淮安市

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索
中華人民共和国 江蘇省 淮安市
淮安府大堂
淮安府大堂
旧称:淮陰
江蘇省中の淮安市の位置
江蘇省中の淮安市の位置
中心座標 北緯33度30分 東経119度8分 / 北緯33.500度 東経119.133度 / 33.500; 119.133
簡体字 淮安
繁体字 淮安
拼音 Huáiān
カタカナ転写 ホァイアン
国家 中華人民共和国の旗 中華人民共和国
江蘇
行政級別 地級市
市委書記 劉永忠
市長代理 高雪坤
面積
総面積 10,072 km²
市区 3,171 km²
人口
総人口(2007) 534 万人
経済
GDP(2008) 916 億元
一人あたりGDP 18,900元
電話番号 0517
郵便番号 (市区):223000, 223200, 223300

(外県):211600, 211700, 223100, 223400

ナンバープレート 蘇H
行政区画代碼 320800
公式ウェブサイト http://www.huaian.gov.cn
漕運総督衙門の建物
鎮淮楼
清江浦・大閘口
淮安市中心部
勺湖
淮安の夜景

淮安市(わいあん-し)は中華人民共和国江蘇省の中西部に位置する地級市2001年以前は淮陰市(わいいん-し)と称されており、同名の淮安市は県級市として淮陰市管轄とされていた(詳細は淮安区を参照)。淮河の流域にあり、淮河水系の中国第4位の淡水湖・洪沢湖が西部に広がる。

淮安出身の有名人には大軍事家韓信のほか、文人の陳琳枚乗、『西遊記』の著者・呉承恩、清末期の学者・小説家で『老残遊記』の著者・劉鶚、清代の名医・呉鞠通、清末期の武将でアヘン戦争で討ち死にした関天培、中華人民共和国初代総理であった周恩来らがいる。

明清、朝廷は南河総督と漕運総督を置き、この時期に淮安は水上交通・物流・製塩業の中心地として繁栄の絶頂に達し、揚州蘇州杭州と並ぶ大運河上の四大都市の一つと呼ばれていた。

地理[編集]

淮安は江蘇省中西部に位置し、西北は宿遷市に、北は連雲港市に、東は塩城市に、東南は揚州市に、西南は安徽省滁州市に接する。

淮安市の大部分は淮河流域の平野で、地勢はきわめて平坦である。盱眙県の域内に若干の丘陵地帯が存在する。

また淮安市には河川や湖沼が非常に多い。主要な河川・運河は、京杭大運河淮河、蘇北灌漑総渠などがある。淮河はかつて淮安から東の黄海へと流れていたが、黄河の流路が南へ移り淮河の流路を乗っ取ったために淮河は溢れ出して南の長江へと流れるようになった。このときあふれた水で形成されたのが、淮安西部の市境に広がる中国第4位の大きさの湖・洪沢湖である。淮河の氾濫を防ぐため、中華人民共和国は蘇北灌漑総渠を建設し、再び淮河の水の一部を黄海へ流している。

歴史[編集]

淮安の歴史は淮河(淮水)と切り離せない。伝説では、大禹は淮水の治水を行い永く安定させたという。代には淮安県が置かれ、現在の淮安市に至る2000年の歴史の始まりとなった。また、淮陰県(現在の碼頭鎮の東南)、盱眙県、東陽県(現在の盱眙県馬壩)もこの時期に設置されている。淮陰城は当時は泗水が淮水に合流する地点の正面にあり、東には淮水と長江を結ぶ運河の基点があったため、水上交通の要地となっていた。

漢代には劉邦を補佐して前漢建国に大きく貢献した韓信のほか、前漢の辞賦家の枚乗、枚皋、後漢文人で建安七子のひとり陳琳を輩出ている。

行政区画としては東晋により設置された山陽郡を前身とする。隋代になると592年開皇2年)に山陽郡は廃止され、新たに楚州が設置された。隋朝による大運河の建設は華北と江南の物流幹線を形成し、淮安で淮河などの河川と交差したため、淮安は経済的に大きな発展を遂げている。唐代になると621年武徳4年)に東楚州とされたが、625年(武徳8年)には再び楚州とされた。宋代になると1228年紹定元年)に淮安軍の軍治、現代には1283年至元20年)に淮安路の路治とされている。

