軍を求めるなどエドワードへの抵抗運動を続けたが、[[1305年]]に奸計にかかってイングランド軍に逮捕された。そして[[大逆罪 (イギリス)|大逆罪]]により[[首吊り・内臓抉り・四つ裂きの刑]]に処せられた。ウォレスに残虐刑を科すことでスコットランドを恐怖支配しようというエドワード1世の意図だったが、それは成功しなかった。逆にスコットランド人の憤慨を買い、より激しい抵抗運動を招く結果となった{{sfn|森護|1988|p=117}}{{sfn|青山吉信(編)|1991| p=355}}。

=== ロバート1世との戦いと崩御 ===
スコットランドでますます高まる反英機運に乗って[[キャリック伯]][[ロバート1世 (スコットランド王)|ロバート・ブルース]](「大訴訟」の時にエドワード1世に王位を否定されたロバート・ブルースの孫)が[[1306年]]3月に[[スクーン]]でスコットランド王「ロバート1世」に即位し、エドワード1世への臣従を拒否した{{sfn|青山吉信(編)|1991| p=356}}。

当時エドワード1世は[[赤痢]]に苦しんでいたが、直ちにロバート追討を決定し、[[1306年]]9月にもスコットランドへ向けて出陣した。皇太子エドワードと第2代[[ペンブルック伯]]{{仮リンク|エイマー・ド・ヴァランス (第2代ペンブルック伯)|label=エイマー・ド・ヴァランス|en|Aymer de Valence, 2nd Earl of Pembroke}}の軍に先発させ、ペンブルック伯の軍は[[1307年]]5月にも{{仮リンク|ロウドゥン・ヒルの戦い|en|Battle of Loudoun Hill}}でロバート率いるスコットランド軍と戦闘を交えたが、敗北した{{sfn|森護|1986|p=115-116}}{{sfn|青山吉信(編)|1991| p=356}}。

一方エドワード1世はスコットランドへ向けて騎乗して進軍している途中の[[1307年]][[7月3日]]に[[カーライル]]郊外{{仮リンク|バラ・バイ・サンズ|en|Burgh by Sands}}で騎乗に耐えられなくなって倒れこんだ。エドワード1世はすぐにスコットランドから皇太子を呼び寄せ、自分の心臓は聖地エルサレムに埋葬すること、遺体はスコットランド平定まで埋葬しないこと、自分の骨をイングランド軍の先頭に置いて進軍することを言い渡した。そして7月7日に崩御した{{sfn|森護|1986|p=116}}。

しかし新国王エドワード2世は父の遺言を守らなかった。エドワード1世の遺体は全てウェストミンスター寺院に埋葬したうえ{{sfn|森護|1986|p=116}}、スコットランドからも撤兵した{{sfn|青山吉信(編)|1991| p=356}}。彼はスコットランド内におけるイングランドの旗色が悪くなった後の[[1313年]]になって再びスコットランド侵攻を行うが、[[バノックバーンの戦い]]でスコットランド軍に惨敗。これが決定打となってイングランドはスコットランドの支配権を完全に失ったのだった{{sfn|青山吉信(編)|1991| p=357}}。


== 子女 ==
== 子女 ==
最初の王妃[[エリナー・オブ・カスティル]]との間に16人の子女をもうけた。
最初の王妃[[エリナー・オブ・カスティル]]との間に16人の子女をもうけた<ref name="thepeerage.com"/>
*長女(1255年)
*長女(1255年)
*キャサリン(1264年)
*キャサリン(1264年)
*ジョーン(1265年)
*ジョーン(1265年)
*ジョン(1266年 - 1271年)
*ジョン(1266年 - 1271年)
*ヘンリー(1268年 - 1274年)
*{{仮リンク|ヘンリー (エドワード1世王子)|label=ヘンリー|en|Henry, son of Edward I}}(1268年 - 1274年)
*[[エリナー・オブ・イングランド (バル伯爵夫人)|エリナー]](1269年 - 1298年) - 1293年、バル伯[[アンリ3世 (バル伯)|アンリ3世]]と結婚
*[[エリナー・オブ・イングランド (バル伯爵夫人)|エリナー]](1269年 - 1298年) - 1293年、バル伯{{仮リンク|アンリ3世 (バル伯)|label=アンリ3世|fr|Henri III de Bar}}と結婚
*ジュリアーナ(1271年)
*ジュリアーナ(1271年)
*[[ジョーン・オブ・アッカー|ジョーン]](1272年 - 1307年) - 1290年に第7代グロスター伯爵[[ギルバート・ド・クレア (第7代グロスター伯爵)|ギルバート・ド・クレア]]と結婚、1297年に初代モンーマー男爵ラルフ・ド・モンーマーと再婚
*{{仮リンク|ジョーン・オブ・アッカー|label=ジョーン|en|Joan of Acre}}(1272年 - 1307年) - 1290年に第7代{{仮リンク|グロスター伯爵|en|Earl of Gloucester}}{{仮リンク|ギルバート・ド・クレア (第7代グロスター伯爵)|label=ギルバート・ド・クレア|en|Gilbert de Clare, 7th Earl of Gloucester}}と結婚、1297年に初代{{仮リンク|モンーマー男爵|en|Baron Monthermer}}{{仮リンク|ラルフ・ド・モンーマー(初代モンザーマー男爵)|label=ラルフ・ド・モンザーマー|en|Ralph de Monthermer, 1st Baron Monthermer}}と再婚
*[[アルフォンソ・オブ・イングランド|アルフォンソ]](1273年 - 1284年)
*{{仮リンク|アルフォンソ (チェスター伯)|label=アルフォンソ|en|Alphonso, Earl of Chester}}(1273年 - 1284年)初代[[チェスター伯]]
*[[マーガレット・オブ・イングランド (1275-1333)|マーガレット]](1275年 - 1333年) - 1290年、ブラバント公[[ジャン2世 (ブラバント公)|ジャン2世]]と結婚
*[[マーガレット・オブ・イングランド (1275-1333)|マーガレット]](1275年 - 1333年) - 1290年、ブラバント公[[ジャン2世 (ブラバント公)|ジャン2世]]と結婚
*ベレンガリア(1276年 - 1277/1278年)
*ベレンガリア(1276年 - 1277/1278年)
*九女(1277年 - 1278年)
*九女(1277年 - 1278年)
*[[メアリー・オブ・ウッドストック|メアリー]](1279年 - 1332年) - 修道女
*{{仮リンク|メアリー・オブ・ウッドストック|label=メアリー|en|Mary of Woodstock}}(1279年 - 1332年) - 修道女
*四男(1280/1281年)
*四男(1280/1281年)
*[[エリザベス・オブ・リズラン|エリザベス]](1282年 - 1316年) - 1297年にホラント伯[[ヤン1世 (ホラント伯)|ヤン1世]]と結婚、1302年に第4代ヘレフォード伯爵[[ハンフリー・ド・ブーン (第4代ヘレフォード伯)|ハンフリー・ド・ブーン]]と再婚
*[[エリザベス・オブ・リズラン|エリザベス]](1282年 - 1316年) - 1297年に[[ホラント伯]]{{仮リンク|ヤン1世 (ホラント伯)|label=ヤン1世|nl|Jan I van Holland}}と結婚、1302年に第4代{{仮リンク|ヘレフォード伯爵|label=ヘレフォード伯|en|Earl of Hereford}}{{仮リンク|ハンフリー・ド・ブーン (第4代ヘレフォード伯)|label=ハンフリー・ド・ブーン|en|Humphrey de Bohun, 4th Earl of Hereford}}と再婚
*[[エドワード2世 (イングランド王)|エドワード2世]](1284年 - 1327年) - イングランド王
*[[エドワード2世 (イングランド王)|エドワード2世]](1284年 - 1327年) - イングランド王


