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[[Image:Flag of Free France 1940-1944.svg|300px|thumb|right|自由フランス旗]]
[[Image:Flag of Free France 1940-1944.svg|300px|thumb|right|自由フランス旗]]
'''自由フランス'''(じゆうフランス、'''France libre''')は、[[第二次世界大戦]]中に[[ナチス]]政権下の[[ドイツ]]による[[フランス]]占領に反対して戦っ抵抗運動([[レジスタンス動|レジスタンス]])である
'''自由フランス'''(じゆうフランス、'''France libre''')は、[[第二次世界大戦]]中に[[ナチスドイツ]]による[[フランス]]占領に反対して成立した[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]側の[[亡命政権]]。亡命フランス人による独自の[[自由フランス軍]](Forces Françaises Libres)を率いるとともに、[[フランスにおけるレジスタンス動|フランス国内のレジスタンス活動]]([[:en:French Resistance]])を支援した


== 概要 ==
== 概要 ==
{{フランスの歴史}}
{{フランスの歴史}}
===成り立ち===
===成り立ち===
[[1940年]]の[[ナチス・ドイツのフランス侵攻|ドイツの侵攻]]による[[パリ]]陥落後[[イギリス]]の[[ロンドン]]に[[亡命]]した[[シャルル・ド・ゴール]]将軍は、1940年[[6月18日]]にイギリスの[[英国放送協会|BBC]]放送を通じて歴史的な演説を行い、国内外のフランス人に対独抵抗運動を呼びかけた。同年6月28日に[[ィンストン・チャーチル]][[首相]]率いるイギリ[[政府]]は、[[コミュニケ]]を発表して承認した。
[[1940年]]の[[ナチス・ドイツのフランス侵攻|ドイツの侵攻]]による[[パリ]]陥落後の[[6月17日]]に[[イギリス]]の[[ロンドン]]に[[亡命]]した前国防次官[[シャルル・ド・ゴール]]将軍は、[[6月18日]]にイギリスの[[英国放送協会|BBC]]放送を通じて歴史的な演説([[:en:Appeal of 18 June]])を行い、国内外のフランス人に対独抵抗運動([[レジスタンス]])を呼びかけた。6月21日に[[リップ・ペタン]]率いるフランス政府はドイツに休戦を申し入れフランス南部を統治する[[ヴィシー政権]]となった。


6月23日、ド・ゴールは自らを代表とし、フランスの正統な政治的権威を持つ組織として「フランス国民委員会」([[:fr:Comité national français]])を設置した<ref>大井、771p</ref>。同委員会はイギリス国内にいるフランス人の指揮権・支配権を持つものと宣言した。同日、[[ウィンストン・チャーチル]][[首相]]率いるイギリス[[政府]]はヴィシー政権を否認するとともに、委員会設置を支持した。6月28日には[[コミュニケ]]を発表し、ド・ゴールを「連合諸国の理念の防衛のために彼に合流する全ての自由なフランス人の主席」として承認した<ref>大井、791p</ref>。ド・ゴールは政府の独立性を高めるため、イギリスからの資金援助はフランスの負債とし、将来返済するもの取り決めた<ref>児島、185p</ref>。
=== 植民地の対応 ===

=== 応 ===
[[File:Gaulle002.jpg|thumb|220px|left|[[チュニジア]]にて指揮を執るド・ゴール]]
[[File:Gaulle002.jpg|thumb|220px|left|[[チュニジア]]にて指揮を執るド・ゴール]]
[[メルセルケビール海戦]]などでフランス人の間に反英感情が高まったこともあり、当初は在外フランス人の間でも自由フランス支持の動きは鈍かった。7月の時点で自由フランスの指揮下にあったフランス軍人は7000名に過ぎなかった<ref>大井、774p</ref>。
これに呼応して1940年の秋には[[カメルーン]]、[[フランス領赤道アフリカ|仏領赤道アフリカ]]などのフランスの[[植民地]]がド・ゴールの下に結集し、後に[[ニューカレドニア]]、[[フランス領ポリネシア|仏領ポリネシア]]、[[ニューヘブリデス諸島]]、[[サンピエール島・ミクロン島]]なども参加した。