清代になると淮安は治水漕運、製塩行政の中心地とされ南河総督漕運総督が設置され、水運と製塩により最盛期を迎えた。淮安府と河下鎮、板閘鎮、清江浦の各都市を連絡する大都市群が形成され、淮安は揚州蘇州杭州と並ぶ大運河上の「四大都市」と呼ばれるまでになる。

明代の淮安府は、現在の江蘇省の長江以北にあったわずか2箇所の「府」のうちのひとつで、その管轄範囲は黄海沿岸から内陸の広い範囲にわたり、現在の淮安市、塩城市宿遷市連雲港市および徐州市東部に及んだ。清代になると海州直隸州(現在の連雲港市)が分離、さらに徐州市付近に徐州府が新設されたため行政範囲は縮小した。当時の淮安府は山陽県(現在の淮安区)、清河県(現在の淮陰区)、安東県(現在の漣水県)、桃源県(現在の宿遷市泗陽県)、塩城県(現在の塩城市)、阜寧県(山陽県の東部に新設、現在の塩城市阜寧県)の6県を管轄した。1761年には清河県城が洪水で破壊され、山陽県の清江浦鎮を清河県の新たな県治とした。

中華民国が建国されると、1914年民国3年)に行政区画改変が行われ管轄県名の改称とともに、府級行政組織が廃止され淮揚道が設置された。清江浦は淮揚道の道治となり、これ以後淮安府城に代わり行政の中心地を形成した。1937年(民国26年)に勃発した日中戦争では江蘇省政府が鎮江から淮陰に疎開したが、1939年(民国28年)3月には日本軍により占領された。1945年(民国34年)に中華民国政府が実効支配権を回復すると清江市が設置されている。1948年(民国37年)に両淮市と改称されたが、国共内戦の混乱によりまもなく廃止された。

中華人民共和国[編集]

1948年(民国37年)12月、淮海戦役により人民解放軍が淮陰及び淮安地方を実効支配に置くと、1949年(民国38年)4月21日蘇北行政公署の下に淮陰専区が新設され、淮陰・淮宝・泗陽・沭陽・灌雲・宿遷・睢寧・新安・邳睢・漣水の10県を管轄した。1951年、淮陰県城地域を分割し清江市を設置、地区公署が設置されている。1953年1月には江蘇省が復活し、淮陰専区はその下に置かれるようになる。

以後、1950年代には隣接の徐州専区などとの間で管轄換えや県の分割・廃止などが相次いだ。1971年の時点で、淮陰地区は清江市および12の県(灌雲・灌南・沭陽・宿遷・泗陽・漣水・淮陰・淮安・洪沢・泗洪・盱眙・金湖)を管轄した。

1983年には清江市は淮陰市と改名し地級市に昇格した。旧清江市は清河区と清浦区になり、淮陰地区は淮陰市に吸収された。1987年には宿遷県と淮安県が県級市となっている。

1996年には宿遷市が地級市に昇格し、沭陽県・泗陽県・泗洪県とともに淮陰市から分離した。灌雲県および灌南県は連雲港市に移り、淮陰市は淮陰県・漣水県・金湖県・洪澤県・盱眙県の5県および淮安市、清河区、清浦区を管轄するようになった。

2000年12月21日、淮陰市は淮安市に改名された。中心はそのままもとの清江市・淮陰市のあった清河区に置かれ、もとの淮安市は楚州区に、もとの淮陰県は淮陰区に改められた。2012年には楚州区は淮安区に改名されている。

行政区画[編集]

4市轄区・3県を管轄する。

淮安市の地図

歴史沿革 [1]

