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「天津司舞」の版間の差分

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[[File:Tenzushi-mai dance Omiyuki B.JPG|thumb|300px|天津司舞の御幸(2012年4月8日撮影)<ref group="†">祭事の画像はすべて2012年4月8日撮影。</ref>]]
{{画像提供依頼|祭り|date=2007年6月}}
'''天津司舞'''(てんづしまい)、または'''天津司の舞'''(てんづしのまい)は<ref group="†">天津司の読み仮名は、文化庁サイトなどでは「てん'''ず'''し」とするものもあるが、現地での呼称および、地元の教育委員会監修により作成された[http://www.city.kofu.yamanashi.jp/senior/bunkazai/010.html 甲府市公式ホームページ]、[http://www.pref.yamanashi.jp/gakujutu/bunkazaihogo/minzokukaisetsu.html 山梨県公式ホームページ]では「てん'''づ'''し」と表記されることから、この記事では「てんづし」と表記する。</ref>、[[山梨県]][[甲府市]]小瀬町の天津司神社に伝わる、等身大でできた9体の木造[[人形]]に[[田楽]]舞を演じさせる、[[神事]][[芸能]]、[[伝統芸能]]である<ref name="tenzushimai">{{国指定文化財等データベース|302|66|重要無形民俗文化財 – 天津司舞}}2012年5月7日閲覧。</ref><ref name="tenzushimaibunka">[http://bunka.nii.ac.jp/SearchDetail.do?heritageId=160791&isHighlight=true&pageId=3 文化遺産オンライン – 天津司舞]2012年5月7日閲覧。</ref>。中世に起源を持つ'''傀儡田楽'''(くぐつでんがく)の一種であると考えられており、地元ではオテヅシさん、デッツクさんと呼ばれる。
'''天津司舞'''(てんずしまい)は、[[山梨県]][[甲府市]]小瀬町天津司神社に伝わる[[民俗芸能]]。地元ではオテヅシさん、デッツクさんと呼ばれる。


田楽舞は日本各地の民俗芸能として一般的であるが、人形に演じさせる民俗は珍しく、[[1960年]]([[昭和]]35年)11月7日、[[山梨県指定文化財一覧#重要無形文化財|山梨県指定無形文化財]]に指定され、国により[[1970年]](昭和45年)6月8日に[[選択無形文化財|記録作成等の措置を講ずべき無形文化財]]として選択された<ref>{{国指定文化財等データベース|312|336|記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財 – 天津司舞}}2012年5月7日閲覧。</ref>。さらに、[[1976年]](昭和51年)5月4日には、[[文化財保護法]]の改正によって前年[[1975年]](昭和50年)に制定された[[重要無形民俗文化財]]の'''第1回指定(初回指定)'''を受けた。[[文化庁]]による指定種別は、民俗芸能・渡来芸・舞台芸である<ref name="tenzushimai"/><ref name="yamanashi">[http://www.pref.yamanashi.jp/gakujutu/bunkazaihogo/minzokukaisetsu.html 山梨県主な文化財 (民俗文化財)]山梨県ホームページ。2012年5月7日閲覧。</ref>。
『[[甲斐国志]]』や大森快庵『甲斐名所図絵』など近世期の地誌類に見られ、江戸時代には上演が行われていたと考えられており、『国志』によればかつては旧暦7月19日に小瀬村17戸によって行われていたが、一時途絶した後に再現され、現在では4月上旬の[[日曜日]]に天津司の舞保存会によって行われる。


== 概要 ==
「天津司」の語義については、『甲斐名所図絵』では「テグツ」の訛語化であるとし、「手傀儡」の意味であると考えられている。一方で、「天津司」を「デクズシ」と読み、「テグ」を人形(木偶)、「ズシ」を人形を収める「厨子」の意味と解する説もある(影山 2011)。
{{地図|山梨県|138.58312|35.625437}}
天津司舞の行われる甲府市小瀬町は、[[甲府盆地]]のほぼ中央部、甲府市南部の平坦地に位置しており、古くは[[西山梨郡]][[山城村 (山梨県)|山城村]]に属し、[[1954年]](昭和29年)に甲府市に編入されている。小瀬地区のある旧山城村は、中世に開発された低湿地からなる稲作の盛んな一帯であったが、[[1971年]](昭和46年)に甲府市街地を迂回する形で建設された[[国道20号]]の[[甲府バイパス]]が開通したことにより<ref>[[山梨日日新聞]]社編 『山梨の20世紀』 甲府バイパスが一部開通、142-143ページ 2000年8月10日 第1刷発行 ISBN 4-89710-696-6</ref>、小瀬町周辺は商業施設や宅地の開発が行われ、[[1986年]](昭和61年)に開催された[[かいじ国体]]のメイン会場として[[山梨県小瀬スポーツ公園]]が造成されるなど、近年急速に都市化の進んでいる地区である。


天津司社に安置されている神を模した9体の木造等身大[[人形]]が赤布で顔を覆い、天津司神社から下鍛冶屋町鈴宮諏訪神社まで道(現在は一部[[小瀬スポーツ公園]]敷地内)を御幸し、境内御船と呼ばれる幕囲の内で、[[田楽]]法師を模した人形が覆面を外し、[[ササラ]]や[[太鼓]]、[[鼓]]などを持ち田楽舞を行う。
小瀬町内に鎮座する天津司社には、神を模した9体の木造等身大[[人形]]が安置されており、1年に一度行われる祭典当日、9体の人形は赤布で顔を覆われた状態で天津司神社から、隣町の下鍛冶屋町に鎮座する鈴宮諏訪神社まで、約1キロの'''御成道'''おなりみち、現在は一部小瀬スポーツ公園敷地内)を'''御幸'''(おみゆき)し、鈴宮諏訪神社境内に設けられた'''御船囲い'''(おふねがこい)と呼ばれる幕囲の内で、[[田楽]]法師を模した人形が赤布の覆面を外し、[[ささら]]や[[太鼓]]、[[鼓]]などを持ち田楽舞を行う。


稲作の耕作過程を模擬的に演じる民俗として[[田遊び]]があり、山梨県では少女が模擬的な田植えを行う住吉神社(甲府市)の御田植祭などの事例があり、天津司舞は田楽囃子を人形が行う点が特異とされている。
甲府盆地南部にあたる小瀬は中世に開発された低湿地であるが、天津司神社の社記によると「小瀬一帯が湖沼地帯であった頃に、12体の天津神が天から降りてきて舞をして遊んでいたが、そのうちの2神は天に帰り、1神は亡くなった。あとの9神の像を造って小瀬村の諏訪神社に祀ったのがはじまりである。」と伝承されている<ref>[天津司の舞保存会 1976]</ref>。


天津司神社の社記によると「小瀬一帯が湖沼地帯であった頃に、12体の天津神が天から降りてきて舞をして遊んでいたが、そのうちの2神は天に帰り、1神は亡くなった。あとの9神の像を造って小瀬村の諏訪神社に祀ったのがはじまりである。」と伝承されている<ref name="Hozonkai">天津司の舞保存会編 (1976)</ref>。
田楽舞いは各地の民俗芸能として一般的であるが人形に演じさせる民俗は珍しく、明治期には[[小田内通敏]]の『綜合郷土研究』における調査により注目され、[[若尾謹之助]]は聞き取り調査を行っている。[[1975年]]([[昭和]]50年)の[[文化財保護法]]の改正によって制定された[[重要無形民俗文化財]]の第1回の指定を受けた。