ただ[[アルジェリア]]、[[フランス領西アフリカ|仏領西アフリカ]]([[セネガル]]など)、[[マダガスカル]]、[[マルティニク]]、[[グアドループ]]、[[仏領ギアナ]]、[[シリア]]、[[レバノン]]などは親独的な[[フィリップ・ペタン]]率いる[[ヴィシー政権]]の影響下に留まり、ヴィシー政権(とドイツ政府の)の黙認の下1940年に[[日本軍]]が進駐した[[仏領インドシナ]]も同様であった。
しかし[[アルジェリア]]、[[フランス領西アフリカ|仏領西アフリカ]]([[セネガル]]など)、[[マダガスカル]]、[[マルティニク]]、[[グアドループ]]、[[仏領ギアナ]]、[[シリア]]、[[レバノン]]などはヴィシー政影響下、または中立に留まり、ヴィシー政権(とドイツ政府の)の黙認の下1940年に[[日本軍]]が進駐した[[仏領インドシナ]]も同様であった。


また諸外国におけるド・ゴールの知名度は皆無に等しく、自由フランスに関する動きはほとんど見られなかった。
===他国の対応===
このため[[アメリカ合衆国]]や[[中華民国]]などの他の[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]の一部は、イギリスとは異なり自由フランスを「正当なフランス政府」としては承認せず、当初はヴィシー政権を正当な「フランス政府」として承認した。なお、[[日本]]や[[イタリア]]、[[満州国]]などのドイツと同盟関係にある[[枢軸国]]は、ヴィシー政権を承認した。


== 歴史 ==
しかしフランス国内では、ヴィシー政権が次第に親ドイツ性を強めて行くにつれヴィシー政権を黙認するものが減り、反ドイツのレジスタンス運動が活発化していく事となる。その結果自由フランスを承認していなかった他の連合国も自由フランスを承認し、さらに[[1941年]]12月に第二次世界大戦に参戦しドイツと戦争状態に置かれたアメリカも、その後まもなくヴィシー政権と断交し自由フランスを承認した。

===活動===
[[File:B-26 Le Bourget 01.JPG|thumb|220px|left|アメリカから貸与された[[マーチン (航空機メーカー)|マーチン]][[B-26]]B爆撃機]]
[[File:B-26 Le Bourget 01.JPG|thumb|220px|left|アメリカから貸与された[[マーチン (航空機メーカー)|マーチン]][[B-26]]B爆撃機]]
自由フランスはフランス国内のフランス人に対独レジスタンスを呼びかけ、諜報作戦を行う一方、武装組織である[[自由フランス軍]](Forces Françaises Libres)を有して、イギリスやアメリカからの軍事物資の支援を受けて[[北アフリカ]]や[[シリア]]などで連合軍の作戦に参加した。
自由フランスは[[英国国営放送|BBC]]や独自の放送局からフランス国内のフランス人に対独レジスタンスを呼びかけ、[[フランス国内軍]]([[:en:French Forces of the Interior]])による諜報・妨害作戦を行った。主な傘下組織には[[マキ (抵抗運動)|マキ]]などがある。武装組織である自由フランス軍、イギリスやアメリカからの軍事物資の支援を受けて[[北アフリカ]]や[[シリア]]などで連合軍の作戦に参加した。


1940年9月には最初の軍事作戦として[[ダカール沖海戦]]に参加したが失敗した。10月27日にはコンゴの[[ブラザヴィル]]で「海外領土防衛協議会」設置を宣言し、海外植民地の結集を図った。フランスの植民地のうち[[カメルーン]]、[[フランス領赤道アフリカ|仏領赤道アフリカ]]などのフランスの[[植民地]]はこれに応じた。この際ド・ゴールはヴィシー政府を違憲であると批難し、新しい政府が戦争を指導しなければならないと宣言した<ref>大井、784p</ref>。イギリスはこの協議会を翌1941年1月6日に承認したが、いまだ自由フランスを政府として承認してはいなかった。
その勢力は、イギリスなど国外へ亡命したものを中心に当初8,000人程度に過ぎなかったが、次第に膨れ上がり、[[1944年]]には40万人に達した。また、[[アルゼンチン]]や[[ウルグアイ]]などからの亡命者を中心とした義勇軍も参加した。


