サマリア

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שומרון

サマリア (Samaria) は、パレスチナヨルダン川西岸地区の北部を意味する。

ヘブライ語ではショムロン (שֹׁמְרוֹן‎, Shomron)、アラビア語ではアッサマラー (السامرة‎‎, as-Sāmarah)。

呼称[編集]

サマリアは元来は、パレスチナ(イスラエル領を含む)北部に位置した北イスラエル王国の首都の名であった。現在はアラブ人居住者が大半を占めるため、アラビア語サバスティーヤ (Sabastīya) と言うことが多い。紀元前772年の北イスラエル王国滅亡(アッシリア捕囚)後は、その旧領土一体にアッシリアによりサマリア県が置かれた。サマリア県はアッシリアに続くバビロニア時代にも存続し、紀元前586年南ユダ王国滅亡(バビロン捕囚)後は、その旧領土、すなわちエルサレム周辺も、一時的にサマリア県に併合された。

西岸地区北部をサマリアと呼ぶことはシオニストに好まれ、彼らはヨルダン川西岸地区ユダヤ・サマリアと呼ぶ。

「パレスチナ」というのはペリシテ人の土地、という意味であり、ローマがこの地からユダヤ性を奪うために改名した名前である。また「ヨルダン川西岸」というのは、ヨルダンが西岸地区を占領していた時代に、ヨルダン川に跨る国家であることを示すために付けた名前である。この地域の名称がもし「ユダヤ・サマリア」と呼ばれ続けたならば、シオニズム運動は別の展開を見せていた可能性がある。

歴史[編集]

この地には北イスラエル王国が成立したが、紀元前722年、アッシリアにより滅ぼされると、住民はアッシリア領の各地に強制移住させられ(アッシリア捕囚)、サマリアへはバビロン、クテ、アワハマテセファルワイムから[1]アッシリア人アラム人が移住してきた。その後、人食いライオンが現れた(聖書によると、神に遣わされた)ために、捕囚されていたイスラエルの祭司の1人が連れ戻され、ベテルに住まい祭事を行うようになった[2]。これにより、サマリアの宗教は、移民元の各地の宗教の神とイスラエルの神を共に祭る、独特のものになった。

このように、サマリアの宗教はユダヤ地域と異なる宗教形態を持ったため、ユダヤ人から忌避された。ユダヤ人のバビロン捕囚からの帰還後、ユダヤ教団サマリア教団の分裂は決定的になり、とくにサマリア教徒は「サマリア人」と呼ばれるようになった。[要出典]

サマリア人の聖地はショメロンと同じサマリア地方の、ナブルス市のゲリジム山にある。サマリア教団に伝承されるモーセ五書の形態はマソラ本文と異なり、これを特に「サマリア五書」と呼ぶ。旧約聖書成立の過程をユダヤ教団と共有しなかったため、トーラーのみを聖典とする。[要出典]

関連項目[編集]

出典[編集]

  1. ^ 列王記II 17:24
  2. ^ 列王記II 17:25

外部リンク[編集]