田楽舞いは各地の民俗芸能として一般的であるが人形に演じさせる民俗は珍しく、明治期から昭和初期にかけて、[[地理学者]]である[[小田内通敏]]<ref>[http://kotobank.jp/word/%E5%B0%8F%E7%94%B0%E5%86%85%E9%80%9A%E6%95%8F 小田内通敏-コトバンク]2012年5月7日閲覧</ref>の『綜合郷土研究』における調査により注目され、大正期には若尾財閥三代目の[[若尾謹之助]]<ref>[http://kotobank.jp/word/%E8%8B%A5%E5%B0%BE%E8%AC%B9%E4%B9%8B%E5%8A%A9 若尾謹之助-コトバンク]2012年5月7日閲覧</ref>により詳細な聞き取り調査が行われている。若尾謹之助は[[甲州財閥]]と呼ばれた明治期の実業家、初代甲府市市長でもあった[[若尾逸平]]の養子、[[若尾民造|民造]]の三男で、若尾財閥の三代目である一方で民衆文化に関心を持ち郷土研究を行った人物として知られる。若尾謹之助の調査を元にして大正5年に著された『甲斐志料集成、御祭礼及縁日』は、「若尾資料」とも呼ばれ、後述する江戸時代後期から長期間中断していた天津司舞の再現に欠かせない、今日の天津司舞の芸態を決定づけた重要な資料であると考えられている<ref>影山正美 (2011)、pp.45-46</ref>。
== 脚注 ==

<references/>
== 起源と語意 ==
天津司舞は、[[文化 (元号)|文化]]年間([[1810年]]頃)に編纂された『[[甲斐国志]]』や、[[嘉永]]年間([[1850年]]頃)に編纂された、大森快庵『甲斐名所図絵』など近世期の地誌類に記載が見られ、江戸時代後期には上演が行われていたと考えられており、天津司神社および小瀬地区には下記の伝承が古くから言い伝えられている。
[[File:Painting of Tenzushi Festival Around 1850.JPG|thumb|280px|大森快庵『甲斐名所図絵』に描かれた天津司舞([[嘉永]]年間[[1850年]]頃)]]
{{Quotation|昔、小瀬の里が開けないころ、'''十二の神々が天から降り、湖上で舞楽を奉した。'''その後、'''二神が天に戻り、一神は西油川の鏡池に没した<ref group="†">西油川とは小瀬の東隣にある地名で、現在の甲府市西油川町に当たる。鏡池という池は現存せず、資料によっては池ではなく古井戸と記されるものもある。</ref>。'''<br />残る九神は舞楽を奉し続け、小瀬の里が開かれた。役人が神を模して神像を作り、これが天津司の舞の始まりとなった。|広報こうふ|天津司の舞<ref name="Kofu City">甲府市役所編 (2012)、p.3</ref>}}
舞の起源、由来については諸説あり、確定的なものはない。『甲斐国志』ならびに諏訪神社々記にも「その権輿を知らず」とあり<ref name="Bunkazai">山梨県文化財調査委員会編 (1959)、p.2</ref>、文献から起源を明らかにするものは存在しないが、天津司神社々記には、「[[建久]]年間([[1190年]]代)に、[[甲斐武田氏]]5代の[[武田信光|武田五郎信光]]が、小瀬にあった諏訪神社社地に館を造るため、諏訪神社を下鍛冶屋の鈴宮神社境内に移し、諏訪神社に鎮座していた9体の神像(人形)も、移設した鈴宮神社に祀られるようになった。」とあることから、9体の人形は少なくとも建久年間には存在していたと考えられている。その後、[[大永]]2年([[1522年]])8月27日(旧暦)に、天津司神社が小瀬に造営されると、鈴宮にあった9体の神像(人形)は天津司神社の神庫に安置されるようになったため、舞を奉納する時は、天津司神社から鈴宮諏訪神社まで御幸するようになったと考えられている<ref name="Kofu City"/>。

=== 沿革と研究史 ===
[[File:Tenzushi Shrine.JPG|thumb|260px|御幸出発の準備が行わている天津司神社]]
『甲斐国志』によれば、かつては旧暦7月19日に小瀬村17戸に限って天津司舞は行われており、他の家の者はこれに加わることは出来なかったと言われている<ref>林貞夫(1956)、p.7</ref>。天津司舞の祭事に関するもので、年号が確認できる古いものは[[貞享]]元年([[1684年]])にさかのぼり、神前で垣を1本ずつ結ぶ行為が[[甲府勤番]]から不浄という理由で差し止められ、以後70年ほど舞いが絶えたという伝承が残されている<ref>大森義憲 (1957)、p.20</ref>。その後復活し、『甲斐名所図絵』などから、江戸後期には上演されていたと考えられているが、[[明治維新]]の頃を前後して再び途絶えてしまう<ref name="KageyamaA">影山正美 (2011)、p.46</ref>。ただし[[1898年]]([[明治]]31年)頃に、1度だけ復活しており、この時の奉納者(供奉員)の1人であったと考えられる小瀬在住の古老、山本権太郎による証言をまとめたものが、前述した「若尾資料」である。山本は幕末から明治維新期にかけ生きた小瀬地区在住の古老であり、証言の信憑性は高いものと考えられている<ref name="KageyamaA"/>。

明治31年以降、長らく途絶えていた天津司舞が次に行われたのは[[1937年]]([[昭和]]12年)4月10日であった<ref name="Bunkazai"/>。これは[[1936年]](昭和11年)に刊行された『山梨県綜合郷土研究』の発刊事業に携わっていた、小田内通敏<ref group="†">影山正美 (2011)では小田内通久、林貞夫(1956)では小田内道房と記述されている。</ref>により復興の働きかけが行われたことによる<ref name="KageyamaB">影山正美 (2011)、pp.46-48</ref><ref>林貞夫(1956)、p.5</ref>。小田内は『甲斐国志』、『甲斐名所図会』、「若尾資料」などの研究により、途絶していた天津司舞を復活させたが、これらの資料の中で芸態の再現の典拠となりえたものは、体験者の証言で作られた「若尾資料」であることは明らかであり、すなわち今日奉納される天津司舞の芸態は、山本権太郎の体験的記憶による近世最末期から明治期の天津司舞をベースにしたものであると考えられている<ref name="KageyamaB"/>。その後[[太平洋戦争]]をはさみ一時中断した時期があったが、[[1954年]](昭和29年)4月10日に再び復活し、2012年現在では4月10日直前の日曜日に、小瀬町住民から構成される'''天津司の舞保存会'''によって行われている<ref name="Hozonkai"/><ref name="Kofu City"/>。

また、[[2005年]](平成17年)に開館した[[山梨県立博物館]]では常設展示のうち「水に取り組む」で天津司舞を再現し、紹介を行なっている。

=== 天津司の語義と起源 ===
[[File:Red cloth, hide their faces, Tenzushi-dolls.JPG|thumb|260px|赤い布で顔を隠された御笛様(左)と御鼓様(右)。御笛様の笠には朝鮮風の飾りが着けられている。]]
「天津司」の語義についても、起源同様さまざまな説があり未解明な部分が多い。『甲斐名所図絵』では「テグツ」の訛語化であるとし、「手傀儡」の意味であると考えられている。一方で、「天津司」を「デクズシ」と読み、「テグ」を人形(木偶)、「ズシ」を人形を収める「厨子」の意味と解する説もある<ref name="KageyamaB"/>。

'''傀儡'''(くぐつ)とは'''[[傀儡子]]'''とも書かれる、諸国を旅しながら[[芸能]]によって生計を営む[[旅芸人]]集団であり、[[平安時代]]([[9世紀]])にはすでに存在していたと考えられている。傀儡子のなかでも[[操り人形]]の[[人形劇]]を行うものを'''手傀儡'''(てくぐつ)と呼ぶ<ref>[http://kotobank.jp/word/%E6%89%8B%E5%82%80%E5%84%A1 手傀儡-コトバンク]2012年5月7日閲覧</ref>。

