小野木源次郎

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小野木 源次郎
Onogi Genjiro.jpg
生誕 1854年12月17日
陸奥国若松
死没 (1925-09-11) 1925年9月11日(70歳没)
東京府下落合
出身校 藩校日新館
職業 若松市長
信濃電気社長
警察官

小野木 源次郎(おのぎ げんじろう、安政元年10月28日1854年12月17日)- 大正14年(1925年9月11日)は、日本の武士警察官政治家である。会津藩藩士として戊辰戦争を戦い、梅香崎警察署長としては長崎事件に際会した。信濃電気社長、第五代若松市長

生涯[編集]

経歴[編集]

会津若松城下で歴世の会津松平家家臣であった小野木家[注 1]に生まれる。戊辰戦争では白河方面に出陣し負傷した[1]。戦後高田藩で謹慎生活を送ったのち斗南に移り、明治7年(1874年)に会津へ戻っている。小野木は警察官として日本各地に勤務し、警務長(静岡県[2])、警部長、警察部長たる事務官を歴任している[1][注 2]。また陸軍省内務省にも勤務経験がある[3]。明治40年(1907年)に退官して信濃電気社長に就任し、同社の発展に尽力[3]。大正元年(1912年)12月には松本時正の後継として若松市長に就任し、一期務めた。小野木は幼少期から文武に優れ、完全主義者[3]、また古武士[1]とも評された人柄であった。正五位勲四等[3]会津会会員[1]、墓所は飯盛山に設けられた[1]

長崎事件[編集]

小野木が長崎県梅香崎警察署長であった際、清国水兵と日本の警察官との間で衝突が起きた。小野木は清国領事に事態を通報し、また水上警察署長と協力して交通を遮断した[4]。梅香崎署、長崎署の署員は清国水兵と争闘におよび、清国側死者4名、負傷者46名、日本側死者2名、負傷者29名が出た。そのうち、小野木の部下である梅香崎署員からは死者1名、負傷者17名を出した[4][注 3]

栄典[編集]

脚注[編集]

注釈
  1. ^ 小野木姓の会津藩出身者には陸軍大学校卒業生の小野木四郎砲兵大佐(稚松会会員)がおり、引退生活を同じく下落合で過ごしているが関係は不明。
  2. ^ 階級については日本の警察官#階級の変遷を参照
  3. ^ 当時の長崎県知事日下義雄で、小野木が日下に提出した上申書は伊藤博文文書に収められている。
出典
  1. ^ a b c d e 『会津会雑誌第27号』「小野木源次郎氏の逝去」
  2. ^ 各府県警務長”. JACAR Ref.C06040197000、「明治37.8年 陸軍凱旋観兵式書類3 凱旋祝賀会参列者」(防衛省防衛研究所). 2014年7月8日閲覧。
  3. ^ a b c d 『日本の歴代市長』(第一巻)「小野木源次郎」
  4. ^ a b 『日下義雄伝』146-147頁
  5. ^ 『官報』第7337号「叙任及辞令」1907年12月11日。

参考文献[編集]

  • 会津会『会津会会員名簿』、1919年
  • 会津会『会津会雑誌第27号』、1925年
  • 日下義雄伝記編纂所『日下義雄伝』、1928年
  • 歴代知事編纂会編『日本の歴代市長』(第一巻)、1983年

外部リンク[編集]


先代:
松本時正
若松市
第5代:1912年 - 1914年
次代:
秋山清八