淮安市の境界線は古淮河の両岸に跨って、噂によると、大禹は曾て当境界に洪水を治まりに来て、「淮水を永く安定にしている」そうで、市名は、つまり淮水安定という意味である。5、6千年前に、市境内に祖先の活動跡があり、そして、歴史に記載されている「青蓮崗文化」を残してきた。

夏・商・周の時代

市境界はすでにかなり開発されて、「交通・灌漑の良さは全国一」、長江、淮水を繋ぐ邗溝(つまり淮揚運河)もあり、南北に通じる

上道路道―-善道もあったので、春秋戦国の列強の争奪していた重要地区になって、相前後して呉、越、楚国に占有されていた。

秦・漢の時代

秦は6か国を統一した後、郡県制を推進した。市境界内に、県を設立し始め、淮陰(現在淮陰区碼頭鎮)、シュイイー(現在、シュイイー県城北)、東陽(現在シュイイー県馬ハ)があった。前漢の年代に、市境界内に、また淮浦(現在漣水県の西)、射陽(現在楚州区の南東)、富陵(現在洪沢湖の中)などの県を追加設立した。

魏・晋・南北朝の時代

市境界内は長期にわたり戦争と対峙の最前線にあった。南斉永明7年(西暦489年)に、直凟、破釜以東を割り、淮陰鎮の100戸の平民を淮安県に入居させて、「淮安」と名付け始められた。

隋・唐・五代の時代

境界内は長期にわたり安定していて、隋の大業年代に、洛陽~揚州の河川輸送(皇族の食糧を供給する河川輸送)要路――大運河は開通されて、境界内は河川輸送の重要な要路になっていた。隋から清朝の末まで、朝廷はずっと淮安に政府機関を設置してきて、河川輸送を管理するように高官を任命・派遣していた。唐の初期に、漣水は全国四大の天日製塩場の一つになっていた。淮安の塩を運送・販売するために、垂拱年代に、塩運送の川を開通して、淮安の塩運送事業は、また盛んになった。楚州(現在の楚州淮城)、泗県州(現在のシュイイー県城の向こう岸)は運河沿線の二つの名城になっていた。

宋・元の時代

北宋の時代では、境界内は比較的に安定していて、河川輸送、塩輸送は一層発展してきた。南宋と金・元朝の対峙時期に、市境界は再び最前線になって、戦争の長期にわたる害毒を被った。黄河の淮水奪いによった頻繁な水害のため、市境界は災難が重なって、さらに不景気になってしまった。宋・元の時代では、安定していて、境界内の文化はある程度の発展を取って、府、州、県はあまねく学校を創立して、教育を受けた者は増えてきた。 

明・清の時代

境界内に、淮安府を設立した。明の永楽時代に、淮安の河川輸送はまた盛んになり、清江浦は興り始めた。清江浦河を軸心とする二淮都市は、河川輸送、塩輸送、河川工事、税関、郵便局の中心になっていて、最盛期に入り、揚州、蘇州、杭州と共に、運河沿線の「四大都市」とされていた。 

民国の時代

淮安府が撤去されて、市境界の大部分は淮揚道に帰属し始め、その後、淮陰行政監察区に帰属した。ここの中国共産党の党組織は1927年に創立された。日中戦争と解放戦争の時期に、境界内は重要な根拠地と解放区になっていて、中国共産党中央華中局、新四軍軍部、中国共産党中央華中支局、華中軍区、江蘇・安徽辺区政府などは、みんなここに駐在したことがある。1948年12月に、市境界全体は解放された。1949年5月に、淮陰専区は設立された。 

建国後

何回もの調整を経て、1971年に現在の市境界は属淮陰専区に全部帰属した。1983年に、淮陰専区は淮陰市に変更された。1987年に、管轄する淮安、宿遷は、県級市に変更された。1996年8月に、宿遷、泗陽、シュ陽、泗洪という4つの県(市)は淮陰市から分離されて、地級宿遷市を創立され、また、灌南県は連雲港市に編入されている。2001年2月に、淮陰市は淮安市と改名され、元の県級淮安市は淮安市楚州区に変更され、元の淮陰県は淮安市淮陰区に変更されている。 

近現代[編集]