傀儡は現在の[[中華人民共和国|中国]]西域を起源とし、それが木製の人形を操る芸能へ進展し、[[朝鮮半島]]を経由して[[日本]]へ入ってきたものと考えられており、天津司の舞も、これら操り人形を生業とする傀儡子集団が放浪の旅の末、[[甲斐国]]土着の人々と融合し、そこに田楽の要素が加わった芸態と考える説がある。今日伝わる天津司舞人形の、衣装の裾から手を入れて高く差し上げて動かす形態や、人形の風貌や笠に付けた飾りなどが、朝鮮の「突っ込み人形」と呼ばれる人形劇に酷似しているとの指摘もある<ref>備仲臣道(1981)、p.27</ref>。

一方の田楽は、[[平安時代]]中期に成立した日本の[[伝統芸能]]と考えられているが、由来については傀儡同様「渡来のものである」など諸説あり、その由来には未解明の部分が多い。本来、傀儡と田楽は別のものであるにもかかわらず、この2つが合わさったものが天津司舞であり<ref name="ChosenC">備仲臣道(1981)、p.25</ref>、傀儡(人形)が田楽を舞う例は他には存在しないと言われている<ref name="Bunkazai"/>。鈴宮、天津司2つの神社にまたがり、かつ長期の中断が数回あった天津司舞は、古い文献に乏しく、さまざまな見解が存在するが、起源も語義も確定的な見解は出ていない。

なお、人形は全部で'''9体'''、祭事全般に使用される定紋は'''[[九曜#家紋|九曜星]]'''、お舞奉納で各人形が周回する回数は'''9周'''であり、随所に'''9'''という数字が関連している。

== 祭典執行 ==
[[File:Tenzushi-mai dance festival schedule, April 8, 2012.JPG|thumb|280px|天津司社殿に掲げられた天津司舞の予定表]]
天津司舞は、毎年[[4月10日]]直前の[[日曜日]]、[[正午]]少し前頃より始まり、おおよそ14時過ぎまでの約2時間強をかけて執り行われる。

祭典執行の順序は以下とおり。
#'''神官お迎え'''
#'''神事'''
#'''御幸'''
#'''鈴の宮諏訪神社 着'''
#'''お舞奉納'''
#'''還御'''

人形は以下の9体である。御幸の並び順、および舞を行う順序も以下の順である。このうち一の御編木様から 御笛様までの6体は楽器を持ち、7番目の御鹿島様までの7体は、単衣薄手の[[麻 (繊維)|麻地]]で作られた<ref>林貞夫(1956)、p.11</ref>[[萌黄色]]の装束をまとっている。
#'''一の御編木様'''(いちのおささらさま)
#'''二の御編木様'''(にのおささらさま)
#'''一の御太鼓様'''(いちのおたいこさま)
#'''二の御太鼓様'''(にのおたいこさま)
#'''御鼓様'''(おつづみさま)
#'''御笛様'''(おふえさま)
#'''御鹿島様'''(おかしまさま)
#'''御姫様'''(おひめさま)
#'''鬼様'''(おにさま)

{{座標一覧}}
祭事の大まかな流れは、天津司神社({{ウィキ座標|35|37|31.53|N|138|34|59.26|E|region:JP|天津司神社の位置/地図|name=天津司神社/地図}})に安置されている9体の人形を、約1キロ南に離れた鈴宮諏訪神社({{ウィキ座標|35|37|16.54|N|138|35|5.61|E|region:JP|鈴宮諏訪神社の位置/地図|name=鈴宮諏訪神社/地図}})まで御成道({{ウィキ座標|35|37|25.14|N|138|35|10.39|E|region:JP|天津司舞御成道の中間地点/地図|name=天津司舞御成道の中間地点/地図}})を歩いて移動(御幸)し、鈴宮諏訪神社境内に設置された御船囲い({{ウィキ座標|35|37|15.24|N|138|35|5.64|E|region:JP|鈴宮諏訪神社境内御船囲いの位置/地図|name=鈴宮諏訪神社境内御船囲いの位置/地図}})の内側で奉納の舞いを行い、奉納終了後9体の人形は同じ道を戻り(還御)、天津司神社に再び安置する。

祭事に関する位置関係は右記の座標一覧を参照。

[[File:Kuyo.svg|thumb|125px|九曜紋]]
2012年現在、祭事に奉仕する供奉員は約40名。全員が小瀬地区在住者で構成される天津司の舞保存会の会員である<ref name="Kaicho">甲府市役所編、天津司の舞保存会、会長中澤栄一郎 (2012)、p.4</ref>。

供奉員は[[九曜#家紋|九曜星]]の[[紋所]]の入った[[白装束]]に、[[藍色]]または[[紫色]]の[[袴#馬乗り袴|馬乗袴]]を着け、[[白足袋]]に[[草履|藁草履]]を履く<ref>林貞夫(1956)、p.6</ref>。

伴奏([[祭囃子|お囃子]])に使用される[[楽器]]は、[[横笛]]3名、[[和太鼓|太鼓]]2名の5名で奏でられる<ref>山梨県文化財調査委員会編(1959)、pp.2-3</ref>。曲目は、御幸の際に奏でられる「お成りの曲」、お舞奉納前半に奏でられる「お舞いの曲」、お舞奉納後半で奏でられる「お狂いの曲」の3曲である。このうち「お成りの曲」はリズムが明瞭ではなく<ref>林貞夫(1956)、p.8</ref>、ゆったりとした横笛の旋律が奏でられた後に、太鼓が静かに叩かれる。「お舞の曲」では「お成りの曲」と、ほぼ同様の旋律と太鼓がゆっくりと繰り返されるが、「お狂いの曲」では明瞭なリズム、速いテンポで横笛と太鼓が同時に奏でられ、加えて供奉員一同が整然と手拍子を打つ<ref>甲府市役所編 (2012)、pp.3-4</ref>。

=== 神官お迎え・神事 ===
[[File:Starting the Tenzushi-shrine, Tenzushi-dolls.JPG|thumb|280px|天津司神社社殿内から担ぎ出される人形。]]
祭事当日の午前、天津司神社に集まった供奉員は、社殿内に安置されている9体の人形を取り出し、解体された状態の、笠、冠、首(顔)、胴体、四肢、楽器などを組み合わせ、衣装を着させ顔面を赤い布で覆い、これを順序良く社殿内に並列させる。この組み立て作業を「おからくり」と呼ぶ<ref name="Hozonkai"/>。

正午少し前に、鈴宮諏訪神社より[[衣冠束帯]]の[[神官]]3名を迎え、参列者一同神前で[[祓]]、[[祝詞]]を行い、[[お神酒]]をいただくと、供奉員によって9体の人形が社殿内から順番に担ぎ出される<ref name="Chosen">備仲臣道(1981)、pp.23-24</ref>。

=== 御幸 ===
社殿内から運び出された9体の人形は、顔面を赤い布で覆われたまま、神官の先導により行列をつくり、約1キロ南の鈴宮諏訪神社まで御幸される。この御幸の経路を御成道(おなりみち)と言い、以前は田圃の[[畦道]]であったが、前述したように昭和61年に小瀬スポーツ公園が造成されたことによって周辺の田圃はなくなり、今日では小瀬スポーツ公園内に設けられた御成道を御幸する。横笛と太鼓による御囃子「お成りの曲」が奏でられる中、9体の人形が供奉員に支えられながら高く差し上げられ鈴宮諏訪神社を目指す<ref name="Kofu City"/>。

=== 鈴の宮諏訪神社着 ===
[[File:9 of Tenzushi-mai dance dolls.JPG|thumb|280px|鈴宮諏訪神社に到着した9体の人形。左から一の御編木様、最右が鬼様。]]
鈴宮諏訪神社に到着した9体の人形は、社殿前に並びお祓いを受けると、境内に設けられた「御船囲い」と呼ばれる舞を奉納する円形の舞台内へ入るが、これを「お船入り」と呼ぶ。御船囲いは境内の南東に設けられており、高さ4尺の葉つき[[青竹]]を結いめぐらされた一種の[[竹矢来]]で、その内側に九曜星の定紋入りの白幕が円形に張られている<ref name="Bunkazai"/>。幕の高さは約2メートル、直径は約8メートルほどである<ref>備仲臣道(1981)、p.24</ref>。内部は極めて神聖視されており、見学者は御船囲いの外側から、幕の上縁に見え隠れする舞を観る仕組みになっている<ref name="Bunkazai"/>。