2番目の王妃[[マーガレット・オブ・フランス]]との間に3人の子女をもうけた。
2番目の王妃[[マーガレット・オブ・フランス]]との間に3人の子女をもうけた<ref name="thepeerage.com"/>
*[[トマス・オブ・ブラザートン|トマス]](1300年 - 1338年) - ノーフォーク伯
*{{仮リンク|トマス・オブ・ブラザートン|label=トマス・オブ・ブラザートン (初代ノーフォーク伯爵)|label=トマス|en|Thomas of Brotherton, 1st Earl of Norfolk}}(1300年 - 1338年) - 初代[[ノーフォーク伯]]
*[[エドマンド・オブ・ウッドストック|エドマンド]](1301年 - 1330年) - ケント伯
*{{仮リンク|エドマンド・オブ・ウッドストック|label=エドマンド|en|Edmund of Woodstock, 1st Earl of Kent}}(1301年 - 1330年) - 初代{{仮リンク|ケント伯|en|Earl of Kent}}
*エリナー(1306年 - 1310年)
*エリナー(1306年 - 1310年)


== エドワード1世を演じた人物 ==
== 脚注 ==
*[[マイケル・レニー]] - 『{{仮リンク|黒ばら (1950年)|label=黒ばら|en|The Black Rose}}』(1950年イギリス映画)
<references/>
*[[パトリック・マクグーハン]] - 『[[ブレイブハート]]』(1995年アメリカ映画)


== 脚注 ==
<!--=== 注釈 ===
{{reflist|group=注釈|1}}-->
=== 出典 ===
<div class="references-small"><!-- references/ -->{{reflist|2}}</div>


== 参考文献 ==
{{イングランド王|1272年 - 1307年}}
*{{Cite book|和書|editor=[[青山吉信]](編)|date=1991年(平成3年)|title=イギリス史〈1〉先史~中世|series=世界歴史大系|publisher=[[山川出版社]]|isbn=978-4634460102|ref=harv}}
{{先代次代|アキテーヌ公|1272年 - 1307年|[[ヘンリー3世 (イングランド王)|アンリ2世]]|[[エドワード2世 (イングランド王)|エドゥアール2世]]}}
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==外部リンク==
* {{commonscat-inline|Edward I of England in miniature|エドワード1世}}


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2015年12月13日 (日) 05:53時点における版

エドワード1世
Edward I
イングランド王
在位 1272年11月17日 - 1307年7月7日
戴冠式 1274年8月19日

出生 1239年6月17日
イングランド王国の旗 イングランド王国 ロンドンウェストミンスター宮殿
死去 (1307-07-07) 1307年7月7日(68歳没)
イングランド王国の旗 イングランド王国 カンブリアバラ・バイ・サンズ英語版
埋葬  
ウェストミンスター寺院
配偶者 エリナー・オブ・カスティル
マーガレット・オブ・フランス
子女 下記参照
家名 プランタジネット家
王朝 プランタジネット朝
父親 ヘンリー3世
母親 エリナー・オブ・プロヴァンス
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エドワード1世英語: Edward I, 1239年6月17日 - 1307年7月7日)は、プランタジネット朝イングランド王(在位1272年11月17日 - 1307年7月7日)。

ヘンリー3世の長男であり、1272年に父王の崩御で即位し、以降1307年の崩御までイングランド王として君臨した。内政面では法整備を進めたことや1295年代議制議会の要素が強い模範議会を招集したことなどが特筆される。外交は近隣諸国との戦争に明け暮れ、ウェールズスコットランドに侵攻して併合したり、アキテーヌを巡ってフランスと戦争するなどした。しかしスコットランド支配は激しい抵抗運動を招いて最終的には破綻し、フランスとの戦争はやがて百年戦争へと繋がっていく。

渾名は "Longshanks"(ロングシャンクス、「長い足」「長脛王」、身長が190cmあったため)および"Hammer of the Scots"(ハンマー・オブ・ザ・スコッツ、「スコットランド人への鉄槌」)。

概要

1230年イングランド王ヘンリー3世の長男としてロンドンで生まれた。1254年にはフランスに対するけん制として、カスティーリャレオンフェルナンド3世の娘エリナーと結婚した(生い立ち)。