  • 1952年11月15日 - 江蘇省の成立により、蘇北行署区淮陰専区が江蘇省淮陰専区となる。(1市9県)
  • 1953年3月6日 - 新沂県・睢寧県・邳睢県が徐州専区に編入。(1市6県)
  • 1953年11月16日 - 沭陽県の一部が徐州専区東海県に編入。(1市6県)
  • 1954年6月21日 (1市6県)
    • 淮陰県の一部(新興郷の一部)が塩城専区淮安県に編入。
    • 塩城専区淮安県の一部(蘇秦郷・立生郷の各一部)が淮陰県に編入。
  • 1954年8月27日 - 淮陰県の一部が泗陽県・沭陽県に分割編入。(1市6県)
  • 1954年8月30日 - 塩城専区淮安県を編入。(1市7県)
  • 1955年2月21日 - 安徽省滁県専区盱眙県、宿県専区泗洪県を編入。(1市9県)
  • 1956年4月3日 - 泗洪県・淮陰県・盱眙県・泗陽県の各一部が合併し、洪沢県が発足。(1市10県)
  • 1956年7月5日 - 泗陽県の一部が宿遷県に編入。(1市10県)
  • 1956年7月12日 - 漣水県の一部が灌雲県に編入。(1市10県)
  • 1956年7月25日 (1市10県)
    • 清江市の一部(王営鎮)が淮陰県に編入。
    • 淮陰県の一部(機場郷・鉢池郷・太平郷・韓荘郷)が清江市に編入。
  • 1957年3月14日 - 淮安県・淮陰県の各一部が洪沢県に編入。(1市10県)
  • 1957年4月9日 - 泗洪県の一部が洪沢県に編入。(1市10県)
  • 1957年5月 - 塩城専区阜寧県の一部が淮安県に編入。(1市10県)
  • 1957年7月10日 - 灌雲県・漣水県の各一部が合併し、新安行政弁事処が発足。(1市10県1弁事処)
  • 1957年11月29日 - 新安行政弁事処が県制施行し、灌南県となる。(1市11県)
  • 1957年12月 (1市11県)
    • 淮安県の一部が塩城専区阜寧県に編入。
    • 淮陰県の一部が清江市に編入。
  • 1958年9月5日 (1市10県)
    • 淮陰県が清江市に編入。
    • 清江市が淮陰市に改称。
  • 1958年12月12日 - 徐州専区新海連市の一部が灌雲県に編入。(1市10県)
  • 1960年1月4日 - 徐州専区新海連市の一部が灌雲県に編入。(1市10県)
  • 1964年8月18日 - 淮陰市が清江市に改称。(1市10県)
  • 1964年10月31日 - 清江市の一部が分立し、淮陰県が発足。(1市11県)
  • 1964年11月16日 - 淮安県の一部が洪沢県に編入。(1市11県)
  • 1965年9月3日 - 灌南県の一部が塩城専区浜海県に編入。(1市11県)
  • 1966年3月5日 - 盱眙県が六合専区に編入。(1市10県)
  • 1970年 - 淮陰専区が淮陰地区に改称。(1市10県)
  • 1971年2月22日 - 六合地区盱眙県金湖県を編入。(1市12県)
  • 1972年11月 (1市12県)
    • 淮陰県の一部(城南公社・鉢池公社)が清江市に編入。
    • 清江市の一部(淮海公社および郊区公社の一部)が淮陰県に編入。
  • 1983年1月18日
    • 清江市が地級市の淮陰市に昇格。
    • 灌雲県が連雲港市に編入。
    • 淮陰県・沭陽県・洪沢県・灌南県・泗洪県・漣水県・宿遷県・淮安県・金湖県・盱眙県・泗陽県が淮陰市に編入。

淮陰市[編集]