[[独ソ戦]]が始まると自由フランスは[[ソビエト連邦]]に外交攻勢を掛け、関係を深めた。9月17日に自由フランスは国民委員会を「内閣に相当するもの」と宣言した。9月26日にはソ連がド・ゴールを承認し、10月16日以降、ロンドンにあった他の連合国亡命政府は次々に国民委員会を承認した。11月26日にはイギリスも「連合諸国の原理の支持のために『自由フランス』に参加する全ての自由なフランス人の代表」として承認した。またアメリカも自由フランスを「[[レンドリース法]]」の事実上の対象として武器援助を開始した<ref>大井、792p</ref>。
同年の[[ノルマンディー上陸作戦]]には、他の[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]軍とともに[[フィリップ・ルクレール]][[将軍]]指揮下の自由フランス第2機甲師団が参加し、[[パリ]]一番乗りを飾った。


=== 米英との軋轢 ===
[[パリ解放]]後の1944年9月にパリで「フランス臨時政府」が成立し、ド・ゴールが臨時政府首相に就任したことによって、自由フランスは発展的に解消した。
しかし自由フランスの「独裁者」であったド・ゴールは尊大な態度で要求を貫いたために連合国間での評判が悪く、「[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]]」や「[[ルイ14世 (フランス王)|ルイ14世]]」気取りの俗物に例えられた<ref>[[ウェンデル・L・ウィルキー]]の発言、児島、198p</ref>。12月24日に自由フランス海軍は無断で[[西インド諸島]]の[[フランス領アンティル]]を占拠し、実効支配下に置いた。アンティルの総督はアメリカとの間に中立協定を結んでおり、激怒した[[コーデル・ハル]]国務長官は退去を要求した<ref>大井、792p</ref>。しかし軍事作戦上の都合から、1942年4月に自由フランスの支配権は認められた。この事件はド・ゴールに対する連合国の印象をさらに悪化させ、4月1日にド・ゴールが自由フランス政府の承認を要求する声明を出しても英米両国は承認しなかった。5月5日には米英が無断で仏領[[マダガスカル]]に上陸作戦を行い([[マダガスカルの戦い]])、同島の総督に中立化を求める計画を立てた。ド・ゴールは激しく抗議し、5月14日にはマダガスカルを自由フランスの統治下に置くという決定を引き出した。チャーチルはド・ゴールに腹を立て、マダガスカルからの自由フランス追放を希望するほどだった<ref>大井、794p</ref>。

一方でアメリカは5月21日には自由フランスを「フランスの抵抗を代表する機関」として承認し、正式なレンドリースの対象とした。また6月には自由フランスの実効支配地域における行動では国民委員会と協議するという覚書をイギリスに送り、イギリス政府もこれに同意した<ref>大井、878p</ref>。

=== フランス国民解放委員会 ===
1942年6月に米英軍はヴィシー政権の支配下にある[[フランス領北アフリカ]]に上陸する計画を立てた。この上陸作戦は自由フランスに通知せず、ヴィシー政権軍司令官[[フランソワ・ダルラン]]大将と交渉した上で上陸し、反ド・ゴール感情が強いフランス領植民地の支配には[[アンリ・ジロー]]大将を起用することにした。連合国軍が11月8日より上陸を開始すると([[トーチ作戦]])、ダルランはヴィシー政権軍を降伏させ、連合国の支持を得た上で「北アフリカにおけるフランス国家元首兼陸海軍総司令官」に就任したと宣言した。ダルランは自由フランスの協力を拒否し<ref>大井、904p</ref>、自らの政権を固めようとした。自由フランス側は政権の危機が来たと感じ取り、「フランスの政府は一つ」であるという宣伝活動を行った。12月24日にダルランは暗殺され、ジローが連合軍に任命された「北アフリカの軍民最高司令官」として北アフリカの指揮権を引き継いだ。ジローはアルジェに海外領土協議会を置き、連合国の間では二つの政府の統合が問題となった。

