夢のハワイで盆踊り

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夢のハワイで盆踊り
舟木一夫コロムビア・ローズ本間千代子高橋元太郎シングル
A面 夢のハワイで盆踊り
B面 わかもの行進曲(高橋元太郎と本間千代子の歌唱)
リリース
ジャンル 歌謡曲
レーベル 日本コロムビア
作詞・作曲 関沢新一(作詞)
船村徹(作曲)
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夢のハワイで盆踊り』(ゆめのはわいでぼんおどり)は、舟木一夫コロムビア・ローズ本間千代子高橋元太郎によるシングル曲、及び1964年8月1日公開の日本映画

映画[編集]

夢のハワイで盆踊り
監督 鷹森立一
脚本
出演者
音楽 船村徹
撮影 山沢義一
製作会社 東映東京撮影所
配給 東映
公開 日本の旗1964年8月1日
上映時間 94分
製作国 日本の旗 日本
言語 日本の旗日本語
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解説[編集]

東映東京撮影所製作・東映配給[1][2]1964年5月23日舟木一夫本間千代子の青春コンビで公開された『君たちがいて僕がいた』がヒットしたことから、同じコンビにより製作された第二弾[3]。舟木と本間は同じ大学のクラスメイトという設定の恋愛映画[3]ハワイロケを長期に敢行した東映初の海外ロケ映画である[3][4]

キャスト[編集]

スタッフ[編集]

製作[編集]

企画は1970年代の東映動画(東映アニメーション)の整理などでも知られる登石雋一[4]東映ビデオのオフィシャルサイトでは、制限された日数と少数スタッフで製作された夢のような映画と紹介されている[1]

東映は今日のイメージからは窺えないが、本作を製作した1964年から1965年に短期間、東宝日活松竹が得意とする青春映画路線のような路線を敷いたことがある[5]。本作『夢のハワイで盆踊り』など、本間の主演映画と北大路欣也主演の『虹をつかむ恋人たち』など6、7本で、岡田茂東映東京所長が、1964年2月に東映京都撮影所(以下、東映京都)所長に転任になった後、後任として東映東京所長に就任した、本作でも企画クレジットに名を連ねる辻野力禰(辻野力弥)が、本間に歌謡青春路線を企画してくれたとされたが[6]、辻野が半年で本社企画部製作本部次長に転任し[6]、1964年9月30日付けで、後任所長は岡田の盟友・今田智憲に交代した[7]。すると今田が岡田路線に呼応して[7]、東映東京でも"不良性感度映画"を推進したため、青春映画路線は終了した[6][7]

同時上映[編集]

続 隠密剣士

※次のプログラムが東映の歴史にとってはエポックとなった高倉健主演・マキノ雅弘監督『日本侠客伝[8]

作品の評価[編集]

興行成績[編集]

ヒット[3]

影響[編集]

舟木と本間の青春コンビによる『君たちがいて僕がいた』と本作『夢のハワイで盆踊り』は、2作ともヒットしたことから[9]、東映は同じコンビによる第3弾を構想していたが[9]、舟木の所属する第一共栄サイドが「来年(1965年)4月に浅草国際劇場で開く『舟木一夫ショー』に本間を出演させる代わりに1965年1月発売予定の(舟木の)シングル「火消し若衆」を基にした映画を本間とコンビで撮って欲しい」と申し入れてきた[9]。曲とタイアップする歌謡映画製作の要請であったが[9]、さらにそれまでの2本の舟木のギャラ1本150万円を200万円にアップするよう要求してきた[9]。当時の東映東京に所属する看板スターといえば、本間や、高倉健佐久間良子三田佳子らだが、200万円だと彼らの数倍[9]。当然、彼等東映生え抜きのスターが黙っているわけはなく、ギャラにうるさい高倉が1964年3月の契約更改で「11年間、会社にいうなりに仕事をしてきたのだから、少しは言わせてもらう。どこの馬の骨か分からない青二才の歌手に200万円なんて払っているのにオレのギャラは安すぎだ」などと従来の出演料1本90万円から鶴田浩二と同額の150万円のギャラアップを要求する等[10][11][12]、「外部タレントにそんなに高いギャラを払うくらいなら、オレたちのギャラをもっと値上げしてくれ」と値上げ運動を起こした[9][10][11][12]。高倉は同じくギャラにうるさい東映現代劇のプリンス・北大路欣也と共に東映幹部を苦しめる時限爆弾的な存在[10][11][12]。東映は仕方なく第一共栄に「本間を一本立ちさせたいから」と断り、舟木と本間の青春コンビは2本で終了した[9]。この関係で本間の次作の相手は西郷輝彦になり、西郷は東映で映画初出演した。本間と西郷のコンビで『十七才のこの胸に』と『あの雲に歌おう』と2本の青春映画が製作された[9]。先に触れたように東映京都製作の『日本侠客伝』が大ヒットし、翌1965年に梅宮辰夫の「夜の青春シリーズ」や、鶴田浩二の「関東シリーズ」、高倉健の「網走番外地シリーズ」「昭和残侠伝シリーズ」などが始まると、こうした"不良性感度映画"を毛嫌いする本間の出番はなくなった[6][13]