=== お舞奉納 ===
お舞奉納は天津司舞のメインとなる神事である。「お船入り」した9体の人形は、御船囲い内側の東側に飾られる。供奉員は中央に円陣をつくり、[[拍手 (神道)|かしわで]]を打って清めの式を行う。ここで全ての準備が整い、舞の奉納が始まる。供奉員は楽器を奏でる'''囃子方'''と、人形を操る'''遣い手'''に大別される<ref name="Bunkazai"/>。

ご神像(以下、人形)の顔は、木彫りに[[胡粉]]を塗ったものであるが、割れるのを防ぐために内部はくり抜かれている。胡粉が塗り直された人形もあるが、年月の経過により胡粉が剥落した人形もある。言い伝えによれば、かつて人形の胡粉を塗り替えたところ、村内に悪病がはやり、これを祟りだと云って恐れたことがあり、以後塗り替えは慎重に行われるようになったという<ref name="NingyoB">林貞夫(1956)、p.11</ref>。人形の胴体は2枚の[[分銅]]型の板で構成されており、人形の腹部と背中にこの板が使われている。腹部側と背中側の間は、板と棒によって支えられた箱型の空洞になっており、左右の側面は開いたままになっている。胴体上部の穴に丸い穴を開け、そこに頭部をはめ込み、腹部の板の裏側に棒が打ち付けられており、これを持って人形を高く差し上げる。人形の高さは約1.3メートルである。人形の手は胴体の上部などに取り付けられ、胴体内部に吊ってある紐と連動するよう繋がれている。遣い手は人形の衣装の裾から手を入れ、この紐を操ることによって人形の手を動かし、ささらを鳴らしたり、太鼓を叩く動作をさせる仕組みになっている<ref>備仲臣道(1981)、p.23</ref>。

舞は以下に示した順序に従い、御船囲いの内側を[[反時計回り]]に周回しながら行われ、2体1組で行われる舞が4回、1体のみで行われる舞が1回の、合計5回の舞が演じられる。舞の開始になり初めて各人形の顔を覆う赤い布は外される。各回とも舞の基本動作はほとんど同じで、最初の3周は「'''お舞'''」と呼ばれる静かな動作であるのに対して、4周目からは「'''お狂い'''」と呼ばれる動作も囃子のテンポも速くなる動作の激しい舞が3周行われる。周回しながら人形を幕の中に隠れたり、現れたり激しく上下する<ref name="Kofu City"/>。「お狂い」が終わると、再び静かな「お舞」が3周行われ、計9周したところで人形は退き、次の人形の舞に移っていく。舞の終わった人形は即座に赤い布で再び顔を覆われる<ref name="Chosen"/>。

==== 御編木様 ====
[[File:Tenzushi-mai venue for dance, OFUNEGAKOI.JPG|thumb|280px|御船囲いで演じられる天津司舞。場面は御姫様と鬼様の舞。[[九曜#家紋|九曜星]]の定紋入りの幕が張られる。]]
最初の舞は、一の御編木様、二の御編木様の2体で行われる。 御編木様の2体は頭に平笠をかぶり、両手に楽器'''ささら'''を持ち、表情は面長で鼻の下には[[ひげ]]をたくわえている。御編木様の持つ編木([[ささら#楽器|ささら]])は、別名'''びんささら'''とも言い、[[富山県]][[五箇山]]地方の[[民謡]]である、『こきりこ節』に用いる民俗楽器[[こきりこ|こきりこささら]]がよく知られており、多数の木片が紐で結びつけられ、両端にある取っ手を両手で伸縮、操作することで木片の摩擦音を出す、田楽特有の楽器である。天津司舞の御編木様2体が持つささらは、いずれも幅約3[[分 (数)|分]](ぶ)、長さ約3[[寸]]の木片が麻の紐でつづられている。びんささら全体の長さは約1[[尺]]5-6寸で、一の御編木様の木片は45枚、二の御編木様の木片は62枚である<ref name="NingyoA">林貞夫(1956)、p.10</ref>。御編木様を操る遣い手は1体につき3名。遣い手の操作で人形の手が動かされ、びんささらの音が鳴らされる<ref name="BunkazaiB">山梨県文化財調査委員会編 (1959)、p.3</ref>。
{| class="wikitable"
|-
|[[File:Tenzushi-mai Osasara-Sama B.JPG|220px]]
|[[File:Tenzushi-mai Osasara-Sama A.JPG|220px]]
|-
! 一の御編木様
! 二の御編木様
|}
==== 御太鼓様 ====
次の舞は、一の御太鼓様、二の御太鼓様の2体で行われる。表情は前2体とほぼ同様である。御太鼓様の2体も頭に平笠をかぶり、左手に直径約8寸、厚さ約2寸ほどの小太鼓を持ち、右手には太鼓を叩く[[撥|桴(ばち)]]を持つ。表情は御編木様とほぼ同様である<ref name="NingyoA"/>。御太鼓様を操る遣い手は1体につき3名。遣い手の操作で人形の手が動かされ、太鼓を叩く動作が行われる<ref name="BunkazaiB"/>。なお実際に人形の持つ楽器を鳴らすことができるのは、最初のささらのみで、この御太鼓様や次の御笛様、御鼓様などは演奏の動作をするのみである<ref name="Chosen"/>。
{| class="wikitable"
|-
|[[File:Tenzushi-mai Otaiko-Sama B.JPG|220px]]
|[[File:Tenzushi-mai Otaiko-Sama A.JPG|220px]]
|-
! 一の御太鼓様
! 二の御太鼓様
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==== 御鼓様・御笛様 ====
次の舞は、御鼓様、御笛様の2体で行われる。御鼓様も平笠をかぶり、右手に直径4-5寸、高さ約7寸の[[鼓|小鼓]]を持ち、左手を下にして舞いながら小鼓を打つ動作を行う。御笛様も平笠をかぶっているが、笠の頂部に韓風の飾りがつけられており、両手に長さ約1[[尺]]の[[明笛]](みんてき)を持って、吹奏する動作を行う。表情は前4体とほぼ同様である<ref>林貞夫(1956)、pp.10-11</ref>。御鼓様は3名の遣い手によって操られるが、御笛様の遣い手は1名である<ref name="BunkazaiB"/>。
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|[[File:Tenzushi-mai Otsuzumi-Sama.JPG|220px]]
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! 御鼓様
! 御笛様
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==== 御鹿島様 ====
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続いて行われる舞は、御鹿島様1体で行われる。衣装は前6体と同様のものであるが、表情はやや異なり、いわゆるエラ張り顎で武張って見える<ref name="ChosenC"/>。頭には[[烏帽子|引立烏帽]]をかぶり、金襴の[[鉢巻]]を締め、左右に大きく広げた両手に木製の[[小刀]]を持っている<ref name="NingyoB"/>。9体の中で最も大きな人形であるが、遣い手は1名である。舞の形式は他の人形と変わらないが、「お狂い」の際に、[[縁起物]]として木で作られた、人形と同じ数9本の小刀が幕の外に投げられ、見学者は競ってこの小刀を拾う<ref name="Kofu City"/>。
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! 御鹿島様
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==== 御姫様・鬼様 ====
[[File:Suzumiya-Suwa Shrine.JPG|thumb|280px|鈴宮諏訪神社を出発する天津司人形。]]
最後の舞は、御姫様と鬼様の2体で行われる。この2体は、ここまで演じられてきた人形とは、顔立ち、衣装とも大きく異なる。御姫様は下げ髪の頭に[[瓔珞|瑤珞]]の[[冠]]を載せ、右手に[[扇子]]を持ち、衣装は紅色の[[打掛]]姿である。鬼様は切り下げ髪の頭に、羽のある冠をかぶり、右手に[[払子]](ほっす)を持ち、[[白衣 (巡礼用品)|白衣]](びゃくい)の衣装である<ref name="BunkazaiB"/><ref name="NingyoB"/>。この2体は9体中、最も操るのが難しいと言われており<ref name="Kofu City"/>、2体とも遣い手は3名ないし4名で行われる。鬼様が御姫様を追いかける舞が繰り広げられる。
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|[[File:Tenzushi-mai Oni-Sama.JPG|220px]]
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! 御姫様
! 鬼様
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=== 還御 ===
[[File:Tenzushi-mai dance Omiyuki.JPG |thumb|280px|小瀬スポーツ公園内の御成道を御幸する天津司人形]]
御姫様と鬼様の舞が終わると、供奉員は再び中央に円陣をつくり、同様に[[拍手 (神道)|かしわで]]を打って式を閉じ、9体の人形は供奉員に担がれ、再び御成道を天津司神社まで還御する<ref name="BunkazaiB"/>。天津司神社へ戻った人形は、「おくずし」と呼ばれる作業によって、元の解体された姿に戻り神庫に格納され、再び天津司舞を奉納する翌年まで1年間の眠りにつく<ref name="Kofu City"/>。