1258年オックスフォード議会で可決された王権を制約するオックスフォード条項をめぐってヘンリー3世やエドワードら王権側と第6代レスター伯シモン・ド・モンフォールら改革派諸侯の対立が深まり、1264年に両者は第二次バロン戦争で衝突した。ルイスの戦いに敗れて一時父王とともに虜囚の身となったが、翌1265年に脱走に成功し、イーブシャムの戦いでレスター伯を敗死させて王室に権力を取り戻した(改革派諸侯との戦い)。

内乱終結後には父王に代わって国政を主導。オックスフォード条項は否定したが、王権以上に貴族権力を抑制するウェストミンスター条項は認め、これを汲んだマールバラ法英語版を制定した。1270年からは第8回十字軍に参加した(内乱終結後)。

1272年にヘンリー3世の崩御により国王に即位した(国王に即位)。内政面では法律家のブレーンを抱えてイングランドの法整備に努めた。とりわけ動産差押に制限を設けたことは中世的な自力救済の抑制に資した(法整備)。また王室の封臣を増やす目的で1290年に制定された再下封禁止法英語版は結果として封建制の崩壊を推進し、封建主義社会から議会制国家への移行を促すことになった(封建制の崩壊)。他方1290年にはユダヤ人追放を実施している(ユダヤ人追放)。

外交面では戦争に明け暮れた。1277年1282年から1284年にかけてはウェールズ大公(プリンス・オブ・ウェールズ)ルウェリン・アプ・グリフィズが統治するウェールズに侵攻し、ルウェリンを敗死させて同国を併合した。後にウェールズ大公の地位を自らの皇太子エドワード(エドワード2世)に与え、以降この称号は英国皇太子に与えるのが伝統となった(ウェールズ侵攻)。

つづいてスコットランドに狙いを定め、1291年には同国の王位継承争いに介入し、御しやすそうなジョン・ベイリャルを支持して彼を王位につけ、自らに臣従を誓わせた(スコットランド王位継承への介入)。スコットランド国内でイングランドへの反発が高まり、1295年にはジョン・ベイリャルやスコットランド貴族たちが反旗を翻したが、1296年にスコットランド侵攻を行ってダンバーの戦い英語版でスコットランド軍を撃破した。ベイリャルを廃位して王権を自らに譲渡させた(スコットランド侵攻)。

フランスとの外交関係はパリ条約以降良好に推移していたが、1294年にフランス王フィリップ4世がエドワードの領有するアキテーヌの没収を宣言したため、フランスとも開戦するに至った(英仏戦争)。

フランスやスコットランドとの戦争には膨大な戦費が必要だったことから、1295年に彼が招集した議会は、下級聖職者や州騎士、各都市の市民の代表などを含めた広範な社会階層の代表者を集めた議会となった。そのため代議制の性格が強い議会となり、後世の議会の模範となったとされ、「模範議会」と呼ばれる(模範議会)。しかし高額の課税に反発は高まり、特に1297年フランドル出兵に際して恣意的課税を行おうとしたのを機に諸侯との対立が再燃した。その対立の中で諸侯や議会から国王の恣意的課税を制限するマグナカルタなど既存の法律の確認あるいは新規の立法を強要された。この諸侯との対立は崩御まで解消されることはなかった(諸侯との対立再燃)。

スコットランドでは彼が総督に任じた第6代サリー伯ジョン・ド・ワーレンが過酷な統治を行っていたが、ウィリアム・ウォレスらの抵抗運動の激化を招いた。ウォレスをフォルカークの戦いで破り、捕らえて残虐刑で処刑することには成功したが、スコットランドの抵抗運動はますます激しくなった(ウィリアム・ウォレスとの戦い)。つづいてエドワードに王位を否定されていたロバート・ブルースがスコットランド王ロバート1世に即位することで反旗を翻した。その追討のために出陣した際の1307年に崩御した。彼に代わって国王に即位したエドワード2世はロバート1世に敗れてスコットランドを失うこととなる(ロバート1世との戦いと崩御)。

生涯

生い立ち

1230年6月17日イングランド王ヘンリー3世と王妃エリナー・オブ・プロヴァンスの長男としてロンドンウェストミンスター宮殿に生まれる[1]エドワード証聖王にあやかってエドワードと名付けられた。これまでプランタジネット朝の王はすべてフランス名だったが、彼ははじめてイングランド風の名前が与えられた王である[2]

洗礼式の際には叔父(叔母の夫)にあたる第6代レスター伯シモン・ド・モンフォール代父を務めたが、このレスター伯は後にエドワードに討ち取られることになる[3]

1254年カスティーリャレオン王国首都ブルゴスにおいてカスティーリャ王レオン王フェルナンド3世の娘エリナーと結婚した。カスティーリャ=レオン王国は未だイングランド王が統治権を残すフランスのアキテーヌ公領の背後に位置しており、フランス王のアキテーヌ侵攻を防ぐための政略結婚だった[4]

改革派諸侯との戦い

1265年8月、イーブシャムの戦いでエドワード軍に敗れて戦死する改革派諸侯の指導者第6代レスター伯シモン・ド・モンフォールを描いた絵画

金欠の王庫に財政援助を求めるためにヘンリー3世が1258年に招集したオックスフォード議会ではレスター伯を中心とした改革派諸侯がオックスフォード条項を可決させて国王権力の制限を図り、ヘンリー3世やエドワードと対立を深めた[5][6]。さらに翌1259年ウェストミンスターに召集された議会ではウェストミンスター条項が可決されるが、これは国王以上に領主裁判権をはじめとする貴族権力を制限していた[7]。改革派諸侯が一枚岩ではないことに目を付けたエドワードが貴族たちに対する反撃で盛り込んだものという[8]

ヘンリー3世ははじめオックスフォード条項遵守の誓約をしたが、1261年になってオックスフォード条項遵守誓約の無効を教皇から認めてもらい、これにより国王と諸侯の対立が深まった。両派は競うように地方の掌握に努めるようになった[5][9]。そして1264年5月に至って両派はルイスで戦闘に及び、第2次バロン戦争が始まった。緒戦のルイスの戦いは諸侯軍の圧勝に終わり、エドワードも父王も捕虜にされた[8][10]。この後1年ほどレスター伯が王不在の政府を主導したが、1265年5月にエドワードが脱走し、同年8月のイーブシャムの戦いでレスター伯を敗死させて王室に権力を取り戻すことに成功した[11][12]