本作のハワイロケでの人員構成をめぐり、東映労組と会社が揉め、1964年7月1日から東西の撮影所でストが決行された[4][14][15]。東映教育映画部の部長を務めた布村建は、ボルテージの低い本作を切っ掛けに東映の組合運動が激化したと話している[4]

脚注[編集]

  1. ^ a b 夢のハワイで盆踊り | 東映ビデオオフィシャルサイト
  2. ^ 夢のハワイで盆踊り”. 日本映画製作者連盟. 2020年9月7日閲覧。
  3. ^ a b c d 「興行価値 『夢のハワイで盆踊り』」『映画時報』1964年9月号、映画時報社、49頁。 
  4. ^ a b c d 布村建「極私的東映および教育映画部回想」『映画論叢』2014年7月号、国書刊行会、25–27頁。 
  5. ^ 「『君たちがいて僕がいた』」『芸能画報』1964年5月号、サン出版社、30頁。 
  6. ^ a b c d 「大川指導路線の全貌 東映独立体制の整備成る 東映事業団の成長促進の歩み 東急傘下を離れ独立独歩の姿勢」『映画時報』1964年11月号、映画時報社、28-34頁。 「女優失業時代というけれど岐路に立つ女優たち」『近代映画』1966年4月号、近代映画社、209頁。 「げいのう・ステージ・げいのう『純愛映画を作ってみたが…佐久間良子連続二週登場の裏」『週刊現代』1964年11月19日号、講談社、32頁。 「スクリーン不況克服に新人スター開発各社"救世主女優"を待望」『週刊朝日』1966年6月3日号、朝日新聞社、114頁。 「来るか!女性映画時代!」『月刊平凡』1966年2月号、平凡出版、171頁。 「スクリーン 本間千代子の"ハタチの意欲"」『週刊サンケイ』1965年7月26日号、産業経済新聞社、44頁。 「いま何してる?本間千代子」『週刊読売』1966年7月8日号、読売新聞社、50頁“昨年五月の『おゝい・雲!』から一年ぶりで『大忍術映画 ワタリ』に出演しています。いままで東映は、やくざやエロものが中心で、私の出る幕がなかったんですが、一年間よその空気を吸って、芸能界が、けっして甘くないことを知り、よい勉強になりました…” 
  7. ^ a b c 文化通信社 編『映画界のドン 岡田茂の活動屋人生』ヤマハミュージックメディア、2012年、326-334頁。ISBN 978-4-636-88519-4 
  8. ^ 東映株式会社総務部社史編纂 編『東映の軌跡』東映、2016年、154–155頁。 歴史|東映株式会社〔任侠・実録〕(Internet Archive)
  9. ^ a b c d e f g h i 「舟木と本間の再共演お流れ」『週刊平凡』1965年4月1日号、平凡出版、43頁。 
  10. ^ a b c 「タウン プロ野球選手にはかなわない ―おあずけくったギャラ値上げ要求―」『週刊新潮』1965年3月17日号、新潮社、17頁。 
  11. ^ a b c 「高倉健の律儀な値上げ」『週刊サンケイ』1965年5月24日号、産業経済新聞社、50頁。 
  12. ^ a b c 「ポスト 日本映画 『時限爆弾となった高倉、欣也』 会社を悩ますスターの出演料値上げ」『週刊明星』1965年3月21日号、集英社、86頁。 「ポスト 日本映画 『"映画には出なくてもいい" ―怒れる若君・欣也の発言』」『週刊明星』1965年6月13日号、集英社、92–93頁。 
  13. ^ 『日本映画俳優全集・女優編』キネマ旬報社、1980年、595頁。 「ニュースコーナー製作 『東映、俳優行政など基本方針きまる 来年は創立十五周年の記念映画製作』」『映画時報』1965年12月号、映画時報社、23頁。 “女やくざと全裸のベッド・シーン 東宝初出演フリー宣言どこへやら 三田佳子”. 内外タイムス (内外タイムス社): p. 6. (1969年11月3日) 「『どうなる大川橋蔵の新路線 舞台復帰か? テレビに進出か? 歴史的決断でD級転落?』」『週刊明星』1965年11月14日号、集英社、34-37頁。 「この人と一週間 ヤクザ映画で育った義経の妻」『週刊文春』1965年12月13日号、文藝春秋、96頁。 
  14. ^ “1964年業界十大ニュース 東映"高岩問題"と東宝関東興業のスト”. 週刊映画ニュース (全国映画館新聞社): p. 1. (1964年12月26日) 
  15. ^ 「ハワイロケの高岩解雇問題が示すもの 根底に流れる争議権への思惑」『映画時報』1964年8月号、映画時報社、26頁。 

外部リンク[編集]