== 保存活動 ==
重要無形民俗文化財に指定された1976年(昭和51年)に、小瀬町住民から構成される天津司の舞保存会が発足し、2012年現在の会員数は約40名。保存会の供奉員は発足当初は農業を営む者が多かったが、今日ではほとんどが会社員や自営業の男性であり、限られた時間の中で、舞の操りや、[[楽譜]]のない[[口伝]]による横笛など、お囃子の練習が行われ、毎年4月に行われる天津司舞祭典が守り継がれている<ref name="Kaicho"/>。

== 脚注・出典 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group=†}}
=== 出典 ===
<div class="references-small">{{reflist|2}}</div>


== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
* {{Cite book ja-jp | author = 甲府市役所編 | year = 2012年1月1日発行 | title = 広報こうふ 2012年1月号NO.672 特集「天津司の舞」 | publisher = 甲府市長室広報課}}
* 高山茂「祭りと芸能(2)季節ごとに行う芸能」『山梨県史民俗編』(2003)第三章第四節
* {{Cite book ja-jp | author = 高山茂 | year = 2003年 | title = 山梨県史民俗編 第三章第四節 祭りと芸能(2)季節ごとに行う芸能 | publisher =}}
* 影山正美「「天津司」小考」『甲斐』第124号、2011年
* 天津司の舞保存会天津司の舞」(1976):リーフレット
* {{Cite book ja-jp | author = 天津司の舞保存会編 | year = 1976年12月 | title = 重要無形文化財 天津司の舞 リーフレット | publisher =}}
* {{Cite book ja-jp | author = 林貞夫 | year = 1956年2月20日発行 | title = 天津司舞の研究 第一巻 | publisher = 文化人社}}
* {{Cite book ja-jp | author = [[備仲臣道]] | year = 1981年6月25日発行 | title = 日本のなかの朝鮮文化50号 「天津司の舞」 | publisher = 朝鮮文化社}}
* {{Cite book ja-jp | author = 山梨郷土研究会編、影山正美著 | year = 2011年7月14日発行 | title = 甲斐 第124号 「天津司」小考 | publisher = 又新社佐藤森三}}
* {{Cite book ja-jp | author = 山梨県文化財調査委員会編 | year = 1959年3月28日 | title = 第二回山梨県郷土芸能総合公演/昭和34年3月28日、[[山梨県民会館]]大ホールで開催された公演冊子| publisher = 発行所名不詳(記載なし)}}
* {{Cite book ja-jp | author = 山梨民俗の会編、[[大森義憲]]著 | year = 1957年8月1日発行 | title = 甲斐 第6号 「天津司舞の研究」 | publisher = [[サンニチ印刷]]}}


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
山梨県内で指定されている国の重要無形民俗文化財
*[[伝統芸能]]
*[[無生野の大念仏]] - ([[上野原市]])
*[[吉田の火祭り]] - ([[富士吉田市]])


== 外部リンク ==
{{DEFAULTSORT:てんすしまい}}
{{Commonscat|Tenzushi-mai dance}}
[[Category:山梨県の祭り]]
* {{国指定文化財等データベース|302|66|天津司舞}}
[[Category:甲府市]]
* {{文化遺産オンライン|160791}}
* [http://www.city.kofu.yamanashi.jp/senior/bunkazai/010.html 甲府市公式ホームページ-天津司(てんづし)の舞]
* [http://www.pref.yamanashi.jp/gakujutu/bunkazaihogo/minzokukaisetsu.html 山梨県公式ホームページ-主な文化財(民俗文化財)]
* [http://www.jtco.or.jp/japanese-culture/?act=detail&id=34&p=0&c=19 日本伝統文化振興機構(JTCO)- 天津司舞]

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[[Category:山梨県の祭り]]

2012年5月9日 (水) 07:20時点における版

天津司舞の御幸(2012年4月8日撮影)[† 1]

天津司舞(てんづしまい)、または天津司の舞(てんづしのまい)は[† 2]山梨県甲府市小瀬町の天津司神社に伝わる、等身大でできた9体の木造人形田楽舞を演じさせる、神事芸能伝統芸能である[1][2]。中世に起源を持つ傀儡田楽(くぐつでんがく)の一種であると考えられており、地元ではオテヅシさん、デッツクさんと呼ばれる。

田楽舞は日本各地の民俗芸能として一般的であるが、人形に演じさせる民俗は珍しく、1960年昭和35年)11月7日、山梨県指定無形文化財に指定され、国により1970年(昭和45年)6月8日に記録作成等の措置を講ずべき無形文化財として選択された[3]。さらに、1976年(昭和51年)5月4日には、文化財保護法の改正によって前年1975年(昭和50年)に制定された重要無形民俗文化財第1回指定(初回指定)を受けた。文化庁による指定種別は、民俗芸能・渡来芸・舞台芸である[1][4]

概要

Lua エラー モジュール:Location_map 内、547 行目: Location mapのモジュール「"Module:Location map/data/山梨県"」もしくはテンプレート「"Template:Location map 山梨県"」が作成されていません。 天津司舞の行われる甲府市小瀬町は、甲府盆地のほぼ中央部、甲府市南部の平坦地に位置しており、古くは西山梨郡山城村に属し、1954年(昭和29年)に甲府市に編入されている。小瀬地区のある旧山城村は、中世に開発された低湿地からなる稲作の盛んな一帯であったが、1971年(昭和46年)に甲府市街地を迂回する形で建設された国道20号甲府バイパスが開通したことにより[5]、小瀬町周辺は商業施設や宅地の開発が行われ、1986年(昭和61年)に開催されたかいじ国体のメイン会場として山梨県小瀬スポーツ公園が造成されるなど、近年急速に都市化の進んでいる地区である。

小瀬町内に鎮座する天津司神社には、神を模した9体の木造等身大人形が安置されており、1年に一度行われる祭典当日、9体の人形は赤布で顔を覆われた状態で天津司神社から、隣町の下鍛冶屋町に鎮座する鈴宮諏訪神社まで、約1キロの御成道(おなりみち、現在は一部小瀬スポーツ公園敷地内)を御幸(おみゆき)し、鈴宮諏訪神社境内に設けられた御船囲い(おふねがこい)と呼ばれる幕囲の内側で、田楽法師を模した人形が赤布の覆面を外し、ささら太鼓などを持ち田楽舞を行う。

稲作の耕作過程を模擬的に演じる民俗として田遊びがあり、山梨県では少女が模擬的な田植えを行う住吉神社(甲府市)の御田植祭などの事例があり、天津司舞は田楽囃子を人形が行う点が特異とされている。