1943年1月15日から23日にかけてチャーチル首相と[[フランクリン・ルーズベルト]]大統領は[[カサブランカ会談]]に臨んだ。この会談でド・ゴールとジローの政府を統合する交渉が行われたが、調停は不調に終わった。ジローの支持者であった<ref>大井、917p</ref>ルーズベルトはド・ゴールの頑なな態度に、「フランスはド・ゴール抜きでも解放される」と警告した<ref name="kojima203">児島、203p</ref>。チャーチルも「彼との関係を断絶する」と口走るほどだった<ref>大井、921p</ref>。しかし自由フランスの宣伝が功を奏し、北アフリカやフランス国内でもド・ゴール人気が高まりつつあった。5月1日に[[アルジェ]]で行われた[[メーデー]]ではド・ゴール支持の声が挙げられ、5月7日にフランス国内で設立されたレジスタンス組織[[全国抵抗評議会]]はド・ゴールが唯一の指導者であると声明した<ref name="kojima203"/>。

6月3日にはド・ゴールとジローを共同議長とする[[フランス国民解放委員会]]([[:en:French Committee of National Liberation|en]]、CFNL)が結成された。この委員会はフランスの中央政権を称し、全フランス軍の指揮権を持つと宣言した。これをうけてイタリア上陸作戦を計画していた連合国軍は、北アフリカのフランス軍に対する連合国軍[[地中海作戦戦域]]司令部の指揮権を確認した。ド・ゴールはフランス軍は委員会の指揮下にあると回答し、ジローにも連合国と委員会の二者択一を迫り、委員会を選ばせた<ref>児島、204-205p</ref>。8月23日に委員会は「交戦団体」として米英ソによって承認され、11月にはド・ゴールが唯一の代表となった。ルーズベルト大統領は落胆し、[[テヘラン会談]]でもド・ゴールが嫌いだとソ連側に明言するほどだった<ref>大井、921p</ref>。しかし戦後体制における米ソの二巨頭体制を牽制する必要があると考えたイギリスにより、フランスは大国の一つとして再建されることが定められた。またソ連側の要請で、1944年にはフランスに上陸して第二戦線を築くことが合意された。

=== フランス共和国臨時政府 ===
[[1944年]]の段階で[[アルゼンチン]]や[[ウルグアイ]]などからの亡命者を中心とした義勇軍も参加し、自由フランス軍のへ威力は40万人に達した。また、[[ポーランド亡命政府]]に資金を返還するなど他の亡命政権の援助を表明し、政府としての「既成事実」作りを開始した<ref>児島、205-206p</ref>。4月9日にはジローがフランス軍総司令官から解任され、アメリカは委員会をフランス政府としては承認しないことを確認した<ref>大井、978p</ref>。

5月26日には国民解放委員会をド・ゴールが主席となる「[[フランス共和国臨時政府]]」に改組する布告を発表し、イギリスに承認を迫った<ref>児島、207p</ref>。チャーチルはド・ゴールの強引な姿勢に不快感を抱き「アメリカとフランスのどちらかを選ばなければならない場合にはアメリカを選ぶ」と叫んだ<ref>大井、981p</ref><ref>児島、208-209p</ref>。ただし外相[[アンソニー・イーデン]]はド・ゴールに好意的であり、ド・ゴールの地位を承認するよう閣議に働きかけている<ref>大井、981-982p</ref>。しかし正式な承認は行われなかった。

6月からは[[ノルマンディー上陸作戦]]が開始される予定であったが、連合国首脳はその際にド・ゴールに呼びかけさせてフランス国内への工作を行おうとした。6月5日、チャーチルとアイゼンハワー、そしてド・ゴールの間で会談が行われたが、ド・ゴールは臨時政府の承認を執拗に要求した。6月6日の上陸作戦開始にあわせて行われたBBCによる連合国首脳の放送では、各国の元首に続いてアイゼンハワー、その次にド・ゴールの演説が行われた。この放送でフランス人に対して「フランス政府およびその指導者」のみに従うよう求め、連合国などという言葉は一切発しなかった<ref>児島、209p</ref>。この上陸作戦には[[フィリップ・ルクレール]][[将軍]]指揮下の自由フランス第二機甲師団が参加している。