ついでエドワードとヘンリー3世は1266年6月に改革派諸侯が立てこもったケニルワース城英語版を包囲するも、難攻不落の同城を陥落させることはできなかった。そこでケニルワース宣言英語版を発した。同宣言はオックスフォード条項は破棄するとしつつ、反乱に関わった程度に応じて罰金を支払えばそれ以上処罰しないことを改革派諸侯たちに保証していた。その結果、諸侯たちはしばらく様子を見ながらも大半は年末までに宣言を受けいれて投降した[13]

内乱終結後

十字軍の際にエリナーがエドワードの毒を口で吸いだしたという逸話を描いた絵画

内乱終結後のヘンリー3世晩年の統治はエドワードによって主導されていた[11][14]。改革派諸侯を破ったとはいえ、彼らの定めた立憲的原則を全否定するのは王権の不安定を招くと判断したエドワードは、1266年にウェストミンスター条項に盛り込まれている諸改革案を確認するとともに1267年マールバラ法英語版でその定着を図った[14][15]。しかしこのマールバラ法は、ウェストミンスター条項の流れを汲んで王権の抑制より貴族の権力の抑制を図るものであった。領主裁判所の誤審上訴権を国王裁判所が独占する権利を定めることで内乱中に衰えた王の司法権力の回復を図っていた。さらに動産差押が認められる場合やその手続きも定め、当時広く社会に横行していた領主による自力救済的な差押さえを抑制した[16]

1270年8月からは第8回十字軍に参加し、イングランドを不在にした[10][17]1272年夏にエルサレムでイスラムの暗殺者に毒付き短剣で手傷を負わされるも妻エリナーが毒を口で吸いだすなど献身的な治療をしたおかげで一命をとりとめたという逸話があるが、これはエリナーを美化するための創作で史実ではないといわれる[17]

国王に即位

エドワード1世

1272年11月16日にヘンリー3世が崩御したとき、エドワードは十字軍からの帰途の途中でアルプス山麓にいた。そして11月20日の父の大葬の日に外国の地からイングランド王位の継承を宣言した。母エレナーを摂政に任じ、自身は帰国を急がず、ガスコーニュの安定やフランドルでの貿易問題解決のためのフランス王との交渉を続けた[18]

それらの目的を達したのちの1274年にようやくイングランドへ帰国し、同年8月19日ウェストミンスター寺院で戴冠式を行った。このようにのんびりと王位継承を行ったことはエドワード1世の王権が極めて安定していたことを意味している[19]。内乱終結後は国王の強い指導力のもとに国王と諸侯の関係が極めて緊密になっていた[20]

法整備

エドワード1世の功績の一つは法整備を押し進めたことである。ローマ法学の教授フランチェスコ・アックルシを招くとともに、皇太子時代からの書記官で法律に詳しいバース司教のロバート・バーネル英語版大法官に任じた。彼らの主導で様々な法整備が押し進められた[21][22]

マールバラ法の差押制限を強化するため、1275年には「財務府の差押手続き」が定められた。これは公権力による差押の場合について規定しており、国王の役人による不正の排除を目的としていた。さらに1285年にはウェストミンスター第二法で領主による悪意の差押に罰則を設けたり、差押を実行する代官の資格などを規定した。これらの法定は中世的な自力救済を大きく制限するのに資した[23]

1278年には権限開示令状英語版を発して、領主特権を主張する者は巡回裁判官にその権原を明示すべきこと、明示しない場合はその特権は失われる旨を定めた。これは内乱の影響で領主特権が曖昧になって簒奪されたり、濫用されたりしているのに歯止めをかける狙いがあった[24][25]1285年には従来の様々な治安維持法を一つにまとめて拡張・強化したウィンチェスター法英語版を制定した[26]

封建制の崩壊

イングランドでは、エドワード1世時代にはすでに封建制(土地の接受を通して主君と家臣が主従関係を持ち、家臣が主君に対して軍役奉仕義務を負う制度)はすでに消滅過程に入っていた。領主と土地保有者の間の土地接受関係は続いていたが、土地保有者が領主に対して負う義務は軍役奉仕より金銭に移行しつつあり、したがって両者の関係は「主君と家臣」というより、「地主と借地人」といったほうが適切になりつつあった[20]

封建制崩壊に拍車がかけたのは1290年に制定された再下封禁止法英語版だった。これは国王や領主から土地を受封している土地保有者が土地を誰かに売却する再下封をした場合、購入者は売却者に対してではなく、国王や領主に直接に封臣としての奉仕責任を負うことを規定していた。国王や領主の封建的収入を上昇させる目的の法律だったが、これにより国王直接受封者の数が急増し、諸階層の水平化が進んで封建制度の精神の崩壊を招いた。すなわち国王の直接封臣であることはもはや何の自慢にもならなくなり、議会招集を受けることこそが自慢になった。これは封建社会から議会制国家への移行を促す効果があった[27]

だがともかく国王の封臣は急増したので国王の封建的収入は増え、王権強化に資した[28]

ユダヤ人追放

中世ヨーロッパにおいてユダヤ人はキリスト教会が禁じていた金融業によって財力をつけたが、高い金利で債務者から憎まれることが多く、ユダヤ人が頼れるのは国王の保護だけであった。保護を受ける代わりにユダヤ人は国王に命じられるままに金を献上せねばならなかった。ユダヤ人は国王の「私有財産」「奴隷」状態だった。もし国王が保護の手を引きあげればユダヤ人虐殺が起こるのが常だった[29]

イングランドにユダヤ人が最初に入ってきたのはノルマン・コンクエストの時にウィリアム征服王に従ってであった。それ以前のアングロサクソン時代はあまりに原始的な社会だったので、金融業が入り込む余地はなかったが、フランスから来たノルマン朝プランタジネット朝の国王たちは他の大陸諸国の王たちと同じくユダヤ金融業者を必要とした[29]

