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佐藤敬次

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
佐藤 敬次
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 埼玉県大宮市
生年月日 (1950-09-22) 1950年9月22日(74歳)
身長
体重
175 cm
70 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
プロ入り 1968年 ドラフト7位
初出場 1970年10月10日
最終出場 1970年10月15日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

佐藤 敬次(さとう けいじ、1950年9月22日-)は、埼玉県出身の元プロ野球選手である。ポジションは投手

来歴・人物

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大宮工業高校では1968年に春夏の甲子園に出場。春の選抜では、エース吉沢敏雄左翼手、四番打者の布施章(松下電器日本通運-全大宮)の活躍もあって勝ち進む。準決勝では箕島高東尾修を打ち崩し、決勝では吉沢と尾道商井上幸信との投手戦を制し、「初出場初優勝」の快挙を成し遂げた[1]。しかし吉沢の控え投手であった佐藤はこの大会で登板機会がなかった。夏の選手権は2回戦で津久見高の石井吉左衛門(鐘淵化学)に抑えられ敗退[2]するが、この試合で吉沢をリリーフし甲子園初登板を果たす。他の高校同期では、外野手の石井清一郎(阪急)、控え投手の奈良正雄(ロッテ)がプロ入りしている。

同年のドラフト会議で、東京オリオンズから7位指名を受けプロ入り[3](ドラフト会議後に東京オリオンズはロッテに買収され、「ロッテオリオンズ」にチーム名を変更している)。落差のあるカーブと手元に食込むシュートを武器に、1970年にはジュニアオールスターゲームに出場、MVPを獲得した。同年は初めて一軍で登板。10月10日には東映を相手に、佐藤元彦をリリーフし4回を2失点と好投するが、敗戦投手となる。

1971年オフに金銭トレードで南海ホークスへ移籍[3]。しかしここでは二軍暮らしに終始し、1972年限りで引退した[3]

詳細情報

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年度別投手成績

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W
H
I
P
1970 ロッテ 2 0 0 0 0 0 1 0 -- .000 29 5.0 11 4 3 0 0 1 0 0 10 9 16.20 2.80
通算:1年 2 0 0 0 0 0 1 0 -- .000 29 5.0 11 4 3 0 0 1 0 0 10 9 16.20 2.80

表彰

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背番号

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  • 41 (1969年 - 1971年)
  • 37 (1972年)

脚注

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  1. ^ 「選抜高等学校野球大会60年史」毎日新聞社編 1989年
  2. ^ 「全国高等学校野球選手権大会70年史」朝日新聞社編 1989年
  3. ^ a b c プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、252ページ

関連項目

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外部リンク

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