=== パリの解放、帰国 ===
フランスに橋頭堡を築いた連合国軍首脳は、ドイツ軍の強力な抵抗が見込まれるとして、[[パリ]]の解放を急がず一部部隊による包囲に留める方針をとることにした<ref>児島、210p</ref>。当時パリでは[[ディートリヒ・フォン・コルティッツ]]将軍率いるパリ防衛ドイツ軍と、レジスタンス組織「[[フランス国内軍]]」(FTI、[[:en:French Forces of the Interior|en]])がにらみ合っており、[[スウェーデン]]公使の仲介で休戦状態にあった。ド・ゴールはパリ解放優先を強硬に主張し、連合軍が向かわない場合は指揮下の自由フランス軍を離脱させてパリに向かわせるとアイゼンハワーに告げた<ref>児島、212p</ref>。さらに8月21日にはルクレール将軍に連絡し、第二機甲師団をパリに向かわせるよう命令した<ref>児島襄「第二次世界大戦 ヒトラーの戦い」、第七巻、267p</ref>。しかし翌8月22日、連合国軍にフランス国内軍から「パリのドイツ軍が退却したが、8月23日に休戦期限が切れて攻撃を開始する。」という連絡が入った。アイゼンハワーは方針を転換し、[[第1軍 (アメリカ軍)|第1軍]][[第5軍団 (アメリカ軍)|第5軍団]]を向かわせる事にした。しかしフランス国内軍の連絡はド・ゴール側近の工作であり、事実ではなかった<ref name="kojima213">児島、213p</ref>。第5軍団司令官[[レオナルド・ジロー]]([[:en:Leonard T. Gerow|en]])少将はパリ入城はルクレールの第二機甲師団に与えるよう命令した<ref name="kojima213"/>。第二機甲軍団はドイツ軍の抵抗と「フランス人の激しい歓迎」によって大幅に遅れたが、8月24日午後11時55分に偵察隊をパリに入城させた<ref>児島襄「第二次世界大戦 ヒトラーの戦い」、第七巻、280p</ref>。翌25日にコルティッツは降伏文書に署名したが、その相手となるルクレールの肩書きは「フランス共和国臨時政府パリ軍政司令官」であった。これは第二次世界大戦におけるドイツ軍の降伏文書で、相手が連合国軍ではない唯一のものであった<ref>児島、214p</ref>。同日の夕刻、ド・ゴールもパリに入城した。以降、臨時政府は名実ともにフランス政府としての活動を行うこととなった。


== シンボル ==
== シンボル ==
自由フランスのシンボルは「[[ロレーヌ十字]]」で、旗として使用されただけでなく、ペンダントや指輪にデザインされ秘密の会合の際の目印として使われもした。
自由フランスのシンボルは「[[ロレーヌ十字]]」で、旗として使用されただけでなく、ペンダントや指輪にデザインされ秘密の会合の際の目印として使われもした。

== 参考文献 ==
* [[大井孝]]『欧州の国際関係 1919-1946』( [[たちばな出版]]、 2008年)ISBN 978-4813321811
* [[児島襄]]『誤算の論理』([[文春文庫]]、1990年) ISBN 4-16-714134-5

== 脚注 ==
{{reflist}}


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==

2011年3月4日 (金) 12:10時点における版

自由フランス旗

自由フランス(じゆうフランス、France libre)は、第二次世界大戦中にナチス・ドイツによるフランス占領に反対して成立した連合国側の亡命政権。亡命フランス人による独自の自由フランス軍(Forces Françaises Libres)を率いるとともに、フランス国内のレジスタンス活動en:French Resistance)を支援した。

概要

フランスの歴史
フランス国章
この記事はシリーズの一部です。
先史時代フランス語版英語版
年表

フランス ポータル

成り立ち

1940年ドイツの侵攻によるパリ陥落後の6月17日イギリスロンドン亡命した前国防次官シャルル・ド・ゴール将軍は、6月18日にはイギリスのBBC放送を通じて歴史的な演説(en:Appeal of 18 June)を行い、国内外のフランス人に対独抵抗運動(レジスタンス)を呼びかけた。6月21日にフィリップ・ペタン率いるフランス政府はドイツに休戦を申し入れ、フランス南部を統治するヴィシー政権となった。