  • 1983年1月18日 - 淮陰地区清江市が地級市の淮陰市に昇格。(1市11県)
  • 1983年2月19日 - 清浦区清河区を設置。(2区11県)
  • 1983年7月5日 - 淮陰県・淮安県の各一部が清浦区に編入。(2区11県)
  • 1985年12月4日 (2区11県)
    • 洪沢県・泗洪県の各一部が盱眙県に編入。
    • 洪沢県の一部が泗洪県・泗陽県に分割編入。
    • 淮陰県の一部が洪沢県に編入。
  • 1987年12月15日 - 宿遷県が市制施行し、宿遷市となる。(2区1市10県)
  • 1987年12月22日 - 淮安県が市制施行し、淮安市となる。(2区2市9県)
  • 1996年7月19日 (2区1市5県)
    • 宿遷市が地級市の宿遷市に昇格。
    • 沭陽県・泗陽県・泗洪県が宿遷市に編入。
    • 灌南県が連雲港市に編入。
  • 2000年12月21日 - 淮陰市が淮安市に改称。

淮安市[編集]

  • 2000年12月21日 - 淮陰市が淮安市に改称。(4区4県)
    • 淮安市が区制施行し、楚州区となる。
    • 淮陰県が区制施行し、淮陰区となる。
  • 2011年12月30日 - 楚州区が淮安区に改称。(4区4県)
  • 2016年6月8日 (4区3県)
    • 清河区・清浦区が合併し、清江浦区が発足。
    • 洪沢県が区制施行し、洪沢区となる。

経済[編集]

[2]淮安の工業は新四軍の4社の随軍工場からスタートして、50年代初の創業段階、70年代の調整段階と改革開放以降の高速飛躍段階を経た。とりわけ、「十一の5ヶ年計画」以降、ずっと「新型工業化は何より」という方策を堅持して、主導産業のハイエンド化、従来産業のブランド化、新興産業の大規模化を加速して、長江デルタ北部地区の先進制造業基地への邁進を速くしている。  「十の五ヶ年計画」の期間中、全市の工業経済は急速に増加していた。5年間で、投入資金は2276億元で、組織・実施された億元以上のプロジェクトは846件あり、フォックスコンテクノポリス、淮陰タバコ工場技術改良などのプロジェクトは竣工して生産開始した。2010年に、全市の規模以上の工業企業は2419社に達し、販売収入を2392億元達成し、49.9%増加して、淮鋼、フォックスコンは販売高が百億元以上。特殊鋼、IT、塩化学工業新素材という三大主導産業は、大体の形ができていて、新エネルギー、新医薬などの新興産業は迅速に発展している。 現在、全市の工業は、種類がそろっていて、特種鋼、塩化学工業、電子情報、食品、省エネ・環境保全という五大主導産業を、機械、紡織、軽工業、建築材料という四大伝統産業を、新材料、新エネルギー、新医薬、ソフトウェアと情報サービス業という四大戦略的新興産業を特色として40余りの業界と110の大種類製品をオーバーする新しい構造を形成している。  101%満足のサービスブランドと効率高くて便利な施設は、淮安工業の飛躍的な発展のために、信頼できる保証と強靱な支えを提供している。淮安は長江デルタ経済圏に溶け込むことを加速していて、「運河経済」から「海河経済」へ邁進している。生命力あふれた新型工業化基地は急速に上昇していて、更に豊かで美しい幸福な江蘇省北部の重要な中心都市は私達へ歩いているところである。 

大手鉄鋼メーカー・江蘇沙鋼集団(沙鋼)の傘下にある特殊鋼メーカー・江蘇沙鋼集団淮安特鋼有限公司(淮安特鋼)が本拠を置く。2000年以後、韓国資本のハンコックタイヤ台湾資本のフォックスコン(富士康)、達方電子、宏盛箱包などの企業が淮安に投資し、台湾資本の新たな集中地域となっている。2007年には全市のGDPは2745億元、一人当たりGDPは56575元(9065ドル)に達した。経済総生産と一人当たり平均は全省第11位である。

交通[編集]

航空

鉄道

路面電車

道路

文化[編集]

文通塔

淮安市での宗教施設および信徒数では、キリスト教が800箇所・信徒数18万と優位にある。仏教(40箇所、信徒数4万)、イスラム教(5箇所、信徒数6,000人)が続く。著名な仏教寺院には慈雲寺、聞思寺などがある。