天津司神社の社記によると「小瀬一帯が湖沼地帯であった頃に、12体の天津神が天から降りてきて舞をして遊んでいたが、そのうちの2神は天に帰り、1神は亡くなった。あとの9神の像を造って小瀬村の諏訪神社に祀ったのがはじまりである。」と伝承されている[6]

田楽舞いは各地の民俗芸能として一般的であるが人形に演じさせる民俗は珍しく、明治期から昭和初期にかけて、地理学者である小田内通敏[7]の『綜合郷土研究』における調査により注目され、大正期には若尾財閥三代目の若尾謹之助[8]により詳細な聞き取り調査が行われている。若尾謹之助は甲州財閥と呼ばれた明治期の実業家、初代甲府市市長でもあった若尾逸平の養子、民造の三男で、若尾財閥の三代目である一方で民衆文化に関心を持ち郷土研究を行った人物として知られる。若尾謹之助の調査を元にして大正5年に著された『甲斐志料集成、御祭礼及縁日』は、「若尾資料」とも呼ばれ、後述する江戸時代後期から長期間中断していた天津司舞の再現に欠かせない、今日の天津司舞の芸態を決定づけた重要な資料であると考えられている[9]

起源と語意

天津司舞は、文化年間(1810年頃)に編纂された『甲斐国志』や、嘉永年間(1850年頃)に編纂された、大森快庵『甲斐名所図絵』など近世期の地誌類に記載が見られ、江戸時代後期には上演が行われていたと考えられており、天津司神社および小瀬地区には下記の伝承が古くから言い伝えられている。

大森快庵『甲斐名所図絵』に描かれた天津司舞(嘉永年間1850年頃)
昔、小瀬の里が開けないころ、十二の神々が天から降り、湖上で舞楽を奉した。その後、二神が天に戻り、一神は西油川の鏡池に没した[† 3]
残る九神は舞楽を奉し続け、小瀬の里が開かれた。役人が神を模して神像を作り、これが天津司の舞の始まりとなった。 — 広報こうふ、天津司の舞[10]

舞の起源、由来については諸説あり、確定的なものはない。『甲斐国志』ならびに諏訪神社々記にも「その権輿を知らず」とあり[11]、文献から起源を明らかにするものは存在しないが、天津司神社々記には、「建久年間(1190年代)に、甲斐武田氏5代の武田五郎信光が、小瀬にあった諏訪神社社地に館を造るため、諏訪神社を下鍛冶屋の鈴宮神社境内に移し、諏訪神社に鎮座していた9体の神像(人形)も、移設した鈴宮神社に祀られるようになった。」とあることから、9体の人形は少なくとも建久年間には存在していたと考えられている。その後、大永2年(1522年)8月27日(旧暦)に、天津司神社が小瀬に造営されると、鈴宮にあった9体の神像(人形)は天津司神社の神庫に安置されるようになったため、舞を奉納する時は、天津司神社から鈴宮諏訪神社まで御幸するようになったと考えられている[10]

沿革と研究史

御幸出発の準備が行わている天津司神社

『甲斐国志』によれば、かつては旧暦7月19日に小瀬村17戸に限って天津司舞は行われており、他の家の者はこれに加わることは出来なかったと言われている[12]。天津司舞の祭事に関するもので、年号が確認できる古いものは貞享元年(1684年)にさかのぼり、神前で垣を1本ずつ結ぶ行為が甲府勤番から不浄という理由で差し止められ、以後70年ほど舞いが絶えたという伝承が残されている[13]。その後復活し、『甲斐名所図絵』などから、江戸後期には上演されていたと考えられているが、明治維新の頃を前後して再び途絶えてしまう[14]。ただし1898年明治31年)頃に、1度だけ復活しており、この時の奉納者(供奉員)の1人であったと考えられる小瀬在住の古老、山本権太郎による証言をまとめたものが、前述した「若尾資料」である。山本は幕末から明治維新期にかけ生きた小瀬地区在住の古老であり、証言の信憑性は高いものと考えられている[14]

明治31年以降、長らく途絶えていた天津司舞が次に行われたのは1937年昭和12年)4月10日であった[11]。これは1936年(昭和11年)に刊行された『山梨県綜合郷土研究』の発刊事業に携わっていた、小田内通敏[† 4]により復興の働きかけが行われたことによる[15][16]。小田内は『甲斐国志』、『甲斐名所図会』、「若尾資料」などの研究により、途絶していた天津司舞を復活させたが、これらの資料の中で芸態の再現の典拠となりえたものは、体験者の証言で作られた「若尾資料」であることは明らかであり、すなわち今日奉納される天津司舞の芸態は、山本権太郎の体験的記憶による近世最末期から明治期の天津司舞をベースにしたものであると考えられている[15]。その後太平洋戦争をはさみ一時中断した時期があったが、1954年(昭和29年)4月10日に再び復活し、2012年現在では4月10日直前の日曜日に、小瀬町住民から構成される天津司の舞保存会によって行われている[6][10]

また、2005年(平成17年)に開館した山梨県立博物館では常設展示のうち「水に取り組む」で天津司舞を再現し、紹介を行なっている。

天津司の語義と起源

赤い布で顔を隠された御笛様(左)と御鼓様(右)。御笛様の笠には朝鮮風の飾りが着けられている。

「天津司」の語義についても、起源同様さまざまな説があり未解明な部分が多い。『甲斐名所図絵』では「テグツ」の訛語化であるとし、「手傀儡」の意味であると考えられている。一方で、「天津司」を「デクズシ」と読み、「テグ」を人形(木偶)、「ズシ」を人形を収める「厨子」の意味と解する説もある[15]

傀儡(くぐつ)とは傀儡子とも書かれる、諸国を旅しながら芸能によって生計を営む旅芸人集団であり、平安時代9世紀)にはすでに存在していたと考えられている。傀儡子のなかでも操り人形人形劇を行うものを手傀儡(てくぐつ)と呼ぶ[17]

傀儡は現在の中国西域を起源とし、それが木製の人形を操る芸能へ進展し、朝鮮半島を経由して日本へ入ってきたものと考えられており、天津司の舞も、これら操り人形を生業とする傀儡子集団が放浪の旅の末、甲斐国土着の人々と融合し、そこに田楽の要素が加わった芸態と考える説がある。今日伝わる天津司舞人形の、衣装の裾から手を入れて高く差し上げて動かす形態や、人形の風貌や笠に付けた飾りなどが、朝鮮の「突っ込み人形」と呼ばれる人形劇に酷似しているとの指摘もある[18]

一方の田楽は、平安時代中期に成立した日本の伝統芸能と考えられているが、由来については傀儡同様「渡来のものである」など諸説あり、その由来には未解明の部分が多い。本来、傀儡と田楽は別のものであるにもかかわらず、この2つが合わさったものが天津司舞であり[19]、傀儡(人形)が田楽を舞う例は他には存在しないと言われている[11]。鈴宮、天津司2つの神社にまたがり、かつ長期の中断が数回あった天津司舞は、古い文献に乏しく、さまざまな見解が存在するが、起源も語義も確定的な見解は出ていない。

なお、人形は全部で9体、祭事全般に使用される定紋は九曜星、お舞奉納で各人形が周回する回数は9周であり、随所に9という数字が関連している。

祭典執行

天津司社殿に掲げられた天津司舞の予定表

天津司舞は、毎年4月10日直前の日曜日正午少し前頃より始まり、おおよそ14時過ぎまでの約2時間強をかけて執り行われる。

祭典執行の順序は以下とおり。

  1. 神官お迎え
  2. 神事
  3. 御幸
  4. 鈴の宮諏訪神社 着
  5. お舞奉納
  6. 還御

人形は以下の9体である。御幸の並び順、および舞を行う順序も以下の順である。このうち一の御編木様から 御笛様までの6体は楽器を持ち、7番目の御鹿島様までの7体は、単衣薄手の麻地で作られた[20]萌黄色の装束をまとっている。