ところが1290年になってエドワード1世はユダヤ人をイングランドから追放した。要因としては国王がユダヤ人を追放すると人々からは自己犠牲の行為として称賛されること[29]、「微利金貸し」のキリスト教徒から金融を受ける目途が立ったため[29]、財産没収による一時的な収入増加が見込めることなどである[10]。ユダヤ人追放後イングランド金融はフランドル人、イタリア人、さらに後にはイングランド人資本家によって担われるようになっていく。ユダヤ人が再びイングランドに移民するのは近世のステュアート朝以降である[30]

ウェールズ侵攻

ウェールズ大公ルウェリン・アプ・グリフィズ。エドワード1世の1282年の侵攻で敗死した

エドワード1世が即位した頃のウェールズの統治者はウェールズ大公(プリンス・オブ・ウェールズ)ルウェリン・アプ・グリフィズだった。エドワード1世はルウェリンに対して二度招集をかけて臣下の礼をとるよう求めたが、ルウェリンは招集に応じなかった。エドワードは1272年にルウェリンを大逆者と宣告した[31]

この宣告を受けてルウェリンに領土を奪取されていたイングランドのウェールズ辺境伯英語版たちがウェールズ侵攻を展開するようになった。またグウィネズ地方(ルウェリンの直接統治下)以外のウェールズ人領主の取り込みも図り、ルウェリンをウェールズ内で孤立に追いやった。そのうえで1277年7月にチェスターから1万5000人の軍勢を率いてウェールズ侵攻を開始した[31]

これに対してルウェリンはゲリラ戦で抵抗するも、結局同年秋にはイングランドへの全面屈服のアベルコンウィ条約を締結することを余儀なくされた。この条約によりルウェリンは他のウェールズ人領主への宗主権を失い、グウィネズの統治権も兄弟で分け合い、ウェールズ内のエドワード1世の王領も大幅に拡大されることになった。さらにもしルウェリンが子供のないまま死去したらその所領はエドワードに没収されることも盛り込まれた[32]

この条約でウェールズのほぼ全土を手中にしたエドワード1世は、イングランドの法を押し付けて、ケルトの法やウェールズ人の感受性を無視した統治を行った[33]。特に巡回裁判制度を持ち込んだのはエドワード1世の統治力を著しく高めた[34]。しかしその過酷な統治はウェールズ人の反乱を誘発し、やがてルウェリンもそれに参加した。これを受けてエドワード1世は1282年から1284年にかけて再度ウェールズ侵攻を行った[33]。この戦いの際にルウェリンは敗死し、ウェールズ大公の地位は弟ダフィズ・アプ・グリフィズ英語版が継承したが、彼も1283年9月30日に捕らえられて大逆罪で死刑宣告され、10月3日に過酷な首吊り・内臓抉り・四つ裂きの刑で処刑された。こうしてウェールズの独立をかけた最後の戦いは失敗に終わり、以降ウェールズが政治的独立を手にすることは二度となかった[35]

1301年になってエドワード1世は皇太子エドワード(後のエドワード2世)にウェールズ大公の称号を与えた。ウェールズの称号を残すことでウェールズ人の反感を和らげる目的だったという。以降イングランド・イギリス王室の皇太子はこの称号を名乗るのが慣例となり、その伝統は現在に至るまで続いている[36][37]。またウェールズの征服でイングランド軍はウェールズの長弓の用法が入り、エドワード1世は歩兵の特殊兵器としてスコットランド侵攻でこれを活用する[38]

スコットランド王位継承への介入

スコットランドへの宗主権を確認するエドワード1世

ウェールズ征服後、エドワード1世は北方スコットランド併合計画を本格化させた。

ちょうど1286年にスコットランド王アレグザンダー3世が崩御し、ノルウェーにいる3歳のアレグザンダーの孫娘マーガレットがスコットランド女王に即位したが、エドワードはこれをスコットランド乗っ取りの千載一遇のチャンスと見た。さっそくマーガレットと自分の息子エドワードの結婚の赦免を教皇に願い出るとともにスコットランド長老会議と交渉を行い、1289年にはスコットランドとの間にバーガム条約英語版を締結して婚約を成立させた。同条約には「スコットランドの権利、法律、自由ならび慣習は完全に保持され、スコットランド王国は自由にして別個の王国として存続する」と定められていたが、エドワードの狙いは当初より併合であり、条約を守る気などさらさら無かった。しかし1290年、ノルウェーからスコットランドへ向かう道中にマーガレットが崩御したため、この目論みは失敗に終わった[39][40]

マーガレットの崩御でスコットランド王室の傍流たちが次々と王位継承権を主張するようになり、とりわけウィリアム1世の弟ハンティンドン伯英語版デイヴィッドの女系子孫にあたる3人、ベイリャル卿ジョン・ベイリャル(デイヴィッドの長女マーガレットの孫)、アナンデール卿ロバート・ド・ブルース英語版(デイヴィッドの次女イザベラの子)、ヘイスティングズ卿ジョン・ヘイスティングス英語版(デイヴィッドの三女エイダの孫)の三人が有力候補となった。3人の対立は激しくなる一方で、内乱に発展することを恐れた聖アンドリューズ司教英語版ウィリアム・フレイザー英語版は、エドワード1世に書簡を送って「陛下が国境まで出御されて決定し給わんことを」と懇願した。このときのフレイザーの対応は今日までスコットランド人から売国行為として批判されるが、仲介できるほど力を持った者はエドワード1世しかなく、内乱を避けるためにはやむを得ない判断だったと弁護もされている[41]

エドワード1世は、ただちにこれを了承して介入を開始した。そして1291年5月にスコットランドの聖職者・貴族を北イングランド・ノラム城英語版に招集して彼らに「朕が正当な宗主ではないという証拠を示しうるか?」と問うて、スコットランドを自らの宗主権下に置こうとした。スコットランドの聖職者・貴族たちは「国王がいないため自分たちには答える権限がない」と述べて回答を避けたが、エドワード1世はこれを王位継承候補全員から臣従を得れば自分に臣従することを認めた回答と判断し、ベイリャルとブルースをはじめとする王位継承候補7人と個別に会見して、全員から自分への臣従を取り付けた[42]

