ライアン・テダー

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ライアン・テダー(Ryan Tedder)
2013年撮影
基本情報
出生名 ライアン・テダー(Ryan Tedder)
出身地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国コロラド州コロラドスプリングス
ジャンル ポップポップ・ロックロックオルタナティブ・ロック
職業 歌手・作詞家・レコードプロデューサー・多楽器奏者
担当楽器 ボーカル・ギター・ピアノ・キーボードシンセサイザー・パーカッション
活動期間 1996年-現在
レーベル コロンビアインタースコープ・パトリオット
共同作業者

ワンリパブリックジョナス・ブラザーズエド・シーランテイラー・スウィフトクリス・マーティンアレッソカイゴレオナ・ルイスポール・マッカートニーマイ・ネイム・イズ・ケイ

BLACKPINKTWICE

ライアン・テダー(Ryan Tedder, 1979年6月26日 - )は、アメリカ合衆国の歌手、作詞家、音楽家、レコードプロデューサー。彼はポップロックバンド、ワンリパブリックのリードボーカリストでありながら、2000年代中期頃から、アデルビヨンセエド・シーランジェニファーロペスカミラ・カベロレディー・ガガマルーン5ムーワン・ダイレクションテイラー・スウィフトケイティ・ペリーアリアナ・グランデロジックポール・マッカートニーBLACKPINKTWICEなどを含む多様なアーティストに対し、作詞家、プロデューサーとして関与した経歴を持つ。

ライアンの楽曲制作、作詞活動は商業的な成功を収めてきたと評価されている。ワンリパブリックによって演奏される"アポロジャイズ"、レオナ・ルイスの"ブリーディング・ラブ"、ビヨンセの"ハロー"はすべて「最も売れたシングル一覧」のリストに掲載されている。2014年早期、ビルボードは彼のことを"アンダーカヴァー・キング・オブ・ポップ(直訳:正体を隠したポップ界の大立者)"と題し、雑誌の表紙に彼を起用した。彼はリアリティーテレビ番組"ソングランド"のプロデューサーの一人である。彼はアデルのアルバム"21"と"25"、テイラー・スウィフトの"1989"において、グラミー賞"アルバム・オブ・ザ・イヤー"を受賞している。

生い立ち[編集]

若年期と教育[編集]

ライアンは父ゲイリーテダ―のもとに生まれ、キリスト教会の宣教師と牧師による拡大家族のもとで育てられた。彼はスズキメソッドという教育法を受け、3歳のときにピアノを習い始めた。彼は音楽家の父親と学校で教師をする母親からキャンディーコーン(アメリカの駄菓子)をもらうため、ピアノを練習した。ライアンは7歳のときから歌を歌い始めた。彼は独学のヴォーカリストであり、12歳の時、当時好きだったビートルズピーター・ガブリエルスティーヴィー・ワンダースティングなどのアーティストを真似始めた。彼は「18歳になるまで毎日二時間歌っていた(原文:I sang for two hours a day every day of my life until I was eighteen.)」と述べている。彼は青年期の間、教会、学校、そして個人的に結成したグループで美しい歌声を響かせ続けた。

彼はオクラホマ州タルサ郊外のジェンクスにある学校に卒業するまで通い、最終年次のときにコロラド州コロラドスプリングスに引っ越した。コロラドスプリングスクリスチャンスクールのサッカーチームで彼は将来のワンリパブリックのバンド仲間であるザック・フィルキンスに出会い、友だちになった。彼はタルサにあるオーラルロバーツ大学に進学し、2001年にパブリック・リレーション(PR)、広告の学士を取得して卒業した。

経歴[編集]

初期[編集]

ライアンはナッシュビルドリームワークス(そこでいくつかのデモを歌った)でインターンシップが確定するまで、アメリカの高級家具チェーン、ポッタリーバーンで店員兼接客係として働いた。彼は作詞家やレーベルに、1トラック300〜400ドルほどの料金でデモを制作した。ドリームワークスはライアンに彼の契約を結んだ後すぐに最初の出版をすることを申し出たが、彼はアーティストとしてのキャリアを追う決意が固かったため、彼の音楽業界という土俵での初期の冒険は全く違う道をたどるのだった。

21歳の時、ライアンはシンガーソングライターの大会で戦い、MTVの一時間特番でパフォーマンスを披露する5人の最終選考者のうちの一人としてイン・シンクの歌手ランス・バスに選ばれ、自作の楽曲を数多くの人前で披露した。勝者に授与される賞は、現在は廃止されているバスのマネジメント会社、フリ・ランス・エンターテイメントとの音楽契約であった。出場者は生演奏をして同時に審査員と聴衆によって評価され、最も高い点数を得たものが契約を勝ち取るというものだった。ライアンは自分で制作した曲の一つである"ザ・ルック"を披露し、審査員とファンから最も多くの投票を獲得して大会で勝利したが、レコードレーベルとの契約はしっかりまとまらず、アルバムがリリースされることはなかった。ライアンは後に自分の申し出たレコードと出版契約は「本当ではなかった。あれはどうにもならないインチキの塊だった。(原文:wasn't real. It was just a bunch of hype that didn't turn into anything.)」と明らかにしている。

主な作曲作品[編集]

ワンリパブリックとしての作品は別ページ「ワンリパブリック」を参照。

年表記はリリース年[1][2]2003年

2005年

2006年

2007年

2008年

2009年

2010年

2011年

2012年

2013年

2014年

2015年

2016年

2019年

脚注[編集]