6月23日、ド・ゴールは自らを代表とし、フランスの正統な政治的権威を持つ組織として「フランス国民委員会」(fr:Comité national français)を設置した[1]。同委員会はイギリス国内にいるフランス人の指揮権・支配権を持つものと宣言した。同日、ウィンストン・チャーチル首相率いるイギリス政府はヴィシー政権を否認するとともに、委員会設置を支持した。6月28日にはコミュニケを発表し、ド・ゴールを「連合諸国の理念の防衛のために彼に合流する全ての自由なフランス人の主席」として承認した[2]。ド・ゴールは政府の独立性を高めるため、イギリスからの資金援助はフランスの負債とし、将来返済するもの取り決めた[3]

反応

チュニジアにて指揮を執るド・ゴール

メルセルケビール海戦などでフランス人の間に反英感情が高まったこともあり、当初は在外フランス人の間でも自由フランス支持の動きは鈍かった。7月の時点で自由フランスの指揮下にあったフランス軍人は7000名に過ぎなかった[4]

しかしアルジェリア仏領西アフリカセネガルなど)、マダガスカルマルティニクグアドループ仏領ギアナシリアレバノンなどはヴィシー政府影響下、または中立に留まり、ヴィシー政権(とドイツ政府の)の黙認の下1940年に日本軍が進駐した仏領インドシナも同様であった。

また諸外国におけるド・ゴールの知名度は皆無に等しく、自由フランスに関する動きはほとんど見られなかった。

歴史

アメリカから貸与されたマーチンB-26B爆撃機

自由フランスはBBCや独自の放送局からフランス国内のフランス人に対独レジスタンスを呼びかけ、フランス国内軍en:French Forces of the Interior)による諜報・妨害作戦を行った。主な傘下組織にはマキなどがある。武装組織である自由フランス軍は、イギリスやアメリカからの軍事物資の支援を受けて北アフリカシリアなどで連合軍の作戦に参加した。

1940年9月には最初の軍事作戦としてダカール沖海戦に参加したが失敗した。10月27日にはコンゴのブラザヴィルで「海外領土防衛協議会」設置を宣言し、海外植民地の結集を図った。フランスの植民地のうちカメルーン仏領赤道アフリカなどのフランスの植民地はこれに応じた。この際ド・ゴールはヴィシー政府を違憲であると批難し、新しい政府が戦争を指導しなければならないと宣言した[5]。イギリスはこの協議会を翌1941年1月6日に承認したが、いまだ自由フランスを政府として承認してはいなかった。

独ソ戦が始まると自由フランスはソビエト連邦に外交攻勢を掛け、関係を深めた。9月17日に自由フランスは国民委員会を「内閣に相当するもの」と宣言した。9月26日にはソ連がド・ゴールを承認し、10月16日以降、ロンドンにあった他の連合国亡命政府は次々に国民委員会を承認した。11月26日にはイギリスも「連合諸国の原理の支持のために『自由フランス』に参加する全ての自由なフランス人の代表」として承認した。またアメリカも自由フランスを「レンドリース法」の事実上の対象として武器援助を開始した[6]

米英との軋轢

しかし自由フランスの「独裁者」であったド・ゴールは尊大な態度で要求を貫いたために連合国間での評判が悪く、「ナポレオン」や「ルイ14世」気取りの俗物に例えられた[7]。12月24日に自由フランス海軍は無断で西インド諸島フランス領アンティルを占拠し、実効支配下に置いた。アンティルの総督はアメリカとの間に中立協定を結んでおり、激怒したコーデル・ハル国務長官は退去を要求した[8]。しかし軍事作戦上の都合から、1942年4月に自由フランスの支配権は認められた。この事件はド・ゴールに対する連合国の印象をさらに悪化させ、4月1日にド・ゴールが自由フランス政府の承認を要求する声明を出しても英米両国は承認しなかった。5月5日には米英が無断で仏領マダガスカルに上陸作戦を行い(マダガスカルの戦い)、同島の総督に中立化を求める計画を立てた。ド・ゴールは激しく抗議し、5月14日にはマダガスカルを自由フランスの統治下に置くという決定を引き出した。チャーチルはド・ゴールに腹を立て、マダガスカルからの自由フランス追放を希望するほどだった[9]