  1. 一の御編木様(いちのおささらさま)
  2. 二の御編木様(にのおささらさま)
  3. 一の御太鼓様(いちのおたいこさま)
  4. 二の御太鼓様(にのおたいこさま)
  5. 御鼓様(おつづみさま)
  6. 御笛様(おふえさま)
  7. 御鹿島様(おかしまさま)
  8. 御姫様(おひめさま)
  9. 鬼様(おにさま)
全ての座標を示した地図 - OSM
全座標を出力 - KML

祭事の大まかな流れは、天津司神社(天津司神社の位置/地図)に安置されている9体の人形を、約1キロ南に離れた鈴宮諏訪神社(鈴宮諏訪神社の位置/地図)まで御成道(天津司舞御成道の中間地点/地図)を歩いて移動(御幸)し、鈴宮諏訪神社境内に設置された御船囲い(鈴宮諏訪神社境内御船囲いの位置/地図)の内側で奉納の舞いを行い、奉納終了後9体の人形は同じ道を戻り(還御)、天津司神社に再び安置する。

祭事に関する位置関係は右記の座標一覧を参照。

九曜紋

2012年現在、祭事に奉仕する供奉員は約40名。全員が小瀬地区在住者で構成される天津司の舞保存会の会員である[21]

供奉員は九曜星紋所の入った白装束に、藍色または紫色馬乗袴を着け、白足袋藁草履を履く[22]

伴奏(お囃子)に使用される楽器は、横笛3名、太鼓2名の5名で奏でられる[23]。曲目は、御幸の際に奏でられる「お成りの曲」、お舞奉納前半に奏でられる「お舞いの曲」、お舞奉納後半で奏でられる「お狂いの曲」の3曲である。このうち「お成りの曲」はリズムが明瞭ではなく[24]、ゆったりとした横笛の旋律が奏でられた後に、太鼓が静かに叩かれる。「お舞の曲」では「お成りの曲」と、ほぼ同様の旋律と太鼓がゆっくりと繰り返されるが、「お狂いの曲」では明瞭なリズム、速いテンポで横笛と太鼓が同時に奏でられ、加えて供奉員一同が整然と手拍子を打つ[25]

神官お迎え・神事

天津司神社社殿内から担ぎ出される人形。

祭事当日の午前、天津司神社に集まった供奉員は、社殿内に安置されている9体の人形を取り出し、解体された状態の、笠、冠、首(顔)、胴体、四肢、楽器などを組み合わせ、衣装を着させ顔面を赤い布で覆い、これを順序良く社殿内に並列させる。この組み立て作業を「おからくり」と呼ぶ[6]

正午少し前に、鈴宮諏訪神社より衣冠束帯神官3名を迎え、参列者一同神前で祝詞を行い、お神酒をいただくと、供奉員によって9体の人形が社殿内から順番に担ぎ出される[26]

御幸

社殿内から運び出された9体の人形は、顔面を赤い布で覆われたまま、神官の先導により行列をつくり、約1キロ南の鈴宮諏訪神社まで御幸される。この御幸の経路を御成道(おなりみち)と言い、以前は田圃の畦道であったが、前述したように昭和61年に小瀬スポーツ公園が造成されたことによって周辺の田圃はなくなり、今日では小瀬スポーツ公園内に設けられた御成道を御幸する。横笛と太鼓による御囃子「お成りの曲」が奏でられる中、9体の人形が供奉員に支えられながら高く差し上げられ鈴宮諏訪神社を目指す[10]

鈴の宮諏訪神社着

鈴宮諏訪神社に到着した9体の人形。左から一の御編木様、最右が鬼様。

鈴宮諏訪神社に到着した9体の人形は、社殿前に並びお祓いを受けると、境内に設けられた「御船囲い」と呼ばれる舞を奉納する円形の舞台内へ入るが、これを「お船入り」と呼ぶ。御船囲いは境内の南東に設けられており、高さ4尺の葉つき青竹を結いめぐらされた一種の竹矢来で、その内側に九曜星の定紋入りの白幕が円形に張られている[11]。幕の高さは約2メートル、直径は約8メートルほどである[27]。内部は極めて神聖視されており、見学者は御船囲いの外側から、幕の上縁に見え隠れする舞を観る仕組みになっている[11]

お舞奉納

お舞奉納は天津司舞のメインとなる神事である。「お船入り」した9体の人形は、御船囲い内側の東側に飾られる。供奉員は中央に円陣をつくり、かしわでを打って清めの式を行う。ここで全ての準備が整い、舞の奉納が始まる。供奉員は楽器を奏でる囃子方と、人形を操る遣い手に大別される[11]

ご神像(以下、人形)の顔は、木彫りに胡粉を塗ったものであるが、割れるのを防ぐために内部はくり抜かれている。胡粉が塗り直された人形もあるが、年月の経過により胡粉が剥落した人形もある。言い伝えによれば、かつて人形の胡粉を塗り替えたところ、村内に悪病がはやり、これを祟りだと云って恐れたことがあり、以後塗り替えは慎重に行われるようになったという[28]。人形の胴体は2枚の分銅型の板で構成されており、人形の腹部と背中にこの板が使われている。腹部側と背中側の間は、板と棒によって支えられた箱型の空洞になっており、左右の側面は開いたままになっている。胴体上部の穴に丸い穴を開け、そこに頭部をはめ込み、腹部の板の裏側に棒が打ち付けられており、これを持って人形を高く差し上げる。人形の高さは約1.3メートルである。人形の手は胴体の上部などに取り付けられ、胴体内部に吊ってある紐と連動するよう繋がれている。遣い手は人形の衣装の裾から手を入れ、この紐を操ることによって人形の手を動かし、ささらを鳴らしたり、太鼓を叩く動作をさせる仕組みになっている[29]

舞は以下に示した順序に従い、御船囲いの内側を反時計回りに周回しながら行われ、2体1組で行われる舞が4回、1体のみで行われる舞が1回の、合計5回の舞が演じられる。舞の開始になり初めて各人形の顔を覆う赤い布は外される。各回とも舞の基本動作はほとんど同じで、最初の3周は「お舞」と呼ばれる静かな動作であるのに対して、4周目からは「お狂い」と呼ばれる動作も囃子のテンポも速くなる動作の激しい舞が3周行われる。周回しながら人形を幕の中に隠れたり、現れたり激しく上下する[10]。「お狂い」が終わると、再び静かな「お舞」が3周行われ、計9周したところで人形は退き、次の人形の舞に移っていく。舞の終わった人形は即座に赤い布で再び顔を覆われる[26]

御編木様

御船囲いで演じられる天津司舞。場面は御姫様と鬼様の舞。九曜星の定紋入りの幕が張られる。

最初の舞は、一の御編木様、二の御編木様の2体で行われる。 御編木様の2体は頭に平笠をかぶり、両手に楽器ささらを持ち、表情は面長で鼻の下にはひげをたくわえている。御編木様の持つ編木(ささら)は、別名びんささらとも言い、富山県五箇山地方の民謡である、『こきりこ節』に用いる民俗楽器こきりこささらがよく知られており、多数の木片が紐で結びつけられ、両端にある取っ手を両手で伸縮、操作することで木片の摩擦音を出す、田楽特有の楽器である。天津司舞の御編木様2体が持つささらは、いずれも幅約3(ぶ)、長さ約3の木片が麻の紐でつづられている。びんささら全体の長さは約15-6寸で、一の御編木様の木片は45枚、二の御編木様の木片は62枚である[30]。御編木様を操る遣い手は1体につき3名。遣い手の操作で人形の手が動かされ、びんささらの音が鳴らされる[31]

