佐治幸平

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佐治 幸平
Saji Kouhei.jpg
佐治幸平の肖像写真
生年月日 1861年12月13日
出生地 陸奥国大沼郡高田村
(現会津美里町
没年月日 (1917-08-13) 1917年8月13日(55歳没)
出身校 福島師範学校
前職 小学校教員
所属政党 立憲政友会

当選回数 6

在任期間 1903年11月26日 - 1906年9月16日
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佐治 幸平(さじ こうへい、文久元年11月12日1861年12月13日) - 大正6年(1917年8月13日)は、日本政治家会津地域を代表する自由民権運動家の一人である。第3代[* 1]若松市長、衆議院議員、実業家。

生涯[編集]

陸奥国大沼郡高田村(現福島県大沼郡会津美里町)出身。佐治一族は高田の旧家で、醸造業を営むほか、大地主として高田地域を代表する家の一つとして知られた。父は西佐治家の当主幸左衛門金麗[1]。6歳から会津藩藩士栃木南涯の養育を受け、その養子となるが離籍し、佐治次左衛門の養子としてのちに分家している。次左衛門は本佐治家の当主で、孫婿に星冬四郎帝人副社長などがいる[2]。佐治は若松中学(現会津高等学校の前身)を卒業し、さらに福島師範学校に学び小学校教員となる。

親戚の佐治与松の影響を受け、在職中から自由民権運動に共鳴。望月與三郎[* 2]、平山條三郎[* 3]らと民権家として活動し、自由党会津支部が設けられた明治15年(1882年)2月の前月に教職を退き政治運動に没入する。福島県令三島通庸会津三方道路の建設を推進していたが、労働力の提供と資金の負担を迫られた住民の反発は強かった。佐治はこの三方道路建設反対運動の中心となって活動したが、宇田成一とともに逮捕される。その2日後、民権運動派(三方道路反対派)は釈放を求めて警察署に押しかけ、警察官と揉みあいになり喜多方事件(弾正ヶ原事件)が生起する。逮捕者は2000名を超え、その中には河野広中もいた。佐治は「大沼郡の巨魁扇動者」として起訴され軽懲役6年の判決が下るが、大審院に上告し無罪を勝ち取った。

その後は政治家として歩み高田村会議員、大沼全村連合会議員、福島県会議員を歴任。明治20年(1887年)には会津協会を設立し会津地域の発展に努める。実業家として福島県農工銀行[* 4]岩越鉄道会社の設立に関わり、役員を務めている。高田橋の架橋、若松・高田間の直線道路建設など社会資本の整備に役割を果たした。明治27年(1894年)、第4回衆議院議員総選挙に福島県第四区から出馬し衆議院議員に当選。以後、第7回総選挙を除いて第10回総選挙まで6回の当選を果した(立憲政友会に所属)。明治36年(1903年)11月、平民階級出身として初めて若松市長(現:会津若松市長)に就任した。会津高等女学校会津工業開校などの功績を残し、また柴四朗と協力し歩兵第65連隊を誘致している。

脚注[編集]

注釈
  1. ^ 『会津高田町史』では第4代としている。
  2. ^ 会津藩士・望月弁次郎の長男。民権運動により教員を罷免されたのち同志社大学を卒業。のち朝鮮で貿易に従事。
  3. ^ のち県議、高田町助役。
  4. ^ 1941年(昭和19年)、日本勧業銀行に合併された。
出典
  1. ^ 『会津高田南佐治家の系譜』97頁
  2. ^ 『会津高田南佐治家の系譜』94頁

参考文献[編集]

  • 『会津高田町史』
  • 佐治光男『会津高田 南佐治家の系譜』、1997年
  • 山崎謙編『衆議院議員列伝』衆議院議員列伝発行所、1901年。
  • 衆議院・参議院『議会制度百年史 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
  • 歴代知事編纂会編『日本の歴代市長』(第1巻)