そして1291年8月にスコットランド王を決定する「大訴訟(Great Cause)」を主催した。法定の査定官は104人いたが、ベイリャルとブルースがそれぞれ40人を指名し、残る24人はエドワード1世が指名したため、エドワード1世の決定次第であった。審議はベイリャルが長女の系統の立場を生かして有利に進め、エドワード1世もベイリャルを温厚で操り人形にしやすしと見ていたのでイングランド査定官たちはこぞって彼を支持し、結果1292年11月にベイリャルを王とする旨の裁定が下された[42][43]。こうしてイングランド宗主権下のスコットランド王が誕生することになった[44]

英仏戦争

イングランド王室プランタジネット家(アンジュー家)はもともとフランス大貴族であり、アンジュー帝国と呼ばれる巨大な領地をフランス北西部に所有していたが、1202年からのフランス王の所領没収宣言・侵攻を受けてジョン王は南アキテーヌ(ガスコーニュ)以外を喪失した。その後イングランド王はたびたびフランス出兵を行って領土を取り戻そうとしたものの、すべて失敗に終わった[45][46]。結局1259年にはパリ条約が締結され、アキテーヌ地方をイングランド王に残すということで両者は妥協した。このおかげで以降1290年代初頭まで英仏関係は平穏に推移した[47]

ところが1293年にイングランドとガスコーニュ船籍の船団がノルマンデー船籍の船団に攻撃を仕掛けて打ち破り、ラ・ロシェルを襲撃する事件が発生した。アテキーヌを狙っていたフランス王フィリップ4世はエドワードのガスコーニュの領主としての責任を追及し、1294年にガスコーニュを含む全アキテーヌの所領を没収すると宣告した。これはフランス王によるアンジュー領侵攻の再開と考えられたのでエドワードは1294年にもフランス出兵を開始し、英仏戦争英語版が勃発した。百年戦争エドワード3世の時代に始まるが、実質的にはこのときから始まっていたと考えられている[47]

このときの戦いは1299年までに旧領を回復してフィリップ4世と和議することで一応解決した。この和議の際にフィリップ4世の妹マーガレット・オブ・フランスと結婚している(エレナーとは1290年に死別していた)[10]

スコットランド侵攻

スコットランド国王ジョン(ジョン・ベイリャル)は即位以来エドワードに臣従を誓っていたが、それに対するスコットランド内の反発は高まっていた[40]。特に1294年に対仏開戦でエドワードがスコットランドに徴兵要求をしたことでスコットランド人の反英感情は爆発した。後にエドワード1世はこの徴兵要求を取り消しているが、反英感情が収まることはなかった[48]

こうした空気の中、ジョン王はイングランド王への臣従を取り消した[43]1295年7月には司教や貴族から成る反英諮問機関「スコットランド王国の共同体」が創設されて、今後この組織が国政の責任を負うことになった。さらに1295年10月にはスコットランドとフランスの攻守同盟がパリで締結された[48]

これに対してエドワード1世は1296年3月にもスコットランド侵攻を開始し、4月にはダンバーの戦い英語版でスコットランド軍を撃破して多数のスコットランド貴族を捕虜にした。ジョン王も7月には投降し、イングランド王への「反逆」を犯したことを「告白」させられた。そしてフランスとの同盟を破棄し、王位を空席にして王権はエドワード1世に譲ることを認めさせられた。エドワード1世はスコットランド王権を示す王冠王笏スクーンの石などをロンドンへ持ち帰らせた[48]

模範議会

議会を招集するエドワード1世。

スコットランドやフランスとの戦争の戦費を募るためエドワード1世は、1295年11月に議会を招集した。膨大な軍資金を集めるためには社会各層の協力が必要との認識から、このときの議会は各階層から広範に代表を募ったため、この後のイングランド議会の代議制の模範になったという意味で19世紀の歴史家に「模範議会」と名付けられた[49]

この模範議会で招集されたのは、伯爵7人、その他封建貴族(男爵)、大司教や司教などの高位聖職者41人、修道院長や助祭長などの下級聖職者70人、各司教座聖堂参事会の聖職者代表1名、各司教管区から聖職者代表2名、各州の州騎士2人ずつ、都市や自由都市の市民代表各2名ずつである[49]

たしかにそれ以前の議会と比べれば、代議制的要素が強く、社会各層がよく代表されていたといえるため、エドワード1世をレスター伯シモン・ド・モンフォール(彼が権力を握っていた1264年から1265年にかけての議会も広範な社会階層から代表を集めた)とともに「イギリス議会の父」とすることがある。しかしこの時の議会はいまだ貴族院庶民院に分離していなかったし、下級聖職者は途中で議会に出席しなくなった。またこの模範議会の後もしばしば代議制要素が全くない(あるいはわずかしかない)議会が開催されたので、エドワードを現在のイギリス議会の骨格を決定した人物かのように語ったり、この議会を「模範」と称するのは無理があるとの反論もある[49][50]。そうした説によればイギリス議会はエドワード1世やレスター伯シモン・ド・モンフォールのような特定の個人の創意でできたものではなく、12世紀から13世紀のイングランドの歴史過程の中で徐々に形成されたものであるとされる[51]

諸侯との対立再燃

フランドル出兵を拒否する第5代ノーフォーク伯ロジャー・ビゴット英語版と第3代ヘレフォード伯英語版ハンフリー・ド・ブーン英語版に対して「出動しないなら絞首刑だ」と脅迫するエドワード1世

エドワード1世の戦争には膨大な戦費が必要であったが、その課税は激しい反発を招いた[52]1296年には教会が教皇ボニファティウス8世の勅書を理由に課税を拒否するようになった。これに対してエドワード1世は教会が財政に協力しないなら、今後王権は教会の財産や聖職者の生命の保護をしない旨を宣告し、課税拒否運動の中心の聖職者たちの追放を行った[53]