一方でアメリカは5月21日には自由フランスを「フランスの抵抗を代表する機関」として承認し、正式なレンドリースの対象とした。また6月には自由フランスの実効支配地域における行動では国民委員会と協議するという覚書をイギリスに送り、イギリス政府もこれに同意した[10]

フランス国民解放委員会

1942年6月に米英軍はヴィシー政権の支配下にあるフランス領北アフリカに上陸する計画を立てた。この上陸作戦は自由フランスに通知せず、ヴィシー政権軍司令官フランソワ・ダルラン大将と交渉した上で上陸し、反ド・ゴール感情が強いフランス領植民地の支配にはアンリ・ジロー大将を起用することにした。連合国軍が11月8日より上陸を開始すると(トーチ作戦)、ダルランはヴィシー政権軍を降伏させ、連合国の支持を得た上で「北アフリカにおけるフランス国家元首兼陸海軍総司令官」に就任したと宣言した。ダルランは自由フランスの協力を拒否し[11]、自らの政権を固めようとした。自由フランス側は政権の危機が来たと感じ取り、「フランスの政府は一つ」であるという宣伝活動を行った。12月24日にダルランは暗殺され、ジローが連合軍に任命された「北アフリカの軍民最高司令官」として北アフリカの指揮権を引き継いだ。ジローはアルジェに海外領土協議会を置き、連合国の間では二つの政府の統合が問題となった。

1943年1月15日から23日にかけてチャーチル首相とフランクリン・ルーズベルト大統領はカサブランカ会談に臨んだ。この会談でド・ゴールとジローの政府を統合する交渉が行われたが、調停は不調に終わった。ジローの支持者であった[12]ルーズベルトはド・ゴールの頑なな態度に、「フランスはド・ゴール抜きでも解放される」と警告した[13]。チャーチルも「彼との関係を断絶する」と口走るほどだった[14]。しかし自由フランスの宣伝が功を奏し、北アフリカやフランス国内でもド・ゴール人気が高まりつつあった。5月1日にアルジェで行われたメーデーではド・ゴール支持の声が挙げられ、5月7日にフランス国内で設立されたレジスタンス組織全国抵抗評議会はド・ゴールが唯一の指導者であると声明した[13]

6月3日にはド・ゴールとジローを共同議長とするフランス国民解放委員会en、CFNL)が結成された。この委員会はフランスの中央政権を称し、全フランス軍の指揮権を持つと宣言した。これをうけてイタリア上陸作戦を計画していた連合国軍は、北アフリカのフランス軍に対する連合国軍地中海作戦戦域司令部の指揮権を確認した。ド・ゴールはフランス軍は委員会の指揮下にあると回答し、ジローにも連合国と委員会の二者択一を迫り、委員会を選ばせた[15]。8月23日に委員会は「交戦団体」として米英ソによって承認され、11月にはド・ゴールが唯一の代表となった。ルーズベルト大統領は落胆し、テヘラン会談でもド・ゴールが嫌いだとソ連側に明言するほどだった[16]。しかし戦後体制における米ソの二巨頭体制を牽制する必要があると考えたイギリスにより、フランスは大国の一つとして再建されることが定められた。またソ連側の要請で、1944年にはフランスに上陸して第二戦線を築くことが合意された。

フランス共和国臨時政府

1944年の段階でアルゼンチンウルグアイなどからの亡命者を中心とした義勇軍も参加し、自由フランス軍のへ威力は40万人に達した。また、ポーランド亡命政府に資金を返還するなど他の亡命政権の援助を表明し、政府としての「既成事実」作りを開始した[17]。4月9日にはジローがフランス軍総司令官から解任され、アメリカは委員会をフランス政府としては承認しないことを確認した[18]

5月26日には国民解放委員会をド・ゴールが主席となる「フランス共和国臨時政府」に改組する布告を発表し、イギリスに承認を迫った[19]。チャーチルはド・ゴールの強引な姿勢に不快感を抱き「アメリカとフランスのどちらかを選ばなければならない場合にはアメリカを選ぶ」と叫んだ[20][21]。ただし外相アンソニー・イーデンはド・ゴールに好意的であり、ド・ゴールの地位を承認するよう閣議に働きかけている[22]。しかし正式な承認は行われなかった。