淮安出身の有名人には韓信(淮陰侯)のほか、文人の陳琳枚乗、明代の小説家で『西遊記』の著者・呉承恩、清末期の学者・小説家で『老残遊記』の著者・劉鶚、清代の名医・呉鞠通、清末期の武将でアヘン戦争で討ち死にした関天培、中華人民共和国総理であった周恩来らがいる。

中国歴史文化名城に指定されている淮安は観光都市としても知られているほか、江蘇料理の一つで淡水魚の料理などが有名な淮揚料理(淮揚菜)の本場として、また淮劇や淮書などの本場としても知られる。主な観光地には大運河や漕運総督衙門の跡地、鎮淮楼、文通塔、清晏園、缽池山公園、勺湖などがある。また周恩来の旧居と周恩来紀念館や、明の朱元璋が祖先を葬った明祖陵もある。

[3]美食の里

詩的なような淮揚料理 「東南一の味」--中国飲食文化の大集成

史料によると、淮揚料理の美食文化の歴史は、早くとも6、7千年前に 遡ることができるという。楚州区青蓮崗文化遺跡(新石器時代)で出土された文化財には、飲食用陶器はかなりの割合を占めていて、その時の人々の飲食がすでにわりに高いレベルに達していたと示している。とりわけ、京杭大運河の開通、明・清時代の河川輸送、塩輸送の発展、運河都市の地理位置の優位の確立は、淮安の経済社会に前例のない繁栄を得るようにして、極めて大きく淮揚美食文化の発展を推進して、だんだん独自の特色を持つ淮揚料理を形成してきた。統計によると、現在、世に存在している淮安の有名な料理・有名な軽食は1300種余りがあって、その中、淮安地区の独創、創始したのは400種以上ある。 

淮揚料理の歴史文化の沈積は深くて厚い。淮揚料理大家の呉明千氏は何度も「淮揚料理は文人料理です」とおいう観点を強調していて、淮揚料理の文化内包は中国飲食文化の大集成にもなっている。 

文学は淮揚料理に介入して、漢の枚乗から、唐の李白、劉禹錫、高駢、宋の黄庭堅、秦観、陸遊、司馬光、梅尭臣、晁補之、元朝の喬吉、呉師道などまで、みんな淮揚を吟詠する佳作が多くあった。文人の介入は更に清朝の半ばに淮揚料理淮がピークへ発展する触媒になっている。現在、我々が鑑賞できる清朝の食史吟詠、食材吟詠、料理吟詠、宴会吟詠、料理腕前吟詠、料理店吟詠、食俗吟詠、飲食話吟詠の詩文は少なくとも200篇以上ある。詩は淮揚料理の格調を一層高雅にして、大幅に文化的品位を高めた。唐の大詩人李白は、淮陰を通る時に、淮揚美食の「黄鶏の酒煮」を食べたあと、「淮陰書懐・寄王宗成」という詩を書いた。その中、「暝投淮陰宿、欣得漂母迎。斗酒烹黄鶏、一餐感素誠。予為楚壮士、不是鲁諸生。有德必報之、千金恥為軽。」と吟詠された。 

伝承中で革新――歴史文化と現代文明はお互いに輝き合う         淮揚美食文化を発揚して普及させ、淮揚料理の生命力、革新力と影響力を増強して、力と影響力を革新して、歴史文化と現代文明をお互いに輝き合わせるには、淮安は当たり前の責任を担当している。         淮揚料理の生命力は庶民の大衆に根を下ろしている。淮揚料理の生命力の発展過程は郷土化、文人化から貴族化、豪奢化まで、最後に再び高レベルから元に復帰する伝奇を作っている。「庶民創造」はその大きな特徴としている。都市ごとに一度の淮安・中国淮揚料理美食文化祭も、ますます庶民の参与をも重視してきて、例えば、家庭料理腕前比べテレビ大会、有名なコックへの淮揚料理学びなどのイベントを行わった。事実は、庶民大衆が淮揚料理の発展の源だと証明している。この源の流水を十分にくみ取るには、美食文化祭の1ヶ月の時間だけで、結構ではないが、日常化、制度化をも必要とするのである。 