一の御編木様 二の御編木様

御太鼓様

次の舞は、一の御太鼓様、二の御太鼓様の2体で行われる。表情は前2体とほぼ同様である。御太鼓様の2体も頭に平笠をかぶり、左手に直径約8寸、厚さ約2寸ほどの小太鼓を持ち、右手には太鼓を叩く桴(ばち)を持つ。表情は御編木様とほぼ同様である[30]。御太鼓様を操る遣い手は1体につき3名。遣い手の操作で人形の手が動かされ、太鼓を叩く動作が行われる[31]。なお実際に人形の持つ楽器を鳴らすことができるのは、最初のささらのみで、この御太鼓様や次の御笛様、御鼓様などは演奏の動作をするのみである[26]

一の御太鼓様 二の御太鼓様

御鼓様・御笛様

次の舞は、御鼓様、御笛様の2体で行われる。御鼓様も平笠をかぶり、右手に直径4-5寸、高さ約7寸の小鼓を持ち、左手を下にして舞いながら小鼓を打つ動作を行う。御笛様も平笠をかぶっているが、笠の頂部に韓風の飾りがつけられており、両手に長さ約1明笛(みんてき)を持って、吹奏する動作を行う。表情は前4体とほぼ同様である[32]。御鼓様は3名の遣い手によって操られるが、御笛様の遣い手は1名である[31]

御鼓様 御笛様

御鹿島様

御鹿島様の舞。

続いて行われる舞は、御鹿島様1体で行われる。衣装は前6体と同様のものであるが、表情はやや異なり、いわゆるエラ張り顎で武張って見える[19]。頭には引立烏帽をかぶり、金襴の鉢巻を締め、左右に大きく広げた両手に木製の小刀を持っている[28]。9体の中で最も大きな人形であるが、遣い手は1名である。舞の形式は他の人形と変わらないが、「お狂い」の際に、縁起物として木で作られた、人形と同じ数9本の小刀が幕の外に投げられ、見学者は競ってこの小刀を拾う[10]

御鹿島様

御姫様・鬼様

鈴宮諏訪神社を出発する天津司人形。

最後の舞は、御姫様と鬼様の2体で行われる。この2体は、ここまで演じられてきた人形とは、顔立ち、衣装とも大きく異なる。御姫様は下げ髪の頭に瑤珞を載せ、右手に扇子を持ち、衣装は紅色の打掛姿である。鬼様は切り下げ髪の頭に、羽のある冠をかぶり、右手に払子(ほっす)を持ち、白衣(びゃくい)の衣装である[31][28]。この2体は9体中、最も操るのが難しいと言われており[10]、2体とも遣い手は3名ないし4名で行われる。鬼様が御姫様を追いかける舞が繰り広げられる。

御姫様 鬼様

還御

小瀬スポーツ公園内の御成道を御幸する天津司人形

御姫様と鬼様の舞が終わると、供奉員は再び中央に円陣をつくり、同様にかしわでを打って式を閉じ、9体の人形は供奉員に担がれ、再び御成道を天津司神社まで還御する[31]。天津司神社へ戻った人形は、「おくずし」と呼ばれる作業によって、元の解体された姿に戻り神庫に格納され、再び天津司舞を奉納する翌年まで1年間の眠りにつく[10]

保存活動

重要無形民俗文化財に指定された1976年(昭和51年)に、小瀬町住民から構成される天津司の舞保存会が発足し、2012年現在の会員数は約40名。保存会の供奉員は発足当初は農業を営む者が多かったが、今日ではほとんどが会社員や自営業の男性であり、限られた時間の中で、舞の操りや、楽譜のない口伝による横笛など、お囃子の練習が行われ、毎年4月に行われる天津司舞祭典が守り継がれている[21]

脚注・出典

注釈

  1. ^ 祭事の画像はすべて2012年4月8日撮影。
  2. ^ 天津司の読み仮名は、文化庁サイトなどでは「てんし」とするものもあるが、現地での呼称および、地元の教育委員会監修により作成された甲府市公式ホームページ山梨県公式ホームページでは「てんし」と表記されることから、この記事では「てんづし」と表記する。
  3. ^ 西油川とは小瀬の東隣にある地名で、現在の甲府市西油川町に当たる。鏡池という池は現存せず、資料によっては池ではなく古井戸と記されるものもある。
  4. ^ 影山正美 (2011)では小田内通久、林貞夫(1956)では小田内道房と記述されている。

出典

  1. ^ a b 重要無形民俗文化財 – 天津司舞 - 国指定文化財等データベース(文化庁)2012年5月7日閲覧。
  2. ^ 文化遺産オンライン – 天津司舞2012年5月7日閲覧。
  3. ^ 記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財 – 天津司舞 - 国指定文化財等データベース(文化庁)2012年5月7日閲覧。
  4. ^ 山梨県主な文化財 (民俗文化財)山梨県ホームページ。2012年5月7日閲覧。
  5. ^ 山梨日日新聞社編 『山梨の20世紀』 甲府バイパスが一部開通、142-143ページ 2000年8月10日 第1刷発行 ISBN 4-89710-696-6
  6. ^ a b c 天津司の舞保存会編 (1976)
  7. ^ 小田内通敏-コトバンク2012年5月7日閲覧
  8. ^ 若尾謹之助-コトバンク2012年5月7日閲覧
  9. ^ 影山正美 (2011)、pp.45-46
  10. ^ a b c d e f g h 甲府市役所編 (2012)、p.3
  11. ^ a b c d e f 山梨県文化財調査委員会編 (1959)、p.2
  12. ^ 林貞夫(1956)、p.7
  13. ^ 大森義憲 (1957)、p.20
  14. ^ a b 影山正美 (2011)、p.46
  15. ^ a b c 影山正美 (2011)、pp.46-48
  16. ^ 林貞夫(1956)、p.5
  17. ^ 手傀儡-コトバンク2012年5月7日閲覧
  18. ^ 備仲臣道(1981)、p.27
  19. ^ a b 備仲臣道(1981)、p.25
  20. ^ 林貞夫(1956)、p.11
  21. ^ a b 甲府市役所編、天津司の舞保存会、会長中澤栄一郎 (2012)、p.4
  22. ^ 林貞夫(1956)、p.6
  23. ^ 山梨県文化財調査委員会編(1959)、pp.2-3
  24. ^ 林貞夫(1956)、p.8
  25. ^ 甲府市役所編 (2012)、pp.3-4
  26. ^ a b c 備仲臣道(1981)、pp.23-24
  27. ^ 備仲臣道(1981)、p.24
  28. ^ a b c 林貞夫(1956)、p.11
  29. ^ 備仲臣道(1981)、p.23
  30. ^ a b 林貞夫(1956)、p.10
  31. ^ a b c d e 山梨県文化財調査委員会編 (1959)、p.3
  32. ^ 林貞夫(1956)、pp.10-11

参考文献

  • 甲府市役所編、2012年1月1日発行、『広報こうふ 2012年1月号NO.672 特集「天津司の舞」』、甲府市長室広報課
  • 高山茂、2003年、『山梨県史民俗編 第三章第四節 祭りと芸能(2)季節ごとに行う芸能』
  • 天津司の舞保存会編、1976年12月、『重要無形文化財 天津司の舞 リーフレット』
  • 林貞夫、1956年2月20日発行、『天津司舞の研究 第一巻』、文化人社
  • 備仲臣道、1981年6月25日発行、『日本のなかの朝鮮文化50号 「天津司の舞」』、朝鮮文化社
  • 山梨郷土研究会編、影山正美著、2011年7月14日発行、『甲斐 第124号 「天津司」小考』、又新社佐藤森三
  • 山梨県文化財調査委員会編、1959年3月28日、『第二回山梨県郷土芸能総合公演/昭和34年3月28日、山梨県民会館大ホールで開催された公演冊子』、発行所名不詳(記載なし)
  • 山梨民俗の会編、大森義憲著、1957年8月1日発行、『甲斐 第6号 「天津司舞の研究」』、サンニチ印刷

関連項目

山梨県内で指定されている国の重要無形民俗文化財

外部リンク

座標: 北緯35度37分31.6秒 東経138度34分59.3秒 / 北緯35.625444度 東経138.583139度 / 35.625444; 138.583139