ついで翌1297年にはフランドル出兵計画をめぐって諸侯の間にもエドワード1世に対する反発が広がった。とりわけ第5代ノーフォーク伯ロジャー・ビゴット英語版と第3代ヘレフォード伯英語版ハンフリー・ド・ブーン英語版は、フランドルへの騎士の出征は前例がないこと、国民が戦争で疲労していること、スコットランド情勢が緊迫していること、大憲章(マグナ・カルタ)や御料林憲章英語版が守られていないこと、羊毛輸出関税が異常に高いことなどを指摘してフランドル出兵とそのための課税に反対した[54]。この際の2人とエドワード1世の口論は激しく、エドワード1世が「出動しないならお前たちは絞首刑だ」と叫ぶと、2人は「いや出動せぬなら絞首刑にもならぬ」と応酬したと伝わる[55]

2人の異論を無視してエドワード1世は都市住民の所有する動産5分の1、農村住民の所有する動産8分の1を租税として徴収することを独断で決定し、さらに8000サックの羊毛徴発を命じた。そして1297年8月末にフランドルへ向けて出陣したが、諸侯はまるで従わず、その軍勢はわずかに200人だったという。エドワード1世の留守を狙ってノーフォーク伯とヘレフォード伯は財務府に乗り込み、「人々の同意なく、国王が恣意的に強制賦課金や羊毛徴発することは許されない」と論じて先に国王が命じた徴税を行うことを禁じた。さらに同年秋に招集が予定されていた議会に提出する文書『強制賦課金は認めないことについて(De Tallagio non Concedendo)』の起草を開始した[56]

これによりエドワード1世と諸侯の関係が再び緊迫化し始めたが、1297年9月にはウィリアム・ウォレス率いるスコットランド軍のスターリングブリッジの戦いの勝利とイングランド北部への侵攻があり、その危機感から両者は10月に一時的に和解し、『両憲章の確認書(Confirmatio Cartarum)』を結んだ。これは大憲章と御料林憲章の確認および再公布、先の国王の恣意的課税は前例とせず、イングランドにおける租税は全王国の共同の同意により、全王国の共通の利益のためにのみ課される原則を守ること、高い羊毛関税も廃止することが盛り込まれていた。これに基づき先のエドワード1世の恣意的課税は廃止され、議会と教会はその代わりの租税案をエドワード1世に与えた[56]

しかしこの後も諸侯と議会の国王に対する不信感は続き、1300年3月にウェストミンスターで招集された議会はエドワード1世に両憲章の全文を再確認・再公布させるとともに 『両憲章への追加条項(Articuli super Cartas)』を新たに決議した。これは両憲章の違反者に対する罰則を設けるとともに、国王の役人による物資徴発に方法と手続きを規定することで、国王の徴税活動を制限するものだった[57]。翌1301年リンカンで招集された議会も国王に対する不信感が強い議会となった[58]

1305年になるとエドワード1世は自分が1297年の文書で行った約束は強制的に押し付けられたものだと主張しはじめ、教皇にその主張の承認を求め、翌1306年に認められている。このようにエドワード1世治世末には国王と諸侯の関係は悪化して、平穏さや円滑さを欠いた状態となっていた[58]

ウィリアム・ウォレスとの戦い

エドワード率いるイングランド軍がウォレス率いるスコットランド軍を破った1298年6月のフォルカークの戦いを描いた絵画

スコットランドでは、エドワードが総督に任じた第6代サリー伯ジョン・ド・ワーレンがスコットランド民衆を徹底的に弾圧する過酷な統治を行っていた[59]

しかしそうした統治はスコットランドの中間層や民衆の抵抗運動を招き、それらはウィリアム・ウォレスのもとで一つにまとまった。そして1297年9月にスターリングブリッジの戦いにおいてサリー伯率いるイングランド軍はウォレス軍に惨敗した。勢いに乗じたウォレス軍はイングランド北部ノーサンバーランドカンバーランドへ侵攻を開始した[60][61]

エドワード1世はこの前月からフランドル出兵でイングランドを不在にしていたが、ウォレス軍の勝利を聞いて1298年1月にも帰国し、同年7月にフォルカークの戦いでウォレス率いるスコットランド軍を撃破した[62]

ついで1300年からスコットランド侵攻を繰り返し、1303年5月の侵攻でついにスコットランド占領に成功した。1305年9月にはスコットランドの統治組織を定めた統治条例を発した[62]。その間ウォレスはゲリラ戦を展開したり、フランスに援軍を求めるなどエドワードへの抵抗運動を続けたが、1305年に奸計にかかってイングランド軍に逮捕された。そして大逆罪により首吊り・内臓抉り・四つ裂きの刑に処せられた。ウォレスに残虐刑を科すことでスコットランドを恐怖支配しようというエドワード1世の意図だったが、それは成功しなかった。逆にスコットランド人の憤慨を買い、より激しい抵抗運動を招く結果となった[63][62]

ロバート1世との戦いと崩御

スコットランドでますます高まる反英機運に乗ってキャリック伯ロバート・ブルース(「大訴訟」の時にエドワード1世に王位を否定されたロバート・ブルースの孫)が1306年3月にスクーンでスコットランド王「ロバート1世」に即位し、エドワード1世への臣従を拒否した[64]

当時エドワード1世は赤痢に苦しんでいたが、直ちにロバート追討を決定し、1306年9月にもスコットランドへ向けて出陣した。皇太子エドワードと第2代ペンブルック伯エイマー・ド・ヴァランス英語版の軍に先発させ、ペンブルック伯の軍は1307年5月にもロウドゥン・ヒルの戦い英語版でロバート率いるスコットランド軍と戦闘を交えたが、敗北した[65][64]

一方エドワード1世はスコットランドへ向けて騎乗して進軍している途中の1307年7月3日カーライル郊外バラ・バイ・サンズ英語版で騎乗に耐えられなくなって倒れこんだ。エドワード1世はすぐにスコットランドから皇太子を呼び寄せ、自分の心臓は聖地エルサレムに埋葬すること、遺体はスコットランド平定まで埋葬しないこと、自分の骨をイングランド軍の先頭に置いて進軍することを言い渡した。そして7月7日に崩御した[66]

しかし新国王エドワード2世は父の遺言を守らなかった。エドワード1世の遺体は全てウェストミンスター寺院に埋葬したうえ[66]、スコットランドからも撤兵した[64]。彼はスコットランド内におけるイングランドの旗色が悪くなった後の1313年になって再びスコットランド侵攻を行うが、バノックバーンの戦いでスコットランド軍に惨敗。これが決定打となってイングランドはスコットランドの支配権を完全に失ったのだった[67]