淮揚料理の革新力は淮安大地に根を下ろしている。「料理は善し悪しがないが、常に食べると、必ず飽きる」という諺のように、いくらうまい料理でも、いつもそのいくつかだけだったら、食べて飽きることがあるに違いない。淮揚料理の革新発展はもちろん、更に長所を取って短所を補う必要があるが、肝心なことは、やはり淮安大地に根を下ろさなくてはならない。「清淮大沢湧魚虾、丘原膏壤競物華」というように、淮安地方は掘り出すことのできる貴重な資源に富んでいる。うれしいことに、ここ数年来、淮安は多くの淮揚料理を新しく出して、2004年に全省革新料理認定において、我が市は50種の料理を江蘇新料理と認定され、2009年に91種の有名な料理、14テーブルの宴席を江蘇名料理大典に並べられている。 

淮揚料理の影響力は市場経済に根を下ろしている。我が市はすでに「淮揚料理通用規範」を起草・発表して、淮揚料理の定義、分類、構成と制作技術などを規範にして、特色料理の味が統一的で、材料選定が厳格で、食材使用が規範的で、質・量が共に保証されることをやり遂げように努めて、淮揚料理のために標準化の生産根拠を提供する。すでに国内最大の料理系博物館――中国淮揚料理文化博物館を建てられて、淮揚美食文化を保護、伝承及び 発揚する研究基地と展示ウィンドウを作り上げた。近代的な経営パターンを導入し、もっと多くの淮揚料理名店を育み、既存資源によって、もっと多くの淮揚料理名コックを育て、市場経済の大潮の助けを借りて、本当に淮揚料理が世界で有名になるようにしている。 

平橋豆腐

淮安平橋鎮の平橋豆腐は、淮揚料理精髄の手本の一つである。当料理の特徴は二つある。1つは、フナ脳とニワトリスープで味加減をすることで、もう一つは、料理完成品がテーブルに並べられた後に、油脂が少し付いて熱気がなさそうに見えるが、実はとても熱いということである。

文楼湯包

文楼湯包は、その餡が全部スープで作られて、大きくて皮薄いが、破れないで、スープが口いっぱいであるが、溢れない。その皮は澄み透って、その餡はカニのみそ、ニワトリのスープ、ニワトリの丁、三段肉、エビなどの20種類の原料に作られて、味がうまい。それはその澄み透り、柔らかさ、新鮮さで、国内外に人気がたくさんある。 

軟兜長魚

軟兜長魚は淮揚料理の伝統的な料理である。当料理は筆軸の太さほどの小さいタウナギを選んで使用して、背中の肉を取り、油鍋内で強い火で9分熟するまで焼いて、三十秒後にすくい取り、その後、お湯に入れて少し浸して、それから、熱油匙でさくさくと揚げ、すくい取った後、油を濾してさらに盛る。できた後、色合いが黄黒くて、新鮮で脆くて、柔らかで爽やかな口当りがあって、ニンニクの香り、酢の香り、微かな白コショウの香りという三大特徴がある。 

外部リンク[編集]

中国地名の変遷
建置 晋代
使用状況 淮安市
東晋十六国 山陽郡
南北朝 山陽郡
楚州
東楚州
楚州
五代 楚州
北宋/ 楚州
南宋/ 淮安軍
淮安路
淮安府
淮安府
中華民国 淮揚道
国共内戦期間 清江市(1945年)
両淮市(1948年)
廃止(1948年)
現代 清江市(1951年)
淮陰市(1958年)
清江市(1964年)
淮陰市(1983年)
淮安市(2000年)
  1. ^ http://www.huaian.gov.cn/jp/jp5.html
  2. ^ http://www.huaian.gov.cn/jp/jp3.html
  3. ^ http://www.huaian.gov.cn/jp/jp5.html