6月からはノルマンディー上陸作戦が開始される予定であったが、連合国首脳はその際にド・ゴールに呼びかけさせてフランス国内への工作を行おうとした。6月5日、チャーチルとアイゼンハワー、そしてド・ゴールの間で会談が行われたが、ド・ゴールは臨時政府の承認を執拗に要求した。6月6日の上陸作戦開始にあわせて行われたBBCによる連合国首脳の放送では、各国の元首に続いてアイゼンハワー、その次にド・ゴールの演説が行われた。この放送でフランス人に対して「フランス政府およびその指導者」のみに従うよう求め、連合国などという言葉は一切発しなかった[23]。この上陸作戦にはフィリップ・ルクレール将軍指揮下の自由フランス第二機甲師団が参加している。

パリの解放、帰国

フランスに橋頭堡を築いた連合国軍首脳は、ドイツ軍の強力な抵抗が見込まれるとして、パリの解放を急がず一部部隊による包囲に留める方針をとることにした[24]。当時パリではディートリヒ・フォン・コルティッツ将軍率いるパリ防衛ドイツ軍と、レジスタンス組織「フランス国内軍」(FTI、en)がにらみ合っており、スウェーデン公使の仲介で休戦状態にあった。ド・ゴールはパリ解放優先を強硬に主張し、連合軍が向かわない場合は指揮下の自由フランス軍を離脱させてパリに向かわせるとアイゼンハワーに告げた[25]。さらに8月21日にはルクレール将軍に連絡し、第二機甲師団をパリに向かわせるよう命令した[26]。しかし翌8月22日、連合国軍にフランス国内軍から「パリのドイツ軍が退却したが、8月23日に休戦期限が切れて攻撃を開始する。」という連絡が入った。アイゼンハワーは方針を転換し、第1軍第5軍団を向かわせる事にした。しかしフランス国内軍の連絡はド・ゴール側近の工作であり、事実ではなかった[27]。第5軍団司令官レオナルド・ジロー(en)少将はパリ入城はルクレールの第二機甲師団に与えるよう命令した[27]。第二機甲軍団はドイツ軍の抵抗と「フランス人の激しい歓迎」によって大幅に遅れたが、8月24日午後11時55分に偵察隊をパリに入城させた[28]。翌25日にコルティッツは降伏文書に署名したが、その相手となるルクレールの肩書きは「フランス共和国臨時政府パリ軍政司令官」であった。これは第二次世界大戦におけるドイツ軍の降伏文書で、相手が連合国軍ではない唯一のものであった[29]。同日の夕刻、ド・ゴールもパリに入城した。以降、臨時政府は名実ともにフランス政府としての活動を行うこととなった。

シンボル

自由フランスのシンボルは「ロレーヌ十字」で、旗として使用されただけでなく、ペンダントや指輪にデザインされ秘密の会合の際の目印として使われもした。

参考文献

脚注

  1. ^ 大井、771p
  2. ^ 大井、791p
  3. ^ 児島、185p
  4. ^ 大井、774p
  5. ^ 大井、784p
  6. ^ 大井、792p
  7. ^ ウェンデル・L・ウィルキーの発言、児島、198p
  8. ^ 大井、792p
  9. ^ 大井、794p
  10. ^ 大井、878p
  11. ^ 大井、904p
  12. ^ 大井、917p
  13. ^ a b 児島、203p
  14. ^ 大井、921p
  15. ^ 児島、204-205p
  16. ^ 大井、921p
  17. ^ 児島、205-206p
  18. ^ 大井、978p
  19. ^ 児島、207p
  20. ^ 大井、981p
  21. ^ 児島、208-209p
  22. ^ 大井、981-982p
  23. ^ 児島、209p
  24. ^ 児島、210p
  25. ^ 児島、212p
  26. ^ 児島襄「第二次世界大戦 ヒトラーの戦い」、第七巻、267p
  27. ^ a b 児島、213p
  28. ^ 児島襄「第二次世界大戦 ヒトラーの戦い」、第七巻、280p
  29. ^ 児島、214p

関連項目