子女

最初の王妃エリナー・オブ・カスティルとの間に16人の子女をもうけた[1]

2番目の王妃マーガレット・オブ・フランスとの間に3人の子女をもうけた[1]

エドワード1世を演じた人物

脚注

出典

  1. ^ a b c Lundy, Darryl. “Edward I 'Longshanks', King of England” (英語). thepeerage.com. 2015年11月26日閲覧。
  2. ^ 森護 1986, p. 102.
  3. ^ 森護 1986, p. 103.
  4. ^ 森護 1986, p. 103-104.
  5. ^ a b 松村赳 & 富田虎男 2000, p. 549.
  6. ^ 青山吉信(編) 1991, p. 265-267.
  7. ^ 松村赳 & 富田虎男 2000, p. 809.
  8. ^ a b 森護 1986, p. 95.
  9. ^ 青山吉信(編) 1991, p. 268.
  10. ^ a b c d 松村赳 & 富田虎男 2000, p. 223.
  11. ^ a b 森護 1986, p. 96.
  12. ^ 青山吉信(編) 1991, p. 269.
  13. ^ 松村赳 & 富田虎男 2000, p. 388.
  14. ^ a b 青山吉信(編) 1991, p. 270.
  15. ^ 松村赳 & 富田虎男 2000, p. 456/809.
  16. ^ 青山吉信(編) 1991, p. 278-279.
  17. ^ a b 森護 1986, p. 105.
  18. ^ 森護 1986, p. 105-106.
  19. ^ 森護 1986, p. 106.
  20. ^ a b 青山吉信(編) 1991, p. 273.
  21. ^ 松村赳 & 富田虎男 2000, p. 107/223.
  22. ^ 森護 1986, p. 108.
  23. ^ 青山吉信(編) 1991, p. 279.
  24. ^ 青山吉信(編) 1991, p. 278.
  25. ^ 松村赳 & 富田虎男 2000, p. 615.
  26. ^ 松村赳 & 富田虎男 2000, p. 824.
  27. ^ トレヴェリアン 1973, p. 183.
  28. ^ 松村赳 & 富田虎男 2000, p. 614.
  29. ^ a b c d トレヴェリアン 1973, p. 181.
  30. ^ トレヴェリアン 1973, p. 181-182.
  31. ^ a b 青山吉信(編) 1991, p. 323.
  32. ^ 青山吉信(編) 1991, p. 323-324.
  33. ^ a b トレヴェリアン 1973, p. 203.
  34. ^ 青山吉信(編) 1991, p. 324.
  35. ^ 青山吉信(編) 1991, p. 326.
  36. ^ 森護 1986, p. 111.
  37. ^ 松村赳 & 富田虎男 2000, p. 601.
  38. ^ トレヴェリアン 1973, p. 202.
  39. ^ 青山吉信(編) 1991, p. 348-349.
  40. ^ a b 森護 1986, p. 113.
  41. ^ 青山吉信(編) 1991, p. 349-350.
  42. ^ a b 青山吉信(編) 1991, p. 350.
  43. ^ a b 森護 1986, p. 114.
  44. ^ 青山吉信(編) 1991, p. 351.
  45. ^ 青山吉信(編) 1991, p. 251-253/261.
  46. ^ 佐藤賢一 2003, p. 51-54.
  47. ^ a b 青山吉信(編) 1991, p. 280.
  48. ^ a b c 青山吉信(編) 1991, p. 353.
  49. ^ a b c 松村赳 & 富田虎男 2000, p. 479.
  50. ^ 中村英勝 1959, p. 32-33.
  51. ^ 中村英勝 1959, p. 33.
  52. ^ 青山吉信(編) 1991, p. 281.
  53. ^ 森護 1988, p. 107.
  54. ^ 青山吉信(編) 1991, p. 281-282.
  55. ^ 青山吉信(編) 1991, p. 107-108.
  56. ^ a b 青山吉信(編) 1991, p. 282.
  57. ^ 青山吉信(編) 1991, p. 282-283.
  58. ^ a b 青山吉信(編) 1991, p. 283.
  59. ^ 森護 1988, p. 114.
  60. ^ 森護 1988, p. 116-117.
  61. ^ 青山吉信(編) 1991, p. 354.
  62. ^ a b c 青山吉信(編) 1991, p. 355.
  63. ^ 森護 1988, p. 117.
  64. ^ a b c 青山吉信(編) 1991, p. 356.
  65. ^ 森護 1986, p. 115-116.
  66. ^ a b 森護 1986, p. 116.
  67. ^ 青山吉信(編) 1991, p. 357.

参考文献

  • 青山吉信(編) 編『イギリス史〈1〉先史~中世』山川出版社〈世界歴史大系〉、1991年(平成3年)。ISBN 978-4634460102 
  • 佐藤賢一『英仏百年戦争』清水書院〈集英社新書 0216D〉、2003年。ISBN 978-4087202168 
  • トレヴェリアン, G. M. 著、大野真弓 訳『イギリス史 1』みすず書房、1973年(昭和48年)。ISBN 978-4622020356 
  • 中村英勝『イギリス議会史』有斐閣、1959年(昭和34年)。ASIN B000JASYVI 
  • 松村赳富田虎男『英米史辞典』研究社、2000年(平成12年)。ISBN 978-4767430478 
  • 森護『英国王室史話』大修館書店、1986年(昭和61年)。ISBN 978-4469240900 
  • 森護『スコットランド王国史話』大修館書店、1988年(昭和63年)。ISBN 978-4469242560 

外部リンク

  • ウィキメディア・コモンズには、エドワード1世に関するカテゴリがあります。
エドワード1世 (イングランド王)

1239年6月17日 - 1307年7月7日

イングランド王室
先代
ヘンリー3世
イングランド国王
アキテーヌ公
アイルランド卿

1272年–1307年
次代
エドワード2世
先代
ジャンヌ
ポンチュー伯フランス語版
1279年–1290年
共同統治者 エリナー